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一度にこれだけの展示を図書館で開催していることに驚きます。私が直近で大阪市立中央図書館を利用させていただいたのは2022年1月5日(水)でした。調べ物に際しては司書さんに協力していただき、大変貴重な事を知る事ができました。また展示もたくさんって、どれもこれも気になったのですが、私は、3つ鑑賞させていただきました。1つ目は3階エレベーターで上がったすぐそばにある「名作の舞台おおさか」展でした。2つ目は同じく3階と地下1階に展示してある「大阪市立図書館のあゆみ
著名な小説作品の「名作の舞台」いまと昔坪内逍遥『当世書生気質』坪内逍遥は早稲田文学を興し、文学部まで導いた。それは日本の演劇の先駆者であった。その基礎が早稲田大学のキャンバスに逍遥を偲ぶように佇んでいる。演劇博物館である。作品の『当世書生気質』は明治18年「春のやおぼろ」で発表されたもので文学の改良と小説の真髄の理論を実践として書かれた。つまり、客観的写実小説を試みた。新聞をスクラップしセロテープで止めていたが、その部分が読めなくなりました。恐縮です。
1976年10月に掲載された「名作の舞台」”今と昔”です。今なお残る奥羽路の旅情「草の戸も住替る代ぞひなの家」の句を残し、江戸深川から東北、北陸の旅に出た。実に5ヶ月間の旅は弱体の芭蕉は死を覚悟の旅だった。自分の生涯を「旅」と観ずる人生観がそうさせ、止むにやまれない”漂泊の思い”にかられた。『日本旅のペンクラブ』会長が松尾芭蕉で日本のカレンダーに”旅の日”が制定された日が芭蕉の旅立ちの5月16日になっている。
明治38(1905)年、夏目漱石の初の長編小説である。前回第8回の伊藤左千夫も、俳句雑誌『ホトトギス』に作品を書いていた。漱石は先人に勧められて小説を書く事になった。好評になり11回を連載し、一躍有名な文芸誌となった。これ程の人間模様を表現された文芸小説は誰しもが認めた。諷刺的でわかり易く多くの読者を獲得した。私もこれ程の小説は無いと思うほどである。
名作の舞台は6月26日以来で、一月分位いお休みをしていました。その為、今回は2号分掲載したいと思います。よろしくおねがいします。大正15年頃、徳田秋聲は中央公論、文藝春秋、新潮等に小説を書きまくっていた。妻、はまが46歳で急死。三男も死に、波乱万丈の生活の中から小説「縮図」を自分の半世紀から表現した。秋聲の愛人、政子は白山の芸者であった。この時代の花柳街の壮絶な女の生き様をこの時代ながらの描写で描いている。毒々しい女の息ずきと心理は異常な愛欲が人間の蠕きを縮図に展開した。私が東京の
昭和51年に取材し掲載されたものです。明治31年に書かれた「不如帰」は大山巌元帥宅に起こった実話をフィクション的に書いた小説である。封建的の時代に悲しい女の葛藤を淡々と描き、姑と嫁のすさましい人間関係を惜しむところなく表現しきっている。小説の舞台の赤坂2丁目、3丁目は全く当時の面影はない。ただ、近くの山の手にある山王神社がなんとなく往時を読み取れる。写真教室銀座募集のご案内毎回無料で写真の講評が受けられる写真教室写真を専門に職業としている立木寛彦と申します。写真家
女でなければわからない苦悩と悲しみを綴った「にごりえ」樋口一葉の代表作である。小説の舞台は本郷の新開地にある『菊の井』(酒屋)。菊坂、下谷大音寺前、小石川丸山町と移り変わり、売春婦達や職人の付き合いの体験が情趣と女の官能と焦躁が綴られた。今でも本郷菊坂辺りに名残のある風情が写った。写真教室銀座募集のご案内毎回無料で写真の講評が受けられる写真教室写真を専門に職業としている立木寛彦と申します。写真家です。東京写真専門学校の講師を長年勤め以来、各分野の写真講師を体験して来まし