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帰りの日、せめて観光らしい所へと熊本城を観てきました🏯熊本駅、新しくて大きくてかなり都会でした!イメージしていた街の数倍大きかったです市電に乗って熊本城近くまで移動します。路面電車です西のエリアは路面電車の文化なんですね。車と並走して、路面電車が走っているので交通事故にはならないのか尋ねるとたまにはぶつかる💥そうです車内は、これはかなり古い車両🚃でもパスモも使えます小雨の中、いとこがビュースポットへ連れて行ってくれました外堀が広くてて大きな天守閣❗️熊本地震の
建築中の加藤清正を祀る【清正公堂】完成間近⇩⇩⇩今年最後の🌸桜…?⇩⇩⇩代わりに躑躅(つつじ)咲き始める⇩⇩⇩階段右に緩やかに登れる坂ができた⇩⇩⇩🍚📺4/24めざましじゃんけんあいこ!😣BAD…占いが悪かったせいか!🙄👦&🐈🎵岡本幸太
旅の2日目「日本三名城」の1つ難攻不落の熊本城へ『熊本城ミュージアムわくわく座』旅の2日目(4月6日)午前は熊本城見学です熊本城見学の前にぜひ立ち寄ってほしい【熊本城ミュージアムわくわく座】熊本城の歴史・文化を”見て・聞いて・…ameblo.jp熊本地震で大きな被害を受けまだ修復途中ですが令和3年3月天守閣全体が完了し現在は復旧工事の様子を見学できる「熊本城特別公開」を実施中天下の名城をこの目で見られるのは幸せです上に行くほど角度
熊本市内に立派な日本庭園が水前寺清子は水前寺公園と加藤清正から水前寺清子と名付けたらしい路面電車走ってますシアトルコーヒーでコーヒーゼリードリンクあとは空港に向かうだけ帰りはまたプロペラ機らしい(笑)
「表には桜を、裏には栗を」戦国武将の加藤清正の名言である。清正は、自ら建立した寺院には必ず、表側に桜を、裏側に栗を植えさせたという。これは、桜は人々を楽しませるためで、栗は万が一のときの非常食とするためであった。風流でありながら、いざというときの備えを忘れない。すばらしい、のひと言に尽きる。熊本地震前の熊本城清正といえば城造りの名人として知られ、家康の依頼で名古屋城の築城にも参加している。「尾張名古屋は城で持つ」と言われるが、名古屋の代名詞で
3月下旬のスケッチ会は、中旬の水彩スケッチ教室と同じく、名古屋市中区にある名城公園彫刻の庭で実施。ここには、待ち合わせの目印ともなる、大きな加藤清正公の銅像がある。加藤清正は、現在の名古屋市中村区出身で、秀吉家臣の大名であり、関ヶ原の戦いでは東軍、名古屋城築城の際には、天守台の石垣を担当した。この大きな銅像から少し離れた斜面の下から、座って見上げた構図で描いてみた。後ろに見える建物は名古屋能楽堂。銅像の周りのソメイヨシノは、まだ全然咲いていなかったが、そこはいつもの絵空事、咲い
旅の2日目(4月6日)午前は熊本城見学です熊本城見学の前にぜひ立ち寄ってほしい【熊本城ミュージアムわくわく座】熊本城の歴史・文化を”見て・聞いて・触って”体験【武者返し】熊本城の石垣作り馬に乗って出陣じゃ加藤清正の身長は190㎝もあった!?参勤交代の駕篭本物そっくりの甲冑で変身にほんブログ村お目当ては大迫力の熊本城VR映像江戸時代震災前の熊本城の様子や見学のポイントなどなど観ることができます
雨が降る前にいつもの公園へ散歩離れた所から香りが満開だとむせるほど今日は丁度よい帰り道加藤清正ゆかりの社父亡き後叔父の家で暮らしたその地にある盗人を退治した逸話木箱の中に鬼の面を被った清正が潜み盗人が開けた時鬼だと驚いた盗人を退散させた話地元ネタでした午後から雨が降り出し☔️黄砂で汚れた車🚙キレイになるかな
東京・九段に向かい遥拝しましょうみなさん、おはようございます昨日は吉方位に行かれましたか今日から靖國神社の春季例大祭です遠方の方は東京・九段の方に遥拝してください先人に感謝ですアリガトウ「4月21日」の國史です「賤ヶ岳の戦い」天正11年(1583年)羽柴秀吉は賤ヶ岳(しずがたけ、滋賀県長浜市)の戦いで織田家筆頭家老の柴田勝家に勝利します秀吉が信長の仇を討った山崎の戦いに勝家は参加しなかったことが二人の立場を逆転していたようです清洲会議では
Cafeの後は移動する前に神社のお隣にある「男嶽展望台」に上ってみました。景色はかなり良いです。天気が良かったので遠くまで見えました。「新城神社」は文永の役で戦った城主の平景隆とその一族、兵士が祀られています。静かな神社です。島の一番北にある勝本港にある「聖母宮(しょうもぐう)」ではTaxiの運転手さんの計らいで、この日偶然いらした宮司さんに案内していただき1時間ほどいました。神功皇后を祀る創建1300年以上の歴史ある神社です。パラオから寄進された大きなしゃこ貝の
野菜作りの記事に忙しく、延び延びになっていました。ここ、池上本門寺へ行ったのは4/5(金)でした。最近のお出かけは、関東近辺~花の名所250と言う本を参考にすることが多いです。こちらの池上本門寺は桜の名所になっていました。東京の外れに住んでいるOちゃんと私は、早く着くことより楽に行ける方法をいつも考えています。今回も始発~終点、そして乗り換えが簡単で、ラッキーでした。スマホは持っているけど、老眼になると本当に大変~!自分でもアナログだなぁ~なんて思うけど
先日の観た結構お気に入りの歴史番組「敗北からの教訓」のテーマは「福島正則」でした。福島正則といえば大河ドラマでは加藤清正と大抵セットで出てくるイメージ。それでいて清正よりかはなんか二番手というか。(因みに熊本出身のダンナによると熊本県民にとって地元の殿様と言えば細川さんではなく「そりゃせいしょこさん(清正公)でしょ、熊本城作った人なんだから」なのだそうです。)※あくまでダンナ談ですがこの番組見てそんな彼のイメージ変わりました。関ヶ原で東軍に味方についた後も大阪方の生き残りの為に奔走
今日は母が入院している中村区の病院に先生とのお話する時間より早く着いてしまったので…久しぶりに子供の頃に住んでいた中村公園あたりを娘と散策地下中村公園真っ赤な大鳥居から真っ直ぐに伸びた豊國神社参道ここは九の日にくの市が開かれていた賑やかでしたが今はどうなのかしら?豊國神社この橋で小学校の卒業式にクラス全員で写真と撮った記憶があります桜は散ってしまいましたが藤棚がそろそろ綺麗な時期藤の花は小さな花を集めて下を向いて咲き藤と同じ頃に咲く花も見る事ができました。その花とは桐の花
日曜日にはプライスレスの時間をいただきました。そして、一昨日はゆっくり会社で仕事をした後、錦3丁目へ。確かに楽しい場所ですが、大切な方を大切か方に紹介できました。当然午前様。そして昨日は始発・・・・・・島津義弘から加藤清正の旅。鹿児島に飛んで日置市伊集院の病院でパフォーマンス。鹿児島中央に戻り、新幹線で、今ホットな熊本!そして熊本の北の病院でパフォーマンス。南の病院で打合せをして名古屋に戻りました。消耗しました。
こんにちは、ともぶーです。熊本地震から8年が経ちました。熊本城建物一部“崩壊の恐れ”強い地震相次ぎ(16/04/16)14日の地震で、瓦などが大量に落ちた熊本城ですが、これまでの相次ぐ大きな揺れで、建物の一部が崩れる恐れも出てきました。(巽孝之記者報告)ピンと熊本の青空に尻尾を振り上げていた2匹のしゃちほこの姿はもうありません。・・・記事の続き、その他のニュースはコチラから![テレ朝news]http://www.tv-a...www.youtube.com熊本城が崩れて
こんにちは!金曜日は熊本で花見🌸実際は居酒屋🏮でしたが楽しい飲み会🍻でした締めのラーメンは一蘭でまた美味しかったです🎶🌸💮👍土曜日はせっかくなので熊本観光してきました🌸お一人様での観光でしたが熊本城へ向かいました。改めて熊本城の良さを満喫したことを綴っています!どうか最後まで見て頂きたいです😊🤲👇熊本城に来たのは10数年振りだと思います仕事で車🚗のなかから遠目では見てましたが歩いて外堀から実際に見ると広大です🎶写真ではなかなか伝わりませんがホント鉄壁
--------------------------------------------2024年功を立てて、目立ちたい。人間だもの、、、とほほ。--------------------------------------------2023年何が本筋か考えて行動しないと認められないこともある。次に生かしていこうと思います。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)2,826〜3,410円
おはようございますまだまだ朝は冷えますね皆さまは寒暖対策どうしてますか?私は朝早く出かける時などつい厚着になってしまって、日中暑さを我慢する•••という日が最近は多いです🥵帰りが遅くなることも多いので、まだ寒さを見越した服を着たくなってしまいます🧥体にとっては暑すぎるのも寒すぎるのもよくないのでうまい具合に妥協点を見つけたいところです🤔今日も一緒に頑張りましょうね💪•••••cut•••••・1592年(文禄元年)4月12日、文禄の役に出陣する→1590年に天下統一を果たした
万松寺で販売されている、名物のきなこ餅「身代わり餅(350円)」をいただきました。織田信長が銃弾を浴びたとき、万松寺の和尚にもらった餅にあたって難を逃れたことを聞きつけた加藤清正が、餅を「身代わり不動明王」と命名したのが由来ということです。また、万松寺の「福よせ雛」が、身代わり餅をついています(2024年4月8日)▼4月8日(月)、万松寺で、名物のきなこ餅「身代わり餅」▼4月8日(月)、織田信長「身代わり餅」は、餅6個入りが350円▼4月8日(月)、織田信長「身代わり餅
こんにちは。今回もこのところ続けています北近江からになります。前回同様、このブログではお馴染みの長浜からです。どうぞよろしくお願いいたします。豊臣秀吉(長浜豊国神社)今年の1月に伺ったばかりの長浜の豊国さんの秀吉さん、まだまだ新しい感じがあります。それもそのはず、昨年の10月にできたばかりですから。銅像の名前はシンプルに「秀吉公」で良いのでしょうか、、、銅像は向かって左側が豊国さん、、、向かって右手はお稲荷さんなのです。顔つき・表情は近畿秀吉さん銅像の特徴のひとつ=ハゲネ
週末、東京は満開の花見で賑わいましたね~例年以上外国人が目立った気がします・・熊本城近くの加藤清正像右側の白い桜は千原桜といって熊本発祥だそうです。千原台は地名で高校駅伝の名門千原台高校の名前に使われています。こちらは宇土の城山公園ここには小西行長の像があります近世宇土城の領主でした清正と行長は秀吉の朝鮮出兵の時からライバル同士でした・・関ケ原の戦いでは西軍についた行長の宇土城を清正は攻めました・・雨が続くという天気予報に今年最後の桜を覚悟して火曜に城山公園に行
こんばんわ!☆シリウス☆です。3月29日金曜日はいつもの茶屋へ今日のジャージはぼのぼの(笑)しまっちゃうおじさんバージョンっす。ヘロヘロと茶屋について鳥のさえずりを聴き下ろ~と50メートルぐらいの場所でニャンコ発見!耳はカットされてる桜猫ちゃん!地域猫として誰かがお世話してくれてるみたい。可愛い顔してる優しい子らだ。そう言えば清正公公園のぶーちゃんたちに会いに行こう!激坂のぼり着いたー\(^o^)/やだ、逆光やん!いつものおじちゃんたちがいた!も
天海(138)「是月、薩摩鹿児島ノ島津忠恒、山城伏見ヲ発シテ帰国ス」(「史料綜覧」)都之城と外城12城に籠城した伊集院忠真は、隣接する加藤清正や伊東祐兵に密かに物資の援助を求めた。忠棟暗殺に同情的な両家は伊集院家の援助に応じたのである。自ら乱の鎮圧を決意した忠恒は家康に帰国を願い出た。「慶長四年六月上旬、薩摩少将忠恒公日州凶徒御征伐の為御首途ましまける。大道は已に逆徒の為塞がれ往還更に便り無ければ、霧島山の麓成瀬田尾越にかからせ給ひ、東光寺へ御参詣有
桜が満開になったらしいのでノリタケの森から護国神社まで歩きました。スタートの則武イオンはこいのぼりが泳いでいました(^^♪外堀の桜中日新聞本社前の桜裁判所前の桜護国神社の桜名古屋城交差点の桜名古屋城前の歩道橋からの桜歩道橋から名古屋城を見る(^^♪能楽堂&加藤清正&名古屋城
天海(135)「朝鮮蔚山表、後巻の仕合わせ、今度様子聞き届け候の処、御目付衆言上の通り、相届かざる儀と存じ候間、新儀御代官所、前々の如く返し付け候、并、豊後府内の城も早川主馬に返し付け候様に申付け候、然る上は彼表において其方越度にあらざるの段、歴然候間、その意を得らるべく候、恐々謹言閏三月十九日利長・輝元・景勝・秀家・家康の署名蜂須賀阿波守殿黒田甲斐守殿」(「閏三月十九日付蜂須賀家政・黒田長政宛五大老書状」)「閏三月十九日、豊臣氏ノ年寄衆、蜂須賀一茂
天海(134)「訴訟は見直す、治部は蟄居させると言っているのだが、全く、聞く耳を持たないのだ。訴訟者の中には与右衛門(高虎)もいて清正らを説得させているのだが、手に負えないそうだ。オレのおひざ元ともいうべき伏見で騒乱が起きたとなると、さすがに面目が立たない。」と家康は困った顔で言う。「主張が聞き入れられなければ、内府であろうと捨置かん、と息巻いているようですな。」と正信は楽しそうに話すのだ。「オレが困っているのに、お前は嬉しそうだな。」と家康が言うと、「もうお答
旅の最終日です。温泉に浸かってシャキッと♨️してから、しっかり朝ごはんをいただきました。タジン鍋で作った出来たての湯葉が特に美味しかったです。お宿を後にして、最後の目的地へ向かいます。本当は【鍋ヶ滝】へ行きたかったのですが、工事中で入ることができないので、【熊本城】へ行くことにしました。それにしても、昨日からすごい雨☔️が続いています。熊本市に入るまで、予想よりだいぶん時間がかかってしまいました( ̄▽ ̄;)ついに、熊本城の近くまで到着。ここも混んでますね〜。やっと第三駐車場に車を停
天海(133)「石田治少卩入道去四日に大坂ヨリ伏見へ被行也、云々、今日も騒動了」(「言経卿記」閏三月七日条)「治部少輔を女の乗物にのせ、佐竹と同道して浮田居られ候備前嶋へ参り談合あり。内府へ此事を申入れ、何とそ無事に仕るべき由にて伏見へ赴く。秀家より家老をそへ佐竹同道あり。伏見にて治部少輔屋敷は御本丸の次、一段高き所なり」(「慶長見聞書」)大坂では、利家の死を受けて加藤清正、浅野幸長、福島正則、黒田長政ら七将が、清正邸に集合し、善後策を話し合っていた。これを
桜が咲いている季節に空中回廊から熊本城を観ておきたくて行ってきました。翌日は世界遺産になった天草の﨑津教会を観に行きました。平成28年の熊本地震のあと一部が公開になって行きましたが、それ以来。開城前に着いたので、まずは駐車場から撮影。開城するまで時間があるので加藤神社へ向かいます。熊本城の復興は2052年頃までかかるそうです。ここもいずれは復興するのでしょうけど、震災当時のままなのが痛々しいです。加藤神社に着き
加藤清正は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、熊本城の築城主としても知られています。彼の一生は、勇猛果敢な戦いぶりと、九州地方の平定に貢献した功績で色濃く記されています。清正は、豊臣秀吉の下での朝鮮出兵にも参加し、その武勇により多くの領地を授かりました。彼の生涯は、戦国の世を生き抜いた武将の典型として、後世に多大な影響を与えました。加藤清正の戒名です。「淨池院殿永運日乗大居士」院殿号「淨池院殿」の「淨」は清らかで、穢れのない状態を意味します。これは加藤清正の名前の