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昨日は終日雨だった。そして今日も、午前中はどんよりとした曇り空。午後も遅くになってから、少し青空がのぞいてきた。春の気候になって、周期的に天気が変わるのだろう。今日の午前中は、いまにも雨粒が落ちて来そうな曇り空の中を、「鳥羽離宮」の旧跡を目指して出掛けていた。鳥羽離宮跡は「院政期を代表する遺跡」である。白河天皇が1086年に「堀河天皇に譲位し院政を開始」し、「拠点として『鳥羽殿』の造営」を行った。その様子は、「都遷りが如し」と言われたほどに大規模なものだったそうだ。
京都市伏見区中鳥羽離宮町院政で知られる白河上皇や鳥羽上皇の鳥羽離宮の地は『城南宮』を鎮守として造営されました平安京遷都に際し、都の安泰と国の守護を願い、国常立尊(くにのとこたちのみこと)を八千矛神(やちほこのかみ)と息長帯日売尊(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)に合わせ祀り、城南大神と崇めたことが城南宮のご創建(HPより)城南宮とは平安城の南に鎮まるお宮の意初めて参拝しますまずは東の鳥居から参道をまっすぐ進み右斜め前に朱の鳥居がありましたその手前
源為義・義朝父子の仲が険悪だった事実は『愚管抄』に記されるほどでした。それぞれ父為義が摂関家、嫡男義朝が鳥羽上皇と結び、その政治路線のちがいもあって、義朝には為義によって廃嫡された疑いもあります。ともあれ、「上総曹子」と呼ばれ、いまの千葉県で生まれたといわれる義朝は、関東に活躍の場を求めました。彼は鎌倉に住み、相模の豪族三浦氏らと縁戚関係を結び、仁平三年(1153)には下野守に任じられます。こうして関東で着々と勢力を伸ばす義朝を父為義は警戒したのでしょう。
北向山不動院(きたむきざんふどういん)は大治五年(1130年)に、鳥羽上皇が病気平癒の祈願のため、この地の鳥羽離宮内で覚鑁上人興教大師にお加持を行わせたところ、不動明王が出現し上皇は快癒された。そのため、上皇の勅命により、興教大師は離宮内にお堂を建立し勅願寺とし、本尊の不動明王を、平安京を守護するために北向きに祀られたため、北向山の名が付けられた。その後、久寿二年(1155年)には、播磨国大国の庄に於いて寺領を賜り、境内の整備がされ、寺運は繁栄した。応仁の乱や伏見の大地震等の災害に遭ったが
こんばんは^^超ご機嫌な魔人ですどのくらいご機嫌がというとですね、日頃つかわない『超』とか使っちゃうくらいです!!何故かは後ほど…本日、11月29日はいい肉の日!!だそうですね…皆様、いいお肉たべましたか???それとも、今から食べる予定ですか???魔人は10日くらい前に普通のやっすいお肉を食べました…『いい肉の日』の由来って知ってますか?えっ!?知らない…!?ムムッ!!知らないのに『いいお肉』をいただいたんですか?それはいただけませんね…肉だけに。魔人、そんないた
しばらく石川県の古墳が続いていたので、今日は9月25日に訪れた栃木県大田原市の古墳をアップします。↑大塚古墳、南東側より県道黒磯黒羽線の交差点からかなり目立ちます↑東側からアプローチできます。写真中央奥に大塚古墳。↑南西側より↑解説板基底が破壊されているため正確な数字は得られませんが、一片約28メートル、高さ約4.5メートルで、二段築成と見られます。南側は低い傾斜地となっています。大関増業編述の「創垂可継」(県指定文化財)所収の「封域郷村
20.10/11sun.13:50-16:35京阪藤森駅から西へ名神高速道路高架沿い公園を行く高速バスの深草バス停を過ぎ、国道を渡る新高野川を渡って左折、右岸から分岐突き当たって西へ、近鉄線を越え御陵の杜が見える近衛天皇安楽寿院南陵安楽寿院は、鳥羽上皇が鳥羽離宮東殿を寺に改めて始まる1139年、三重塔「本御塔」を建立され1156年、本御塔に葬られる1157年、新御塔を美福門院(上皇后)建立後に、近衛天皇の遺骨が納められた現在の多宝塔は、豊臣秀頼による再
【珍しく、お寺に呼ばれて参拝】(これは、今度リトリートで行く竹生島の不動明王)2日前の朝目覚めた時、不動明王さんに呼ばれたの珍しい・・なんだろ?近くで探したら、藤枝市に『鬼岩寺』というお寺に不動明王さんがいることが分かって鬼岩寺は元々御縁があってね結婚する時に、義母が相性を見てもらったことに始まり子供たちの名前は、3人ともここで見てもらった火渡りのお祭りにも参加したことがあるんだけどまともに参拝したこと、なかったな、そういえば(ごめんね)鬼岩寺の事を調べてみたらここを
六角経蔵には桜が似合うと思った瞬間です。Rokkaku-Kyozolookssobeautifulwithcherryblossom.六角経蔵は、鳥羽上皇妃、美福門院が、鳥羽上皇の菩提を弔うために浄写された紺紙金泥一切経千巻を納めるために建立されました。Rokkaku-KyozowasbuilttostoreasetoftheChineseTripitaka,(thecompletesetofBuddhisttext)writte
西行は吉野山の麓に庵を結んだ。大和盆地に都が置かれた太古の昔より吉野は神さぶる地とされ多くの天皇が行幸された。吉野の桜の由来は、修験道の開祖役行者が金剛蔵王権現の姿をヤマザクラの木で刻みお祀りしたことに始まると云われている。以来献木として植え続けられた、人々の信仰の証なのである。煩悩を捨て世俗の苦しみから解放されようとした西行の心に吉野の桜は未だ心躍らされるものであった。花に染む心のいかで残りけん捨てはててきと思ふわが身に出家したばかりなのに、どうしてこんなにも
こんにちは(*^ー゜)ノ岩出市で真面目に指導に取り組んでいる進学塾MAXの塾長小林浩之です(^o^ゞショッキングなことに、記事を書いている途中に、間違えて「HLDボタン(切るボタン)」を連打してしまい、記事がぶっ飛んでしまった。さ行の文字を入力する時は気をつけなければならない(;´д`)昨日、1件、お問い合わせをいただいた。しかもご兄弟が3人!もう喉から手どころか腕まで出ちゃうくらい欲しい!!が、会話をしているうちに上のお子さんが紀伊中学校だということがわかり、婉曲的にお断りさせていただ
千佳いよいよ『吾妻鏡』のない時期のスタートですね。長戸重要な話がないから編纂が後になったのか?それとも隠蔽するべき話があるので飛ばしたのか?気になる時期だよな。千佳歴史って勝った方が残すって考えると、意図的なものは感じるけど。長戸とにかく、気合いいれていこうぜ!荀攸2人ともやる気満々なのはよろしい。まずはこの話から。(一呼吸おいて)1195年内の話だけど、【喫茶】栄西が博多に聖福寺を創建している。長戸鎌倉新仏教からきたか。荀攸この時代仏教の動きは無視出来ないだろ。
今日は、平安時代後期の仏教界で重責を果たした天台宗の高僧、かくゆう覚猷の命日・没後880周年にあたります。覚猷は1053(天喜元)年、藤原頼通の側近だった公卿・源隆国の第九子として生まれました。若年時に出家し、現在の滋賀県大津市にある天台寺門宗の総本山・園城寺(おんじょうじ)で天台仏教を学びました。その後四天王寺など大きな寺の別当を務め、1132年に僧正、2年後には大僧正に。そして1138年には天台宗のトップ・四十七世天台座主となりましたが、なぜかたった3日で退任。
山崎神社(岩出市)紀伊国那賀郡和歌山県岩出市赤垣内108(境内に駐車可)■祭神大市比売命大山津見命須佐之男命[配祀]奥津彦命奥津姫命火迦具土命大年神水波能売命八衢彦命八衢姫命久那斗命誉田別命八王子神伊弉册命天児屋根命上筒男命市杵島姫命天照皇大神三筒男之神猿田彦之命大倭姫之命日本武命稲瀬脛彦命興玉命瀬織津姫命速秋津姫命速須佐良姫命気吹戸主命大雀命栲幡千千姫命蛭子神第75代崇徳天皇の大治元年(1126年)、鳥羽上皇が根来寺を
お久しぶりですだいぶアメブロを書いていませんでしたね作品もだいぶ溜まっているのですが…。今日は、九尾の狐の妖怪さん。妖怪では、結構人気者この妖怪さん日本だけではなく、中国やインドでも活躍していたらしいです。さて、日本では、平安時代に絶世の美女に化けて、鳥羽上皇をメロメロにし、世を乱して権力を思うがままにしていたそうしかし、陰陽師によって退治されたのですが、亡き後も怨霊と化し毒気を吐く「殺生石」となった。これが九尾の狐の言い伝えです製作的には、白狐にしようか迷ったのですが、参考に
九尾の狐さま。愛って何でしょうか。今日は、Mr.Childrenの常套句が頭をグルグル流れていましたよ。愛しきったから、言えるコトバですね。今日も嬉しさと悲しみの間を揺れている狂おしいほどお読みいただいた方、ありがとうございます✨九尾の狐さまは、赤坂に鎮座する、日枝神社の末社である、山王稲荷神社に祀られています。今まで、意識しながら、参拝していなかったので、また伺います。
崇徳・後白河天皇の母が「待賢門院得子」。保元の乱のキーパーソンです。鳥羽天皇の祖父・白河天皇のお気に入りがったのが、孫に「譲られ」て、そのあと崇徳天皇を生みます。そのため、崇徳は鳥羽の実子ではない、と疑い「叔父子」と呼んで忌避した。それが保元の乱の遠因。って、いい夫婦の日にする話じゃないな。というわけで、大河「平清盛」では、待賢門院が壇れい、鳥羽上皇が三上博史でした。ところで、ドラマでは、鳥羽上皇がまだ生きているのに、「待賢門院」って呼ばれてたけど。これは、正しいのか?それともドラマ
地獄の佳き日(改題:修羅の跫)著者:富樫倫太郎★★★★★★★7:秀作、十分に楽しめる作品プロット;7、ストーリー;7、描写;8、スピード感;8、ドキドキ感;7、発想;7、シリーズ;無し、歴史謎解き;-、サスペンス;7、ドンデン;-、推理;-、感動;-、泣ける;-、切ない;-、エロ;-ジャンル:伝奇、歴史、ミステリー感想:ここ最近はこの作家のわりと新し目の作品に、どっぷりはまり込んでいたので、今回はデビュー作を手にしてみることにした。歴史群像大賞受賞した、文庫で70
にほんブログ村先日、京都の城南宮に行ってきました城南宮とは平安城の南に鎮まるお宮の意味平安遷都の時に都の安泰と守護のために創建された神社です鳥居をくぐり抜けると、大きな木にヤドリギがぶら下がっていました宿り木(ヤドリギ)という名が示すように、他の樹木に寄生根を食い込ませ、寄生して成長する不思議な植物長い時間をかけてゆっくりと生長し、寄生先の植物を枯らさずに共存します古くから神聖なパワーを持つとされているヤドリギ神社の入り
第235話こんにちは菊水千鳳です今回は崇徳天皇さまが何故、怨霊となってしまったのかご存知の方も多いと思いますが、その謎に迫るため生い立ち、並びに生涯についてサクッと紹介します。**この内容は霊視によるものではまだありません。なので、将来的に霊視した場合の結果とは多少異なる内容であるかと思います。ご了承下さい。**将来的に霊視する場合は、崇徳天皇さまご本人に、お越ししていただいて伺う場合もあると思います。崇徳天皇さまからの直接のメッセージは『崇徳天皇さ
こんにちは。今回は、前回までの保元の乱の番外編となるのてすが、敗れはしたものの、しかしながら後世まで伝説として、あるいは悲劇のヒーローとして名を残した人物の登場です。崇徳上皇です。讃岐に流された崇徳上皇歌川国芳画この方は「菅原道真」や「平将門」といった方々と、日本の三大怨霊として非常に有名であり、非業なる死から「何か祟りがあるにのではないか?」と何かと脚色された感じがあります。今回の崇徳天皇は、死ぬ直前に「我、日本国の大魔王となり、天皇家を呪う」と宣言!「日本最大の怨霊」と呼ば
こんにちは。今回は古代史・・・と言っても平安時代の内乱のお話です。応仁の乱、関ヶ原の戦い、戊辰戦争に続く内乱シリーズの第4弾になります。いつの間にかシリーズかしていましたが、今回お話しする内容は平安時代・・・まだまだ貴族たちが政治の実権を握っていた時代です。後、源頼朝による鎌倉幕府以降、江戸幕府の崩壊まで、その実権は武士の手に委ねられるのですが、この内乱ー保元の乱は武士政権が誕生するきっかけとなったとも言われています。保元・平治の乱合戦図屏風絵そもそも保元の乱とは、一体何が原因な
続きです今までの内容を整理しながら、話を進めていきます①鳥羽勝光明院は、落慶法要の記事にあるように、平等院とよく似ているお堂になりました当時からすでに、「平等院をお手本とした」という認識が一般的だったとおもわれます②このことは、資料からもある程度裏付けすることができますつまり、勝光明院の御願者である鳥羽上皇は、造立に先立つ申し合わせの中で、「長押上の供養菩薩は平等院を手本としなさい」と指示したという記事が『長秋記』に残リますこれは、平等院の雲中供養菩薩を真似して、勝光明院にも菩薩像
平安時代後期、1086年、天皇が現役を引退した後上皇となり権力を持ち続ける院政が白河上皇により始められましたこのころの京都の街は、現在もにつながるような庶民の街になっていたそうですが、院政を始めた白河上皇や続く鳥羽上皇の時代には、白河殿・鳥羽殿といった離宮が営まれ、上皇はその離宮から政治を行ったのでした鳥羽殿と呼ばれる離宮は、京都の南部、城南地域に営まれましたここは、鴨川、桂川などの合流する地域で、交通の要衝であり、水辺の景勝地でもあったそうですここには、上皇の住居である「御所」とそれに
愛染堂の右隣には、大会堂(だいえどう)。鳥羽上皇の供養の為に、1175年に建てられたという。現在の建物は、江戸時代後期・1848年の再建。鳥羽上皇の供養~学堂と変遷し、その後は法会集会として使われるようになったそうだ。
前の記事からの続きですが、ようやく、保延2年3月まで辿り着きました何を見ていたかというと、今流行りの上皇の話ですといっても、平安時代の鳥羽上皇の話なんですが、彼がたくさん立てた建物のうち、現在近鉄京都線竹田駅の西側、名神高速道路の大阪方面(下り線でいいの?)のインターチェンジあたりにあった鳥羽勝光明院(↓の❼❽あたり)↓このあたりこの建物の造立の過程を見ているのです長秋記はこの前に、記録自体が終わってしまっているため、落慶法要のある3月23日の記録は、『中右記』を見るしかあ