ブログ記事61件
『おれの師匠』は“鐵舟の傳記”から始まっている。まず、小倉鐵樹氏は、二人の友人の名前を登場させている。佐倉孫三氏と三田村鳶魚氏だ。佐倉孫三氏は文章を書くことが得意だったようだ。そのため、小倉氏は彼に山岡鉄舟の自叙伝を筆記させようと考えたらしい。そのことを小倉氏は鉄舟に相談した。すると、鉄舟は次のように答えた。「そんなことはしなくともよい。書かなくたつて殘るものなら後世に殘るし、殘らぬものならいくら詳しく書いたつて消えてしまふ」鉄舟のこの言葉を聞いて、小倉氏はなるほどと思い、以後は同様の話を
お~~~大王松じゃないか〜✨✨✨松戸の本土寺さん、世田谷の龍雲寺さん、そして何と、品川の三つ葉葵なお社にも、、、知らなかったよ、ここでも出会えるなんて、、(T^T)と、初めて気付いたときは大いにテンションがー⤴︎⤴︎品川神社防砂林のすぐ横で育った身としては、松には殊の外思い入れが強く、だから、社務所前に大王松の松ぼっくりが何気に置いてあったので、おや?と思いうかがってみたのだそしてありがたくも、どうぞと言っていただきその松ぼっくりをいただいた(・人・)また、有栖川宮熾仁
先日の夜、浅草に少々用事があり、その後浅草を散策した。今までと変わらないもの、変わったもの。そのいくつかの写真を紹介したい。仲見世会館の山岡鉄舟の書、永井荷風行きつけだった洋食店「アリゾナ」の現在など。私は永井荷風の著作の影響により、散策を趣味とするようになった。台東区の浅草、上野、谷中あたりは、今でもしばしば訪れている。ご存知、浅草寺。昼も夜も外国の方が多い。宝物館には幕末三舟の大きな扁額が保管されている。仲見世会館で偶然に見つけた山岡鉄舟の書。いささか鉄舟の筆勢とは違う印象だが、い
続きですめんどくさいのでWikipediaから貼り付けました・慶応4年(1868年)幕府が鳥羽・伏見の戦い敗戦後、帰京した徳川慶喜に恭順を説く・2月12日(3月5日)江戸城から上野東叡山に退去する慶喜を護衛・4月11日(5月3日)江戸城開城。水戸へ下る慶喜を護衛勝海舟が、徳川家処分の交渉のため官軍の西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、その誠実剛毅な人格を見込んで泥舟であった。しかし泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。代
きょうは部屋の中で、別の本を探しているうちに、山岡鉄舟に関する雑誌が見つかった。正確にいえば、勝海舟、高橋泥舟を含めた三舟に関するものだ。『江戸楽』(№66、2014年刊)というもの。関連記事は15ページほど。久しぶりに読み返してみた。ところどころ疑問に思う部分もあったが、山本海苔店や、あんぱんで知られている木村家など、鉄舟とゆかりのあるお店が紹介されていて、親しみを感じる内容となっている。ところで、今年も山岡鉄舟展が行われると聞いたので、ここに紹介しておきます。念のため、日時や詳細は今後各自
よく深き人の心と降る雪は積もるにつれて道を失う高橋泥舟欲だけでは、道を失います大事なのは、志です!!もちろんですが、スタッフやその家族のために利益もしっかり出しましょう!!よく学び、よく遊び、よく稼ぎ、社会の発展のために使う商人がお金を回さなくては、日本社会がよくなりません商売を通じて、社会をよりよくしていきましょう^^
そして今年は、あの会談から百五十年、、慶応四年(1868年)三月十三日の夕刻、海舟は南洲をつれ東京は芝の愛宕山へ今から百五十年前の話になる、いわゆる勝海舟と西郷隆盛の無血開城会談の日だ、十五日には江戸進撃が予定されていた初日の十三日は海舟の談話記録によればさしたる用談もなく昔話や世話話で終わったらしい、場所は高輪にあった薩摩藩江戸屋敷であったという幕末明治期ゆかりの神社巡り⑥愛宕神社夕暮れに近くなり、、海舟は鉄舟とも相談のうえ南洲を愛宕山へ誘う、当時、山の上から見下ろすと
山岡鉄舟の貧乏は有名なものだ。『おれの師匠』を読むと、所々にこの貧乏についての話がでてくる。『おれの師匠』には「山岡家傳統の、此の明るい貧を苦にせぬ性質が一面山岡家を困窮におち入らせた原因でもある」と記されている。鉄舟だけではなく、英子夫人にも貧乏を意に介しないところがあったようだ。明るい貧乏とは言え、最初の子供が「奥さんの乳が出なくて死んでしまつた」というのだから、自分たちが食べていくことも、相当にたいへんだったことが想像できる。他人を頼ることもできなかったところから見ると、みんな生活に困
【山岡鉄舟墓(東京都台東区)】2016/5/10書庫東京都の史跡http://blogs.yahoo.co.jp/tsjqu183/14137060.html【山岡鉄舟墓】所在地:台東区谷中5-4-7全生庵境内天保7年(1836)6月10日、江戸本所大川端四軒屋敷に蔵奉行・小野朝右衛門高福の四男として生まれる。母は鹿島神宮神職・塚原石見の二女であり、先祖には剣聖・塚原卜伝がいます。弘化2年(1845)、飛騨郡代となった父に従い、幼少期を飛騨で過ごした。この頃から久須美
2月11日今日は文京区の茗荷谷にオリマス。三百坂から播磨坂に戻って来ました。あの辺りが高橋泥舟と山岡鉄舟の住居跡。高橋家と山岡家はお隣同士だったのですね。今はマンションになっている。幕末の三舟と言えば「知の海舟、気の泥舟、情の鉄舟」ですね。特に鉄舟は泥舟の妹と結婚してるので、ふたりは義理の兄弟ということになります。さてハラがへった。と思って茗荷谷の駅に向か
この日は初薬師ということで今年も何度かお参りさせていただくことになるね去年からいただき始めて、お参りするたびごとに少しづつ荒陵山四天王寺和宗総本山大阪市天王寺区そして戊辰戦争開戦から百五十年東軍戦死者招魂碑お〜✨高橋泥舟だぁ...泥舟揮毫の碑は初めて観たよ...こちらはまた改めてお参りさせていただこう(・人・)坂松山一心寺浄土宗大阪市天王寺区にほんブログ村御朱印
藤枝市にある「田中城址」にやって来ました。今川氏が築城し、その後武田氏も入っています。本丸跡地は小学校になっていました。田中城址はこのように↓円形に造られていました。(画像お借りしました。)本丸を囲んでぐるぐると。本丸の南東に下屋敷という場所があり、こちらは見学できる施設になっています。駐車場もありますよ。昔は築山などもあり、四季折々の景色を楽しめたようですが、現在は当時と比べ、半分ほどの面積になっていますが、庭園や茶室など、いくつかの文化財がのこっています。冠木門と本丸櫓↓
○高橋泥舟1835-1903海舟・鉄舟ともに賞され、幕末の三舟と呼ばれました。●高橋泥舟は、勝海舟・山岡鉄舟と併せて、旧幕府の三舟と称せられたけれども、これはその人物に鼎立の勢いがあったためでなくて、ただ三氏が書家として世間に知られたにすぎぬ。海舟翁は偉大な経世家で、かつ予言者である。鉄舟翁は禅気徹底の一豪傑で、その性格がすこぶる高い。泥舟は他の二舟とは比較しかねる。泥舟は粗剛の一木強漢にすぎぬ。もし、その長所をいうならば、槍術の達人たることがそれである。けれど海舟らと謀って、慶
『山岡鉄舟・剣禅話』ー高野澄(きよし)●総説-①✪幕末三舟ということばがあり、それは『幕末三舟伝』として書物の題名にもなっている。三舟とは、いうまでもなく、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三人をさす。まず、勝海舟であるが、これはなんといっても著名人である。何をやらせても、みごとにやってのけることができた。ただし、嫌いなこととなると、絶対に首をたてに振らなかった男でもある。二番目をとばして高橋泥舟。この男は槍を握らせたら天下無敵だった。しかし、他のことはなんにもできない男である。自分でも槍
大変長らくお待たせいたしました7月14日(金)ジャポニスムアカデミー「新選組と刀」第参回目座談会でございますこの日は平日の為、夜7時からの開始。打ち合わせも兼ねて、その前に権先生、谷さま、私、そして権先生専属?カメラマンの若い女性の4名で夕食。第一回目、二回目と、ランチしたホテルレストランでいつもは私は「大人の為のお子様ランチ」にするのですがこの日は残りが一食との事で、権先生のお連れ様に譲り私はタイ風野菜カレーに致しました
なんか…わかったような、わからないようなタイトルですみません本当は一回で済ますつもりの原さんの暗殺ですが書きたいことが多くなって、二回になってしまいましたm(__)m原市之進さん自身のことについて少し。彼は、天保元年水戸藩の勘定奉行を務めた原雅言(まさこと)さんの次男として生まれます。藩校の弘道館に学んだ後、江戸の昌平坂学問所を経て、安政2年に帰国してからは、弘道館をするほ先生となり、また奥右筆頭取であったそうです。また、「水戸学」のリーダー的存在であった、藤田
道心ある人を名づけて国宝となす山家学生式(さんげがくしょうしき)よりこのあとに、故に古人言く径寸十枚これ国宝に非ず照千一隅これ則ち国宝なりとつづく山田恵諦大僧正の「一遇を照らす」は最澄のこの言葉からだねぇさてさていわゆる”幕末”は嘉永六年(1853年)にはじまるようだ、M.彼理率いる黒船来航による以後明治維新に向け大きく歴史は動くのだけど、何故か教科書ではサラ〜リ(?)と流されてしまっているような、、(・ω・)?ワイ??表には出てこない歴史、あるいは
またまた訪問の日付と季節が一変してしまいました、申し訳ありませんが、やはり訪問寺を全部ご紹介したいとPC内の情報をそのまま塩漬けにはしたくありませんのでね、他のブロ友さんも、けっこう同様なお悩みがあるのではっと思ってます。平成29年5月5日の谷中界隈ご朱印まわりから、まだ記事にできていないところをご紹介致します。まず日蓮宗寺院大雄寺です。東京メトロ千代田線の根津駅で下車、そのまま言問い通りを谷中方面に歩谷中6丁目を通り、最初の角(有名なカヤバ珈琲店のあるところ)を左に曲
あじさい寺高源院は、日本の石油王と呼ばれた石坂周造が修行した寺〜ぽっくり観音のある寺です。あじさい寺として賑わう戸狩温泉スキー場のお寺は〜曹洞宗三嶋山高源院と言います。この高源院は、あじさい寺として有名ですが、戸狩温泉スキー場に隣接する立地を生かしお寺の民宿としても親しまれています。また、日本の石油王と呼ばれた石坂周造が修行した寺でもあります。石坂周造は、飯山市岡山桑名川の出身。幼年時代は、飯山の英岩寺、少年時代は、この高源院で修業しました。17歳の時、事情があり東京に出て勉学の末医
『古今をちこち』の隣の記事に徳川慶喜の側近だった高橋泥舟が書いていた『御用中雑記』という日誌が発見されたとあった大政奉還後に慶喜は新政府から命ぜられて水戸に慶応4年(1868)4月から7月まで滞在日誌はこの時期に書かれていたようで旧幕臣が新政府に対抗しようと結成した彰義隊の動きをきにかけていたとされている彰義隊の不穏な動きを早々に沈めるように指示をだしていてこの頃慶喜は幕臣たちに禁足令(外出禁止令)を出すなどして江戸の動きに同調しないように用心していた慶喜は積極的に江戸の情報を収
幹は6.2m巨木クスノキ上野大雄寺(だいおうじ)をお借りして会議クスノキの隣に高橋泥舟の墓所山岡鉄舟・勝海舟と並ぶ三舟の一人
2月に入ってからなんかダル~釣行の前日もなんかボ~としちゃって風邪引いたかなと思っていたら犯人は花粉…シーズン初期は風邪に似た症状で分かりづらい!今現在飲み薬と鼻に直噴射する薬を常備してますGW位まで付き合わないといけませんいやだなぁ(-_-;)と体調報告はほどほどに先週のモンスターヒット!後根ズレとポロりんちょの考察<考察の意味>「見た・調べた結果(事実)から、物事を明らかにするために深く考える」という意味になるらしいわかりやすく言うと、「事実から何がわかったのか?
先週のメガネのお届け新聞が見えると喜んで頂けました。そもそも、5千円メガネ(三国店さん)をネットで検索して来店して頂いたそうです。いつのブログ記事?ライトHP?今日は節分で豆まきの後メニュー表見たら恵方巻や!バレンタインはハートのハンバーグ!いいな~~~大きいホームさんでした帰り報告に三国店さんへけっこう商店街人が多いななんやこんやですっかり日が暮れて、余談ですが三国の商店街にある美容院?美容室?黒板遊んでハリマス今日は、こんな感じで先週はこんな感じでし
大雄寺入口大雄寺本堂高橋泥舟の墓高橋泥舟台東区谷中にある大雄寺に、勝海舟、山岡鉄舟と並び「幕末の三舟」と呼ばれた高橋泥舟の墓があります。高橋泥舟は天保六年、旗本・山岡正業の次男として生まれ母方の高橋家の養子となっています。山岡家は槍の自得院流の名家で兄の山岡静山の下で修行した泥舟は、槍の達人として知られ、その腕前は神業に達したと評されるようになります。なお、山岡家は静山が早世したため門人の小野鉄太郎を婿養子に迎えていますが、この鉄太郎こそ三舟の一人、山岡鉄舟です
国立国会図書館では現在、企画展示「続・あの人の直筆」を開催中です。前期:~10月29日(土)、後期:10月31日(月)~11月12日(土)。http://www.ndl.go.jp/jp/event/exhibitions/exhibition2016.html#tokyo_events2年前に開催された「あの人の直筆」展は面白かったですね。この人は、こんな字を書くんだ、なんていうことがわかって……。今回も見ておいた方がいいのでしょうが、8人が取り上げられる「幕末・維新の人々
舟運の歴史を語り継ぐふじみ野の船問屋・旧「江戸屋」保存向け調査へ東京新聞ふじみ野市は、江戸~明治期に新河岸(しんがし)川舟運で栄えた河岸場の一つ「福岡河岸跡」に残る船問屋・旧「江戸屋」の母屋と米蔵について、所有者からの...【歴史のささやき】何をひいた?観世音寺の巨大臼産経ニュース福岡県太宰府市の観世音寺は、かつて「府大寺(ふのおおでら)」として九州の寺院を支配した。今も、日本最古の梵鐘(ぼんしょう)(国宝)や西日本随一の巨像群...『“でっかいお墓”の誕生―弥生の
谷中の風景時間が止まったような・・古い街並み・・・味のあるお店が並ぶ・・高橋泥舟の墓大雄寺山岡鉄舟の墓全生庵山岡鉄舟の墓全生庵徳川慶喜の墓谷中霊園徳川慶喜の墓谷中霊園覚王院義観の墓谷中霊園