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今日は良いお天気次男の成人式でした近所の幼なじみと学部は別だけど、偶然同じ大学でした昨日は成人式に向けて、サッパリ短めにカットして来てね!と、送り出したのに帰ってきた次男は『どこ切ったん』『美容院行ってないの』ってくらい変わらず大げんかしましたもう知らん!用事もあって成人式は見に行かなかったので、別のママ友から写真を送ってもらいましたやっぱり、ちょっとヤンチャな男の子は式が終わってから外で日本酒とワインを瓶のまま回し飲みで、潰れて吐いてたらしいカッコ悪すぎやんこの後、みん
※設楽原「首洗い池」いろはかるた看板と説明板と塚…お地蔵さんが建っています…今は至って普通の池ですが、江戸時代の村人はみな近づかなかったそうです設楽原古戦場周辺の史跡設楽原古戦場には、8月と9月の2回に分けて行きました。8月に行ったときに、長篠と設楽原は、近いやろと勝手に?思っていて長篠城とその周辺の史跡でウロウロしすぎて、設楽原に行ったのが、15時を周っていました😓レンタサイクルを返すのが、16時までと決まっていたので、設楽原歴史資料館を見てから、長篠城址保
こんにちはにじいろです。加賀市でも桜が咲いてきました〰️〰️😃3/26(日)は雨で寒かったですよ昨日の月曜日も晴れても花冷えします。首洗池にて、桜が綺麗でパチリ📸池にも桜が写りこんで2倍美しいです。💖💖それではまた
☆伝物部守屋墓河内国渋川郡大阪府八尾市東太子2-9-9(P無し)蘇我氏との宗教戦争に敗れた物部守屋を葬ったところと伝えられている地。この辺りには「弓矢塚」「弓代塚」「守屋首洗池」「聖徳太子古戦場」「稲城跡」など、生々しい痕跡が半径100m足らずの中に集中しており、また守屋所縁の地も多く存在します。ここで本当に最期を迎えたのであろうかと。物部氏は崇仏派の蘇我氏との争いに敗れたとされています。この宗教戦争は「丁未の乱」と呼ばれ、用明天皇二年(587年)のこと。おおよその経緯は以下の通り
☆「守屋池」(物部守屋首洗池)河内国渋川郡大阪府八尾市太子堂3-3-16(「大聖勝軍寺」前)(P無し)蘇我馬子との宗教戦争に敗れた物部守屋の首を洗ったと伝承される池。この宗教戦争は「丁未の乱」と呼ばれ、用明天皇二年(587年)のこと。おおよその経緯は以下の通り。━━四月、蘇我馬子との対立がいよいよと深まり、身の危険を感じた物部守屋は朝廷を離れ、別業(別荘)である「阿都」へ退き周りを固めた。そして用明天皇が崩御。七月、馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)、竹田皇子、厩戸皇子(聖徳太子)
おはようございます。いつも訪問、いいね!コメントやフォロー、ありがとうございます片山津温泉で過ごす日も、もう5日となりました。毎日ムクムクと大きくなっております片山津温泉は、駅としては加賀温泉駅。この近辺には、山中温泉、山代温泉、あわづ温泉など有名どころの温泉が集まっている所。いろいろ観光する所もありそうですが、レンタカーを借りたりしなかったので、近辺をブラブラするのみ。1日だけ、電動のレンタサイクルで、隣駅まで足を延ばしました。これは夫が、大聖寺
本日は、サンデー毎日仲間のK氏と加賀地区の古墳巡りをして来ました。8月29日に同じくK氏と能登地区古墳巡り、さらに9月13日には、ソロロードバイクでの能美市の古墳群巡りを実行しているので今回は、古墳群巡りの最終回になる。青い空が映える秋晴れになったが、季節外れの夏日の予報なので半袖に逆戻りです。最初に訪れたのは、加賀市の富塚丸山古墳。富塚公民館の目の前にありました。復元径50mの円墳です。古墳の上からは加賀地区の山並みが。加賀大観音像も見えました。次に向かったのは、
新城はしんしろ、と読みます2日ほど前何故かお椅子で転んで肋骨をしこたま打ち何か。。。ひびはいってるっぽいけど気づかないふりですごしつつ本日定休日新城へ良さげな物件があったので家族とコソーリ行ってきました豊橋から行くと確かに少し遠目かな。。。でも繁華街?も近いし首洗池?やら資料館やらが近くておまけに道の駅なんかもあってたいそう楽しげ戦国時代の歴史のある町でなかなか良い感じ第二東名のICも近いし悪くないでもね。。。予定よりちょっと高めのお値段でもでも
小松の多太神社から加賀市へ向かう途中…霊峰白山(2702m)がキレイに見えて嬉しかった。日本三霊山のひとつ。4月に福井市で見た時より少し雪が溶けていた。篠原古戦場跡は片山津温泉と柴山潟の近く。『老将の黒髪は覇気の現れ』愛あるキャッチコピー☆その先に見えるのが、寿永二年(1183)斎藤実盛の首を洗ったと伝わる首洗池。今は普通にキレイな池で、怖い雰囲気は一切無かったです。篠原合戦七百七十年記念に祀られた石仏?穏やかなお顔立ち。合戦で戦死した兵達の供養仏のようでした。昭和三十六年
平重衡の墓。・平知盛とともに以仁王、源頼政、追撃の大将・南都焼き討ちNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、今の時点で平家の天下。「平家であらずんば、人であらず」(平清盛)。平重衡の墓のある安福寺(浄土宗西山派)へ。京都府木津川市木津宮ノ裏274哀堂(あわれんどう)。平重衡の菩提を弔うために建立本堂に安置する本尊阿弥陀如来像(非公開)は、平重衡の引導仏と言われてます。平重衡。読めない。。。平重衡とは
あっという間の年末実家近くをお散歩🐾🐾昔は田んぼの中を走り回って遊んだなぁ田んぼに降りようかと思いましたがななとここはドロドロになるからやめとこう真っ直ぐな堤防。草刈りも済んでいて歩きやすいななも嬉しくて自分からグイグイ歩いてくれます~見にくいけど竹の前にある白い実の木は何でしょういつも勝手にモチモチの木と呼んでますこの道は初めてここも走ったり匂いを嗅ぐのに忙しい少しだけ川が見えますそろそろ折り返し地点ここいつものクルクル回りながらのお散歩🐾一番歩いてます堤防近
11月の終わりに訪れた加賀、越前と、これまでに読んだ歴史書から、この地の歴史に思いを馳せました。それを6回に分けて綴りたいと思います。歴史好きな方に楽しんで頂ければ幸いです。************写真:首洗い池こんな立派じゃなかったよ、昔は。きれいにしたんだねえ。観光スポットとは言えないけれど、小学生の遠足の目的地としては十分だろうなあ、今でも。写真:池の背後の手塚山から柴山潟を望むえ、誰の首を洗ったのかって?平家の武将・斎藤別当実盛です。その墓が近くにありま
賛否両論あるようですが、オリンピックが始まりましたねテレビ観戦します新城市設楽原の古戦場の散策ですたぶん?設楽原の古戦場跡の墓地?閻魔大王は地獄のイメージですが…木掘りかな?ここに祀られている??小塚?設楽原の主だった見所が出ています竹広激戦地の方に向かっています竹広激戦地設楽原の戦いまずは連吾川さらに歩いていくとまだ、この先かな山県昌景の塚が、この先?山県昌景も討たれます墓地の改修されたのですね
2021年5月北摂(?)ぶらり旅、屏風岩に続いて本日のラスト多田神社に行ってきました源満仲が創建した神社で、満仲死後に御廟が営まれたことから、鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府から源家祖廟の寺院として崇敬を受けたそうです。前に行った多田銀銅山遺跡の近くです。この近くに清和台という地名があるのも、清和源氏に因んでいるのかも。と言いつつ、今日のお目当ては酒呑童子の首を洗った池京への凱旋の途中で、坂田金時が立ち寄ったのだそうです。透明度が高いようで、底は見えない感じで、摩訶不思議でした。酒
1183年(寿永2年)6月1日に加賀国篠原(現・石川県加賀市旧篠原村地区)において木曽義仲(源義仲)軍と平氏軍との間で行われた戦闘が「篠原の戦い」。平家物語の「篠原」「実盛」の章段において、平氏軍の老将斎藤実盛は自陣が総崩れとなる中で最後尾の守備を引き受けた奮戦ぶりが描かれ、実盛がかつて義仲の父源義賢が大蔵合戦で討たれた際に、幼い義仲を木曾へ逃がした恩人であったことが語られている。この逸話は修羅物の能の演目となっています。そんな「篠原の合戦」の関連地を紹介していきます。◇鏡の池◇源平合戦の
ダイヤモンド富士ならぬ、ダイヤモンド生駒山夕方の散歩。木津川橋の上から日の入りを見ようかと思ったんですが、木津川の堤防を歩いてたら、ここからも良いかなぁと。16時20分。不成柿・首洗池平重衡(平清盛五男)南都焼討平氏政権の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行い東大寺や興福寺を焼亡させた兵士滅亡に伴って重衡は木津川畔にて斬首、奈良坂にある般若寺門前で梟首された。また、木津川畔の京都府木津川市木津宮ノ裏の安福寺には重衡の供養塔がある☝️木津川の堤防。左岸を上流向いてって感じ
ラストです。コロナ禍でお城巡りが出来ないため、のんびりアップしてしまいました閉館時間の関係で、慌てて館内に入ったため、改めて入り口の案内板を観ました縄張り図は北が下向きで「あれっ?」っと思いますが、こちらの方が長篠城の攻めにくさが、よくわかりますね主郭部の空堀と土塁ちょうどが通りました。これからようやく主郭に入りますそれにしても今回は色々回りましたようやく登城です入って左の階段を登り土塁の上
大阪八尾市に太子堂という交差点がありその近くにあるのが大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)です蘇我氏と物部氏の古戦場です!山門まだ昭和な時代に親父に連れられて「ここは戦いに勝つお寺やから・・・」と紹介されました山門の前は駐車場があって端に池があります「ここで敵将守屋の首を洗ったんや・・・」と言われて首筋がゾクっとしました守屋池(守屋首洗池)聖徳太子と物部守屋ゆかりのお寺です当時は本堂だけの侘しいお寺でした夕方になると山門前の駐
テレワーク2日目。朝の散歩がてら、パン屋に行こうと。まずは、御霊神社でおまいり。手水本殿ぎゃー!拝殿側から。落ち椿綺麗ですねぇ。藤棚がありました!退散して。パン屋うん?月火水、休みやし!しかも8時から。。。安福寺。南都焼討ちの平重衡の墓があります。御朱印、7月23日だけ。。。不成柿と、平重衡の首洗池への行き方。アマビエ❗️さま。コロナ退散!今朝の林檎🍎散歩・ウォーキングランキング果樹菜園ランキング
夕方の散歩。片道20分ちょいのコンビニまで。途中寄り道をしながら。不成柿。雑草生え放題。。。平重衡の首洗池。水、あらへんがな。。。和泉式部の墓。廃寺かな?お堂の名前がない。。。町内で管理はたいへんですねぇ。退散。住吉大明神!結構な名前やったんや?!小学生くらいの時、お祭りでよく来たなぁ。ここらへん、たしか本町って地名だし。昔はこの辺りが一番栄えてたんだろうなあ。井関川沿いの桜🌸井関川。木津川市のランドマーク?貯水塔!大智寺。奥まったところにある小さなお寺
11月24日(日)は、さわやかウォーキング大海(新城市)に行ってきました。▼豊橋から飯田線の伊那路1号で大海に向かいます。この日の伊那路1号は大海に臨時停車するので、お安くWスタンプをゲットしようと言う算段です。▼乗車券は、新城・本長篠往復きっぷ(1680円)と特急券(330円)で、片道100キロ以上乗ったけど、かなりリーズナブル👌▼新城のこの地域は東郷エリアと言うのか~😲これも初耳‼️🙄▼特急が少し遅れて大海駅を10:50スタート‼️ウォーキングが無ければまず降りることもない駅で
2018年11月11日JR飯田線の長篠城駅から新城駅へ向けて歩いています。このあたりは、天下統一の長篠・設楽原決戦場だったところで、史跡がたくさんあるのです。道の駅「もっくる新城」で休憩後、やってきたのは、「首洗池」です。ここにも、設楽原古戦場「いろはかるた」がありました。「首洗い、池は血色に、水濁る」別名は、「太刀洗池」とも呼ばれ、刀や武具などの血を洗い落としたそうです。打ち取った首も洗ったのでしょうね。そんな、おどろおどろしい池なので
長篠の戦いと言われている、織田・徳川×武田の戦い。鉄砲の3段打ちがあったとか、なかったとかで有名な決戦があったのは長篠から少し離れた設楽原。そこに行って来ました。JR飯田線豊橋から約1時間の三河東郷駅。ここから徒歩で行けます。無人駅を出ると直ぐに陣配置図。これは分かりやすくていいですまずは、歴史館へその途中に合戦に関わる史跡がチラホラあります。首洗池。ちゃんと池があります。鯉が跳ねるのが見えたので、水を抜きたくなりました(笑)他にも道中、史跡でなくても普通に
斎藤という名字は越前・加賀に多いそうです確かに周りに斎藤さんは沢山いますこの斎藤別当実盛という人も先祖は越前の足羽郡河合という所だそうです土曜に加賀の片山津温泉の源平というところを通りかかった時、「首洗い池」というのを見つけて、立ち寄ってみました古戦場跡にはどこにでもあるので、たいして期待はしていなかったのですが結構大きい池です普通はもっと小さいか、もう既になくなっている池ばかりなんですが案内板を読んでビックリ平家物語にこの逸話が載っているそうなので調べてみましたが、武士の鏡です
前回からの続きです城址公園の次に目指したのは木津川市2017秋社寺秘宝・秘仏特別開扉の1つ安福寺ですその前に関連するとこに寄ってみましたそのお寺の近くにあるという、安福寺で供養されてる平重衡の首を洗ったという池です住宅地の中を歩いていくとありました(・_・?)池は無いけど柿の木はある?解説板によると、平重衡(しげひら・清盛の五男)は源氏に味方する東大寺・興福寺を焼き打ちにしましたその後、一ノ谷の戦いで源氏に敗れた重衡は、虜囚となって鎌倉の源頼朝のもとへ送られましたが、南都の衆徒
つづきです(^_^;)またもや書き始めが夜中になってしまった( ̄▽ ̄;)普通に定時で仕事終わって帰ってきてるのに何故?!チャリを漕ぎ漕ぎ70号をまっすぐ南下。もう、とにかく南下することだけを考えていた。。で、疲れて立ち止まったところが椿井大塚山古墳です。↓は、古墳上部からの写真です。後円部分がJR奈良線にぶった切られているのでこんなふうなんですね。図的には上から見るとこんな感じ↓全長175m。デカめの古墳です70号からちょっと東に入ったところはこんな↓前方部
以前の記事で、八尾と聞いて何を思い浮かべるか?との問いに、心合寺山古墳(しおんじやまこふん)、八尾空港、アリオ(笑)等と答えた際、「え?いやいや、物部守屋の墓や守屋首洗池、鏑矢、弓代塚に稲城跡等の守屋フルコースがあるでしょうが!?」ってイラッとした方もおられるかと思いますが…知ってる知ってるそれくらい知ってる敢えてやねん。守屋コンボは改めて個別で書きたかったからこれが正解やねん。ていうワケで、八尾市内の一部に集中している物部守屋関連の史跡を巡ってまいりました。
次は、立札の後ろにあるお地蔵様に、願い事をすると叶うみたいな事が書いてあったので、(//∇//)ちょっとだけ、願い事しました。(//∇//)⬆︎この池で討ち取った首を洗ったらしい…なので首洗池と呼ばれたみたい…もう少しで終わる…_| ̄|○ので、⬇︎は、真田信綱、昌輝兄弟のお墓設楽が原からは、少し離れた山中にあった‼️真田信綱信綱の最期天正2年(1574年)5月に幸隆の死去に伴い正式に真田家の家督を継いだ信綱は[4]、その一年後、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦い