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今日は東京国立博物館へ行ってきました上野のトーハクには『ポンペイ』『国宝東京国立博物館のすべて』以来3度目の来館‼︎🌋特別展『やまと絵受け継がれる王朝の美』今回の催しは〝やまと絵〟初日から1ヶ月ちょい経ったけど平日でもたくさんのお客さんがおったね日月四季山水図屏風、紫式部日記絵巻断簡、鳥獣戯画など〝やまと絵〟をフォーカスしたたくさんの素晴らしい展示物に心躍りました普段は、我が地元・広島県は厳島神社蔵の平家納経も展示してあって興奮したねーただ会期中は、前回行った『国宝
永井路子著「銀の館」全2巻を読み終えました。足利幕府8代将軍である足利義政の妻、日野富子の小説。足利義政は銀閣寺建立で有名ですね。目だった政策は伝わってませんが、銀閣寺を始めとする東山文化を興した人として名を残しております。その妻が日野富子。応仁の乱勃発に深く関与した悪女として日本史の授業なんかでは話が出ていたように思います。ただそれ以外のことはあまりよくわかりませんので、こういう歴史小説で知ろうと思いました。日野富子が16歳で足利義政に嫁ぐところからお話は始まります。気丈で頭の
銀閣寺(慈照寺)で「秋の特別拝観」(2023年10月1日~12月3日)を行なっています。銀閣寺はこれまで何度も拝観していますが、特別拝観で東求堂などの中を見学することが出来ていませんでした。今回初めて特別拝観に参加させてもらいました。見学時刻は10時から15時30分まで約1時間間隔で決まっていて、その1時間前に申込表に名前を記入する方式になっています。1回当りの定員は約20名、時々15名の回があります。問題はどのくらい前に行って申込表に記入するかですが、平日であれば
10月16日(月)友人の車で京都までGo~北白川でランチ手打ち蕎麦みな川目的の一つ、「銀閣寺秋季特別公開」・国宝東求堂・本堂・弄清亭10月1日~12月3日迄秋の特別公開行事|銀閣寺|臨済宗相国寺派正式名称を東山慈照寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。名の由来は金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれています。本山である相国寺・金閣寺・銀閣寺で行われる行事、坐禅会・研修会の予定をご紹介いたします。www.shokoku-ji.jp
<(いくら考えても我が家に迎えるにあなた以上の方は想像ができません。)(物怖じもせず作る食い物は旨い。要するにつまり——)(私自身があなたのことを気に入っている!)>(114頁)これ以上の言葉は、なかなか思いつかないと思います。新九郎は、奉公衆小笠原政清の末娘ぬいと結婚します。奉行衆と奉公衆が引き起こした「文明十七年の動乱」の処理を巡り、御所義尚(よしひさ)と大御所義政のつばぜり合いがありました。御所の勢力が決定的に伸長し、義政は、義尚の求めに応じ出家しました。この間
相国寺塔頭の慈照院は元は大徳院と称しましたが、1490年に室町幕府8代将軍足利義政の菩提所となり、義政の法号から慈照院と寺名を改めました。2019年の冬の旅特別公開で訪問したときには、「朝鮮通信使に関する記録」がユネスコ世界記憶遺産に登録されたことを記念してその一部が公開されていました。客殿前庭の陸船松が印象に残りました。通常は非公開です。
本日は旧暦6月18日ですが、応永二十六年六月十八日(1419年)は、伏見宮貞成(さだふさ)親王の第一王子として彦仁(ひこひと)王が誕生された日です。伏見宮家は崇光天皇の第一皇子、栄仁親王を祖とする持明院統の嫡流に当たる世襲親王家で彦仁王は崇光天皇の曾孫にあたります。第百一代称光天皇の御世でしたが、天皇には皇子がなく弟も薨去されていたので、天皇が崩御されると後小松上皇は彦仁王を猶子に迎え皇位につけました(後花園天皇)。貞成親王は伏見宮家の二代目当主でしたから、宮家の役目を果たしたこと
芦名の浄楽寺からは長井行きのバス🚌で林四角バス停で下車徒歩3分の案内ですが、住宅地の細い道の中に有るようなので、不安になりながら歩きますえっ赤い幟旗がなければ、私は絶対に見過ごすレベルのお堂です😅😆右側にはお地蔵様軍団本堂浄土宗寺院の正住寺は、宝林山心浄院正住寺と号します開山は文明元年(1468年)開基は室町幕府8代将軍足利義政で、京都銀閣寺より15年早い建立になります移転を繰り返し、明治中期にこの地に移りましたが、檀家もなく無住になってしまったので一時廃寺となります廃
戦国時代の始まるきっかけになったとも言われる「応仁の乱」については、以前、この本が、話題になり、ベストセラーになったようですね。応仁の乱戦国時代を生んだ大乱(中公新書)Amazon(アマゾン)なぜ、この本が話題になり、ベストセラーになったのか、理由はよく分かりませんが、この本が話題になったことにより、他にも、いくつも「応仁の乱」に関する本が出版され、当時、本屋に並んでいました。僕も、この本を含め、いくつか読んでみたのですが、やはり、あまりにも複雑すぎて、概要ですら、よく分
千利休の「わび」とは何かp105利休の祖父を将軍足利義政に支える同朋衆千阿弥とする事については、芳雅幸四郎氏はそれが「応仁記」の記事を利用している事を指摘し、更に村井康彦氏は利休の祖父としては年代が合わない事を考証して、今日では否定されてしまった。利休の父が田中姓を千姓に改めたと言うのも正しく無い。山上宗二記には田中宗易と明記され利休の本姓は依然として田中だった事がわかるからだ。ただしp106利休の伯父が千宗休と言って茶会記に有るので「千」が当時の利休の家の田中の別称だった可能性は有
【食育クイズ:Vol.1341】「京都府」の「応仁の乱」おさらいクイズ!「応仁の乱」の発端の場所となった「京都の寺社」名は?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)2,068円Eco&Art太陽パネルの元で育った大豆のコーヒー(浅煎り,100g×2袋)A
【きょうの人】0711■日野業子義満の寵愛を受け日野家の権力を強化■聖聡増上寺開山独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。■聖聡増上寺開山しょうそう正平21年/貞治5年7月10日(1366年8月16日)-永享12年7月18日(1440年8月15日)南北朝時代から室町時代中期にかけての浄土宗の僧で、増上寺の基礎を築き、開山
平山優著:角川選書2022年4月刊https://books.rakuten.co.jp/rb/17314405/?l-id=search-c-item-img-01著者は、今年の大河ドラマの時代考証も担当しておられる学者。NHKの番組「歴史探偵」に出演されてもいた。研究対象は徳川というわけではなく、どうやら武田の方が主らしい。当時の武将たちが書いた古文書を徹底的に読み込む。江戸時代など後年に書かれた軍記物などの「通説」は徹底して疑う。ただし、古戦場近くなどの地域に伝わる伝説
夕暮れのうっすら夕焼け。きれい~「学研まんがNEW日本の歴史5室町幕府と立ち上がる民衆-南北朝時代・室町時代ー」長いです。興味のない方は飛ばしてねやっと5巻目を終わったところ。この頃になると、名前が似ているのと、途中で名前が変わったりするのと、味方だったのに敵に回ったりして、頭の中はでいっぱいになる。学生時代、丸暗記していたのが悔やまれる。苦手だったので理解しようとは思わなかったなあ1333年、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は天皇中心の政治を始め
京の三閣と言えば有名な金閣と西本願寺にある飛雲閣そしてこの銀閣です室町時代8代将軍足利義政は1482年からこの地に山荘造営を開始応仁の乱で経済が疲弊していたのに臨時の税金を取り立てたり労役を課したりして8年掛けて完成義政は1483年には建物が出来た時点で移り住み風流な生活を送っていましたバス停を降りてから「哲学の道」を歩き銀閣寺橋を渡りますこの日は修学旅行生たちがいっぱいでした
6月15日の歴史室町時代日野勝光忌日文明8年6月15日(1476年)日野勝光没する数え48歳日野勝光は室町時代の公卿藤原北家の出で日野家の当主妹である日野富子は8代将軍足利義政の正室もう一人の妹は義政の弟・足利義視に嫁いでいる6歳に家督を相続日野家当主となる左大臣まで昇進しし「押大臣」と呼ばれる戦国時代の幕開けとされる応仁の乱を生きた人物です墓所伏見区日野日野御廟親鸞聖人ゆかりの人物が眠る地に勝光も眠る法名唯稱院殿圓長久冨大居士日野勝光(
日野富子[1440~1496]室町幕府8代将軍足利義政の妻。実子義尚よしひさの将軍就任を企て義政の弟義視よしみと対立し、応仁の乱の端緒をつくった。京都諸口の関所の設置、そのほか幕政に深く関与した。上記内容のように語られることもあるが。「高利貸しで蓄財をすることに励み、応仁の乱を引き起こした悪女」との評判もある。私は思うんだけど。「仕事が出来る女性を嫉んだ男性たちが日野富子を悪女呼ばわりをしている」って思っている。出来る事なら。現在の内閣に入って
山名宗全と細川勝元は、対立していたが、二人の地位を脅かす者の排除には、協力した。1466年(文正元年)、山名宗全は、細川勝元と共謀して、政所執事の伊勢貞親、季瓊真蘂等を失脚させる文正の政変を行った。足利義政は、伊勢貞親、季瓊真蘂等を登用することで、専制支配を行おうとしたが、宗全と勝元は、義政の実権掌握を阻止したのである。同年12月には、山名宗全は、畠山義就を上洛させ、八代将軍の足利義政と対面させた。1467年(応仁元年)、畠山政長が、失脚したため、管領は、山名派の斯波義廉となる
その後、赤松氏と山名氏による東播磨を巡る、戦いが、続くことになる。畠山持国には、嫡子がいなかったため、弟の持富を後継者としていたが、1448年(文安五年)、畠山持国は、持富を廃し、庶子の畠山義就を後継者とした。しかし、一部の家臣が、反対し、畠山持富の息子の弥三郎を擁立し、畠山氏は、分裂した。畠山氏の弱体化を狙う、山名持豊は、管領の細川勝元と共に弥三郎派に味方している。最終的に、畠山義就が、畠山氏の家督を継承したが、持豊と勝元の思惑通り、畠山氏は、完全に弱体化した。その結果、
おはようございます。今日は「お香の日」です。よくある語呂合わせの日ではなく、ちゃんと史実に基づいた記念日です。全国薫物線香組合協議会が制定しました。日本書紀の「推古天皇3(595)年の4月に淡路島に香木が漂着した」とあるのが日本のお香についての最初の記述であることと、「香」の字を分解すると「一十八日」になることからです。【香道(こうどう)とは】香道とは、日本の伝統的な芸道で、一定の作法のもとに香木を焚き、立ち上る香りを鑑賞するものである。香あそびということもある。香木の香りを聞き、
画像は室町幕府8代将軍、足利義政です。1441年、嘉吉の乱で将軍、足利義教が赤松満祐に殺される事件が発生。これ以降、勢力均衡が破れ、守護大名の発言力が強まる。またこれと同時に土一揆が発生し、山城国内の地侍が主導する数万人規模の一揆で、幕府もこの動きを抑えることが出来ず、ついに徳政令を出す。この流れで室町幕府の権威は急速に衰えてゆく。8代将軍、足利義政は遊び暮らし、政治は混乱する。義政の正室であった日野富子はとんでもない悪女で、賄賂によって
室町幕府第8代将軍足利義政の正室「日野富子」さんについて、取り上げます。どんなイメージですか。ちょっと古い人だと、応仁・文明の乱の原因、悪女、銭の亡者、というイメージでしょうか。もっとも昨今、すこーしイメージアップできてるのではないかと思ってます。「悪女」一辺倒ではない感じ。守銭奴イメージだって、足利義政の政治感覚のなさ、高度に発達した貨幣経済などが、彼女をそうさせた一面があったと。つまり、根っからの金の亡者だったわけではないということ。また、嫡子義尚を将軍にするための富
鉄道博物館?哲学の道にしたら足利義政さんよ金閣寺は?姪っ子ちゃんどうぞうーん?お勉強なさいよ足利義満さん義政さんのおじいさまよへーー
…に倣って「東山殿(銀閣寺)」を造立した将軍は?室町幕府8代将軍「足利義政」である。義政の執政期には、彼自身の後継者問題に端を発して応仁・文明の乱が勃発するなど、室町幕府体制は大きく揺らいでいった。一方、義政は芸術・文化に造詣が深く、その功績は大きい。晩年の義政は東山の山麓に自らの山荘としての東山殿を建てた。これは義政の死後、禅宗寺院に改められ、慈照寺(銀閣寺)となった。観音殿(銀閣)東求堂同寺には、義政時代の建物として観
この日に西の方に向かうと、幸運に巡り会えるんだそーでちゅ!まぁ、もちろん…2(に)4(し)の…うっほっほ!ご・ろ・あ・わ・せ!ちなみにきょうは…いやーん!銀閣寺の日…でもあんでちゅー!銀閣寺…正式にゃ『慈照寺』だそうで…なんでも1482年のきょう…8代将軍の足利義政さんが、京都東山に…おっ建てマンボぉ!当初は金閣寺にならって銀箔をはる予定だったんだそーでちゅ!西日本で行ってみたい場所は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう
★第二十七代安閑天皇は奈良時代の天皇です。御名は勾大兄尊(まがりのおおえのみこと)、広国押武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと)。御父は継体天皇、御母は尾張連草香の娘、目子媛(めのこひめ)。継体天皇には皇后との皇子、天国排開広庭尊(あめくにおしはるきひろにわのみこと)、後の欽明天皇がいましたがまだ幼く、長子である兄の勾大兄尊が皇太子となり即位されました。勾大兄尊は幼いときより器量が優れ、寛大で人君にふさわしい人柄であったといいます。皇太子の時も天皇をよく補佐されました。
【食育クイズ:Vol.1168】「京都府」の「銀閣寺」おさらいクイズ!「銀閣寺」を説明した4つの文章で間違っているのは?∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞【食育クイズ:Vol.1167】(「京都府」の「具足開き(鏡開き)」おさらいクイズ!「鏡開き」で餅を割ると言う表現は何故出来た?)の↓↓↓↓↓↓正解と解説↓↓↓↓↓↓【解説】「鏡開き」には、3つの「NG(してはならない)行為」がある事で知られています。その一
•••••cut•••••プロジェクトメイクオーバー、、やらないときは本当にやらないのですが、1度やりだすと時間がどんどん消えていく、、笑😀私以上にやり込んでいる友達も言っていたのですが、同じステージで苦戦しててもそのうちクリアさせてくれるので良心的だなぁと•••••cut•••••・1490年(延徳2年)1月7日、足利義政が亡くなる→室町幕府8代将軍・足利義政は、政治には関心を持たず、建築や美術に夢中だったともいわれています。彼が建てた慈照寺の銀閣は、東山文化を代表する建物です•
【きょうの人】0107■足利義政銀閣寺を建立■前島密一円切手の肖像郵便制度の父■宗峰妙超生誕(大燈国師)独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。■足利義政銀閣寺を建立1436年1月2日~1490年1月7日。室町幕府第8代将軍足利義政。銀閣寺の建立でその名が知られています。【Wikipedia】足利義政(あしかがよしまさ)
「足利義政」応仁の乱を起こしながらも銀閣寺で茶を嗜むみなさん、おはようございます今年も一週間が過ぎましたお休みの方は運気を立て直すのがいいですねさあ、今日「1月7日」の國史を学びましょう「足利義政、没」延徳元年(長享3年、1489年)室町幕府8代将軍の足利義政は暴君であった義教(6代)と幼年将軍であった義勝(7代)の不慮の死により8歳で将軍に就任します父・義教の圧政への反発から土一揆の頻発や南朝による反乱がおき社会は混乱に陥っていきます