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Permobil(ペルモビール)社のF3Corpus(コルプス)に試乗しました。説明を受ける時間を含めて約5時間、約7km良く知っている走りにくい道を走りました。こんな風に電動でフルフラットまでリクライニングしたり、こんなに座面が高くなったり、前傾も出来てしまったりする電動車椅子です。製品概要(約2分)はこちらhttps://www.youtube.com/watch?v=jeR3yjOdN6Q詳細(約39分)はこちらhttps://www.youtube.com/watc
◎FostexFE208-Sol限定20cm径フルレンジユニット標準価格:¥35,000(税別)/1台2017年9月下旬販売限定300台※)2017年末追加販売○--Solの継承圧倒的なDレンジ--Sol特徴の2層抄紙ESコーンと低歪み磁気回路と、1996年発売の6N-FE208SSの設計思想を融合したバックロードホーン専用に特化した20cm口径フルレンジスピーカーユニット。●2層
やっと連続メンテナンスが終了しました。過酷な連続メンテナンスでした。台数を変に増やすと地獄が待ってますね。もう二度とリールなんて買わないと思いました。今回のメンテナンスでは特にカシータスMGLの樹脂フレームには驚かされました。超スカスカです。一応はねじれや歪みにはある程度の剛性を有しているとは思いますが、このリールに対しては所有感はあまり期待しない方がいいです。昔、アンタレスやコンクエストの開発を担当した村田さんが、「アンタレスやコンクエストは機械式時計のような所有感のある大人のア
一昨日のカフェと何が違うか。私がファンでよく行くスターバックスコーヒーとは何が違うのか。考察してみました。やはり最も違うのはスターバックスは「どういう想い」で作られたかが明確に存在しているからだと思います。何か商品やサービス、店舗を開発する時にどういう想いで、どういう哲学で作るか「設計思想」という言葉があります。スターバックスにはサード・プレイス…コミュニティにおいて、自宅や職場とは隔離された、心地のよい第3の居場所という設計思想があります。スターバックスの価値規範
フォーティーン久々のステンレス系アイアンヘッドのアイアンとなるのがTP766ですねST-22(スーパーソフトスチール)は調整可能との事ですしかしまあ~ストロングロフト化も留まるところを知りませんねやりたい放題し放題もう番手表示なんて意味が無い時代でしょうか超ストロングロフトヘッドに軟鉄が使われないのは、使っているうちにどうしてもヘッドが開いていつしかロフトが大きくなってしまうからかもしれませんがさてT22はそのスタビリティーについていかがなもの
ピレリのロッソ2(Hレンジ)のエッジ余裕、そしてRS10(Hレンジ)やS20EVO(Hレンジ)のエッジべた接地っぷり、現実にその差を見てしまうとタイヤメーカーの設計思想を妄想したくなります。緑の線が路面、下にはみ出している部分はつぶれていると思ってください。ほぼフルバンクで車重+体重+コーナーリングフォースがタイヤにかかってトレッド面がつぶれている状態です。まず、ロッソ2のエッジの使われ方はバイアスのIRCRX-01,RX-02も似た感じだと思います、ということはロ
「シャノンの第一定理に関する経験談」1)テーマ「シャノンの第一定理が、具体的に経験上で役に立つ」1-1)基本システムの考察(注1)に関するモデル作成として役に立つ1-2)データとノイズに関する基礎事項として役に立つ(ルーチンワーク的な開発業務の中では必要性を理解しにくいが、オリジナリティの高い、新製品の研究開発の立場で考えると、研究の視点(注2)としてとして大変有効注1:例システム開発に関するオブジェクト
M1エイブラムス主力戦車は米陸軍で長く使われイラク戦争・湾岸戦争で活躍した歴戦の戦車である。ロシア軍の新しい設計思想で生まれたT-14戦車に対抗する戦車の開発か・・・・。以下産経ニュースより転載【ワシントン=黒瀬悦成】米陸軍のミリー参謀総長が次期装甲戦闘車両の導入に強い意欲を示している。ミリー氏は27日、ワシントン市内での講演で、陸軍が配備中のM1エイブラムス主力戦車やM2ブラッドレー歩兵戦闘車の後継となる「機械化歩兵や戦車(部隊)のための陸上装甲プラット
こんにちは成田ですあまりこういういい方はしたくありませんが大きな仕事、小さな仕事、、やはりこう表現せざるを得ません。小さな仕事で言えばお茶出し、コピー取り、資料集め、議事録録り掃除、会議準備など、お茶出しなんて今時あるの?って思いますが、いまだに中小企業では普通にあります。それに、社長にお客さんが着たときなんかは会議の部屋にお茶を持っていくこともあるでしょう。大きな仕事と言えば、僕らでいえば、製品の構想設計、回路設計や製品全体のハ
余裕がなくて、休業していたロッドビルドを再開!紫電も、風切羽も、基本的にウチの全ての竿は自分の引き出しを形にしたものであり、自分の欲しいものを作った俺専用機。もともと販売の予定は無かったのだけど、一部のお客さんからの熱い要望により、受注生産を始めることに。世に出回っていない設計思想なので、要らない人には要らない竿だけど、方向性が一致したユーザーさんからは高い評価をいただいております状況に応じて小回りが効くのがHJ工房みたいな小さなメーカーの強み。今回はオーダーメイド。お客様と打ち合わせ
そんな感じで、アコウをこよなく愛する瀬戸内アングラーEさん×HJ工房のヒゲ研究所はスタートした。今回は前回とはまた違った設計思想のヒゲだ。ラバーを進行方向に向けると、動かすと、ラバーはワーム頭部方向へ止めると時間差でユラ~っと戻ってきて、元の角度へワームは止まってるのにヒゲだけ動くってことは、ボトムステイ時に見切られ難いかもしれないヒゲの長さや張りで復元速度が変わるはず・・・HJ工房は超酒巻研究所と提携しているため、大型水槽でアコウの生態を目で見ることが出来る。アコウって気持ち
目次>論拠>wiki_architecture,1512050110,2017/5/26アーキテクチャとは、ここでは設計思想という意味で使っていますが、今回、ふいにWikiのシステムアーキテクチャを再評価することになったという話です。まとめサイトへ情報提供しているうちに、wikiのシステムについて改めて考え直しました。ネット上にある様々なWikiサイトはWikiPediaのシステムを流用していて、Wikiクローンと呼ばれています。WikiPediaは百科事典の英名エンサ
仮想が生み出すもの人間が発達させてきた仮想化する能力ですが、コンピューターの黎明期から仮想記憶などで設計思想に取り入れられていたと聞くと意外かもしれません。現在では、シミュレーション、エミュレーション、VR(仮想現実)、AR(拡張現実)、MR(複合現実)、SR(代替現実)など仮想と現実を繋ぐ多様な技術に進歩しているようなので仮想をテーマに考察していこうと思います。●仮想考察に入る前に言葉について整理します。「仮想」とは、実際には、ない物事を仮にあるものとして考え想定することです。「仮想
●最後の住いこの減築が恐らく私達夫婦にとって最後の住いになると思い、老夫婦が健康でいられる限り快適に過ごせる家の姿を考えてみた。老後住宅と言っても、基本的なライフスタイルが変わるわけではない。ただ、徐々に進む体力と記憶力の低下をどこまで建築設計がカバーできるのか。という挑戦でもあった。●全体の構成この家は今後妻が一人になってもスムーズな生活を続けられる家を目標にした。そのためには、面積を半分に縮小しても40年住み続けた家と変わらない動きができる家を造ろうということを第一に考えた。
夫婦共に古稀を超え、この家の維持も老夫婦には重荷になってきた。そこで思いきって半分に減築しようと考えだした。私が学生時代から兄弟のように付合ってきた友人で、シカゴに50年以上住んでいる荻野敏雄夫妻に我家の減築構想を話したところ、彼等も日本に別荘を持つことを検討していた、とのことで、話しがまとまり実行することにした。
●主寝室旧祖母室だった8帖の和室をそのまま使い、納戸・押入等の収納部分内部を整備した。結果として収納に囲まれた部屋になったが、これでも足りずDIN部分にもはみだした、収納は多いほど良いと思う。ベッドはツインベッドを予定していたが、当面旧宅のベッドを使った。●子供室子供達が小学校の低学年だったので、昔の私の部屋を二人の子供室にあてた。数年後、長男の中学進学を期に、ファミリールームを削って2室に分けた。子供室は子供の成長にともない、必要な家具等も変化する。我家は二人の男児だったか、女の子
ワークスペースに隣接する和室と廊下を合せたファミリールームにした。ここは子供達の成長に伴い利用形態の変化が予想されるので、内装は既存の天井壁を塗装するにとどめた。終戦直後、進駐軍が接収した邸宅を米兵がペンキで塗りたくっていたのをみて、父が大憤慨していた。それを思いおこし、躊躇もあったが、やむを得なかった。椅子は知人から譲られた戦前からの家具、本棚はダンボール家具を用い、色だけを合せた。写真は改装直後の様子だが、この後記憶にないほど小変更を繰返した。最後には老夫婦二人になったため、スタ
○リビング既存の和室を撤去してワンルームのLIV・DINにした。リビングは既存平面の原型をそのまま残し、新しい家具で全体をまとめた。ソファーは、当時アルフレックスが販売を始めたマレンコを用い、サブとして、コルビジェのバスキュラントチェアーを選んだ。壁天井は布クロス貼りにした。ライトの家具も考えてみたが、個性が強過ぎ、ここには合わないのでやめた。○ダイニングダイニングは和室を撤去しLIVとワンルームにした。ダイニング部分は食事以外に、デザインスタジオとしても使うため、収納
既存のキッチンは、一応の設備はそろっていたが、明治生まれの父らしく家事は女性まかせであったため食器等の収納場所も充分でなく、動き勝手も悪い。そこで全面的に新しくした。水回りの関係上KIT機器の配置は変えなかったが、機能を一新し、独立した部屋にした。フランク・ロイド・ライトはKITを主婦の中心空間としてとらえ、家の中央に配置した。太平洋戦争以前のアメリカの中流家庭は、家事は使用人が行うのが一般的でヨーロッパの価値観が残っていた。ライトはスエーデンの女性教育学者エレン・ケイに共鳴し、女性の社
久々にホイールチェンジ(*⁰▿⁰*)これヨコモレーシングパフォーマーのホイールなんだけどヤバイっす(*⁰▿⁰*)激ヤバ逆反り!!オフ6mmオフ8mm最近はずっとR31のホイールが見た目と精度と設計思想が大好きで使ってたんだけどこれもかなり良い精度出てます(*^ω^*)この子にもピッタリ!(*⁰▿⁰*)但し、残念3mmハブには対応してない( ̄∀ ̄)これはただただ残念の一言でしょう(*⁰▿⁰*)R31ホイールはここも大口径にして干渉も対策してるしね!でも、ヨコモレーシングパフ
この時代は私の仕事も順調に回りだしていたので、事務所も父の会社の間借りから4Fの自宅と屋上のペントハウスに移す、という大移動とリフォーム工事が始まった。●平面計画新居には来客も多いと予想されたため、接客にも対応できるセミフォーマルスペースと、家族だけが使うプライバートスペースに分け、来客時でも子供達がノビノビと過ごせる住いをめざした。具体的には、主婦の部屋であるWORKSPACE(KIT)を中心に、左をプライベート、右をセミフォーマルに分けた。セミフォーマルスペースといっても毎日
1970年に父が亡くなったため、相続の関係上残った家族全員の大移動が始まった。姉夫婦と母は父の住宅に住むことにし、兄は父の老後住宅の隣の木造の1戸建て住宅に住んでいたが、老朽化していたため共同住宅を新築することになり、工事期間中は私が相続した羽沢ハウス1Fの父の家に仮住いし、兄の新居完成後私がリフォームして住むことになった。リフォーム直後の写真1974リビング・ダイニング部分羽沢ハウス1Fの父の家羽沢ハウスの工事中、建築学科の大学生だった私は、工事現場で実習生としてアルバイト
自動車関連の学校教職員として、色々なモノの仕組みや構造が気にかかる。その設計思想や社会への影響力を分析してしまうのもまた、ある意味職業病かのかもしれない。昔は「失敗は成功のもと」と言って「失敗を活かす」ための戒めであった言葉は、今では「失敗はして当たり前」「失敗しなければ成功しない」と言わんばかりに、新技術をリスク管理もなしに市場に出す企業も見受けられる。なんの根拠もなしに『アンダーコントロール』と世界に発信する、無責任な輩が国の代表であるのも、国民として嘆かわしいが、少なくともつくる側は
■建物は命のある有機体だ。建物も多くの生命体と同様に、有機的な存在だと思っている。住み人と共に成長し、変化し、減衰していく。リフォームはその過程の中の脱皮だと思う。昆虫のように全く姿を変える生物もいれば、哺乳類のようにゆっくりと、成長・変化する生命体もいる。建物のリフォームは、生命体の変化の過程の1つと考えている。■リフォームは必要最小限に留める。予算の関係もあって、最小限のリフォームに留めざるを得なかったが、これが良い結果を生んだと思っている。建物は全て目的をもって建
LIV・和室写真①和室からDIN方向を見た写真だが、グリーンDINテーブルの奥がKIT・ユーティリティーを合せた主婦のWORKSPACE。障子は庇の無い南窓からの日照がきつく、朝夕は畳まで直射日光が入り過ぎるための対策と、和室と雰囲気を合わせるためだ。LIVの家具は動かしやすいジャクソンのキャンバスチェアー、DINテーブルは長大作のデザインを選んだ。写真②当時のマンションにはまだ必ずLIVに隣接した和室が残っていたが、父が設計したこの家にも和室があった。これは昭和8年生ま
写真-①玄関ホール正面にはガラスドアーが付いていて光りを玄関ホールに導いていたが、逆光になりホールを暗く感じさせていた。このガラス戸をパネルで塞ぎ、照明壁をつけたことで、玄関ホールを家に入る最初の空間として認識できるようになった。玄関踏込み部分の右壁には電盤等が露出していたため、部屋性を高めるために建具で隠した。写真-②玄関LIV入口玄関ホールのドアーを開けるとLIVとDKの中間に入り、南の連双窓からの圧倒的な光り溢れる空間に入る。しかしこの空間は天井が梁で二分されていたため
ミノル・ヤマサキ事務所でのワールド・トレード・センターの実施設計が終わり、引続き設計監理に従事するため、永住ビザを申請中だったが、ヤマサキ事務所の情報で、次ぎのベトナム戦争のための徴兵にひっかかるとのことで、急遽帰国した。DETRITARTS&CRAFTSの工業ザイン学科で学んでいた婚約者の紀美代の卒業を待ち、11月に結婚をきめ、新居を探すことになった。私の結婚を期に父親が老後住宅を、隣町の氷川町(現、渋谷区東)の長男の家の隣の土地に、私の設計で新築し、姉が両親に替わり1Fに移り、私
現在スミス邸は、一人息子のボビーが彼の若い死の直前、MELVYNMAXWELL&SARASMITHFOUNDATIONを設立し、アメリカ合衆国国家歴史的登録材(NationalHistoricPlaces)として保存させた。ボビーがロサンジェルスで成功し、TV会社のオーナーになっていてので、彼等がMYHAVENと呼ぶ家族の象徴だったこの家は、両親の死後は住み手がないまま放置され、崩壊寸前だった。ボビーは1998年に、完全な修復を行い文化遺産として残すことにした。私も家