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大学受験が全部終わり、滑り止めの1校の合格通知を既に手にして、他の大学の合格通知を待っていた2月のある日。「あんた、車に乗りなさい。」母に命令され、買い物の荷物持ちでもさせられるのだろうくらいに考えて、車の助手席に乗った。母の運転する車は無言で走り、スーパーのある駅前を通り抜け、線路を超えて、グングン走り続ける。「どこに行くの?」母が新聞のチラシをグッと押し付けてきた。アルバイトの募集のチラシであった。その中の1つにサインペンで丸が付けてある。「これから面接に
おはようございます!😃✨心技体にバランス良く取り組み自分オリジナルの素敵な声が出せるようになる✨ハッピー⭐️ボイスレッスンの楢崎まさひろです。🌈✨✨✨✨✨✨✨歌を歌うことでその人がその人として輝くためのお手伝い🍀☘️🍀☘️🍀☘️________5/21に行われたチャリティーコンサート寄付金の額をご報告いたします。皆様の参加費合計から諸必要経費を引いて24000円に決定いたしました。✨⭐️🍀
最近Twitterで、「毒親育ち」で「繊細さん(HSP)」です。みたいな自己申告が多くて、???だった。そのうち、繊細さん(HSP)診断みたいなのが出てきて、まあ、案の定私、バリバリの繊細さんに認定されてしまったww繊細さんという「枠」は、親から虐められた可哀そうな私・・・という面で自分をとらえた時に、とても居心地がいい言葉だと思う。だから、毒親育ちはその言葉に群がり、医者は、5分の診療時間で患者を回すためにくどくどと話し続けるメンタルを病んだ患者に優しい声で「あなた
三頭山へ山登りに行ってきました登ったのは500mほどの高さでしたが、ゼーハーが止まりませんでした(笑)今一緒にいる彼のことこの彼なのですが最初のほうは、優しくて理想的な人だなぁと思っていたのですが最近になって天邪鬼がひどいのとこれまでも、私が「○○に行こうよ」と言ってもまず初めに「え~」みたいな返答が来ること話をまじめに聞いてくれず、すぐ茶化されること他にも思い当たることがいくつかあり・・・・・
兄家族が来た。ソワソワしたり落ち着かなかった。何で私はこうなんだろう。いつまで逃げれば良いんだろう。何か、兄を見る私の心は怯えている気がした。小学生の時の自分に戻った感覚。****録画したテレビを見て気持ちを沈めてた。動悸もしてきて薬飲んだんだけど楽になったのはほんの一瞬だけ。落ち着かなくてカフェに来た。図書館もいいけど、何か落ち着かなそうで止めた。今日行ったカフェは大人しか入れない所で落ち着いた雰囲気で良かった。また来よう。
*まゆの自己紹介*・ナリ心理学認定心理アドバイザーナリ心理学HP・アラフォー・シングルマザー高1高3の娘と3人暮らし・看護師・元被虐待児・摂食障害&パニック障害克服・自己紹介詳細はコチラ被虐体験談最初から読む方はこちら↓『母子家庭で虐待されてた話①始まりは3歳』*まゆの自己紹介*・ナリ心理学認定心理アドバイザーナリ心理学HP・アラフォー・シングルマザー高1高3の娘と3人暮らし・看護師・元被虐待児・摂食障害&パニ…amebl
*まゆの自己紹介*・ナリ心理学認定心理アドバイザーナリ心理学HP・アラフォー・シングルマザー高1高3の娘と3人暮らし・看護師・元被虐待児・摂食障害&パニック障害克服・自己紹介詳細はコチラ前回の話はコチラ↓『母子家庭で虐待されてた話⑯母親へ抵抗する』*まゆの自己紹介*・ナリ心理学認定心理アドバイザーナリ心理学HP・アラフォー・シングルマザー高1高3の娘と3人暮らし・看護師・元被虐待児・摂食障…ameblo.jp今日は
私の一番最初の記憶は、3〜4歳の頃、母の実家での記憶である。その時、母や伯母達、祖母などの女性陣は台所仕事を皆でしていた。私はたまたま台所に面した居間の台所の入り口のところにいたが、昔の地方の家なので、なぜかわからないけど、屏風のようなものがあり、屏風の陰に幼い私がいることには大人達は気づいていなかった。その時、母が言った。「他の(自分の)子はかわいいけど、香織はかわいくない。」そのあと少しザワザワして、誰かの声が聞こえた。「そんな…。香織がかわいそうだ。」夕方だったので、居間は暗
今日でカウンセリング終了…必要無くなったんじゃない。施設保護されている子だから中学生までしか受けられない…4月からは高校生…なので今日で最後なのです。確かに年齢が上がるとだんだんと友だちとの約束やクラブ活動、塾などで忙しくなって、忙しくなっていく子はカウンセリングがだんだん不要になってきてるという証。でも家庭がない保護されてる子達は、頻度は減っても時々は昔からのつながりを確かめにくることが必要な時があるのです。が、そこはいろんな縛りがあります。まして、私はもう病院勤務ではないので、
はじめまして。新名香織(ペンネーム)です。私は、自分の実母のことをかなり大きくなるまで継母だと思っていました。兄弟と私へのあからさまな待遇の違いと私への差別の仕方が、子供が読む物語にでてくる「継母」という存在の行動様式によく似ていたからです。しかし、中学生になって間もないある日、偶然戸籍謄本を見て、継母ではなく実母だとわかり、衝撃を受けました。それまでの私は、いつか「本当の優しいお母さん」が迎えに来て、悲惨な家庭環境から救出してくれるのを夢見て日々を過ごしていました。さすがに小学校高学年
連日のエホバの証人への糾弾報道で心が疲れている方へ、、、たぶん、まだエホバの証人組織による、長年の洗脳が完全に解けてなくて、かつて所属していた組織に対する、なにか憐れみに似たような感情のしこりが、心のどこかにあるのだと思います。この感覚はいったい何なのでしょうか?自分なりに分析してみました。エホバの証人組織は、明らかに極悪で打倒すべきなのに、同組織に極めて長い期間ずっと抑圧されてきたせいで、心のどこかで萎縮している事に気付かされます。それで思い切り「カルト組織は悪だ」と主張することが難し
私が中学生で、中学校から下校した時の事。私は何かを急いで、走って帰宅した。自宅で内職をしていた母は、私に「あぁ、あんただったの?遠くから凄い足音で家が揺れてたわ」と、言って笑った。内職の手も止めずに。私は傷ついた。は?私が太り過ぎだって言いたいの?本当に家が揺れたなら、付近の地盤調査と家の耐震調査も必要だと思いますけど。でも、傷ついたことを表現すれば、母は逆上して殴ったり、さらに酷い言葉で攻撃してくる。それはいつもの事だから。母は何事も無かったように作業を続けていた。私は
私が小学2年生の夏、痴漢にあった。自宅近くの公園で、ラジオ体操をした後だった。その日は珍しく、1人で帰宅していた。30歳前後の男が、加藤さん宅から出てきた。男は、私に「おはよう」と声を掛け、道沿いのガレージのシャッターを背に私を立たせた。「ちょっと触るけど大丈夫だからね」そう言って、私の服の中に手を入れてきた。胸を直に触って、「こっちはまだか…」と言った。今度はパンツの中に手を入れて、直に股間を触った。長かった。体感では30分くらい。触られている間、私は何も喋らなかった
私は父親が大嫌いだった散々虐待されていたし支配されていたしさっさとタヒねとしか思っていなかった父親が亡くなった時やっと解放されるんだと心底喜んだのに父親が希望した音楽葬で流れた曲が私の好きなものに溢れていてびっくりした今の私の基礎を作ってくれたのは良くも悪くもいや、悪いことだらけだけどクソオヤジだったんだオヤジみたいにはなりたくないでも少しだけ血を感じるのは仕方ないのかなーリストの愛の夢物心がついて1番最初に好きになった曲でしたペラペラのピンクのレコードがクタクタ
虐待の思い出(1)普通の人間になれないキメラなみんなへ。対刃物はダメだけど殴打系にオススメの最強の防御。今回の日記は特に難しい心理学とか脳科学とかじゃなくて、なんか、ふと思い出したので綴ってるだけなので、フラッシュバックしそう。追体験しそうという方は見ないでください。文章的にはいつもよりユルフワです。(人への配慮が足りないわかりづらい文章しか書けないので、いつも本当になんかすみません。)さてさて、なかなか自分の事は書いてませんが…私は暴力、拳や足や物を使った犯罪を家庭内ってだけ
小学生の思い出。とても昭和の高度成長期以降とは思えんくらいウチは貧しかった。もしかしたらこの時私は2重に傷ついていたのかもしれない。毎日生きることだけに必死だったあの頃は感情を言語化する術も持たず言われっぱなし、やられっぱなしだった。当時の年齢や時代を鑑みてもしかたのないことかもしれんが、この時初めて『あ、ウチって周りからそーゆー風に見られてるんやな』と第三者の目を自覚したのは覚えてる。大人の階段登ったなぁ、とガキなりに思った出来事だった。
新宿のよく見かけるやつ30日はデートでした・・・♡2023年もよろしくお願いいたします!!さて、10月にバセドウ病が発覚し、先生に「被虐の慢性的な過緊張状態」と言われて自分が「被虐待者」「異邦人」ということはわかっていたけど母が私の気持ちを汲んでくれなかったことそれを、改めて「虐待」だったんだと感じ直す・・・私は目に見えない虐待を受けていた母は私のバセドウ病のことに何の反応もないそんな母のもとでずっと緊張して生きてきた「
私の、今年一番のhappyな出来事は「母を許すと決めた事」です。『私を2度捨てた母/でも、私は激しい虐待の全てを許すと決めた』何年も前だけど、私は癌を患った。手術をする前に、抗癌剤点滴をした。坊主頭が、けっこう似合っていて「可愛らしい尼ちゃん」みたいだった。見てくれが坊主なので、母に…ameblo.jp私は確かに、被虐対児でした。⚠️🆘️母は、「毒親」であったと思います。でもそれは、もうすべて、過去の出来事です。過去に足を取られて、全て過去の因果応報「こうなったのも、生育歴のせ
行ってきましたー。前回ほどボロクソには言われなかったけど(..)『私は人の気持ちが分からない』息子を幼稚園に送って買い物行って小学校のカウンセリングルームへ行ったらもう11時で息子のお迎えへ。今日のカウンセリングはしんどいでした。ので、箇条書き的な書き…ameblo.jp⬆こういうことがあって以降スクールカウンセラーさんとのお話を断ることが増えたこともあってか心配していますって。担任の先生が。あの子(娘)と日々暮らすと思ったら・・・相当辛いと思いますって、まあ言
PayPayのヘビーユーザーの私だけど、QVC・ショップチャンネルやネットでの買い物などはメインカードを使うし、結構ポイントが貯まります。1万円分のギフトカードが届きました。少ないけど、スーパーでの買い物に使おう❕年老いた毒系親御さんにお困りのあなたへ。私の場合、縁を切るまでいけたからこそ今の平穏な暮らしがありますが、通常は介護がやってくるんですよね😢いつも本当にお疲れ様ですm(*__)m私も家を出るまでは、毒母の言動に神経をすり減らす事ばかりでした💦毒親エピソードは、2015年
最近、連日のように毒親の話を聞くので、ウチの話をひとつ。アル中、暴力父。弟は父の暴力からかばうが、私には暴言を吐く母。私は幼稚園に入園して、びっくりしたことがあった。他の子は、お母さんと手を繋いでる。なんで?お母さんに捕まえられてるの?と思ったら、むしろ、子どもの方から嬉しそうに、お母さんに手を差し出している。え?君はお母さんに持ってもらわないと歩けないの?いや、お母さんがいない時は、普通に歩いてたか…。数日、悩んだ。愛を知らない子どもだったから。答えが出ないまま、ある日
何年も前だけど、私は癌を患った。手術をする前に、抗癌剤点滴をした。坊主頭が、けっこう似合っていて「可愛らしい尼ちゃん」みたいだった。見てくれが坊主なので、母には病名は、知らせていた。従姉妹などから、私が坊主だと聞くことがあるかも知れないから。でも、手術をする病院も手術日程も母には、知らせなかった。母を頼らない、アテにしない、言わない。それが、私の復讐でもあった。その頃の私は、母への激しい憎しみを心の中に、常に隠し持っていた。手術を終わり退院して、少し落ち着いた頃彼から、
トラウマセラピストの花丘ちぐさです!以前、ポリベーガル理論の講座を開催したことがあります。「謎が解けた」「わかった」といってもらえたのがうれしかったです。ポリベーガルの講座の記事と、不安型愛着障害の記事もいろいろ書いていますので、ぜひ、読んでみてください。愛着障害について、被虐待児の立場から書いたときに、「私が辛い理由がわかった」「イヤだといっていいんですね!」と感動のコメントももらうのですが、一方で、子供にもやってしまっています。とつらい思い
不登校の子どもさんを持つ保護者Aさんの相談を受けた電話すらほとんどしてこない担任に保健室登校やカウンセリングを勧められ「それができない・・・からこそ苦しい・・・」ひどく傷ついていた虐待サバイバーのBさんは中学校の担任が被虐待に気づき7年間に及ぶ凄惨な虐待から救われ兄弟と共に保護されたらしい今までの担任や他の兄弟の担任は気づかんかったんか???子どもの異変に・・・気づく・気づかない異変を察知して・・・動く・動かない先生個人の質が子どもの人生を大きく
大学行く準備しようと思って、洗面台に来たら、洗面台が血だらけなんだけど…なんでぇ…この間ちょっとだけ切ってしまった左手首をさらに切ったか!?と思ったけど、切れてない。意味わからんし…もう死んでしまいたいもう死にたいもう死にたいもう死にたいこんなの苦しすぎるもうやだ…
寝ようとしてもいろんなこと考えちゃってどんどん落ちて眠れない。また眠れずに朝を迎えるの?病院に、実習もあるのに?私の周りは優しい人がたくさんいるのに、'普通'の人ばかりなのにどうして、私の父親とお母さんはこんなにも、普通じゃなかったんだろうって考え始めてしまったのがアウト家庭内殺○が起きてから、沢山の不自由があったのは仕方ないけど、それまでの話、どうしてお箸の使い方を教えてくれなかったんだろう?どうして給食費を払ってくれなかったんだろう?どうして暴力ばかりだったんだ