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茶王!まぁすでぇございます。先ほど、嬉しいニュースが飛び込んできました。本日のストラーデビアンケの実況に我らが藩士である木下さんがもどってきます。どうでしょう藩士の方々にはお馴染みのカイガーラノヨウナオオギィーガタのカンポ広場がゴールのレースです。そして、木下さんのツイートにはしっかりとこの名言が刻まれておりました!ふじやん!嬉野先生!大泉君!ミスター!こんなところでもひそかに盛り上がっているなんて知らないだろうねぇ。「知らねぇなぁ・・・」という声が
本日は、よみうりカルチャー横浜の講座です。教室では充分な配慮をしておりますがご参加の皆さまも、マスクは忘れないでくださいね久しぶりに、たっぷりと新選組のお話をしますよ講師の座席前にはシールドが設置されているそうですがさらにマスクも着用しておりますからねさてさて、表題の「カッシーの幽霊」のお話。私のブログの読者さまで、高台寺党を調べていらっしゃるJeffrey(BLUEROSE)さまから、「カッシーのオカルト話」があると、教えて頂きました以下、コメント文です
「義民」2人たたえ法要江戸期、税免除の特権守る神戸新聞江戸時代に三木の税免除の特権を守った2人をたたえる「夏の義民祭」が18日、兵庫県三木市本町2の本要寺で営まれた。来賓ら約20人が参列し、遺徳をしのん...色でしくじりゃ~女色に迷い転封された大名・井上正甫(まさもと)【にっぽん歴史夜話29】serai.jpたちまち江戸中の知るところとなり、幕府としても捨ておけなくなった。折しも、のちに天保の改革を主導する水野忠邦が、領地である唐津(佐賀県)からの転封を願い...名古屋
私の地元の八戸藩の地方知行のある藩士の日記を読んでると。八戸藩は地方知行制をとっておりますが。その藩士、知行地内の年貢未進の百姓から子供を小者として取り上げ、召し仕いにしてる(八戸の歴史双書「江戸期八戸の日記集」p400)。藩士に武家奉公させているということですね。近世前期ならともかく、宝歴3年という、このころに、というのが意外です。悲惨なように感じますが、これも紛れもない江戸時代の姿の一つなのです。
こんにちは!skyLetです('∇')本日7月7日はうれしーこと嬉野雅道先生の誕生日です。お誕生日おめでとうございます(^ω^)昨年は「還暦を祝う会」に参加しましたが、あれから1年経つんですね。早いものです(´∇`;)毎年藤やんとうれしーにはキャラバンや北海道物産展のイベントでお会いしていましたがコロナの影響で今年は会えるかどうか…(=д=)七夕に例えるならうれしーが彦星で我々藩士が織姫(笑)今は無理でも今年中に一度はお会いしたいものです(^ω^)それでは、また(o∇n)!
執筆ノート『5人目の旅人たち──「水曜どうでしょう」と藩士コミュニティの研究』三田評論ONLINEより「先生、ネットに面白い掲示板があるよ。こういうの研究したら」と学生に言われたのは18年位前。当時私は短大の情報社会学科でデータ解析を教えていた。ネットはようやく日本語のサイトが出てきたがその大半は「ある」だけ、更新もされなかった。だから社会心理学者としては大して興味が持てなかった。だが教えてもらった掲示板は妙に可笑しい。TVの番組制作者が視聴者からの投稿を頻繁にupしやり取りする
大阪と名古屋のいがみ合い、東京に煽られ踊らされた悲しい現実Yahoo!ニュース本誌・週刊ポスト『逆説の日本史』シリーズを連載する名古屋市出身の作家・井沢元彦氏が指摘する。「大阪を大きく発展させたのは豊臣秀吉です。大坂城を築い...【著者に訊け】清水潔氏鉄道で戦争を辿る『鉄路の果てに』auone.jp最終的には『我々は日本の近代史も周辺国との関係も意外に知らない』というところに着地することになりました」.ちなみに...日本の歴史認識は信用されていない.沖縄への熱い思
水曜どうでしょうの最新作も各地の放送がほぼ終了。青森と埼玉がまだ途中かしら?私は岩手朝日テレビで途中まで観て転勤となり、最終夜は藤やんの仰る通りにオンデマンドで観たので、第10夜だけ観られない…という状態でしたが、その後、テレビ神奈川で再視聴でき、無事に全夜を通して観ることができました。テレビ神奈川での新作の放送が終わったのが先週の水曜日。ホッと一息ついたのですが、こんなものを発見!テレ朝チャンネル2の新作一挙放送です。いやいや、見たばっか
今日は何の日:6月15日Nippon.comコメの分配を求める藩士に、藩の重役小林虎三郎は「苦しいときだからこそ教育を続ける。今の百俵より次代を担う人材づくりが大事だ」と説いて、コメの売却で得た...伊達政宗の直筆書状良寛記念館に新潟・出雲崎良寛の遠縁子孫が調査依頼47NEWS新潟県出雲崎町米田の良寛記念館で、仙台藩初代藩主・伊達政宗の直筆の書状が見つかった。政宗が茶席に招かれたことに対する返礼などを記した内容だ。「救いようのない語学バカ」伊藤博文の目覚めJBpre
本日はいつも素通りして気になっていた安井息軒記念館に出向いてみました。とても新しくきれいな記念館でした。私達が行ったときは他に来場者はいませんでしたが、帰るときは何組かいらしてました。安井息軒にまつわる展示や書物が沢山ありました。飫肥藩士で蘭学者で著名人だったらしいですね。兎に角、勉強家で学問所で教鞭もとっていたらしいです。天然痘で容姿が醜かったらしく、周りから猿が勉強してると揶揄されていたが、勉強への情熱は負けなかったとされています。39歳で江戸に移住した際も、大豆を醤油で味付けし
<3月12日>青森県三戸町にある「三戸城跡」。高台にある「三戸城」、鳥居の横に建つ「横綱鏡里顕彰碑」、もうひとつ、狛犬の奥に社殿がありました。本殿だけがぽつんと建っている形。「糠部神社」とあります。あまり聞かない名前なので調べてみると、南部藩の藩士が、藩祖を祀って明治時代に建てたものでした。本殿脇に「御神木」があります。「城山の杉」、幹回り9.52m、樹高22m、推定樹齢は800年で町の天然記念物に指定されています。この杉だけが周囲を圧倒するような高さでした
肥後菖蒲は、肥後六花のひとつ。昔は花を育てる事は武士の嗜みでした。同時に潘によっては、大切な財源になりました。肥後菖蒲は、江戸系が多いように思います。肥後六花(ひごろっか)は、肥後椿(ひごつばき)、肥後芍薬(ひごしゃくやく)、肥後花菖蒲(ひごはなしょうぶ)、肥後朝顔(ひごあさがお)、肥後菊(ひごぎく)、肥後山茶花(ひごさざんか)の6種の花の総称。江戸時代から明治時代にかけて熊本藩士とその後裔によって育成されてきたもの。(ウキペデイアからの抜粋。https://headli
ちょっと今回からタイトルを変えてみました。まだお試しのタイトルです。これだ!って言うタイトルが思いつかないので、仮のタイトルで続けることにします。今日は、1日仕事がおやすみでした。昨日も在宅とは言え、仕事だったので何も予定がない、そして何にも縛られない1日で、朝からとても気持ちがよかったです。そんな訳で、午前中は好きな場所に車で出かけ、戻って来てからは家の近所をいつもの様に散策して来ました。昨日は割と近場で終わってしまったので、今日はどうしようかなと思いつつ、でもそれほど遠くまでは行かずに
『明治という国家』-司馬遼太郎●自助論の世界-②木戸は、この間、新島の人物にすっかり惚れ込みました。第一、新島は、文明開化かぶれもしていませんでしたし、アメリカかぶれもしていないのです。このことに木戸はおどろき、滞在中(明治4年)3月22日の日記に初対面の印象として「頼むべき一友なり」と書き、後日(4月1日付)の日記にも、「彼の厚志・篤実、当時軽薄・浅学之徒・濫りに開化を唱ふるものとは大いに異なり、余徒と交わり、自ら旧知の如く、その益を得ることすくなからず、後来、頼むべきの人物也」と書いてい
『極道辻説法』ー今東光●ケンカが一番強かった作家は?✪そういやあ、昔の文壇には、ケンカの好きな奴がうんといたな。一番すげえのが葛西善蔵で、同期生がどれだけ奴に泣かされたことか。宇野浩二、広津和郎、谷崎精二、相馬泰三、みんな泣き通しだよ。すぐ絡んできて、ケンカ吹っかけてきて、それで仲間だけじゃなく、よその人ともやったんだから。宮島資夫なんてアナーキストなんか、ドス持ち歩いて、「今東光を殺す!」とか言ってよ、もううるさいのがたくさんいたね。葛西なんかもオレをやっつけてやるなんて言ってい
友貴の金沢よもやま話加賀のお殿様クイズその3殿様は〇〇が好き?僕の故郷、金沢に関するクイズです。加賀100万石の礎を築いた前田利家は、あることが大好きでした。生涯を通して実践したと言っても過言ではありません。それが加賀藩にとって大いに役立ったのです。しかし、そのある事をしすぎて奥方に叱られたとも。さてそのある事とは何でしょうか?1貯金(貯蓄)生涯かけてお金を貯めた。加賀百万石の礎を築いた経済観念と経営者としての姿が想像できる。2宴会昼は仕事、
『平成経済20年史』ー紺谷典子●小泉政権ー「わかりやすい政治」のまやかし-③✪またもや財政改革ポスト森を、橋本元首相、麻生太郎氏、亀井静香氏と争った小泉首相は、総裁選の最中、「橋本首相だったら大して変わらない。私だったら劇的に変わる」と言い続けた。橋本改革の失敗を踏まえた発言と思われたが、小泉改革は、焼き直しといってよいほど橋本改革とそっくりだった。政権について最初の所信表明演説において(平成13年5月)、小泉政権は、「国債発行30兆円以下」「公共事業の見直し、削減」など、財政構造改革を
連休最終日は馬形(まがと)、現在の豊岡地区にあったという「武家屋敷」をスケッチしました。上の画像は下〜中級藩士の家、下の画像は上級藩士の屋敷のイメージです。この地区は、屏風絵や絵地図では雲や空白で省略されていてよく見えないのですが、丘陵地帯で大きな坂があります。どこもそうかもしれませんが、見晴らしの良い場所の方が地位が高い人の屋敷があったようで…。急な坂を登るのは大変だろうと古今を問わず思います。⭐︎⭐︎⭐︎この「STAYHOME」期間で描
続き私が思うことを書き記します。今年は、コロナウィルスの出現により今まで当たり前と思っていた企業、お店、飲み屋その他、密を避けるため客が来なくなったりで倒産したり企業も個人も国民全体が危機に陥ってる。危機に陥らないのは政治家と議員と公務員ぐらいだろう。民間では経営者も個人も家賃が払えない、食うものがと言う人も増えるため事件も自殺も増えそうである意味そこは心配ですけどそれだけは、したらだめ。これは試されてる。人間があまりにも物質世
『明治という国家』ー司馬遼太郎●江戸日本の無形遺産”多様性”-⑦✪べつの見方でいえば、--長州藩は、書生たちが藩を牛耳って、やること為すことが目茶苦茶だった。四カ国艦隊を相手に一藩だけで戦争をしたり、幕府に両度にわたって攻められたり、あのままでゆけば潰れていたろう。ということが言えます。たしかに長州藩は潰れていたでしょう。薩摩藩が、政略として長州藩に手を差し伸べたから、長州藩は明治維新までこぎ着けることが出来たといえます。手を差し伸べたのは、長州藩は右のように藩内革命をやったものの、
『明治という国家』ー司馬遼太郎●江戸日本の無形遺産”多様性”-➅✪その上、産業立国主義でした。江戸体制は、古来の水田の上に、あぐらをかいています。長州藩は、なにしろ十七世紀初頭に三分の一になったものですから、財政をよくするために積極的に産業に心がけ、たとえば、富農や富商に請け負わせて瀬戸内海岸の干拓をして水田面積を拡大したり、また他の物産の生産にも力を入れ続けていました。幕末において長州藩は、表高は三十六万九千石ながら、実収入は百万石以上あるといわれるようになったのです。またこの藩は、自領の
『明治という国家』ー司馬遼太郎●江戸日本の無形遺産”多様性”-⑤✪長州藩では、他藩にない微妙な意識があります。士農工商を含めて、長州藩は一つだという一藩平等--平等といって言い過ぎながら--そうとしか言いようのない意識があったのです。それは、右の事情に淵源(えんげん)するものです。”自分はいまは百姓ながら三百年前は毛利家のしかるべき武士だった”という意識。士分階級のほうも、百姓に対し、どこか他藩にない遠慮と親しみを持っていました。それが、幕末、この藩が幕府の第二次長州征伐の前後、幕藩体制下に
(文芸時評)元には戻らぬ世界芸術がみせる、現実の生ぐささ小野正嗣朝日新聞堀田善衛の『方丈記私記』(ちくま文庫)はこういう時に読む本かもしれない。1918年生まれの堀田は、20代後半で東京大空襲を経験する。その「生命の危険」、「...「大いに言路を開き、天下と公共の…福井新聞福井藩出身の由利公正が、その最初の草案を作成したことはよく知られている。由利案の第五条「万機公論に決し」は小楠の公共の流れを受け継いでいる。さらに..【新作】佐倉藩に化け物の影!!GPS機能を取り入
奉行職や近習家老の役職には、家老の身分の人しか就けません。仕置役は3~4人の複数の人が就き、合議制で政治を行います。中老、馬廻りの家が選ばれます。その他にも多数の役職があり、其々対応する上級武士身分の人が役職に就いて、藩の政治を支えています。下級武士の白札や郷士は上級武士の下に配され、仕事を行う人もいました。留守居組以上が上級武士(上士)。白札以下が下級武士。藩の重要な役職には身分の高い家柄の人が選ばれ、下級武士が政治に参加する事はできませんでした幕末には下級武士から倒幕思想が盛
『泣きどころ人物誌-Ⅰ』-➅-戸板康二●西園寺公望の家憲について東洋自由新聞の社長になり、やがてジャーナリズムから政界に移るのだが、明治中期の洋行帰りの才人として、ずいぶん女性にもてたといわれる。しかし、そういう点をいちいち「自伝」には述べていないが、女性関係についての話題は、いろいろな形で本に出てくる。そのひとつに、幕末、土佐藩の功臣が祇園の芸者に惚れて求婚した時、この女が薩摩の藩士にのぼせていて色よい返事をしないので、後藤象二郎が西郷隆盛にたのみ、西郷が結局その藩士を国元に返したの
『明治という国家』ー司馬遼太郎●江戸日本の無形遺産”多様性”-①✪薩摩藩、このことについて述べます。その版図はいまの鹿児島県と宮崎県の一部です。七十七万石。大きいですね。いまでは日本の西南隅の一県に過ぎませんが、江戸時代では二百七十藩の中で最も雄大豪華というか、大藩であると共に雄藩でした。雄藩というのは英雄的な気概をもつ藩という意味でしょう。加賀百万石は大藩であっても雄藩とは言い難いようです。雄藩とは、まずその自負心の強さからくる印象だと思います。藩士以下一卒にいたるまで薩人とい
2020年4月白河市は小峰城跡の桜のご紹介ですこの日はご覧のように七分咲きと言った感じでしょうか?ほぼ満開でした。お城に見えますが復元された三重櫓です東日本大震災で石垣が崩落してしまいました全国から石垣が写った写真を募集しパズルのように一つ一つ組み直したそうです表はこの通り綺麗に修復されてますが、北側の石垣は現在修復中ですこれは崩れてませんねこのへんも崩れなかったようです---おとめ桜---「おとめ桜」の歴史白
先日から放送開始したおっさんの大好きな水曜どうでしょう新作。第十一夜(最終夜)を見ました。感想。Bプランの企画。ロケ長すぎ(爆)3年て…そして、予想外の大オチwwwあんなん我々藩士も想像つくわけがない。エンディングのテロップ。やっと主演大泉洋に他十回のあの扱いはね、娘さんも悲しむわ。おっさん、今日も笑いすぎたひとまず、最終夜。まだ次の旅があるらしい。海外だったらしいから、これは非常に気になる。やっぱりどうでしょうさんはすごいね。では、また…
幕末は安中藩五代藩主勝明の時代に実際にあったと伝えられる熊野神社まで碓氷峠を超える30キロ余りのマラソン大会が舞台。本作は、藩主勝明の思いつきから行われることになったマラソンに右往左往する藩士たちの様々な人間模様が1つの章になっています。恋敵と速さを競う者、自身の出目を呪う者など、1話完結のストーリー。そして最終章で、一見バラバラだったストーリーは1つに収斂していくわけですが、最後は完全懲悪的な時代劇演出と藩主と藩士の交流がうまく描けています。これといってストロング