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12月になり同時に一気に発症した症状で頭を悩ます中それは起きた。私が2階で休んでいると玄関から父の怒鳴り声が聞こえた『俺は嫌だからな!俺は違うからな!ここは俺の家じゃない!』私はいつものように父のもとに行くと母にキレる父。母に理由を聞くと昼の情報番組で【認知症患者特集】がいきなり始まりお昼を食べていた父が急に暴れ狂いだしたとのことだった。いつもなら私がなだめれば父も落ちつきを取り戻すのだがその日は違った。私が何を言っても『うるさい!黙れ』と反抗してきた。私もいい加減日頃のストレス
2018年9月~11月に発症した症状父65歳『号泣』→会話の途中で急に感極まって泣き出す『徘徊』→私と母が不在時に出掛け警察に保護された。→玄関に内鍵を付けて私と母が不在時に内側から出れないようにした。『トイレの失敗』→私と母が不在時にトイレが分からず漏らす。またはトイレまではたどり着いたが洋式トイレの使い方が分からず漏らす。ネットに書いてあったトイレまでの誘導線を壁に張り試したが効果なし。『夕暮れ症候群』→夕方になると仕事の頃の記憶が甦り仕事に行こうと暴れだす。父の日頃
昨夜のゴタゴタで安定剤4種類と眠くなるステロイドを飲んで寝たらまだなんだか眠たい。朝からベランダに出た母をベランダの鍵をうっかり閉めて締め出しバンバンバン!バンバンバン!とサッシを叩かれて気づく。頭がぼうっとしてる。鬼のクビをとった母は、「あんた、若年性アルツハイマーやわ。このままやったらおおごとやったわ。私よりあんたがデイサービス行きよ!」私「そうやな病院行こうか」母「行きよ!」あーあ。安定剤飲みすぎでぼんやりしてたんですけど母をベランダに初めて閉め出して(10秒)母から若
同居が始まり母と手分けをしてトイレの介助や寝かしつけ等お互いに負担を減らすように連携して父に対応した。特にトイレの補助はズボンを下ろしたり履かせたり父は『プライド』で自分でやりたがるためせっかちな母には私が居るときは対応させなかった。そして2回目の介護認定も前回の経験を活かしあらかじめ出来ないことをリストアップし介護調査員の人に説明ししつこく確認することをやめさせた。結果は『要介護3』前回より悪くなっていた。しかし、もう私も母も気にかけない。要介護3だろうがいくつだろうが数字と戦ってる
服薬を開始し母に改めて管理をしっかり守るよう釘を刺した。服薬とデイサービスに通い初めて半月ほど経った頃父の口から思わぬ言葉が出た。『トシノリは今日仕事か?』私『え?』『トシノリは今日仕事?』私『え~!』私は驚いた。父の口から『私の名前が出た』からだ。もう父が認知症が進行してから私の顔は分かるが名前が出ないのが2年近く経っており私も父にこれ分かる?という質問をするとキレるのでもう諦めていた。それがある日、はっきりと私の名前を呼んだ。私はひょっとしたら親父はこのままよくなるんじゃな
若年性アルツハイマーのデイサービス問題『地域によるが受け入れ先が限られる』→若年性アルツハイマーの患者数より高齢者の方が多いためか若年性アルツハイマーに特化したデイサービスは思っている以上に少ない『デイサービスのイメージが払拭出来ない』→デイサービス=老人の集まるイメージが父自身に強くある為施設見学に行っても高齢者がいるだけで拒否していた。ケアマネからオススメと聞いたデイサービスは最近新しく出来たらしく少人数受け入れのデイサービスだった。しかし、若年性アルツハイマー特化ではないため利
デイサービスを開始するに当たり段取りの問題『本人に病院の診察を受けさせる説得』→認知症とは伝えずあくまでもデイサービス利用の為に必要なことで通した『担当医師及び介護認定調査員の質問攻め』→本当に認知症専門なのかと疑うほどに認知症患者に対しストレートに質問を投げ掛けてくる。ましてや調査員は本当にこれが正規の質問なのかと国が決めてるのか市が決めてるのか知らないがどうかと思った。介護認定調査を終えた私たちは病院からもらったデイサービスリストを見てまずしたのが片っ端からHPを見ることだった。
これまでの症状『指先などの細かい動きができなくなる』→言われた通りの動きが出来ない(俗に言うボケ防止運動)『見当識障害(中度)』→家の中のトイレの場所や脱衣場等がわからなくなり家の中で迷子のようになる病院の診察の次はいよいよ介護認定調査員による調査だ。私は先日の診察の様子から嫌な予感しかしないので母と私で立ち会うことにした。調査員の方が来た。優しそうな女性だった。そして嫌な予感が即的中した。調査が開始しヒアリングが始まった。質問は先日病院で受けたものと全く同じ内容だった。前
これまでの症状2017年父63歳『短気で暴力的になる』→ささいなことでカッとなり物を投げたり物に当たる『トイレの失敗が多くなる』→トイレが間に合わず失禁するとりあえず病院に予約を入れて本格的に父の通院が始まった。県内の認知症専門の病院で13時から予約を入れていた。最初にMRI検査を行った検査前にトイレを済ませてくださいと言われ父をトイレまで連れていった。『あれ?これどうなってるんだっけ』何やらもたつく父父の元に行くとズボンのチャックの下ろしかたが分からなくなっていた。
お元気でしょうか?日本では異常に暑い日が続いているようですね。”異常な暑さと地震は関係がある”という見方もあるようですので、2週間分の水、食料、燃料や、赤ちゃんやご病気の方がいらっしゃるお宅では必要なものを買い揃えておかれるとよいかと思います。カナダのアルバータ中部は、平年よりも1週間ほど遅れて春がやってきました。今、タンポポやリンゴの花が満開です。これはクラブアップルで、野生種に近い小粒のリンゴです☆3月に高齢の友人が
これまでの症状2015年~2016年父61~62歳『字が書けない』→字が昔と違う覚えたての子供みたいな字体『日常的動作が出来ない(中度)』→服のボタンの掛け違い→服の正しい着用2016年父62歳の時ある日妻と出掛けてるときの会話妻『お父さん早く病院に連れていって薬を飲ませた方が良いよ!』私『……そうだな。』妻『もうお父さんが認知症って認めてるんでしょ?お母さんじゃ多分病院連れて行かないから色々大変だけど声掛けて連れて行ってあげて!』しかし、この会話から実際に病院に
ランキング2位になって普通に嬉しい〜😃お読みくださりありがとうございます💛若年性認知症カフェらくカフェrAkucafe来てね〜😉
これまでに出た症状2015年父61歳『早歩き』→周囲に目をくれずひたすら歩く『判断力の低下』→メニューを自分で決められない→面倒くさくなり他の人と一緒がいいと言うようになる『食べ方が変わる』→食べ方が汚い、箸やフォークなど扱いが下手になる以前から母から相談があった父の携帯の解約の為店舗に訪れた。店員『解約には本人直筆のサインが必要です』私は次の瞬間驚いた母『本人が字が書けないんですけどダメですか?』私『え、親父字が書けないの!』母『そう』父は昔から達筆に入る字の
これまでに出た症状2013年~2014年父58歳~59歳『日常的動作の物忘れ』→車の鍵が開けられない→車の駐車がまっすぐ停められない『外出拒否及びイヤイヤ病』→誘えば誘うほど頑なに拒否する。『軽度の見当識障害』→自分の居場所がわからない相変わらず高校野球以外で外出をすることはなかった父だったがある日驚いた。どうせこないだろうと思い母に県外へのアウトレットドライブを誘った。当日迎えに行くと妻『今日もお父さん来ないよね…。』私『だろうね』しかし玄関を開けて出てきたのは母
※今さらですが私の文章で書いている『軽度中度重度』は医者の診断ではなく介護した私から見た基準です。※父の認知症状が進行し長く続いたのが中度期間になる為長文になります。また父との会話を記載するので私の名前を『トシノリ(仮名)』とさせて下さい。~認知症障害~父が服薬を辞めたのが2012年頃私は結婚を機に県外転勤のない会社へ転職をした。再就職を祝い父の運転で妻と両親と一緒に県外にドライブに行った。私『親父さぁ、安全運転だね。』この言葉はいまだにはっきり覚えている。確かに昔から
私の文章に気付いた方々のフォロー通知が多く驚きとともに介護の現状を感じています。改めて申し上げますが『私と父のやりとりを振り返り若年性アルツハイマーの一人の患者』の事実を書くだけなので『症状は当てはまらない。そうなるとは限らない。介護が楽にならない。むしろ知ることにより辛くなるかもしれない。』これを念頭に目を通して頂ければと思います。ただこの文章を読んで一人でも多くの人が早く気付き対処していだければ父の介護も良かったのかなと私は思います。
~身近な友人がある日突然統合失調症に~⑥-----------------------------------------~身近な友人がある日突然統合失調症に~①~身近な友人がある日突然統合失調症に~②~身近な友人がある日突然統合失調症に~③~身近な友人がある日突然統合失調症に~④~身近な友人がある日突然統合
最初で最期のアンパンマンミュージアム横浜に乱入日本の人口の10000/1くらいの密集地帯で脳がやられる良いリフレッシュと思ってきたけどアルツハイマーの僕には人が多すぎたアンパンマン好きなら行っても損は無いと思うけどドラえもん好きな僕にはハイにもなれずただただ「ぬほーん」とした場合だった場合のチョイスからして間違っていたのかもしれない疲れきった脳をアイシングしたいへんなガイコツも意味わからない人も豆腐のかどにぶつかってしまえ!てんだ
初診から新幹線🚅通院するまでの12年間お世話になった順天堂の新井平伊先生が今年の2月にクリニック🏥を開業されてました。💛💛💛世界トップ100の38位の研究者✨きんちゃんが大大大好きな💛新井平伊先生おめでとうございます💛💛💛💛新幹線で御茶ノ水に通うのも大変になってしまい今は横浜市内の長谷川式の長谷川先生のお弟子さんにお世話になっております。きんちゃんは主治医たちに恵まれていて幸せです💛↓↓↓今の主治医の診療室で思ったことあれやこれや↓↓↓
~『初期症状』~父が55歳を過ぎた頃から『飲んで帰ってきた翌朝に忘れ物に気づく日が多くなった』やがてそれは騒ぎが大きくなり母が一緒に探しものを手伝わされることが多くなった。やがて母はストレスになり夫婦仲が悪くなっていたのがわかった忘れ物の内容は『タクシーの中にバックを忘れる』から始まり『携帯がない』『財布がない』やがて『タクシーで帰ってきたが車をどこに置いたか思いだせない』など事が大きくなっていた。~『家族の気付き』~こうした忘れ物が発生するのはいつも父が酒を飲んだあとだった
我が家の若年性アルツハイマーは父だった。父は人生100年時代と言われるなか65歳で旅立った。『明らかに』認知症の症状が出始めたのは6年前の父が59歳頃だった。家族は父母兄私の四人家族兄も私も結婚しそれぞれ家庭を持っているため10年以上前から同居はしていない。父は高校卒業後から自動車販売営業一筋だった。ただし、お酒が好きで仕事終わりや休みの日関係なしに付き合いを理由に飲んでくる日々だった。母はパートをしながら家事をこなすごく普通の主婦だと言える。夫婦仲は父の元の『怒りっぽい性
父の納骨を無事に済ませ家の中は少しずつ元の姿に戻りつつある。正直、この介護に関して書こうか迷いがあったが今この文章を読んでいる方は『家族が若年性アルツハイマーかもしれない』『介護でどう対応していいのか分からない』『このあとのことが知りたい』など若年性アルツハイマーに関心を持っている方だと思う。現に私は介護中数えきれないくらいに『若年性アルツハイマー』に関して調べた。ネットだけでなく仕事の休みの日は1日中ありとあらゆる本屋に行き調べた。介護が終わった今を振り返ると『若年性アルツハイ
人が壊れる事を私は知っている壊れていく様を知っている心が病んでお酒に頼って依存症から肝硬変憧れる程キレイだった姿が身も心もボロボロになり空へと旅立った親友最愛のモノを失った頃から若年性アルツハイマーを発症しいつも腹立たしいくらい強く美しかった姿がみるみる内に老い衰えていった母人が壊れていく様を私は見てきた何とかくい止めようと何とかつなぎ止めようと頑張ったけれどどうにも出来なかったもっと早く手が打てていたら…今でも後悔は止まない人は
今日はパパを海の家(デイサービス)に送りその後内科🏥と整形🏥に💨💨内科は高血圧の通院です整形はバネ指になってしまい通院です親指に違和感をおぼえ痛みを伴ってきたときに🏥に行くべきでした整形はいつも混んでいるし…と消炎剤をぬり様子をみていましたなかなか治らず受診しましたが悪化してしまいました自分の事を後回しにしてしまっている私に後回しにしてはダメ❗と痛さをもって教えられています午後からは認知症の家族教室に参加します今日の内容は「本人の気持ちを知ろう」です
3年前は、MCIから19年目の記事対話型アート鑑賞という認知症ケア家族丸ごとハピネスを持ち帰れるプログラムACPアートリップ
私、本日で59歳になりました朝から妹、娘、姪っ子、義弟、甥っ子、友達、同僚と次々にお誕生日おめでとうのラインが届きました幸せ者です50代最後の1年どんな1年になるのでしょうか今年もお気に入りのワイングラスで乾杯しました🍷
「認知症かも?!」と思われたことはありませんか?ご縁をいただき、ありがとうございますカウンセリング大阪「セルジュ・フォレスト」清流いつきのブログへのご訪問ありがとうございます誰もがかかりうる病気、認知症。それは高齢となったご両親や義父母だけではありません。若年性アルツハイマーなど、アラフォー、アラフィフでも発症してしまう可能性があります。何かをしに行って、何をしようとしていたか忘れてしまったり、知っていたはずの名前が出てこなかったり、物忘れがちょこちょこあったり。。。アラフィフ
認知症が進むのには色んな方向があるそうです。①ボケて静かになる人②ボケて凶暴になる人②の場合で若年性アルツハイマーの場合そして男性で身体のどこも悪くない場合デイサービスのスタッフに危険が及ぶ可能性が出ると、退所↓↓↓徘徊などあれば精神科受診精神科のデイサービスへ↓↓↓退所精神病院へ入院↓↓↓3ヶ月で退去精神病院探し。。なかったら自宅介護無理でしょ。これ国何とか考えないと。
子供達のダメっぷりをよそに、私の学校生活は順調で、無事助産学校に内部進学が決まりました。助産学校ではお産をとるので、夜間泊まりの実習があります。その間も母が子供を見てくれていました。元夫は次男の保育園のお迎えぐらいはしていました。なんとかかんとか学生生活を終えて助産師免許を取得し、就職することができました。働き出したら、夜勤もあるし、勉強会もあるしで大変でしたが、念願の助産師になり、毎日ハッピーな生活を送っていました。でも、元夫の不満はどんどん積もっていたようです。たびたびケンカに