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[アイララとなのる宇宙生命は大挙して太陽系を襲い、地球をはじめとする太陽系内各地の都市を焼き払った。太陽系外にあるすべての人類は結束してこのおそるべき事態にあたれ]調査にやってきたメンバーの一人「エド」とアンドロメダ星雲全体の意識「ア・ス・ク」のであい。はじめにアイララだけがあった。アイララは世界をつくった。アイララはさらに世界をつくった。アイララはつくられない世界をつくった。アイララはどんなものでも作りだす装置であった。[地球人よ。アイララは絶対者を作りだしたのだ
全ての人間は「王」である自己に宿る絶対者、自己に宿る超越者、自己に宿る普遍者、自己に宿る無限者、自己の内に宿る無限なる者、相対者の如く現れている絶対者、現象にあらわれている奥にある超越者、今このままに久遠なる者、有限即無限、個性即普遍、それが私であり、貴方であり、一切の人々である。それを自覚する時相互礼拝が自然に行われるようになるのである。自己を単なる物質的存在たる肉体と観る限りに於いて、人間は「制約」から超越することはできない。即ち自由を完全に享受することが出来ないのであ
相対的な比較が嫉妬の原因である嫉妬心の根源は、その人の生活が、絶対の立場にいないで、相対の立場にいるからである。彼らは相対的に比較して見て、自分が彼より劣っていると思うと、彼を憎む心が起ってくるのである。「乏しからざるを憂えず、等しからざるを憂う」と言う諺があるが、現在の労働者の生活は、縄文土器時代の王様の生活よりも、豊かで便利でいろいろの享楽の道具も与えられていながら、縄文土器時代の王様ほどの歓びも感じられないで、常に収入の少なさを嘆いているのは、彼らが相対的な比較上の立
安倍の桜が安倍の公設第1秘書が犯人だってダミーでしょ。野党も公設第1秘書が絶対者みたいで。また安倍がデカいデコイ撃ってww約1年それで通すことにしたんだろ?妥当な価格で会費5000円でないやん。誰でも気が付くだろ突(つつ)かれるだろ?そもそも返金分の粗品も出してないとかオカシイだろ?そんな雑なカラクリを吞むのは、野党の対抗ネタを出されたってw誰だよ?急所つかれた野党の大物はwww安住紳一郎か?wwww
「哲学が背後に持つ宗教的精神について」(1)哲学の核心にあるものは、宗教的核心にあるものと同じであり、芸術的核心にあるものと同じである。この「根底理念」を大切にする所から、真の哲学が生まれてゆくと言えるのである。その背後に崇高なる宗教的直観を失った哲学は無味乾燥なものになりやすく、その逆に、核心となる宗教感情が豊かであればある程に、その哲学の内容は深められてゆくと言えるのである。故に、哲学を学びながら、様々な宗教を学び、様々な宗教を学びながら、それらを理性的に哲学的に洞察
人生と創造の会オリノです。皆さんこんにちは。そしてこんばんは。連日のように猛暑日が続き、コロナの流行もあって大変な夏となっております。昨年の夏も暑かったですが、それでも今年の夏がこんなことになるなんて、誰も予想していなかったことです。気温が35度を超えているのに、ほとんどの人がマスクを着用する日が来ようとはね。さて、前回で「虚無主義=ニヒリズム」についての批判は終わりました。今回からは「神」について考えていきましょう。またまた、例のごとく、ややこしいことが出てきますので
真理を纏う唯一無二なる存在『サムシンググレート』悠久の昔より『神』と呼ばれしもの現代に於けるその『神』は『絶対者』たる『神』ではない個々人の観念の中に巣喰う解釈の『神』である天象地象は絶対者の意思天・地・空・海・自然・風・四季これら全ては『絶対者』の意思それ故崇高なる信仰となる解釈の『神』は違う解釈となればそれは人の数だけ存在する自らの周囲を見渡すがよい正しき思惟は己のみ意思と意思は火花を散らし議論の噛み合うこと難し地上に教祖は如何程
前回我々は、『荘子』の発明した「宇宙」という言葉の出典を見た。今回は、前々回、前半の解釈を終えた、『荘子』第一篇逍遥遊篇の文章の後半を、福永光司先生の解釈によって読解することにしよう。『荘子』1956年朝日新聞社P17。「至人は己(おのれ)無く神人は功(いさお)無く聖人は名(ほまれ)無し」絶対者は世俗を遥かなる高みに越えるから世俗的な自我にとらわれることも、世間的な価値に左右されることも、人間的な言葉によって栄誉づけられることも
前回我々は、『荘子』第一篇「逍遥遊」に描かれた「宇宙意識」について見た。ところで、「宇宙」という言葉は、我々にはなじみの、『荘子』第二篇「斉物論」に、地上で初めて現れる。今回は、この地上初の「宇宙」という言葉の原典を、前回引用させていただいた福永先生の『荘子』P106によって、本文は難解なので、解釈のみで見ることにしよう。「(聖人は)日月に並び、宇宙をわきばさみ」で始まる文である。さて、絶対者とは、だね。その偉大な徳化は、あの万物を遍く照らす太陽や月と輝きを同じうし、その偉
現代、我々は、「心」を忘れて、飽くなき「物質主義」に汚染されている。多く、もっと多く、更に多く、とどこまでも「物欲」を追求してゆく。しかし、王子さまは言う。「たった一輪のバラか、ちょっとの水の中に、さがしているものは見つかるかもしれないのになあ」と。「多くの物」ではなく、「たった一つの愛するもの」が、人を無限に、「宇宙大」に幸せにするというのである。これと同じ思想が、『荘子』の中にもある。『荘子』第一篇「逍遥遊」の中に、それはある。早速、引用してみよう。天地の正に
(続き)「カイゼルのものはカイゼルに、神のものは神に納めよ」と説いたキリストとの厳しい精神は、超越的神の国と世俗的国家とをはっきり峻別し、事実を見極める判断を持つべきであるのに、ヘーゲルはこの区別を平均化し融和してしまっている。神の前に独り單独者として立つことによって、初めて人間は個体であり得るのに、神を失った人間は個性を失い、平均化された空虚者となってしまうのである。神を失った絶望に於て露わになる無に於てこそ、絶対者、神の振興への飛躍が可能となる。二ーチェ――キェルケゴールと並
(続き)実存とは、神の本質に対して神の実存と云われたものに由来する。西欧中世の思想では神が最もすぐれた存在であった。そこで神の本質から神の実在(存在)を論証することが熱心に試みられた。故に神は存在するという論証即ち「神の存在論的証明」とよばれた。中世から近代に至り、神中心主義から人間中心主義に転回し、カントは神から人間を考えるのでなく、人間から神を考える立場をとった。つまり人間の本質、人間の存在が問題とされた。―「個体的人間の自由の意識」が人間存在を普遍的本質として捉えた。これに具体的
批判精神を封じたら悟れるか?という題で。他人からの評価を気にしない事と間接的に繋がっているが、批判精神を封じたら悟れるかどうか気になって。覚者は他人の批判を自分の土俵に上がらせないから、幾らでも工夫した表現を苦にせずになさいますが、俺は批判者を自分の土俵に上がらせてしまうから、悩ましい。他所のお姉さんに自分の土俵に上げるなって散々言われたので、人には明らかな俺の欠点らしいんだが。批判者が絶対者でないけど、人を評価する能力が、人の能力のある種の極みだから、コイツは批評して悦に入りたいだけの人
ブログ更新601回目。みなさんこんにちは。1.心の構造皆さんが日常生活をしているとき、常に、心と肉体は一体化して機能しています。心ここにあらずという状態は、「何かをしようと支度しているとき」「何かをしている最中」などに、心と体の動きが、連動しないことです。夕飯を食べようとしているときに、昼間の出来事がよみがえってきて、食事が手につかなくなるようなことが起きます。失恋・激しい喧嘩・𠮟責・借金・倒産など、原因は様々です。ご本人にとって、大変辛いことなら
「もうダメだ」と思った瞬間に道が開けた、という経験をお持ちの方も多いと思います。思わぬ人から助けをもらったか、自分でも信じられないような力がその瞬間湧いたとか、破綻寸前のところで不思議に踏みとどまれるなどと言う経験は、できればしないに越したことはありません。でも、そうした偶然というか奇跡とでも言うべきことが起きるのはなぜなのか、考えてみるのもいいかもしれません。モーゼの「十戒」の話は、彼が持っていた杖を振り上げると、大地が突然2つに割れて道が開け、奇跡が起きた、という程度なら誰でも持っ
前回我々は、即物的「妙適」(性交・小楽)と如来と一体となる真の「妙適」(悟り・大楽)とについて見た。ところで、我々は今、『荘子』哲学の二本の柱、「渾沌」と「胡蝶の夢」の読解の途中である。如来と一体の真の「妙適」(悟り・大楽・生命の歓喜)と同じ境地を、『荘子』の「渾沌」哲学はどう言っているか。論語漫歩654「荘子の絶対者」を再掲してみよう。斉物論とは、物を斉(ひと)しくする論、すなわち、万物が一つであることの論理をあきらかにするという意味である。「斉物論篇」中には、次の文がある
自由と解放信仰は欲望や、世俗のしきたりや、先入観や偏見などの戒律みたいなものに縛られる心から基本的に神の御心を思う世界へ生き方の方向を変えることです。神様のほうを向くという表現もあります。つまり生き方の方向転換と言えるでしょう。こだわる物事が別のものへ変わるのではなくこだわりという不自由からの解放つまり自由ということです。そうでなければ信仰は無意味だからです。信仰は取引ではありません。何かを捨てて別の何かを得るという交換ではありません。信仰は
2回くらい前のブログで、造化という言葉について個人的な理解を書きました。すなわち「造化」≒「大自然や宇宙そのもの、あるいはその創造変化」を指す言葉安岡正篤「東洋倫理概論」いかに生くべきかAmazon(アマゾン)1,100〜12,800円の「緒論」20ページによると"宇宙人生"≒"自己を実現せんとする絶対者の努力"であり、森羅万象は、その努力の現れであるとのことです。そしてこの"絶対者の努力"≒"造化"であり、"造化を最も端的霊妙に現すもの"≒"人"なんだそうで
自己満足の成長とプロファイリングによる成長の違い多くの人たちは自己満足な成長を求めています自分を強いることで特別な存在としての自分をあらわそうとするからです聖書的な言い方をすると行いによって義と認められることを人は求めているいるのですやった感があるのですその「自分が」好きなのですやった感が出るということはドーパミンが分泌され依存的になっていくのです成功哲学的表現をすると性的エネルギーですそれを仕事に転化させることで成果を生み出そうとするのです
ミコト:ソナタ…が…仙猿…なら…恐らく…神仙…なの…だろう…な。ゴクウ:アハハ…こっち…の…世界…なら…絶対者…にも…近い…って。ミコト:あぁ…剣…を…背負い…フットワーク…も…軽い…本来…の…姿…の…我…だ。ゴクウ:ボク…の…如意棒…の…代わり。こっち…は…正体不明…も…多い…から…ね。ミコト:カカ…分かって…いる…じゃ…ない…か。その…通り…だ。然(シカ)るに…だ…な。ゴクウ:こっち…から…見た…そっち…で…は。ナン…とも…無力…だ…って…言う…の。ミコト:カカ…まぁ…な。須(ス
ずっと前にシャロームを批判していたときの記事の一つ。伝道と宣伝カルト宣伝者は言うだろう未知を既知としたときから自説の解釈の中で絶対者の概念をモノのように決めて一般化して当てはめて一つの言葉は無感動な一つの意味しか持たなくなってそれを繰り返すしかなくなっているのが繰り返すだけで満悦するホラー一つの言葉もその時その場その人によって違ってくるのに人間として考えることをしないまず「苦しい試練を乗り越えて、今は幸せです」という心地よい体験話
スートラ:4真理を求める人はまちがった考えや無理な要求をもちません無常のなかで暮らしながら楽園を発見し永遠のいのちに目覚めているのです永遠のいのちに目覚めた人は苦のなかにいて苦のままで幸せに生きることができるのです深い理性の智慧のおかげで無常のほとけのこころほとけのいのちはすべての人の胸に宿っていることを悟ることができましたこのように過去・現在・未来の三世の人々と三世のほとけとは永遠に存在しつづけます深い理性の智慧もまた永遠にわたって存在するという
絶対もうしないといっていたのに約束を破ってしました。もう、先生の診療は受けられないのでしょうか?.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:普段から「絶対はない」と言う人間は、最初からその後起こることをすべて赦して付き合っています。だから、誰の決意も約束も信じませんが、誰のスリップも咎めません。人間は皆弱くして憐れな存在なのです。絶対者の善意という前提無しにどうして大多数の人は無関心で生きて
救われる条件(2)キリスト者になると柔和な人間になるとあるいは社会的基準においても善人になると思われているかもしれません。信仰の結果として善を目指すでしょう。しかし、実際は、必ず善人になるかどうかは分かりません。普通の人間と同じように頑なになることがあります。さらに信仰があるという自覚ゆえに特に教理や善と悪と罪の意識においてかえって人一倍、頑なになることがあります。それはキリスト者ならではという信仰の働きではありません。人間だから起こる
ブログ更新490回目。皆さんこんにちは。1.相場のニュースウィルス関連と株式市場関係の情報で、NHK総合TVのニュース番組(3/13夕方19時のニュース)の80%にも達する。その中でも、健康よりお金に関連する情報が圧倒的に多い。特に、日本は、五輪に関する海外の発言にも、一喜一憂している。さも、ありなん!五輪とその関連分野に注ぎ込んだ巨額の投資が、回収できるか否か、関係者が固唾を飲んで、見守っている。「開催できるのか、否か?」2.相場の本質
我々はこれまで、「荘子哲学」を代表する二つの説話、「渾沌」と「胡蝶の夢」を見て来た。そして、前回、「胡蝶の夢」の結論に達した。今回は、「渾沌」の結論である。今回も、福永光司先生の『荘子』1956年朝日新聞社を引用させていただく。この寓話で荘子は、人間の「さかしら」(作為と分別)が、真の実在、すなわち一切存在の生々溌剌(せいせいはつらつ)たる自然のいとなみを窒息させ死滅させる愚かさを風刺しているのである。P356荘子的絶対者は、ただ「生きたる渾沌」を愛する。P35
前回我々は、『五重塔』の名人「のっそり十兵衛」が、いかに「荘子哲学」の「絶対者」の好例であるかを瞥見した。今回は、いよいよ『荘子』の「テーマ」である「渾沌説話」と並ぶ、もう一つの説話「胡蝶の夢」の結論である。例によって、福永光司先生の『荘子』1956年朝日新聞社P124を引用させていただく。荘子は、夢と現実の混淆の中で、生きたる渾沌としての道を、生きたる渾沌として楽しもうというのである。生きたる渾沌の中で
前回我々は、やっと名作『五重塔』の走り読みを終えることが出来た。今回から、「荘子哲学」に復帰することにしよう。我々は、論語漫歩654「荘子の絶対者」で、『荘子』を代表する「斉物論篇」に登場する「絶対者」について見た。その一部を再掲してみよう。世俗の人間は、徒に知を競い、利を争って、馬車馬のような人生を喘(あえ)いでいるが、然し絶対者は道(実在そのもの。のっそり十兵衛の場合は五重の塔、秀哉名人の場合は囲碁)とぴったり一つになり、一切の分別知を捨てて、「無心忘我の境地」に安
【第1957回】>館内放送や取組表などでしつこいくらいに注意喚起がなされているが以前からやる者があとを絶たない、非常に危険な行為である“座布団投げ”や、地方場所でご当地力士への仕切り時の手拍子と力士名コールなど、相撲の応援での禁止行為やマナー違反はあったが、この初場所は特にひどく、一部観客の質が非常に低いと言わざるを得ない。(中略)このような行為は相撲協会がブームを作っているスー女や新たな集客施策によって来場した観客ではなく、ある程度の年齢を重ねた相撲観戦歴がある男性が酔いに
「お客様は神様です」歌う時に私は祈るときのように雑念を払って心をまっさらにしなければ完璧な藝をお見せすることはできないのですですからお客様を神様とみて歌を唄うのですまた演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件ですだからお客様は絶対者神様なのです戦後日本の復興の象徴ともいえる二つの国際的平和の祭典東京オリンピックと大阪万博のテーマソング「東京五輪音頭」「世界の国からこんにちは」でお馴染みの往年の演歌歌手で浪曲師の三波春夫さんのことば演歌歌手で