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757年1月、父・安禄山を殺害した安慶緒は、「陛下の遺勅(遺言)により、私が皇帝となった」と言って、偽の遺勅を見せ、安禄山が建国した燕の皇帝に即位しました。でも、人の懐に入るのが上手だった安禄山に対し、安慶緒は周囲の意見を聞かず、そのうえ、物事を正しく判断しなかったため、臣下は安慶緒から離れていきました。安禄山の盟友・史思明は、安慶緒に失望し、軍と金品を持って、范陽に引き上げ、自ら国を作ることにしました。史思明を始め、臣下が離れたとはいえ、偽の遺勅を信じて、安慶
目が見えなくなり、背中には悪性の腫瘍ができた安禄山。身体の自由がきかなくなった安禄山は心身ともに病み、側近である厳荘や李猪児に当たり散らしました。李猪児は契丹出身の宦官で、安禄山に去勢されました。医学の「い」の字も知らない安禄山に去勢された李猪児は、大量出血で危篤状態。生死をさまよった後、安禄山の大きなお腹を持ち上げるなど、長年、安禄山のお世話係を務めてきました。安禄山から鞭で打たれる回数が誰よりも多かった李猪児は、安禄山に不満を募らせました。ところで
756年9月、粛宗はウイグル帝国に援軍を求めようと、高宗のひ孫である李承寀、郭子儀の部下・僕固懐恩、ソグド系蕃将・石定番をウイグルに派遣しました。10月、オルド・バリク(都城。モンゴル国のオルホン川西岸)で石定番と面会した、ウイグル帝国の第二代可汗・葛勒可汗は喜び、自分の妻の妹を養子にしたうえで、李承寀に嫁がせました。李承寀の妻はビルゲ公主に封じられました。また、僕固懐恩は葛勒可汗の次男・移地健に娘を嫁がせ、唐とウイグル帝国は結び付きを深めました。11月、安
粛宗と霊武で合流した郭子儀。郭子儀の指揮のもと、軍、兵糧が整いました。でも、唐軍の武将が次々と撃破され、安禄山軍が優勢であることに不安を感じた粛宗は、側近・李泌に「いつになったら、平和が訪れるのか」と言いました。李泌には官職はありません。でも、李泌はやり手。何故、李泌は官職を与えられなかったのでしょうか。実は、李泌の才能は玄宗も認めていて、玄宗は李泌に官職を与えようとしました。でも、李泌は辞退しました。すると、玄宗は「では、せめて、李亨と友達になって
交通・軍事の重要地点だった潼関。潼関に続く道は軍が勢いよく進めないほど、とても狭かったですね。『封常清と高仙芝②』退却した封常清は、陝郡で高仙芝と出会いました。封常清は安禄山軍の勢いを高仙芝に話しました。二人が話し合った結果、潼関(陝西省渭南市)に引き返し、潼関を守…ameblo.jp哥舒翰が安禄山に潼関を奪われた後、潼関はどうなったのでしょうか。潼関を奪還したくても、進軍できないほど狭い道。変わらず、潼関は安禄山の配下にありました。潼関が安禄山の支配下にあ
郭子儀と共に、名将として注目されていた李光弼について、簡単に紹介しておきましょう。李光弼は営州(遼寧省朝陽市)出身で、郭子儀の部下でした。李光弼は自分の能力に自信があり、上司である郭子儀にも、遠慮せずに発言しました。でも、郭子儀は李光弼の意見を採用することがなく、李光弼は郭子儀を無能な上司だと思っていました。実は、郭子儀は李光弼を高く評価していたんですが、一方で、自尊心が強いことを気にしていたんです。もし、郭子儀が李光弼の意見を採用すれば、李光弼は思い
玄宗と別れ、霊武(寧夏回族自治区銀川市)を本拠地とした粛宗。霊武には、朔方節度使・郭子儀がいました。李光弼と共に、郭子儀は何度も登場していますが、ここで、郭子儀について簡単に紹介しておきましょう。郭子儀は華州(陝西省渭南市)出身で、190cmの大きな身体の持ち主でした。父・郭敬之は5つの州の刺史を歴任した官僚でしたが、郭子儀が幼い頃に亡くなりました。当時、父が官僚を務めていれば、その子どもも官職にありつける時代でしたが、父を亡くした郭子儀は、自
玄宗と別れた皇太子・李亨は霊武(寧夏回族自治区銀川市)に向かうことにしました。実は、李亨は朔方節度大使を務めた経験があり、霊武に駐屯している兵は李亨と顔見知りだったんです。全く知らない兵が駐屯している場所より、顔見知りの兵が駐屯している場所に向かうほうが、危険が少ないですよね。李亨が霊武に向かっていると知った朔方留後・杜鴻漸、水陸運使・魏少遊は、李亨を礼部で迎える手筈を整えました。杜鴻漸は「朔方の兵と食糧を集めて、皇太子をお待ちしています」と連絡しました。李亨
『チャングム』から『トンイ』へ飛躍したチ・ジニが秀逸なワケ日本で韓国の時代劇が定着するきっかけを作った『宮廷女官チャングムの誓い』。このドラマでは、イ・ヨンエが演じた女官のチャングムが魅力的なキャラクターだったが、同じように、チ・ジニが扮したミン・ジョンホも本当に印象的だった。優秀な官吏のミン・ジョンホは、チャングムをいつも温かく見守っていた。同時に密かな愛情を持ち続けていた。しかし、その感情をあからさまに出すわけにはいかなかった。なぜなら、女官は男性との恋愛が厳禁されていたからだ。
玄宗には30人もの后妃がいました。妻・王皇后との間には子どもを授かりませんでしたが、側室との間には、30人の男の子、29人の女の子、合計59人もの子どもを授かりました。皇帝の後継者(皇太子)に選ばれる可能性が高いのは、長男や次男など、生まれ年が早い子ども。第一子、第二子、第三子を産んだ側室を、簡単に紹介します。・第一子・李琮の生母・劉華妃残念ながら史料が少なく、出身などは不明です。・第二子・李瑛の生母・趙麗妃潞州(山西省長治市)で妓女をしていたところ、玄宗自ら見初め
バレンタインの思い出、教えて!▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう皆様、こんにちは。今日は昨日より暖かいのではないでしょうか。暖房なしで過ごせるのはもちろん、上に重ねているニットを二枚も脱いでしまいました、、、さて、今日は韓流時代劇についてのお話を少しだけしたいと思います。先日、長らく視聴していた「華政」を観終えたばかりで、感想を書きました。その時、歴代王の略図みたいなものを書いて「宣祖→光海君→仁祖→昭顕世子(暗殺?
ドラマ『王になった男』を見ながら書き上げました。榠嬪(ミョンビン)は親子ともに粛宗(スクチョン)に愛されたという。あの禧嬪(ヒヒン)や淑嬪(スクピン)よりも。榠嬪朴氏トンイ考榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ)粛宗最愛の王子を産んだ後宮トンイ。イ・ビョンフン監督の描く韓国ドラマトンイと淑嬪崔氏(スクピンチェシ)の違いは?韓国時代劇ドラマ同伊の時代背景などを考証していきます♪sakuan.blog68.fc2.com仁元王后金氏(イヌォンワンフキムシ)が粛宗(スクチョン)の第2継妃(ケビ
粛宗(スクチョン)にはあの禧嬪(ヒビン)や淑嬪(スクピン)より愛した女性がいて、世子(セジャ/景宗(キョンジョン))や延ニン君(ヨニングン/英祖(ヨンジョ))より溺愛した息子がいたなんて・・・!?以前、書いた記事『延齢君(ヨンリョングン)』について追求しています。粛宗(スクチョン)最愛の息子であったそうな。末っ子として生まれ、20歳で旅立ったという。後に英宗(ヨンジョン)は英祖(ヨンジョ)と諡号が変わりました。この資料は『テバク』というドラマが放映された際に
人気時代劇の『トンイ』は、粛宗(スクチョン)の側室だった淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)がモデルになっている。ハン・ヒョジュが明るくトンイを演じていたので、淑嬪・崔氏もさぞかし公正な女性だったと思われがちなのだが、ドラマと史実はやはり違うようだ。【関連】【トンイの真実】美化されたドラマ。本当は恐ろしかったトンイの「裏の顔」特に気になるのが、淑嬪・崔氏が王妃になれなかった理由が不可解なことだ。当時の状況を見てみよう。1701年、粛宗の正室だった仁顕(イニョン)王后は病気で亡くなってしまった。
好きな棋士▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう皆様、こんにちは。今日も11月にしては、温かい一日になりましたね。昨夜、久しぶりに高野山にいる息子と電話で話しました。ラビ村母ー高野山大学院のレポートを出したよ~。と、近況報告に始まり、合計20枚のレポートに四苦八苦したことを告げた母。どうやら、息子の話ではーよほどじゃない限り、出せば落ちないんじゃない?とのことで、息子が大学で学んでいる教科でも、レポート試験が多
朝鮮王朝は王を頂点とする中央集権国家で王の命令は絶対だと思われがちだが、行政組織の高官ともなると、王の判断が間違っていると確信したら命をかけて諫言する伝統があった。その伝統の中で、高官からもっとも反対意見を出された国王は誰だろうか。それは、間違いなく19代王・粛宗(スクチョン)だろう。【関連】【トンイの真実】粛宗が王位を譲りたかったのは「三人目の息子」だった!彼は、「正室の仁顕(イニョン)王后を廃妃にするとき」「側室の張禧嬪(チャン・ヒビン)を王妃に昇格させるとき」「張禧嬪を側室に降格させて
歴史的に朝鮮王朝の三大悪女と称されるのは、張緑水(チャン・ノクス)、鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)、張禧嬪(チャン・ヒビン)という3人だ。順に説明すると、暴君の燕山君(ヨンサングン)の側室になった張緑水は、国家の財政を破綻寸前にさせるほど贅沢三昧に暮らした。なにしろ、王宮の倉庫から財宝を持ち出して、国家の富を私物化したのである。【関連】『トンイ』のライバル張禧嬪はなぜ「朝鮮王朝三大悪女」なのか鄭蘭貞は文定(ムンジョン)王后の手先になって、さまざまな悪事を働いた。ついには、文定王后の弟だった
先週までTV東京で放送していた『トンイ』を再視聴していました低い身分から粛宗(スクチョン)の側室となり後の英祖を生んだ淑嬪崔氏(スクピンチェシ)のストーリー後半には禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)が生んだ世子と淑嬪崔氏が生んだ延礽君(ヨニングン)が登場後の20代景宗・21代英祖ですドラマには世子とヨニン君そしてヨニン君の兄・永寿(ヨンス)しか出てきませんが実際には6人の王子がいましたただ永寿を含め3人は早くに亡くなっています残った3人が世子とヨニン君そして後宮・榠嬪朴氏(ミョンビンパ
韓国時代劇『トンイ』に登場するトンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)と張禧嬪(チャン・ヒビン)。張禧嬪は「朝鮮王朝三大悪女」の1人であり、ドラマでもそんなイメージで描かれている。一方のトンイは、ハン・ヒョジュが演じていることもあり、明るくて純粋な女性のように描かれていた。しかし、朝鮮王朝の正式な歴史書である「朝鮮王朝実録」を丹念に読んでいくと、張禧嬪よりトンイのほうが悪女であったと思われる根拠がいくつもある。それを3つに整理してみよう。【関連】トンイとチャン・ヒビンが産んだ息子たちの運命
※これは現在の中国と北朝鮮の国境にある白頭山(ペクトゥサン)を指しているのかな?※この時代も日本とは色々あったのですね。今も昔も竹島問題は日韓問題に蔭を落としています。政府関連サイトよりお借りして引用させて頂きました。■あの金春澤(キム・チュンテク/ドラマ『トンイ』に登場したシム・ウンテクのモデル)は親戚、謝氏南征記(サッシナムジョンギ)の作者も縁戚関係!?■あれっ本名が・・・!?朝鮮の女性って、高貴なな身分になればなる程、金某(キム・ナニガシ)女とか、●●尹氏(ユ
粛宗の息子というと、2人の王子がよく知られている。1人は張禧嬪(チャン・ヒビン)が産んだ世子(セジャ)で1688年に生まれている。もう1人はトンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)の息子のヨニングンで1694年に誕生している。実は、粛宗には3人目の息子がいた。それが、側室の榠嬪・朴氏(ミョンビン・パクシ)が産んだ延齢君(ヨンニョングン)だ。彼は1699年に生まれている。実は、粛宗が晩年になって特に溺愛したのが延齢君だった。延齢君は頭脳明晰で、まれにみる孝行息子だった。老いていく粛
韓流プレミアで放送中の韓国時代劇『トンイ』に登場する張禧嬪(チャン・ヒビン)は、19代王の粛宗(スクチョン)の息子を産む。しかし、最終的に張禧嬪は罪人として死罪になってしまうのだが、罪人の子となってしまった世子は王になることができたのだろうか。結論から先に紹介すると、朝鮮王朝・第20代王の景宗(キョンジョン)として即位している。詳しく見ていこう。(写真出典=韓国MBC『トンイ』放送画面より)正室の座を手に入れた張禧嬪(チャン・ヒビン)は、その後、ますますわがままが目立つようになり、時には
韓流ドラマ『トンイ』と華流ドラマ『大明皇妃-EmpressoftheMing-』を見るにあたっての資料。ネタバレ注意https://plaza.rakuten.co.jp/okada11/diary/202010090003/韓流ドラマ『トンイ』と華流ドラマ『大明皇妃-EmpressoftheMing-』を見るにあたっての資料。ネタバレ注意-可愛いに間に合わない(ファッションと猫と通販な日々):楽天ブログ以下は私がこの二つのドラマを観るに当たって参考としたい資料で
ドラマ『トンイ』の主人公トンイは、歴史的には淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)のことだ。彼女は1694年に19代王・粛宗(スクチョン)の側室として王子を産んでいる。それが後に21代王になる英祖(ヨンジョ)である。王子を産んだことによって淑嬪・崔氏の立場は強くなったが、我が子を世子にできるわけではなかった。なぜなら、世子は張禧嬪(チャン・ヒビン)が産んだ長男に決まっていたからだ。1701年、病弱だった仁顕(イニョン)王后が8月に亡くなった。その40日後、淑嬪・崔氏は粛宗に対して驚くべき告発をした
韓流プレミアで放送中の韓国時代劇『トンイ』。ドラマの終盤で、張禧嬪(チャン・ヒビン)は仁顕王后(イニョンワンフ)を呪詛していたことで死罪となるが、それに対して高官たちが大反対している。前編では高官たちが粛宗に反論したところまで紹介した。後半は粛宗の言葉から始まる。いったい高官たちの言葉に粛宗は何と言ったのだろうか。【関連】チャン・ヒビンはなぜ死罪に?反対した人物たちもいた!!粛宗はこう反論した。「国家が不幸に陥り、宮中で災難が発生した。世の中、このように邪悪なことがあるものか。まさに、
前編では、仁顕王后(イニョンワンフ)が張禧嬪(チャン・ヒビン)を王宮に呼び戻したとこまで語ったが、それは正しかったのだろうか。それでは気になる続きを語っていこう。仁顕王后の好意は裏目に出て、張禧嬪を寵愛した粛宗(スクチョン)は王妃を廃して張禧嬪を後釜に据えた。このとき、反対する重臣たちに粛宗が語った言葉が「朝鮮王朝実録」に残っているが、自分勝手な論法を無理に押しつけていて、粛宗のわがままな性格が生々しく示されている。【関連】名君だった『トンイ』の粛宗。女性問題ではトラブルメーカーだった!特
朝鮮王朝の27人の国王の中で、4人の王妃を持った国王は1人しかいない。それが19代王の粛宗(スクチョン)である。彼の最初の王妃は仁敬(インギョン)王后で、1680年に亡くなっている。粛宗とは2人の王女をもうけた。2人目の王妃は仁顕(イニョン)王后で、彼女は一度廃妃(ペビ)になったが、後に王妃に復帰した。しかし、1701年に亡くなった。子供はいなかった。3人目の王妃がチャン・ヒビンであり、世子(セジャ)の母親になっている。彼女は1694年に側室に降格し、1701年に死罪で世を去った。【関連
人気女優のハン・ヒョジュが演じたドラマ『トンイ』の主人公トンイは、歴史的には淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏のことだ。彼女は19代王・粛宗(スクチョン)の側室だった。そして、同時期を生きた張禧嬪(チャン・ヒビン)と激しく対立した。この張禧嬪は悪女としてあまりに有名だが、果たして淑嬪・崔氏はドラマのように心が美しい女性だったのか。【トンイの真実】史実のチャン・ヒビンは陰謀たくらむ悪女ではなかった!粛宗の正室だった仁顕(イニョン)王后は1701年8月に世を去った。それから40日後に、淑嬪・崔氏
「賜薬(サヤク)」という言葉をご存じだろうか。これは、毒薬によって自決させられる死罪のこと。対象は王族や高官や側室で、王が毒薬を下賜するという意味で「賜薬」と呼ばれている。毒薬の中身は、砒素や水銀などとなっている。韓国時代劇を見ていると、賜薬を呑まされた人がその場ですぐ死ぬが、決して即効性のある毒薬ではなく、実際に息が絶えるまでには数時間もかかったという。その間に苦しみ抜くので、むごい刑罰であった。中には、一晩ずっと死ぬことができずに苦しんだ、という記録も残っている。【トンイの真実】美化
現在、韓流プレミアで放送中の韓国時代劇『トンイ』。このドラマに登場する仁顕王后(イニョンワンフ)が世を去った後、「張禧嬪(チャン・ヒビン)が呪い殺すための儀式をしていた」という告発が粛宗の耳に入った。それを聞いて粛宗が激怒した。1701年9月23日の「朝鮮王朝実録」の記述には「内殿(ネジョン/王妃)が病を患った2年間、張禧嬪は1回もお見舞いに来なかったばかりでなく、本来なら中宮殿(チュングンジョン)と呼ばなければならないのに、必ず閔(ミン)氏と呼んでいた(名前を直接言うということは格下扱いを