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今天下を治めになっている御法度も中臣祓の道である。米はめぐみの宝であり、養っていただけるこれほど大きな恩はないだろう。君主は天下の逆賊や盗賊という穢れを祓って国を清め、民を安心させる。こういうことが民をいたわることである。この御恩に報い。奉ろうとしないのは人ではない。人ではないとしたら何だろうか、鳥や獣と同じである。養いは愛が厚いものであって、養いの恵みをくけるほど大きな恩はない。民はそのことを考えなさい。主人や親に背くのは天の神に背いて、飼われている犬や猫にも劣る。神罰から逃れられないだ
「穢れ」と「言霊」の謎:その15日本人を支配する「穢れ」は小さな子どもたちにも及んでいる。穢れた子供、不浄な子供は、周囲の友人たちにとっては忌み嫌う存在とされてしまうのである。それは、オナラをしただけでもである。さらにこれが道端で犬の糞を踏んでしまったら「呪詛」の対象とされてしまう恐ろしい国なのである。「えんがちょ」である。「えんがちょき〜〜〜った」とされたら一巻の終わり。友人の輪の中には入れてもらえなくなるのである。それをもって「えんがちょ」は誰しもが知る民俗風習のひとつだが、
元気になったマイン。「それで…ジギスヴァルトはどうなったのですか?」「君の件はただの書類送検になった。他の拉致監禁されていた女性達はジギスヴァルトではなくジルヴェスターとフロレンツィア達を告発したのだ。」「えーではジギスヴァルトとまた顔を合わす可能性があるのですか?」「いや、奴は明日アメリカに留学する。」「そうなのですね!もうあの顔を見たくないと思っていたので…しかし女性達はジギスヴァルトに何も思うところはなかったのでしょうか?」「父親のトラオクヴァールが裏から手を回し女性達の親にか
朝日が登る頃、九州へ到着しました。大祭開式時間まではまだまだ早い早朝。近くの温泉を探し、ひと休憩する事になりました。私は全身が傷だらけで、とても人前で肌を見せられる状態ではありませんでした。もちろん、毎日の入浴は水に触れると激しい痛み。温まるとジガジガと気持ち悪く、入浴後は激しい水分蒸発に合い苦痛を伴っていました。しかし、同行して下さった方が「今日は大丈夫よ。何も怖がる事はないのよ。」私にそう言いました。そして辿り着いたお湯屋は、湯治に使われる施設で私でも入浴する事が出来たので
神武天皇の時代に国作りがはじまって、成務天皇の時代[1]から国造をつかって、国の仕事をする人の名前とされた。造というのは、宮は神であり君主である。国は民であり、民をいたわり養う、傷つけず、汚らわしいことを祓い清めて神と君主に仕えるという意味である。文武天皇[2]の時代からはじめて加美(かみ)の名を官位につけて、人に神と名付けたのは神武天皇の時代より前からあることで、それ以来続いている。中臣の神、忌部の神というような感じである。今に至っては様々な司の頭や官領と同様に神となづけている、民を愛し
昨日も沢山のお客様が来られました。色々な方と接したりすると、気が疲れてしまうことってありますよねそんな時に持っていて頂きたいのが、草薙剣の符【草薙剣の符】9bb12.hp.peraichi.com籠宮光星先生が、誰でも福徳円満が回りて巡るようにと、神様との対話を何度も重ねられることによりつくられた、かごみや流おり符草薙剣の符は、カルマをほどき、穢れをはらい、バイタリティを上げて生命力を向上させるとあります私がかごみや流おり符にご縁を頂いて、最初の頃に持たせて頂いたのも、この草薙
「穢れ」と「言霊」の謎:その14◆「穢れ」と「不浄」という観念感覚としての汚れというものは、いくら完璧な消毒をしてもなくならないものである。これに対して、実体としての「汚れ」は、洗浄したり消毒すれば落ちるものである。つまり、全然異なるものであり、だとすれば、この2つを区別して別の言葉で呼ばないといけない。この感覚としての汚れを表現する言葉こそが「穢れ」である。とは言うものの、この「穢れ」とは、いったいどう定義すればいいのだろうか。「穢れ、汚れ(けがれ)とは、忌まわしく思われ
「女性は、生理中は神社に入ってはいけないのでしょうか」と時々ご質問があります。昔々には、血を穢れ(けがれ)と捉えていた時代も確かにありました期間中は神社の敷地に入らないとか、家の神棚の掃除等に手を出さないとか、様々な戒めがあったようです。ですが、もはや時代は変わったと考えていただいて良いでしょう。参拝客の方は、何も御心配になることはありません。お詣りされたり社頭祈願を受けられる際に、生理中かどうかによる制限は、ありません。古い時代には、今のような衛生用品もありませんでしたから
「穢れ」と「言霊」の謎:その13本連載の「その4」で、「箸」は日本の木の文化と共に開発されたものであり、来客用、営業用として使われる「ハレとケ」の兼用であると書いた。祝い事や神事は「ハレ(晴れ)の箸」、家庭用や普段使うのは「ケの箸」、この両方を兼ね備えているのが「割り箸」であると。割り箸を割ることには祝事や神事などにおいて「事を始める」という意味があり、その際には真新しい割り箸が用意されてきた歴史があるが、箸を「割る」のである。二本に割るのが「割り箸」である。そして、日本人が誰で
明治37年御製言の葉にあまる誠はおのづから人のおもわにあらわれにけり明治神宮の「365日の大御心」では、次のような口語訳になります。「言葉に言いつくせない誠の心というものは、自然にその人の表情に現れるものである」「誠」とは辞書によれば、「真心。真実の心」という意味だそうです。では「真」とはなんでしょうか。何を基準にしているのでしようか。古神道では、特定の物差しを以て何かを評価するのではなく、惟神に沿っているかどうかを問います。しかしこの「惟神」に明確な定義が
「穢れ」と「言霊」の謎:その12「万歳」(バンザイ)の異字体は「万才」で、旧字体は「萬歲」である。だが、「歲」の字を「歳」にして「萬歳」と書くと「まんざい」と読む。「萬歳(万才)」とは日本の伝統芸能の一つである「漫才:マンザイ」のことで、もともと新年の言祝ぎの話芸として全国で興り、現代の漫才の元になった。「はぁ?」という感じだろうか。実は、ここにも言霊が隠されている。萬歳は太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の2人が1組となるものが基本となる。多くの萬歳は舞扇のような「扇子」を用いる
"人の穢れの起こりは神に起因する"と言う。其れは日本の神話と称する古い物語として『古事記』の中にも記載されています。其れは伊邪那岐之大神と伊邪那美之大神の物語です。此の二柱の神は《国生み》と言う一大事業を国常立之大神から引継いで完遂させる為に生まれた夫婦(めおと)神です。此処が大事な点なのです。御二人が夫婦で在られた点です。御二人は天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇麻志阿斯訶備比古遅神、天之常立神等の『別天津神(ことあまつかみ)』から生み出(な)され給うた訳です。ところが、志半
仕事帰り、絆@天膳に着席等価、金曜は角が強い店3スルー2スルーと投資16Kで±0次は2スルー、この間に同色3回上あるんじゃねと思いながら回す穢れがたまってて、そろそろと思いきや本当にキタ、天膳お散歩30Gガセ狙えは1回のみ、余裕の突破710対6,巻物で最強特化ゾーン!月下殲滅、クソース3回のみ最初に当確絵+BCで2連、勝負は6連目からそこからノーBCで最後の12戦目閉店取り切れずの心配が杞憂1時間前にオワタ@回収53.5K収支プラス37
「天皇制の深層を鋭くえぐり出している小説」と原武史さんが絶賛していた、桐野夏生さんの『女神記』遥か南の海蛇の島、二人の姉妹。姉は大巫女を継ぎ、島のために祈った。妹は運命に逆らい、掟を破った。16歳で死んだ妹は、地下神殿で黄泉の国の女王イザナミに出逢う。物語の鬼神が描く、血と贖いの日本神話!(amazon.co.jp/女神記-新・世界の神話-桐野-夏生/)『女神記』について原武史さんと対論『女神記』はイギリスの出版社のプロジェクトで、自国の神話を描き直そうというコンセプト
「穢れ」と「言霊」の謎:その11『日本書紀』によれば、「日本」という国号を定めたのは物部氏の祖神・ニギハヤヒである。「日本」の読みは「ヤマト」だが、国号の表記はこれが初出で、日本という国号と物部氏は深い関係にあったということになる。しかし、正式に国号が「日本」(日ノ本)と命名されたのは飛鳥時代末期で、そこには太陽(日の出)を意識しており、「日が昇る」という現象を重視していたことが窺える。第33代推古天皇の時代に聖徳太子が隋の皇帝・煬帝へ、「日出處天子…」で始まる国書を送っていることも関係
ちょうど良い運のあげ方ちぃたんです☆Facebookの過去の投稿お知らせでバリアの張り方が出て来たのでご紹介するよーん簡単!バリアの張り方お久しぶりのお絵描き解説ま、見ての通りですよどーんえ?説明せんの?(だれ?えー、お絵描きしたし十分やろ?えー(声が小さくなる。。。)説明するぞーーー(やる気になったらしい)まず、バリアを貼る前に!ネガティブな気つまり!穢れ(ケガレ)を洗い流す!お風呂でやってね!シャ
ヴェローニカは箱根神社にほど近いユストクスが購入して置いた家に拘束して置いた。フェルディナンド達はその家に急ぎ戻った。「マイン…しんどいだろうが此奴を封じてから休んで欲しい。」「大丈夫ですよ。皆から力をもらいましたし…それに穢れの化身の手足を祓わないと穢れの化身の力が弱りませんからね。」フェルディナンドは気絶してるヴェローニカを覚醒させた。「ヴェローニカ。お前のやって来た事は許しがたい。母を殺したこと父に毒を盛ったことそして今まで私にしてきたこと。」「ヴェローニカ。貴女も辛い目にあっ
「穢れ」と「言霊」の謎:その10正月に来訪した歳神は「鏡餅」に依りつく。すると、鏡餅には歳神の「御魂」(みたま)が宿る。この鏡餅の「餅玉」が、歳神の御魂であり、その年の魂となる「年魂」である。そして、年魂をあらわす餅玉を、家長が家族に「御年魂」「御年玉」として分け与える風習となった。これがお年玉のルーツで、玉には魂という意味が込められている。「たま=玉=魂」という「言霊」である。◆鏡餅に込められた言霊の仕掛け鏡は、日の光を反射し太陽のように光ることから、太陽神・天照大神に見
言葉で世界は出来ているその言葉が濁ったらその言葉が穢れたら地上は邪気で満ちるのよ神さまそれ見てうたってくれた神さまそれ見ていのってくれた神さまが美しい言の葉で地上を清めてくれるのよわたしたちは人はこの地上の平安をこの胸の純粋さを美しくとどめわたしたちのこの清浄なこころで美しい言葉を美しいうたを美しいいのりを空へ返す地上が天が清らかであるようにいま詩(うた)
見えないエネルギーと電気の関係。見えないエネルギーと電気は密接な関係があるようだ。人魂はプラズマのようだし、穢れたエネルギーは静電気の帯電のようだ。穢れたエネルギー、邪霊を祓うときに、肩をさっさと祓うことがあるが、それは、肩に溜まった静電気を祓っているようだ。私は勾玉を身につけるときに、麻紐に勾玉を通して、それに革紐を結んて首飾りにしている。私の感じだと、革紐は静電気を帯びて引き寄せやすいようだし、勾玉の穴に革紐を通すと静電気の抜けが悪いようだ。だから、麻紐に勾玉を通して、革紐を通して
「穢れ」と「言霊」の謎:その9『古事記』では淤能碁呂島、『日本書紀』では磤馭慮島と記された世界から隠されてきた「オノゴロ島」とは、「隠岐」の「島後」であったが、名前が無かった島後にも「名」が与えられたことで呪詛の対象となった。名を与えられたことで島後は「新しく生まれた子供」と等しい存在となったのである。全ては象徴であるが、「新しく生まれた子供」というのなら、それはまだ世界のどこにも存在しない場所ということになる。これを「預言」と捉えたら時、「新しく生まれた子供」とは、「新しい世界
きのうの続き。地上の命に於ける女性との結婚をキッパリ諦めるきっかけとして、「女性との結婚よりも遥かに素晴らしい神さまのご計画の存在」への信頼を育てることの大切さを痛感することにも1つある。聖書に「あなた方も聞いている通り、『姦淫するな』と命じられている。しかし私は言っておく。情欲を抱(イダ)いて女を見る者は誰でも、既に心の中で姦淫を犯したのである。右の目があなたを躓(ツマズ)かせるなら抉(エグ)り出して捨てなさい。体の一部がなくなっても全身がゲヘナに投げ込まれない方がましである。右の手
神道では血を穢れとして忌み嫌う事は、人を愛して人を恵みになるので、体を壊す事を神が忌み嫌いになることから、血を穢れとして非常に避ける。出産のときの出血は死体から出た血ではないが、血ということで忌み嫌うのである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーこれは原著者に誤解がありますね。血は確かに穢れです。ですが、血が穢れというのはあくまでも「気が枯れる」でけがれなので、そういう流れで理解しないといけません。出産のときの出血というのは、出血そのもの問題よりも死産と出産直後の母子が死ぬという
「穢れ」と「言霊」の謎:その8祝いの場で酒樽を木槌で二つに割ることを「鏡割り:鏡開き」と呼び、同様に正月の「鏡餅」を木槌で割ることも「鏡割り:鏡開き」と呼ぶ。「餅」はイエス・キリストの「肉」であり、「酒」はイエス・キリストの「血」である。なぜなら、正月の「三が日」は静かに家の中で過ごし、「お屠蘇(御神酒)」を家族とともに飲み、「餅」を食べるのは、人類のために屠られて亡くなった「歳神・年神=イエス・キリスト」の霊を家に迎えて、3日後の「復活=蘇り」を願う行為だからでもあり、「最後の晩餐」を
ジギスヴァルトの別荘にやって来たフェルディナンド達。別荘の周りにはジギスヴァルトの家の手下と光教団から派遣されたと見られる警護がついていた。別荘自体に穢れの化身の結界は張られてはいなくローゼマインが閉じ込められている地下室にだけ張られているようだ。フェルディナンドの外に居る手下や、警護達にシュラートラウムの祈りを与えた。周りにいた者全てが深い眠りに落ち、フェルディナンド達はフェアベルッケンの守りを作動させ別荘に入っていった。別荘はかなり大きな造りになっていて離れには少女達が監禁されてい
穢れと神国の中世(講談社選書メチエ)穢れと神国の中世(講談社選書メチエ)Amazon(アマゾン)3059+350送『穢れと神国の中世』(著者:片岡耕平)は、講談社選書メチエシリーズの一冊ですこの書籍は、日本全土で共通して見られる、死と出産を「穢」とみなす民俗習慣に焦点を当てています。その観念の起源を探求し、九世紀から十世紀に制定された『延喜式』に辿り着きます。さまざまな史料を参照しながら、「穢」という不可思議な意識と社会秩序感覚がどのように生まれたかを明らかにしています。この
「穢れ」と「言霊」の謎:その7「神国日本」という観念は、なにも正史である『日本書紀』に記述があることを拠り所にしている訳では無い。そして、明治から先の大戦までこの国を覆った「皇国史観」と「国家神道」があったからでもない。この国は昔も今も「神話」の国で、日本人というのは「神話」の中で生きているということを理解していない。いいだろうか、この国は未だに神話の中の世界なのである。◆「言霊の幸わう国」の謎の信仰だいたい21世紀であっても、この国では「日本は言霊の幸(さき)わう国」だと
3月2日、わりと暖かい日。蓮華寺池公園の芝生広場へ向かい、必死で走った。間に合った!「お願い、だから笑って」を観賞。素晴らしいロケーション!芝生の先には、どこまでも木々が続き、美しい空が大きく広がる。ふたりの少女が、語らい踊る。彼女たちの穢れない心が胸をうつ。音楽、歌が加わり、ますますゆったり気持ちよくなる。友達ふたりと蓮華寺池を、子供の頃のように、寄り道しながら、のどかに歩いて帰った。良い日になりました。JUNKO
今朝も霜が一面に白く下りてずいぶん寒いなかをナビと朝の散歩に出かけたのですが、好天に恵まれ、日中は気温が上がりそうです。今日は3月3日、ひな祭りの日ですね。桃の節句ともいいます。「うれしいひなまうり」とい歌に「お花をあげましょ桃の花」という歌詞がありますが、桃の花は4月ごろに咲きますので、桃の花を上げたのは陰暦のひな祭りの話ですね。もっとも今は、春の七草と同じように、陽暦のひな祭りに合わせた桃の花も手に入れることができます。ひな祭りは日本で独自の発展を遂げましたが、その源流は中国にあ
「穢れ」と「言霊」の謎:その6「鏡開き・鏡割り」とは、絶対神に感謝し、無病息災などを祈って、大和民族が繁栄していくことを願った儀式であり、その雛形は、モリヤ山でのアブラハムによる「息子イサクの燔祭」にある。アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、