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人間をやっていてある程度の年月が経つと、あー、もー、やだーっ!って成るときがどんな人にでも訪れます。私たちは獣のように自分を守るための強靭なキバも鋭いツメも持っておらず身を守る術の要となるのは、先を見据える「脳」です。脳が有能であればあるほどマイナス思考に傾きます。マイナスを想定して不都合に備え、身を守るのです。不都合に備えるための思考を巡らせる中で少なからず・なぜ、自分ばかりこんな目に遭うのか・どうしてこんな思いばかりするのかの堂々巡りにぶつかります。そんな時に
さて、デトックスを始めようと、思ったタイミングで新たな学びを頂きました!『不老長生(ふろうちょうせい)』という言葉がありますが仙人になるための修行法だそうです。その中に『辟穀』と『服餌』とがあります。辟穀(へきこく)米、麦、きび、粟、豆の五穀を絶って、心身の浄化をすること服餌(ふくじ)仙人になるための体をつくるため、いわゆる草根木皮、または金属や岩石類などを薬材としてつくった薬を飲むことだそうです。※書籍やサイトなどで細かな違いがありますがだいたいこんな感じです。
タイトルを「お金とスピリチュアル」としていますが、満月・新月にお財布フリフリとかのお話ではありません。普段の生活の意識についてのお話です。この時期、いや、ずっと?お金とスピリチュアルの話題は途切れることなく出ています。・金色のお財布がよい・お札は折り曲げてはダメ・お財布は金色がよい、いや、黄色がよい・お札は下向きに入れるとお金が逃げないなどなど。たくさんの情報がありますし、その情報は相反するものもあります。どちらが正しくて、どちらが正しくないか、ではなく大切なのは
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また書きたいこととは違う記事を書いてみる。書きたいことはまだ時期ではないらしく書いても書いても携帯が落ちるか、記事が消えてしまう。。。と、いうことで←10月なので「出雲」に少し触れてみます。以前、三拍手のことを書きました★二拍手三拍手と来たら四拍手も書きたくなるもののこれもその時は書けず。今回もサラッとだけ書きます。出雲大社は「四拍手」で有名ですが、これは出雲だけのものではありません。・出雲大社・宇佐神宮・彌彦神社が四拍手の神社と挙げられます。この「四」
以前のブログに書いた記事です⬇︎⬇︎⬇︎こんばんは禅マナー講師高崎美玲です今日は、私が素敵なおばあちゃまとお話しした内容をシェア★おばあちゃまは突然言いました今の時代、子どもを産む・産まないの選択ができるのよね私たちの時代は、それができなかったの子どもを産まない、産めないということは女性、いいえ、人間失格のような時代だったのよ今は子どもがいて、孫がいて、それはそれで幸せだけど当時はそう思えなかったことがあったのそのときにね、自分に
ヒトに優しくとは道徳の授業で習いますでも魑魅魍魎に優しくとは習いませんし『優しくした方がよい』とも言われません。と、言うことは習うでもなく、言われるでもなく自ら優しくしてしまっているのです。どうせ優しくするなら魑魅魍魎にではなく付喪神に優しくしたいものです✨と、以前Facebookに書いていたんですが悪意ある生霊も魑魅魍魎も同じです。それらに優しくしたり、心を持って接したところで・くれくれ・してして・やってやっての無限ループにハマるだけなんです。
私たちは「祈り」や「願い」を行いながら生きています。まったくそんなこと無いわなんて言っても、日常で考えてみれば・明日晴れますように・テストでいい点数取れますように・お腹痛いの治りますようになどなど、神さまと特定しなくても祈りの文化は知らないうちに根付いているものです。しかしながら古くは明確に「神さま」に対して祈りや願いを行なってきました。祈りの多くは『現世利益』と呼ばれるもので商売繁盛・厄除け・縁結び・家内安全などが挙げられます。現世利益を願うことは、傲慢や欲張りに映
生霊にもいろいろ種類…いや、目的があるかと思いますが「悪意ある」生霊についての基本的な対処法を絵にしましたので、ここに載せます絵と字が下手なのはご愛嬌で(笑)まぁ、基本的にはこんな感じです。生霊の怖さをわかっている人なら嫌いな人や妬ましい人に執着などせず自らのステップアップを考え、行動します。「なんでアイツばかり…」とか執着する中で、知らず知らずのうちに生霊なんて飛ばしたら生霊から本体に探りを入れられますこんな怖いことはない。。。また、会社の経営者などの後ろには陰陽
先日、「人は他人に驚くほど冷たい」という記事をアップしました。読んでくださった方、感想をくださった方、ありがとうございます。こういった内容を講座で話すときは、講座とセットで面談の場を設けていますがその中で・どうしても乱暴な他人に腹がたつ・自分の所作がなかなか直せないとご意見を頂くことがあります。腹が立ってしまうのは、しょうがないことですが、その感情を継続させてしまうのは感心できません。ですから、発想の転換として、怒りも悲しみも他人が与えてくれる人生の彩りと考えるようにし
今日は旧暦の9月15日。書きたい内容が溜まっていますがまだ時期じゃないので我慢します。さて、今日は旧暦の9月。新暦ではもう10月も終わり頃。10月は出雲以外では「神無月」。この神無月(かんなづき)というのはあて字です。元来、神無月の「無」は「の」を意味し、神無月は「神の月」という説があります。つまり、神様を敬い、まつる月。こう考えると面白いもので・新穀を使い酒を醸す醸成月(かもなしづき)・雷が鳴り収まりつくした月で雷無月(かんなづき)・新嘗祭を迎える準備の月の神嘗(かん
「人は他人に驚くほど冷たい」だからマナーや礼儀作法、他人への心配りを意識していないと、知らず知らずのうちに他人に攻撃しがちです。これは、禅マナー講座の冒頭で話すこと。話すときと話さないときとありますが、比較的年齢の若い方が揃っているときはこのお話を入れるようにしています。SNSの普及で、たくさんの情報が迅速に手に入るようになりまた、リアルとフェイクの境も曖昧な部分があります。顕著なのは、列車での人身事故の際のツイート。人が亡くなっているとニュースが流れても・迷惑・最
昔の話ですが…一時期幽霊が怖くて怖くて震えていた頃がありました。小学校に上がる前に父が亡くなり、住み慣れた家を離れ、小さなアパートに住んでいた頃当時珍しい「母子家庭」ということでアパートの前のお屋敷に住むお婆さんにひどい嫌がらせを受けていました。家の出入りの時間をチェックされ少しでも母の帰りが遅ければ、母親のくせに子供放り出してあそんでるゴミの日にゴミを出せば中を漁り、母子家庭のクセに高い野菜買ってる母子家庭のクセにビール飲んでると手紙がポストに投函されたり玄関に
皇后陛下お誕生日に際しhttp://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/21本日10月20日は皇后陛下のお誕生日。宮内庁がWebサイトにお言葉を掲載しています。お言葉もそうですが、とても深く温かな優しさにこうべを垂れるばかりです。民間から初めて皇室に嫁がれ、そのお心の在り様は想像すら出来ません。天皇は天に祈りを捧げられます。公開されているものよりもずっとずっと多くの祈りを無私となりただ国民のためだけに祈りを捧げ続けられます。祭祀を傍らで
※高崎は霊能者ではありません。幽霊などを視るとき、「どんな姿で見えますか?」と聞かれることがありますが、その時々で見える姿は違います。魂が今世での修行を終えて次のステージへ旅だったとしても強い念いが残り、その念いが霊のように見えることもあります。つまり、見える姿は曖昧で不確かなものであることがほとんどです。しかし、ガッツリクッキリシッカリハッキリその姿が見えることもあります。それはどんな時か?その霊に「会いたい」と願う人を通じて見たとき、です。ただ会いたい
『回向』という言葉をご存知でしょうか?回向は、えこうと読みます。その字の通り、回して向かえるという意味があります。もう少し簡易に訳すると、自分が修得した善根の功徳を他に回し向けること、であり与えたら与えられ、愛したら愛されるような意味を持ちます。さて、本題へ。高崎はここ何ヶ月か度々夢の中である人の名前を呼び続けています。10月に入ってからはほぼ毎日。その人に特別な感情はありませんし、ずっとずっとその人の名前を呼び続けているのに夢に映像はありません。ただただ
年末が近づくにつれ、いろいろな「法則」が目につくようになってきました。夢を叶えるための●●の法則お金持ちになるための●●の法則モテるための●●の法則などなど、世の中には本当にたくさんの法則があります。その中でも私がいつも氣にしているのは「因果応報の法則」です。すべての行いは、自分に還ってきます。今回、タイトルに「命を捨てること」と書かせて頂いていますが自殺にしても自殺幇助にしても自分の、他人の命を捨てることに変わりはありません。また、私たちは目線を人間に向けがちですが生
名前の大切さは、以前からネチネチネチネチネチネチネチネチネ…とそれはそれはシツコク、耳にタコどころかイカとエビがついちゃうくらい話しています。なぜそんなに大切なのか?を改めてお伝えします。「名前」というのは不思議なもので、名を呼べばお返事してくれたり、振り返ってくれたり、近づいたりの行動がでます。その「名」は「あなた」であったり「自分」であったりしますが個を特定するものです。個を特定されるというのは本来ならとても恐ろしいものです。今回のブログタイトルを「名前の「呪」」と
先日、ふらりと立ち寄ったスーパーに呉服屋さんがありました。そのマネキンのお着物コーディネートに一目惚れし、フルコーディネートでお買い上げ。ついでに…と言っては何ですが近年お手入れが楽になってきています!という店員さんのお話に惹かれ正絹のお着物と作家帯を仕立てて頂くことになりました。私好みなんです♪あぁ、幸せ…ふと、氣づけばクローゼットは洋装よりも和装が多くなってきています。スピリチュアルなお仕事や、神箏を行う際はいつもお着物です。お着物って、パワーアップ道具ってご
昨日の記事の追記です。廃墟をつくってはいけない、それはわかっていても、つくってしまった場合どうしたら良いのか?廃墟には所有者がいます。決まりごととして、誰かの物の位置づけがとられ、それが国か企業か個人かの違いだけで、必ず所有されているのです。ただ、その所有者に責任能力があれば廃墟にはなり得ません。。。人間社会で言えば、・責任能力がないならショーガナイねー・所有者どこに行ったかワカラナイねーなど、自分達に「害」が及ばぬ限り、廃墟になろうが何だろうが放置してしまいます。廃墟で
こんな実験結果があります。ある小学生の女の子が瓶にパンを入れて密封し、1つ目には、ありがとう2つ目には、ばーか3つ目には、何もせず3つの瓶を同じ場所に置き、放置したそうです。1つ目には、カビがはえかけ2つ目には、カビがちょこちょこ3つ目は…、ドロドロに腐っていたそうです。「ありがとう」のプラス言葉と「ばーか」などのマイナス言葉を比較した実験はたくさんありますが、一番辛いのは無視されることだとした実験です。たしかに、存在を否定され、居るのに居ないように扱われ、声もかけて
先日のこと。ある女性と一緒に神社に参拝に行きました。手水舎で身を清め、礼をして、さぁ、柏手…という時に忍び手をされていました。※忍び手:音を立てない拍手とても不思議に思い、神様へのご挨拶をすませ聞いてみました。ある有名な霊能者の女性が、神社で女性は柏手をしてはいけない。忍び手をするのがマナーだ。とテレビで言っていたそうです。その番組を見てから、ご挨拶の際はずっと忍び手だったそうです。私のルールが世界のすべて、とは思っていませんが忍び手に納得いかずこんなお話
いつも読んでくださり、ありがとうございますさて、占いのお話。どんな時に「占いをしよう」と思いますか?自分で"する"側でなく、占って"もらう"側。私のまわりの話を大多数の意見のように語りますが、よくよく考えてみると占いをしようとするときは何かしら不安なときや自信がないときではないでしょうか?私は占い師ではありませんが「視てほしい」と頼まれることが多々あります。しかしながら視えたものをそのまま伝えているか?と言われれば、答えはNOです。私が「視てほしい」と頼まれる内容は・
※白檀の画像はウィキペディアよりお借りしております携帯電話、定期的に浄化していますか?電波と霊界・スピリチュアルというのはとても繋がりが深く相性が良いものです。そのため、共依存関係にあるといっても大げさでないくらい。また、近年では人とのご縁だけでなく、お仕事のご縁も携帯電話が運んでくる部分が多くなってきます。そんな色んなご縁を運び、結ぶ携帯電話ですが、運んでくるのは良縁とも限りません。そこで、高崎が行なっている携帯電話の浄化方法をお伝えします。高崎が行なっているのはお
不思議話をしますお好きでない方はスルーしてくださいねさて、菅原道真公の「飛梅」のお話をご存知でしょうか??ーーー菅原道真(すがわらのみちざね)が左大臣藤原時平(ときひら)の讒言(ざんげん)によって大宰府に左遷されるとき、邸内の梅の木に「こち吹かば匂(にお)い起こせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」と詠んだので、その梅の木が天満宮に飛んだという。引用元:https://kotobank.jp/word/飛梅伝説-1569262ーーー梅の木が、大好きなご主人と離れたくなくて一晩のう
テーブルマナー講座のご依頼を頂きました。ありがとうございます。実は、高崎美玲へのマナー講座の依頼の中でも「テーブルマナー講座」のご希望は多くあります。しかしながら…私のテーブルマナー講座についてはテーブルマナー講座の概念を完全にぶち壊しさせて頂いております。これは、私自身の松岡修造さん並みの熱い想いと拘りが原因です。現在のように「マナー講師」になる前、あるテーブルマナー講座に行きました。その席での講師と生徒のやりとりがとても強く心に残っているんです。生徒割りばしが
おみくじ大吉がでると喜んで大凶がでると落ち込む…。そんな氣分になりますか?今日は「おみくじの引きなおし」について書きますここ最近、スッカリおみくじを引かなくなりました。昔はおみくじや占いが大好きだったんですが、ある日パタッと引かなくなり関心が薄くなりました。そんなおみくじの歴史は古く一説によると邪馬台国の女王卑弥呼も亀卜を用い、さまざまな政治的判断を下していたそうです。そう、おみくじは、神様の御心やお言葉、ご意思とされ、さまざまな場面で重要な役割を果たしてきたん
ふと氣になりだした「この世でいつから神様と接し出すのか」私たちは生まれてから死ぬまでなんらかの形で神様と関わりつづけます自分や家族が望まなくとも、一切神様と関わりを持たないという人は居ません日本に住む中で、生活習慣に溶け込んでいる「神事」も数多くあり、意識しなければそれが神事と氣づかないこともあります人生の節目節目で神事を行っているのですそこで考えみましたいったい人はいつから神様と接し出すのか?人が神様と接し出すのは、生まれる前。カラダという魂の乗り物がつくられる前
・心願成就・大願成就・所願成就神社やお寺などで見かけたり、ご祈祷などの際に目にする言葉ですが、思いの強さは別として、これらの言葉は全て願いを叶えたい※2日連続で自分画像はジャマくさいな…という思いが込められた言葉です。この言葉に込められた思いを神職が神様に届けてくださいますが、神様のお願いは誰が叶えるのか?氣にかけたことはありますか?神様は万能だから願いごともご自分で叶えられますか?それとも全てを手に入れているから、そもそも願いごとがない?神様にも願いはあります
※たまには顏出しせんと忘れられる(笑)神社に出向き、神さまにご挨拶をすることと普段の生活の中で皆様にご挨拶すること、「挨拶」という部分では同じことです。しかしながら、やはり神さま相手というのは緊張を伴うのか、意図せず少し失礼になりがちなところがあります。挨拶や声がけをするとき、できる限り相手と目をあわせましょうこんなマナーを聞いたことはありませんか?会社や集まりなどで挨拶をするとき、集団の中で一人ひとりに目を合わせて…というのは少し現実離れしていますが目を合わせずに挨拶す