ブログ記事35件
今は何でも調べたら答えがわかるから…知ってるつもりになりやすい。見出しやざっくり要約でわかったつもりになっている。本当のことはもっと深い本当の想いはもっと深いAromatherapyroomPassport8月生まれキャンペーン中その他のお得なキャンペーンはHPをご覧くださいこちら。
例によってというか、神谷先生がちょうどよい記事を書いてくれていたのでリブログした。読んでもらえただろうか?ぜひ読んでいただきたい。そこで書かれているのは市井の人々の会話だが、内容はとても的確に重要なことを指摘している。そんじょそこらの新書など目ではない。そして、俺が感じている苛立ちもまさにこれなのだ。日本人は、考えることを重視しすぎて、知ろうとしなさすぎる。聞きかじった話だから真偽は不明だが、フランスでは日本人がやる「察する」よりも「きちんと知る」ことを重視するという。理由は「他人が考え
<権威主義>簡単に言ってしまうと「偉い人が言ってるんだから正しい」「有名人が言ってるんだから正しい」というやつだ。これの具体例を挙げるのは難しい。なぜなら、あり過ぎてどれをあげればいいかわからないからだ。例えば、料理店に有名人のサインなどを掲げるのもある意味権威主義だ。「あの芸能人が通っているんだからおいしいだろう」そんな風に思ってもらうのを期待しているからこそ掲げるのだろう。何もその芸能人が、特別味覚に優れているわけでも料理に詳しいというわけでも、ましてや自分の好みと合う保証などどこ
血液型占いというのは、いま日本で最も勢力を奮っている迷信だと思う。なぜこれほどまでに広まり、そして消えないのか?なぜ合理的にいくら否定しても無駄なのか?ちょっと考えてみたところ、ある仮説を立てた。「代わりがないから」ではないだろうか?どういうことかというと、信じている人たちの思考や生活の中で、それは何らかの重要な役割を果たしていて、科学で否定されてもその代わりにその役割を果たしてくれるものが現れない限り、彼らはそれを使いつづけたいと願う、ということ。「核兵器がなくなるのは、核兵器
・<対人論証>議論の内容ではなく、論争相手を攻撃すること。例:スミス師は聖書根本主義者である。したがって、スミス師が進化論に対してどんな反対意見を唱えようとも、まともに取り合う必要はない。・<権威主義>例:リチャード・ニクソン大統領をぜひとも再選すべきである。なぜなら、ニクソン大統領は、東南アジアでの戦争を終結させるための計画をもっているからだ。あいにくそれは極秘計画なので、選挙人にそのすばらしさをわかってもらうすべはない。(これは「大統領なのだからニクソンを信頼しろ」ということに等しい
「身びいきをするな」これはまあできてない人多いだろう。特に年寄り。年寄りの自分への身びいきは目に余る。「自分は今までこうしてきた。だからこれは正しい」こんな発言を何回聞かされたことだろう。まさに老害。“トンデモ話排出マン”だ。「定量化しろ」「定量化」とは聞いたことがないかもしれないので説明すると、簡単に言うと「ポイントを付けろ」ということ。例えば、お笑いの「おもしろさ」。これは普通個人の主観によってきめられているものだが、そこを「笑い声の大きさ」などを計測し、その数値を「おもしろさ」
「仮説は複数立てろ」これはどれだけやっているかいないかわかりにくいところがある。なにせ、口に出すのは一つか二つだとしても、人の頭の中ではいろんな仮説を立てているかもしれないからだ。しかし、個人的にはやってないような気がしてならない。なぜって理由はいくつかある。・こちらがいろいろ仮説を立てていてもひとつしかきいてくれない。・いくつか言ったとしても、それだけたくさん考えていることを笑われる。不思議がられる。・一つしか仮説をあげず、それを妙に断定的に言う。「それ以外考えられない」とか言って
・裏づけをとれ。「事実」が出されたら、独立な裏づけをできるだけたくさん取るようにしよう。・議論のまな板にのせろ。証拠が出されたら、さまざまな観点を持つ人たちに、しっかりした根拠のある議論をしてもらおう。・権威主義に陥るな。権威の言うことだからと言って当てにしないこと。権威はこれまでもまちがいを犯してきたし、今後も犯すかもしれない。こう言えばわかりやすいだろう。「科学に権威はいない。せいぜい専門家がいるだけだ」・仮説は複数立てろ。仮説は一つだけでなく、いくつも立ててみること。まだ説明
お互いの「常識」は否定しない。ただし、他人と話し合う時が来たら、それは「自分にしか通じないもの」という点を自覚し、いったん棚に上げ、事実と論理で実証可能なものによってのみ話をする。もし実証ができなくても、可能な限り合理的であることを目指して話し合う。「常識」はわきへ置いておくだけだ。否定も肯定もしない、ただ、議論の俎上に乗せないようにするのである。それは、「幽霊を信じる」という「考え方」自体は否定しないのと同じである。議論の結果、誰かの「常識」が否定されるかもしれないが、それはあくまでも事
話し合わずに分かり合えた時、それで得するのは、ちょっとした時間ぐらいだろう。そんな少しの時間を惜しむほど、皆は話し合いが嫌いなのか?俺がこれほど、会話に合理性を求めるのには理由がある。推測によるすれ違いを引き起こすのは「常識」のせいだと思う。「常識ではこの場合こういうことを考える」「常識では、こういう言い方したら裏にこういう意味が込められている」「常識ではこれで喜ぶはず」「常識ではこれは嫌がるはず」そんな風に、常識をもとにして「察して」「言葉の裏を読んで」人と接しているように思う。しか