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自分は煙草を吸うわけでもないですが、煙草を吸うなということを書こういうわけではなく、電子タバコを吸い方が傍から見ていてちょっと気になる。従来の煙草は、軽量だから口に加えて他の作業などもできましたが、電子タバコは重そうでとても煙草のようには扱え無さそう。口の先端をストローのように着けて、電子タバコを吸っている姿をちょくちょく目にしますが、まだ格好いい吸い方が確立していないような気がします。道具が必要ということで、近いものといえば煙管やパイプが思い浮かびます。特に煙管は男女、武士
今日も時間の合間に、、、、、、っていうか、、、昼飯前に、、、ダッシュで割り出しをしました。。。(^^)/小ケースに小さい材を1本入れてあります。。。マットの上に盛り上がってます。。。んんん???材の食いカスですか???わからん。。。はい!パカンと、、、(^^)/第一町人(幼虫)発見!!!ww0.9グラム。。。一令?二令?
いよいよ、この物語の山場当時の町人言葉で赤穂浪士を称える思いが今も新鮮になって、伝わってくる^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^物珍しげに見ていた喜剣・・・「あーこりゃ、町人、あーこりゃこりゃ町人、こりゃ町人、町人と申すに」「なにおっ!なにが町人で。えーっ、偉そうな口を叩きやがって何が町人、何が」「いやいやいやいや、やめろ!てめえは酔っぱらうと向こう
『ことばづかいについて』-司馬遼太郎世の中のできごとは○×では断じにくい。しかし煮詰めてしまえば、答えは出る。お行儀、特に言葉づかいについて述べたいが、結論は先に出ている。言葉使いのいいほうがよろしく、長い人生を考えたときには、相手に与える印象はずっとよくなる。しかし×のほうから述べたい。つまりことばが悪いほうが的確な表現ができるというのも事実である。航空会社でスチュワーデス(今風にいえばキャビン・アテンダント)をしていた女性が、名だたる河内弁の世界に嫁入りしてきた。彼女は頭もよく、
『極道辻説法』ー今東光●ケンカが一番強かった作家は?✪そういやあ、昔の文壇には、ケンカの好きな奴がうんといたな。一番すげえのが葛西善蔵で、同期生がどれだけ奴に泣かされたことか。宇野浩二、広津和郎、谷崎精二、相馬泰三、みんな泣き通しだよ。すぐ絡んできて、ケンカ吹っかけてきて、それで仲間だけじゃなく、よその人ともやったんだから。宮島資夫なんてアナーキストなんか、ドス持ち歩いて、「今東光を殺す!」とか言ってよ、もううるさいのがたくさんいたね。葛西なんかもオレをやっつけてやるなんて言ってい
友貴の金沢よもやま話兼六園で飼われていた謎の動物!今回は、兼六園で飼われていた謎の動物クイズです。1821年(文政4年)。加賀藩はある動物を幕府からもらい受け、兼六園の土蔵で飼い始めました。さてその動物とは?ヒント「ある産業に成り得るかもしれない動物」1七面鳥鶏肉販売を行い、食肉業を興す2虎珍しものを見に来た人から入園料をいただき観光業を興す3羊綿羊を増やして毛織物産業を興す答えは3番です。加賀藩は幕府から4匹の綿羊をもうらい受け、兼六園内の土蔵で飼育を始
韓国時代劇みてると、日本は、全国に配置された大名が各々、自分の国のように考えて統治する方式でよかったなと思う!朝鮮王朝は、中央から派遣された地方長官が統治する、中央集権方式なんだけど!これまた、任期があるし中央の役職につく可能性があるもんだから、地方振興に熱心じゃないんだわ!韓国時代劇にでてくる、地方官には、だいたいろくな奴は、でてこない!中央の目の届かないのを、いいことに重税をかけて、懐を肥やす奴がよく、でてくるんだわ!なんか、両班という貴族身分でも、科挙という試験に受からねば、官
自粛中は「まんが日本史」で歴史を学び直しています笑半分くらい見終えたところで改めて気がつきました流行病や疫病は古代から定期的に起きていて誰にもどうにも出来ない事態だったこと身分の上下関係なく罹患して大勢の命が失われてきたことです今よりずっと人口が少なかった時代にも何万人という規模で幾度も農民や町人が亡くなったり各時代の権力者や将軍でさえもたくさん命を落としてきたことが描かれていますほんの一例ですが足利義満の父親も流行病で亡くなり↓↓↓あとを継いだ三代将軍義満は将軍
第十八候「ぼたんはなさく」新暦:4/30-5/4ころ。「牡丹散りてうちかさなりぬ二三片」蕪村鯉のぼりの時節。博多では博多どんたく。「博多どんたく」は、治承3年(1179年)に始まったと筑前国続風土記(貝原益軒著)に記されている「松ばやし」をその起源とする凡そ830年余の伝統行事である。筑前国続風土記には、『平安時代、京都御所の正月、宮中参賀の行事が地方に伝わり、この博多では源平時代のち冶承3年(1179)、正月15日、松囃子を取行う…』とある。以来、祝いあう行事
ドラゴンクエストⅢ「そして伝説へ」8←YouTubeカザーブから北に進むずっこけパーティー町があったので立ち寄ると町人は、みな寝ている立ったまま寝る何て器用だなと思う勇者だった
はやくも4月の半ばです。昨日はDVDで「チョコレートドーナツ」という映画を見ました。同性愛がまだ偏見に満ちていたころのアメリカの話です。ちょっと涙ぐんだりしながら見ました。さて、20代の芭蕉ですが、彼のいた伊賀上野の俳句グループは、当時のいわゆる貞門の俳句グループです。松永貞徳を中心にしたのが貞門ですが、実は貞徳はすでに亡くなっており、寛文5年、芭蕉21歳の年には藤堂蝉吟主催の「貞徳翁13回忌追善俳諧が開かれ、芭蕉も参加しています。蝉吟を囲む伊賀上野の主だった俳人が集まって貞徳を追慕しまし
『松下政経塾講話録(5)』●渡部昇一(1930~)上智大学名誉教授✪40年周期で江戸文化が壊れる-①この田沼の時代の後は、奥州白河から、松平定信という人が江戸に来ます。松平定信は、奥州白河では名君でしたが、江戸では、歌舞伎の役者の給料が主演級になると年500両だとか、女形でも400両だとかいったことを見聞きすると、「堕落している」と思い込むことになります。そこで、またまた享保の改革の時と同じように、大きな人形を作るべからず、金糸銀糸の織物を着るべからず。羊羹は食べてはいけな
こんにちは、かんじです🤗本日は高杉晋作さんについて書いていこうと思います。高杉晋作さんは、幕末の上流武士の子として生まれ、幼い時から負けん気の強い子でした。14歳で、名門校明倫館に入り、学問を勉強しますが決まりきった授業に嫌気がさし、落第を繰り返してます。そんな中、友人の久坂にたまたま会い、吉田松陰さんが開校した松下村塾の話をされます。そして晋作さんは松下村塾に対してすごい興味を持ちます。なぜなら、松下村塾では江戸幕府が禁止しているような教育をさせているからです
(内容がうまく伝わりづらかったため3月26日、大幅に書き直しました。)カフェ・モンタージュ、“音楽の捧げもの”公演。皆様お楽しみいただけましたでしょうか?まだの方は是非こちらからどうぞ!(演奏は32:04から始まります。)昨晩は余りにも急なお知らせとなってしまい申し訳ありませんでした。何と言っても今回は開演まで出演者未発表、という大変異例な公演。演奏会が今、どのような形でれあば実現可能なのかについて真正面から向き合う事が、まず第一のコンセプト。客席をできる限り減らし距離を取り、1曲ごとに換
今、密かにドラクエウォークにハマっている。俺って昔からこういうゲームをやり始めると、全てのアイテムを手に入れ、全ての町人と会話して、全てのキャラクターをレベル99にしないと気が済まなかった。ゲームなのに、もはや苦行。そんな、チョッピリ病的個性的なキッズだったから、しばらくこういうゲームとは距離を置いていた。そんな折、イケメンYouTuberのJASHくんがドラクエウォークを紹介してるのを見て、興味津々。↑JASHくん、イケる。ポケモンGOと同じで、一定距離を歩く必要がある
こんばんは再び原稿を書いておりますが、今までのお題の中でも落とし所が難しく、、気分転換に公園へ行って参りました👒🌿日本の文化は西洋と違い、町人文化なので、記述が残されていない事が多いのですよね。。しかし、掘り下げて行き結びついた時の爽快感はたまりませんね!少しでも、先人が育んできた文化を責任を持って継承出来る様に取り組んで参りたいと思います♫素敵な週末をお過ごし下さいませ✨
お晩です!今宵も「爺ィの夜話」をどうぞ!第53話は・・3月2日は遠山の金さんの日1840年(天保11年)のこの日、遠山の金さんこと遠山金四郎景元が江戸北町奉行に任命されました。彼は天保12年(1841年)に始まった天保の改革の実施に当たり、分不相応の贅沢と奢侈の禁止を命令し、風俗取締りの町触を出したり、寄席の削減を一応実行しているなど当初は方針の一部に賛成していました。市中取締書留が、町人の生活と利益を脅かすような極端な法令の実施には反対。南町奉行の矢部定謙と共に老中・水野忠邦や
『司馬遼太郎が考えたこと』ー司馬遼太郎●ああ新選組ー④✪とにかく、山崎は、歩兵小隊長として、中国へ出征した。部下に近所の家具屋の息子とタバコ屋の息子がいた。大阪という都会は三百年来、町人共和国のような形で発展してきた街だから、階級の観念が乏しく、他の城下町出身者のような封建武士的な美意識をもたず、私をふくめて、いやに馴れ馴れしいやつが多い。だからタバコ屋も家具屋の息子も、一等兵のくせに、少尉の山崎に、「ちよっとタバコの火イ貸してんか」という調子だった。塹壕戦になり、弾が雨アラレと飛
『司馬遼太郎が考えたこと』ー司馬遼太郎●ああ新選組ー③✪この新選組の子孫が大阪の歩兵八連隊に入隊した。八連隊というのは大阪の町人連隊で、日本最弱の軍隊といわれ、日露戦争以来、「またも負けたか八連隊」という唄がはやったほど。日華事変のとき、中国兵が、八連隊が進軍してくるとマイクでそうからかったそうだから国際級の名声があったわけだ。ついでだからいっておくが、戦後の軍隊小説の白眉といわれる野間宏の「真空地帯」は、この八連隊を舞台にして生まれた。他の連隊ならば、おそらく違った小説になっていただ
貰って嬉しかったプレゼント・・・・。其れは真心・・・・なんて歯の浮いたような事は言いません♪♪趣味・嗜好に掛かる実利的なモノを戴いたら嬉しいですよ~。MiniAmplifierとかSpeakerにCDPやAmplifier・・・・。デッドストックのカートリッジとかDAC・・・・・なんぞもね。そりゃアナタ。お小遣いを工面して、旨く動作するか何時故障するか分からない中古品を漁るより・・・。出所のハッキリした現役品を頂いたら使用するのにも安心ですからね~。だからハッキリ言います。友達
日光江戸村ワンダーランド忍者運んでもらいました!越後まで時空の空間前町娘と町人と忍者に変身さーて修行じゃにゃんまげソフト焼き餅🍡三色団子🍡にゃんまげカスタードにゃんまげチョコひとやすみ忍者の戦いドロン
街に賑わいを創出する事を目的に五日市活性化委員会で『五日市・増戸雛巡り』と言う事業があります。新聞折込みにチラシが入りお手元に有る方もいると思います。一応事業内容は、期間1ヶ月五日市・増戸地区の参加店で自前の雛人形を飾ってもらい、地区内外の方に散策しながらスタンプラリーを集めてもらいます。歩き街の良さ町人との交流おもてなしを通して五日市・増戸地区を知ってもらうそんな事業です。参加店には各々飾りつけをしてありますが、その他、街の小学生達の(五日市小・増戸小)想いのこもったお雛様作品を作ってもらい
犬山城を見学の後は、城下町を散策しました。この城下町は城の築城に伴い、元々あった町を整備して作られたそうで、中央部に町人町を置き、それを囲むように侍町を配置し、城下町の外周を木戸や堀、土塁等で取り囲む総構えの城下町として守りを固めていました。現在も江戸時代と変わらない町割りが残り、江戸から昭和までの歴史的な建造物が立ち並びます。途中でこんな灯篭を見つけました。(徳川光友と関係があるようです)高札場跡。山車蔵(やまぐら)・・最近はこんな木造の蔵が少なくなり、国の登
南座まで30分以内に住んで18年くらいになるけど中に入ったのは初めてなのです✨なんせBIGなおサイズの提灯なので待ち合わせとかには使ったことありますが。お気に入りのカフェで集合&小腹を満たして南座に足を踏み入れます❤︎階段とかね。トイレとかね。見に行きたいところが沢山♡笑電気も素敵✨今回の舞台は一階席は全て町人としてお芝居に参加二階三階は天上人として劇中のお話に合わせて投票する形で参加できます。どのように人を動員するのか、
お早うございます🌞風が冷たい朝です。今朝は、虹が、ふたえにかかっておりましたよ。絶対いいことありますよ~👍それにしても、大変❗コロナウィルスの中国人我が県でも二人。そして、一人は、若い20才の中国人武漢からの人です。それが、我が町の病院に入院。しかし、もっと、詳しく住まいも限定してほしいです。町人が、パニックになり、マスクが買い占められ、どこにもないとふあんがっています。ますます、パニック🌀😱がおこります。確実な発信元をきめないと、テレビであおられて、ますます、収集つかなく
小早川秀秋、、、わしのプロフィールじゃ豊臣秀吉の養子になり、幼少より、寧々叔母さんに育てられたでござる。官位も従三位・中納言になり秀吉叔父さんの後継者になるはずだったのだが、、、文禄2年に秀吉に実子・豊臣秀頼が生まれたことにより、秀吉叔父さんの部下の小早川隆景の養子に出されてしまう。小早川隆景の養子となり小早川秀俊と名乗る。小早川隆景の死後、小早川秀秋に改名。今日は名古屋城を案内しよう。名古屋は織田信長様の支配地で尾張(愛知県名古屋市)にあったのじゃ。尾張の中心地に清州城があったのじゃ。豊臣