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この日最後は二十三番札所の東寺東寺[とうじ]東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えました。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続しています。昭和9年(1934年)に国の史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されました。南大門(重要文化財)明治
法性寺から九条方面へ2キロ目指すは二十二番札所の城興寺城興寺[じょうこうじ]瑞寶山城興寺と号し、真言宗泉涌寺派の寺ですが、もとは四宗(顕・密・禅・律)兼学の道場で比叡山の管理に属していました。平安の昔、藤原道長の孫で九条太政大臣と呼ばれていた藤原信長(1023~1094)は四至を現在の竹田街道・室町通・九条大路・東寺道とする広大な地に彼の邸宅九条殿を構えていました。そして応徳二年(1085)邸内に丈六佛を安置する九条堂を建て、城興院と名づけました。三代後の関白藤原忠実(1077
泉涌寺から東福寺駅方面に歩いて…法性寺へ向かいます法性寺【ほっしょうじ】延長二年(九二四)に藤原貞信公忠平が創建した藤原家の氏寺です。以後、平安時代を通じて戦火で焼失するも、藤原家一門の加護を受けて発展し、忠平八代の末孫藤原忠通のころには、金堂、五大堂、灌頂堂、三昧堂等、百棟を数える堂塔伽藍が建てられ、京洛二十一ヶ寺の一つに数えあげられるほどの寺観と荘厳を具備した名刹です。以来、公卿の政権は衰えて武士が政権を行うようになり、平安の都も戦乱の火中となって、応仁の乱には
今熊野観音寺から泉涌寺へ泉涌寺【せんにゅうじ】泉涌寺は、825年(斉衡2年)、左大臣藤原緒嗣が創建した法輪寺を起源とし、仙遊寺と改名された後、1218年(建保6年)に月輪大師(俊じょう)が宇都宮信房から仙遊寺の旧地の寄進を受け、1226年(嘉禄2年)に伽藍の完成をしました。その間、寺地の一角から清泉が湧き出したことにより泉涌寺と改められています。月輪大師に寺を寄進した宇都宮信房は、宇都宮氏の祖藤原宗円の次男。寄進には源頼朝の要請があったといわれています。真言宗泉涌寺派総本山で、本
善能寺から同じ泉沸寺の境内にある今熊野観音寺へ歩いて5分くらいで到着今熊野観音寺【いまくまのかんのんじ】平安の昔、弘法大師空海上人が唐の国から帰国され、東寺において真言密教の秘法を修法されていた時、東山の山中に光明がさし瑞雲棚引いているのをご覧になられました。不思議に思われてその方へ慕い行かれると、山中に白髪の一老翁が姿を現わされ「この山に一寸八分の観世音がましますが衆生済度のためにこの地に来現されたのである。ここに一宇を構えて観世音をまつり、末世の衆生を利益し救済されよ。」と語りか
三十三間堂から東福寺方面へ歩く事…2キロ弱洛陽三十三所観音霊場十八番札所の善能寺にこの辺りは緑に囲まれて、癒されます泉涌寺の西の受付を出て、階段を下るとたどり着きますよ善能寺【ぜんのうじ】平安時代の大同元年(806)、弘法大師・空海によって八条油小路あたりに創建されたと伝えられています。その後、平城天皇(第51代)の勅願寺となり「二階堂」と呼ばれるようになりました。その後、天文20年(1551)に後奈良天皇(第105代)の勅命により、泉涌寺山内に移されました。山門緑…
今回は十七番札所からニ十三番札所まで!まずは京都駅から東に2キロ!三十三間堂へ向かいます三十三間堂【さんじゅうさんげんどう】三十三間堂は、正式には蓮華王院[国宝]といい、長寛二年(一一六四)鳥辺山麓[現・阿弥陀ヶ峰]の後白河上皇、院政庁「法住寺殿」の一角に平清盛が造進した。約八十年後に焼失したが、すぐに復興に着手し、文永三年(一二六六)に再建された。その後、室町・桃山・江戸そして昭和と四度の大修理により、七〇〇年間保存されている。普門閣チケット売り場になっていて入口に
六波羅蜜寺から四条方面に歩いて行きます四条大橋から見た鴨川いつみても綺麗な川です京都四条南座日本を代表する伝統芸能のひとつである歌舞伎江戸時代(1603~1868年)初期に出雲阿国という女性が京都の市中で演じた「かぶき踊り」をルーツとし、元禄期(1688~1704年)には、現代まで受け継がれているスタイルが確立されたと言われています華やかな衣装や大胆なアクション、「隈取」と言われる独特のメイクとともに演じられる物語は、常に時代の流れを取り入れ、古典でありながら最先端の芸能として観客を
清水寺から次は十五番札所の六波羅蜜寺へ六波羅蜜寺[ろくはらみつじ]六波羅蜜寺は大和大路通りより一筋東の通りを松原通りから少し下ったところにある真言宗のお寺で、都七福神まいりの一つ(弁財天)でもあります。951年に空也上人によって開創された西国三十三所観音霊場の第十七番札所です。当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市内を曳き廻った。また、青竹を八葉の蓮片の如く割って茶を点て、中へ小梅干と結昆布を入れて仏前に献じ、その茶を病人に授け、歓喜踊躍(
令和5年7月18日(火)今日は朝から清水寺に行くことにした。08:00頃自宅を出る。京阪電車で清水五条駅まで行き、五条坂を歩きで清水寺に向かう。徒歩で約20分〜25分09:00前に清水寺仁王門に到着する。朝からかんかん照り。既に汗だくになる。仁王門前は記念撮影スポットとなっている。石段を上がり、右手に西門・三重塔、左手に鐘楼があり、鐘楼の横を通り抜けと随求堂がある。随求堂には、大随求菩薩(秘仏)が祀られている。胎内めぐりが体験できる。随求堂の右手に経堂があり、道なりに歩
清水寺final長かった清水寺も最後です最後までお付き合いありがとうございます泰産寺からみた清水寺の本堂と三重塔泰産寺泰産寺(たいさんじ)は清水寺・子安塔(こやすのとう・子安の塔)を守護する清水寺の塔頭塔頭は祖師や高僧の死後、その弟子が祖師・高僧を慕って寄り沿うように創建した小さな寺院なのだぁ泰産寺は子安塔の麓に創建されています子安塔子安塔は寺伝によると730年(天平2年)に第45代・聖武天皇の后・光明皇后が清水寺の仁王門前に建立し、聖武天皇・光明皇后の祈願所だったと言われてい
清水寺part4~まだまだあるぞぉ花手水派手じゃないのも素敵です🥰濡れ手観音濡れ手観音は水垢離(みずごり)の行を本人に代わって行ってくれる観音さまで、北隣にある蓮華水盤から柄杓で水を汲み、濡れ手観音の肩から掛け、心身の清めと所願成就を祈願します蓮華水盤の水は音羽の滝(おとわのたき)の水源の真上に湧き、金色水(こんじきすい)とも言われてるんやって一般的に水垢離は神仏に祈願する前に水(冷水)を浴びて身を清め、罪や穢れ(けがれ)を洗い落として心身を清浄にすること修験道(しゅげんどう)で
清水寺part3!可愛い手水随求堂前に「景清の爪彫観音」があります灯籠の火穴の部分に、平安時代後期-鎌倉時代の平家の武将・平景清が獄中で爪で刻んだという観世音菩薩像が祀られています本堂洛陽三十三所観音霊場十二番札所「清水の舞台から飛び降りる」このあまりに知られたフレーズは、数多くの寺院が密集する京都の東山の中でも特に有名な寺院で、清水寺の本堂で生まれた成句やね戦後に法相宗から独立した、北法相宗の大本山である音羽山清水寺は、長い参道を登り詰めたその先、清水山(音羽山)の中腹に位置
清水寺part2だぁ~梟の手水鉢その台座に梟が彫られ、清水寺七不思議に数えられています梟は室町時代の御伽草子(おとぎぞうし)「鴉鷺合戦物語(あろかっせんものがたり)」に登場する梟を擬人化した「梟木工允谷朝臣法保(ふくろうもくのみつやあそんのりやす)」を意味するものではないかとも言われています梟木工允谷朝臣法保は姿が醜いが、物知りで絶大な法力を持っているとも言われていますなお梟の手水鉢には口を漱ぐと歯痛・頭痛が治まるご利益があるとも言われているんやって一般的に手水鉢は神仏の前で口をすす
今回は清水五条駅に十番札所から十四札所は清水寺にあるんです清水寺…五番勝負だぁ~清水寺【きよみずでら】音羽山清水寺の開創は778年。現代から遡ること約1250年前です。大きな慈悲を象徴する観音さまの霊場として、古くから庶民に開かれ幅広い層から親しまれてきました。古い史書や文学のなかには、多くの人々が清水寺参詣を楽しむ様子が描かれています。京都の東、音羽山の中腹に広がる13万平方メートルの境内には、国宝と重要文化財を含む30以上の堂塔伽藍が建ち並びます。創建以来、10度
大蓮寺からねねの道を通り次の九番札所の青龍寺へ向かいますねねの道ねねの道は高台寺の西側、東山の円山公園から清水寺方面へと抜ける全長約250メートルの美しい石畳の道豊臣秀吉の正室ねね(北政所)がこの地で余生を送っていたことから「ねねの道」と名付けられたんやねねねの道には電線が見えません!電線は地中に敷かれ、古都京都の風情が存分に感じられるよう配慮がなされていますまたねねの道は桜や紅葉など四季折々の美しい自然が楽しめる絶好の散策スポット!京都の四季を歩いて感じたいね青龍寺【せいりゅ
聞名寺から大蓮寺へ向かってます。東大路通から仁王門通へ入りまして、振り返って一枚。仁王門通から西寺町通に入りますと…、大蓮寺に到着です。走り坊さん😳明治から大正にかけて実在した大蓮寺のお坊さんで、御札を配ったり、貧民窟で施したりしながら、市中を一日中走り回ってたんだそうです。一日に60kmくらい走ってたそうで、大蓮寺では『足腰健常の御守』を授与されています。自由に空飛んだとか、紫の雲に乗ってやって来たとか、中国から投げた三鈷杵が落ちた場所が高野山だったとか、んな訳ないやろ的な言い伝
長楽寺から八坂神社を抜けて西へ爆進!八番札所の大蓮寺へ向かいます大蓮寺【だいれんじ】慶長五年(一六〇〇)開山専蓮社深譽上人が荒廃の京都伏見の里を念仏行脚している時、金色に輝く阿弥陀様が参拝する人のないお堂に放置されていたのを発見し、もったいなく思い持ち帰り新たにお堂を建て本尊として奉られ、法然上人の専修念仏の教えを旨とし大蓮寺を建立しました。山門安産の寺の由来は、慶安三年に後光明天皇の皇后陛下が懐妊された時、二世霊光和尚に安産祈願の勅命を下し給わり、念仏祈願の功徳あり同年十月
金戒光明寺から三条、四条と歩き…八坂神社を越えて長楽寺へ長楽寺【ちょうらくじ】延歴24年(西暦805)桓武天皇の勅命によって、伝教大師を開基として大師御親作の観世音菩薩を本尊として創建された。当初(平安時代)は天台宗・比叡山延暦寺の別院として建てられましたが、その後室町時代の初期当時の一代の名僧国阿上人に譲られ時宗(宗祖一遍上人)に改まり、明治39年に時宗の総本山格であった名刹七条道場金光寺が当寺に合併され今日に至ります。また、当寺はもともと円山公園の大部分を含む広大な寺域を持
真正極楽寺から600m近い?ほうかな六番札所の金戒光明寺へ向かいます金戒光明寺【こんかいこうみょうじ】法然上人がはじめて草庵を営まれた地です。十五歳で比叡山に登られた上人が承安5年(1175年)四十三歳の時お念仏の教えを広めるために、山頂の石の上でお念仏をされた時、紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことからこの地に草庵をむすばれました。これが浄土宗最初の寺院となったのです。紫雲山・くろ谷金戒光明寺西山連峰、黒谷の西2キロの京都御所、西10キロの小倉山を眺み山門、阿
今回は神宮丸太町駅からスタート洛陽三十三所観音霊場五番札所から九番札所をまずは神宮丸太町駅から2キロ東山方面へ真正極楽寺【しんしょうごくらくじ】真如堂【しんにょどう】真如堂は、正式には鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらくじ)といい、永観2年(984年)に戒算上人が開創した、比叡山延暦寺を本山とする天台宗のお寺です。「極楽寺と名乗る寺は多いが、ここが正真正銘の極楽の霊地」という意味を込めて名づけられ、その本堂を表す「真如堂」が通称として定着しました。衆生済度、特
護浄院から数分四番札所へ行願寺(革堂)【ぎょうがんじ(こうどう)】革堂行願寺は一千年の歴史をもつお寺です。創建当時は一条通りにありました。戦乱や火災でいくたびも焼け、場所を替えつつも、人々の熱烈な信仰によってつねに都の中心部に再建されました。現在も西国観音霊場の第十九番札所として全国に知られる名刹です。山門革堂は市街地の中にある寺で、それだけに境内は狭く建造物が建て込んでるなぁ一般の家に挟まれた状態でこぢんまりしてます手水鉢めちゃお洒落やね龍もいいけどこんなのも楽しい
洛陽もかなり進んできまして、今年中になんとかしたいな…🤔雙林寺から長楽寺に向かいます。歩き出すとすぐにあるのが大谷祖廟。どうしても御朱印をメインに動いてますから、浄土真宗系に足が向かないのね。霊場巡りが一段落したら、浄土真宗系の寺院にも行ってみたいなと思ってます。雙林寺から長楽寺へは2〜3分ほど。はい、着きました。春季特別展として建礼門院秘宝展がやってたんですけど…、1500円…🙄御朱印だけいただいて帰るのもどうかな思ってて、できるだけ拝観するようにしてるんですけど、1500円
六角堂から次の二番札所は新京極の誓願寺!錦市場を通って向かいます誓願寺【せいがんじ】誓願寺は飛鳥時代、天智天皇6年(667)、天皇の勅願により創建されました。もともとは奈良にあったのですが、鎌倉初期に京都の一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入る)に移転し、その後、天正19年(1591)に豊臣秀吉の寺町整備に際して現在の三条寺町の地に移されました。山門左の石碑には…迷子のみちしるべ迷子のみちしるべは、行方不明になった子どもや落とし物を探すための石柱があるんです奇縁氷人石と
今回から京都の洛陽三十三所観音霊場巡りが始まりまぁ~す洛陽三十三所観音霊場京都の寺院が、札所(霊場)に含まれるものとして有名なのは「西国三十三所観音霊場」なんよね近畿二府四県と岐阜県のお寺からなり、かなり広範な霊場巡り一方で“洛陽三十三所観音霊場”は、言うなれば、“西国三十三所観音霊場の京都市内版”「京都府内」ではなく「京都市内」に点在する、観音様を祀る33の札所をお参りするという、非常にコンパクトな霊場巡りなんですぅ~“人々の様々な苦しみや悲しみを取り除き、幸せへと導いてくれる”と
八坂の塔から、ものの2〜3分。洛陽札所の青龍寺へやって来ました。門前に撮影禁止とあります…😑インターフォン鳴らしますと、お入りくださいとのことで、横の小さい扉からお邪魔しました。こちらは庫裏の玄関。にこやかな奥様に出迎えていただきまして、洛陽の御朱印帳を預けました。その際に、やっぱり写真撮影は禁止なんですか?と尋ねますと…、『いいですよ』とのお返事。えっ?いいの!?😳境内の写真撮られるのを、ご住職があんまり好きじゃないそうですけど、いいらしいです😅なので、遠慮がちに数枚だけ
令和5年5月26日(金)今日は久しぶりに年休を取得する。母は午前中、デイケアに久しぶりに行く。午後から、ヨドバシカメラにエアコンを下見に行き、工事費の見積りを依頼した後、革堂行願寺に本尊のカラー御影を授与していただくため立ち寄る。革堂行願寺は西国三十三所観音霊場第19番洛陽三十三所観音霊場第4番神仏霊場巡拝の道京都第34番都七福神めぐり寿老神の各札所となっている。宗派天台宗開基行円上人本尊千手観音創建1004年革堂行願寺は西国三十三所観音霊場としては唯一の尼
令和5年5月21日(日)今熊野観音寺を出て、泉涌寺に向かう。09:20頃泉涌寺に到着泉涌寺は御寺と称する天皇家・皇室と深く関わりのある真言宗泉涌寺派な総本山で、皇室の菩提寺として、また諸宗兼学の道場として清浄無垢の聖地となっており、周辺は月輪陵など御陵が点在するところである。〈御寺泉涌寺〉仏殿。大門横の石碑。大門。大門から仏殿まで下り坂となっている。楊貴妃観音堂。聖観音(楊柳観音)が安置されている。浴室。舎利殿。舎利殿の東側に御座所に入る勅使門。霊明殿唐門。霊明殿
令和5年5月21日(日)昨日夕方、母の介護ベッドが搬入・設置された。部屋のレイアウト変更を行った。昨夜は、ベッドで寝られるか不安だったようだが、よく寝られたみたいだった。朝早くから、テレビの設置場所の変更を改めて行う。寝ながら楽にテレビが見られるかたちにした。また、スイッチ類も寝ながら手が届き操作し易いように向きや置き場所の調整を図った。1時間程で完了する。母は、ほぼ満足してくれたようだっだ。そんなこんなで、スーパーに買い物に行く前に、近場の今熊野観音寺と泉涌寺に行くことにした。0
お久しぶりです。大丈夫、生きてますよ(笑)。この間も、観音巡礼&不動巡礼はみっちり行っておりました。報告したい事が一杯あるんですけどね...ちょっと書込み回数を意図的に抑制しようと、決意した次第。いやいや...別に体調を悪くした訳でも、家族に不幸があった訳でも、仕事が忙しくなった訳でもありません。ちょっと、個人的にトライしたい事が出来ましたので、それに集中しようと決断したまで。実に前向きな挑戦ですので、ご心配なく。私の場合、書き始めると止まらなくなる【癖】がございますのでね