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源頼朝(1147~1199)・・・鎌倉幕府初代将軍。源義朝の三男、母は熱田大宮司季範の娘、妻は北条政子。平治の乱後の処分で、伊豆蛭ケ小島に配流。治承4年(1180年)平氏打倒の兵を挙げ、石橋山で大敗するが、安房に逃れて勢力を拡大、鎌倉を本拠として東国を支配する。源義仲、平氏、奥州藤原氏を滅亡させて、建久3年に征夷大将軍となり、我が国初の武家政権を樹立した。11月末の平日鎌倉日帰り旅の続きです。源頼朝の邸宅であり、鎌倉幕府初期の政治の中心であった大倉幕府旧蹟(大倉
2022.11.24-26奈良県御朱印めぐり⑭です手向山八幡宮をお参りした後は、東大寺三月堂•四月堂をお参りしました手向山八幡宮の北側の鳥居です右手にある校倉造の建物が「法華堂経庫」なんと奈良時代に造られた建築物ですかつては校倉造の代表建築として教科書にも載っている「正倉院」のそばにあったんだとか手向山八幡宮の宝蔵として移築されましたが、廃仏毀釈で東大寺の帰属へ…複雑な歴史です三月堂(法華堂)です8世紀後半、天平年間の創建と考えられている東大寺最古の建物です不空羂索
北条義時夫妻の墓(伊豆の国市:北條寺)『吾妻鏡』によると・・・1224年(貞應3年)6月12日辰の刻(午前8時頃)、北条義時が倒れます。ここ数日、調子が悪かったのですが、格別に変わったことはなかったようです・・・陰陽師が呼ばれて占うと、大事には至らず、戌の刻(午後8時頃)には快復に向かうとのことでした。念のため、祈祷は行ったようです。ところが、時とともに危険な状態になり、6月13日寅の刻(午前4時頃)に出家、巳の刻(午前10時頃)に亡くなりました(62歳)。日ごろから脚気を患って
12/14、8:30〜東大寺二月堂にて“仏名会”を少しだけ聴聞。紅葉の綺麗な場所を見つけた、来年の楽しみにしよぅ。東大寺、まだまだ奥深いですねぇ。第887回奈良春日若宮おん祭、12/15時点で参道には馬場の砂が敷かれ、御旅所も完成していました。12/17、仕事だから観に行けなかったのですが、残念ながら雨のためお渡り式は中止となったそぅです。『式年造替記念春日大社若宮国宝展一祈りの王朝文化』奈良国立博物館にて〜翌年1/22迄。いつもなら“おん祭”の展示ですが、今回は春日大社・春日若宮の撤下
本日は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の最終回でした。まさか、政子のむせび泣く声にかぶせてエンドクレジットが出ると思わなかった一視聴者です。どっちかというと、「史実=<エンターテイメント」の妙味が多かった「鎌倉殿の13人」。でもそのエンターテイメントの部分に惹かれました。こちらに来て10数年たちますが、頼朝さんのお墓にお参りするのは、怖かったのですが、今回の大河ドラマに「他人事ではない何か」を感じて、今日行ってきました。ご参考:鎌倉市/史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓
なんだかんだこんな時間になっちゃってあと1時間ちょっとで「早鎌」始まる💦先週のラス前では大好きな「紀行」がなかったな〜って思ってたんだけどさっきNHK+を何気に見てたら昨日やったんだ?まだ記事にしてないんだけど実は今月の初めに鎌倉に「鉄」で行っててそのあとの「自由行動」でひとり「紀行」してたんだまさしくそのとき回ったところが昨日の紀行で紹介されてた義時のお墓?とされてる?法華堂跡
11/19に、お友達と鎌倉へ行った記事の続きです。こちらからどうぞ『「鎌倉殿の13人」ゆかりの地・鎌倉第2弾@法華堂跡と覚園寺』11/19に、鎌倉へ行ってきた記事の続きです。前記事はこちら『「鎌倉殿の13人」ゆかりの地・鎌倉第2弾@鶴岡八幡宮』11/19に、鎌倉へ行ってきた記事の続きで…ameblo.jpこれで、第2弾は終わりです。今月、第3弾へ行ってきたので、また後日ご紹介しようと思ってます!
12月16日は、良弁忌。で、それにあわせて、特別公開・特別開扉がなされます。春日大社から、若草山を横手に見ながら、手向山八幡宮。そして、東大寺の法華堂。三月堂とも言われています。ここは、『執金剛神立像』。列が伸びています。ただ、係の人の話では、去年の方が、圧倒的に多かった、と。この法華堂は、好きな空間。畳となっている段に腰かけて、仏さんたちとの時間を過ごします。時には、堂内、誰もいなくなり。独り占め。中央にいらっしゃるのが、不空羂索観音立像。362.0cm。その威厳。
白旗神社は、鎌倉市西御門にある神社です。白旗神社は、もと源頼朝の持仏堂で、頼朝死後法華堂として「相承院」が管理していましたが、明治維新後白旗神社と改められたといいます。この地に源頼朝公の墓所を守る法華寺があが、その霊を祀っていたが、明治初年の神仏分離令施行に伴い法華堂は撤去され、明治五年十月白旗神社が建立され、頼朝公の神霊を奉斎したのが始めである。法華堂は頼朝公生前の持仏堂で、その創建は頼朝公奥州入りの文治五年(一一八九)八月八日、専光坊により立柱式が執り行われた事
法華堂(三月堂)や二月堂を回りました。法華堂。不空羂索観音を拝観することができます。二月堂。二月堂の階段がかわいかったです。青海波や亀甲や雲。。萬燈籠(まんどろ)というらしい。この灯りは奈良の寺院のそこかしこで見かけますが、どこも洒落ててすてき。二月堂からの景色。それなりに小高いところまで登ってきたのね。帰りに反対の階段から降りましたが。。この景色、みた記憶があって。母親と来たことがあるんです。なんで上からの景色ではなく、こんな景色の方を覚えているのか。。自分でもなぞ。
あとはお墓参り😁畠山重忠邸跡畠山重忠はかっこよかったワ鶴岡八幡宮裏には色々ある白旗神社の階段の上階段上の墓石これは頼朝の墓ではない(注意!)源頼朝の法華堂跡が頼朝の墓所当時は風葬なので墓はないらしい火葬は薪などが必要なので遺体は放置らしい遺体は穢れとされ実際は何処に埋葬されたかわからない生きているうちに持仏堂を建て死んでからそれを法華堂として墓所とするらしい墓石はない頼朝は戦いのときに聖観音を髷に入れたらしいがそれを安置したのが持仏堂そしてこれが
昨日は鎌倉に行きました\(^o^)/大倉幕府跡1180年(治承4年)10月、鎌倉入りを果たした源頼朝は、大倉の地に御所を構えた。頼朝は、この御所で政治を執ったため、のちに「大倉幕府」と呼ばれるようになる。頼朝は御所の裏に法華堂を建てましたここが源頼朝の墓と呼ばれています。頼朝の墓byXperia1Ⅲ
「♫赤白黄色~」ではなく「赤緑黄色〜♫」手向山八幡宮の北門から見上げた色。撮影は洞のモミジを見て若草山登って下りてきた先週の11月15日火曜日です。今年は枝振りの綺麗なオオイチョウ。右側の建物は法華堂経庫「あの変わったニンゲン、さっきからあそこから全然動かんとなんかしとるな…」三月堂の前の絵馬堂茶屋さんでお昼を食べました。こちらの親子丼がお気に入り(^^)二月堂、三月堂を見ながらいただきました。今年は秋を楽しめました。
北条義時の没後、供養のために建てられた墳墓堂(法華堂)の推定地です。平成17年(2005年)の発掘調査で堂跡の遺構が発見されました。堂は鎌倉時代後期には廃絶したとみられています。背後には、宝治合戦で敗れた三浦氏一族にゆかりがあると伝わり今も供養されている「やぐら」や、江戸時代以降に整備された大江広元等の墓所があります。ARで法華堂が現代に甦ります安達氏に滅ぼされた三浦一族の墓毛利氏の祖の墓大江広元の墓島津忠久の墓
西塔のバス停から釈迦堂へ石灯籠にお地蔵様👈釈迦堂常行堂・法華堂👉椿堂特別御開扉箕淵辯財天常行堂法華堂「弁慶のにない堂」西塔にある法華堂・常行堂という二つの建物は、渡り廊下で繋がり並び立っている。その昔、怪力の弁慶がこの渡り廊下を天秤棒にして二つの堂を担いだ…との伝説から「弁慶のにない堂」と呼ばれている。弁慶が担いだ渡り廊下の下を通って釈迦堂へ西塔政所円戒国師寿塔寿塔とは、生前あらかじめ造ったお墓です。この塔は、円戒国師・慈摂大師真盛上人(一四四三〜一四九五)が、最
・11/3は奈良延泊の初日。「一日あるけるだけ歩こう!」結果は、万歩計から「お知らせ」が来たが、20,029歩で初めての2万歩超えだった・・・。・まず、8:00ちょいすぎから動きだし、西北の転害門(国宝)から見始めた。この日は快晴で朝から快適な秋の日だった。・しばらく歩くと、門越しに正倉院の倉(これも国宝)の建物が見えてきた。「正倉院展の期間のみ、外構を見ることができる。」と掲示されていたが、10時からなので時間があわず諦めた。・その後、ひたすら歩き続ける。大仏殿の裏手をドンド
東大寺の千手堂(戒壇堂が修復中)見れる千手観音菩薩立像を見るためと法華堂の不空羂索観音を見るために東大寺に来ました今回は盧舎那大仏様ではないのです
頼朝のお墓近辺で朝の掃除をしていた地元のおしゃべり好きなおじいちゃんに捕まってしまいました巡礼3で書いた法華堂ややぐらのことはそのおじいちゃんから聞いたものです頼朝が社長大江広元や義時は部長三浦は課長と例えていました社長のお墓は一番鎌倉八幡宮に近い場所にありその後ろに控える形で部長たちの墓が造られたと教えられましたおじいちゃんの話は面白かったけどとても長くて少し飽きました頼朝の法華堂跡のすこし先に義時の法華堂跡と大江広元のお墓がありましたこれを書いていて気がつきました!義
友人と、奈良を旅行してきました。旅行中は、写真を撮る意外はスマホを見ることもなく…。SNS断ちですね。目の前の景色を堪能し、美味しいものを頂いて、お喋りをする。当たり前の感覚が、とても心地良いことを思い出しました。このブログは、2年前に雑誌の連載が決まってから、毎日欠かさず書いてきました。「決めたからには、毎日書かなければ」と拘っていましたが、そろそろ、その縛りを解いても良いかな・・・と思うきっかけになりました。ビジネスはもとより、何をやるにもブログやInstagram
東大寺に別れを告げテクテクと歩いて行きます。見渡す限り、とにかく鹿!鹿!鹿!あちこちで鹿がお出迎えしてくれます自由に歩き回れて楽しそうだな。坂を登って登って…キッツイ階段も登って。ハイ、二月堂に到着。さっきまで居た東大寺も見えました。見晴らしが最高下から二月堂を見た図。その後は法華堂を通りまして。ささ、まだまだ歩いて移動するよー!続く
不空羂索観音今日も訪問して頂き有り難う御座います。いいね👍フォロー有り難う御座います。仏教ランキングに参加してます。ポチ宜しくお願いします🙇励みになります。(^_^)水書坊「NaMBOOK-2」著者市川智康氏の『仏さまの履歴書』引用まえがき『「苦しい時の神だのみ」は、私たち人間の切なる心情。それもまた結構だと思います。しかし、どの仏さまもオールマイティーだと思ったら大間違いで、「子授」「除災」「財福」「縁結び」「病気平癒」など、仏さまにもそれぞれ専門分野があるので
鎌倉大蔵幕府跡から少し歩いた場所には法華堂跡と源頼朝の墓所があります源頼朝の墓案内板石段を上ります石段下には法華堂の石碑鳥居があります石段を上りきるとこんな感じここが源頼朝の墓所です建久9年(1199年)12月27日源頼朝は御家人の稲毛重成の亡き妻の供養のために相模川に架けた橋🌉の完成祝に出かけ㊗️その帰り道の稲村ヶ崎で落馬しました🐎その落馬が原因で、翌年の建久10年(1199年)1月13日に53歳で亡くなり、大倉法華堂跡に葬られました正治2年(1200年)正月13日法華堂
久々に訪れた法華堂。(↑)まず左側が天平期に作られその後、右側を増築したそうです。左側は仏殿になっており唐招提寺あたりと同じ様に天平期は仏様を祭る空間のみが本堂でお祈りするスペースは設けられていなかった。これも時代の変化でしょうね。法華堂といえば本尊の不空羂索観音像。(ふくうけんじゃくかんのんぞう)この仏像の迫力には圧倒されます。王冠部分は夥しい数の宝石で作られています。参拝したのは拝観終了(16:00)間際でちょうど雨戸を閉め始めた頃。薄暗くなり始め
大仏殿から歩いて、坂や階段でふぅふぅ言いながら二月堂に到着。とても暑い日だったので熱中症になりそうでした。やっと辿り着いたところにタクシーの姿を発見して、がっくり...ここまで車で来れたんだ...暑くなければ普通に歩ける距離ですが、最近はめっきり暑さがこたえるようになりました。二月堂に入ると涼しいです(笑)奈良市街や生駒山が一望でき、伸びやかな気持ちになります。大仏殿の屋根も見えます。参拝休憩所で冷たいミネラルウォーターを買って、ホッと一息。登廊で下りま
10年前にも似たような記事を書きましたが、先月鎌倉に行ったのも10年ぶりに近いので、思うままに書いてみます。北条義時の法華堂の裏にあたる場所に、三浦氏が供養されているやぐらがあります。先日の鎌倉殿の13人のエンディングでも言われていましたが、平地の少ない鎌倉ではこういう穴を掘ったお墓、やぐらが多くあります。三浦氏は、三浦義村の代までは無事でしたが、五代執権、時頼の代で滅ぼされます。四代執権の経時が4年の在位、23歳で亡くなったため、弟の時頼が五代執権となりましたが、四
北条義時法華堂跡には、三浦氏一族のやぐら、更に奥には鳥居があります。神社があるのかな…鎌倉幕府政所初代別当の大江広元の墓。大江広元大江広元(生年不明~1225年)は鎌倉幕府の政所初代別当を務めた人物です。幕府の初代将軍源頼朝の側近として鎌倉幕府の創設に貢献しました。公家(朝廷の貴族)出身の広元は、鎌倉幕府と京都の公家との間の交渉で活躍し、頼朝の死後も、遺された正室北条政子や第二代執権北条義時とともに幕府の運営を支えました。広元の墓のすぐ左隣の墓にまつられている毛利季光は、大江広元の四
天気予報は木金土曜日ともずっと傘マーク☔️で今回の京都奈良は雨覚悟の重装備でしたがなんと!1日目2日目とも午後には雨が上がり程よく日が差して傘を閉じて歩きました3日目の今日の天気予報は曇りから晴れに変わりとてもとても嬉しいです今日一日京都のポケふたを頑張ります!🤣昨日は斑鳩町にある5枚のポケふたをゲットするつもりでしたが近鉄奈良に着いたら猛烈な雨、、、気持ちが萎えて予定変更、、東大寺ミュージアム〜法華堂二月堂〜唐招提寺〜薬師寺と王道の観光となりましたミュージアムと三月堂では国
義時の法華堂はどこにあったのか分からなかったそうですが、2005年の発掘調査でここにあった事が明らかになりました。
源頼朝の法華堂跡におられたボランティアのおじさんに聞いてこちらの北条義時法華堂跡に来ました。源頼朝法華堂から歩いてすぐの所ですが、道が細くてちょっとわかりにくいかもしれません。ARで見る事ができます。アプリをインストールするのが面倒なので私はやりませんでした義時の法華堂はどこにあったのか分からなかったそうですが、2005年の発掘調査でここにあった事が明らかになりました。この法華堂の裏に、大江広元、毛利季光、島津忠久のお墓があります。北条義時
PENTAXZ1レンズ失念FUJIフイルム?このカットが、まだ手ブレが目立たないと思う。この仏像群を撮ることが出来たのは、良かったなと思う。