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私には1人だけ歴史を語り合える友が居るhttps://ameblo.jp/yamasemi1324/entry-12740625382.htmlと言っても若き女性なので、めったにお目にかかる事はない(苦笑)最後にお会いしたのは22年5月というから、ほぼ、2年ぶりにお会いした以前、彼女と行った店は、昼間から和食を楽しめる店だったのだが、ほぼ定食屋と化していて面食らったまぁ、食べ物なんて、大した話ではないと、早速、語り合ったというか、毎回、私がほぼ
義を貫く武将直江兼続のリストラ拒否と武士の困難関ケ原の戦いにおいて徳川家康に敗れた直江兼続。兼続の主君:上杉景勝は、会津120万石から米沢30万石へ大幅な領地を没収されてしまいました。通常、領地没収された君主は家臣たちのリストラを行い人件費を削減するのですが、直江兼続は、「大禄は払えんが、付いて来たい者は米沢まで付いて来い!」と言って積極的なリストラをしませんでした。結果、米沢藩の人口に対する武士の比率は異様に高くなってしまい、
鉄砲雨の中、謙信は茶を楽しむ小田原城包囲の舞台裏上杉謙信が32歳のとき、小田原城包囲の際のお話です。謙信は北条軍がひしめく小田原城の前で弁当を取り寄せてお茶を飲んでいたそうですこの時、敵の城兵が50メートルくらいの距離から謙信めがけて鉄砲で数回撃ったのですが、左の袖や鎧の鼻に弾丸があたっただけで身体は無事だったそうです。しかも、このとき謙信は、全く動じずに茶を飲んで悠々閑々としていたと言います。有事にも動じない平常
信長の人道主義京への上洛での略奪禁止とその意義信長が京に上洛した際、配下の将兵に略奪暴行を一切禁じ、物資は対価を払って購入する様、厳命しました。しかし、ある雑兵が女性の笠をめくって顔をのぞこうとし、それを見つけた信長が雑兵の首を一刀のもとにはねたのです。今まで京へ上洛してきた軍勢は、略奪暴行を行うのが常だったのに、織田軍はそれを行わず、さらに狼藉を働いた雑兵の首をはねたので、京の民衆に「織田軍は、理由なく略奪暴行はしない」という事が知れ渡りました
徳川秀忠関ヶ原の戦いで遅刻した人だな。実は三男なんだよな。長男、次男はちょっと気の毒だった。通勤時の電車の遅延証明書みたいなモノがあればね。関ヶ原の戦い後に速やかに提出しただろうね。
美しさと武勇忍城を護る甲斐姫の伝説忍城は、現在の埼玉県行田市にあった城です。成田氏長によって築城されたと言われています。その忍城城主・成田氏長の長女が甲斐姫です。美しさと武芸の才能を兼ねそろえた甲斐姫。その容姿から「東国無双の美人」と評されました。甲斐姫が19歳の時、秀吉の小田原合戦がありました。父・氏長は、北条方・小田原城に加勢に行ったため留守となってしまった忍城に豊臣軍が侵攻して来た際には、甲斐姫が武勇を発揮して、忍城を守りぬいたと伝えられています。家宝の名刀「浪切
勇猛果敢なる武将の秘密北条氏康の戦場での姿勢北条氏康は、民をとても大事にしていた優しい面もありながら、戦となれば、とても勇敢に戦う猛将であったそうです。自ら先頭切って敵に突撃することもあり、絶対に敵に背後を見せなかったとも言われています。そのため、顔や体に沢山の傷があるものの背中には一つも傷が無かったという話があります。関東の武将は氏康公の顔の向こう傷を『氏康傷』と言って褒め称えていました。まさにイケメンエピソードですねそんな北条氏康も登場するイ
使うところはその器に従う清正の人材選定術秀吉が朝鮮に出兵していた軍を引き上げる際、清正は庄司という家臣に軍の引き上げを命じ、庄司はそのまま引き上げに成功します。その時、清正は1人の家臣の様子がおかしいことに気づき声をかけますと、軍を撤退させるという大事な役目を自分が指名されなかったことに落ち込んでいました。しかし、それを聞いた清正は笑いながらこう言いました。お前達はどちらも大切な我が家臣。使うところはその器に従う。これを聞いた
信長の前で屈しなかった濃姫の決意「濃姫」の夫は、あの魔王「織田信長」そんな信長に直言を入れるものなど誰もいなかったと思いますが、濃姫は違いました。信長が濃姫の兄の義龍を倒した際、義龍の妻に「お前が持っていた有名な壺を出せ」と命じますが、彼女は「行方不明になりました」と答えます。しかし、信長は「嘘だ!」と納得をしません。そこで、義龍の妻は、「信じてもらえないなら死ぬしかない」と答えました。これに呼応して濃姫も「そこまで信じられない
石田三成優しさ溢れる一幕豊臣秀吉のお茶会での心温まるエピソード豊臣秀吉が開いたお茶会で、らい病(ハンセン病)を患っていた大谷吉継がお茶を飲む際、その病の症状で顔の膿がお茶に垂れてしまいました。これを見た参加者たちは、そのお茶を飲みたがらず次々と飲むふりをしてごまかしましたが、三成だけは吉継の気持ちを察してお茶を飲みほしたのです。吉継が恥をかかない為の優しさあふれるイケメンエピソードですねそんな石田三成
歴史の中で輝く今川義元の手腕と過小評価の理由「海道一の弓取り」=「東海道一の大名」と呼ばれた今川義元。軍事力・外交力を用いて領地拡大に成功した手腕の持ち主だったそう。桶狭間の戦いにおいて、兵力で圧倒的に優位だったにも関わらず、織田信長に敗れたことで過小評価されがちですが、優れた領国経営能力を持っていたのは間違いなかったようです。「経営能力を持っている」=仕事が出来るイケメンですよねそんな今川義元も登場するカードゲームイケメ
たまには上の子の読書記録を。絵本は抜きで、シリーズものの児童書及び漫画を列挙。(※読んだことを覚えているもののみ)全て自力読み。進行中のシリーズゾロリ(29巻/73巻読んだ)かいぞくポケット(14巻/20巻読んだ)タイムワープ(通史編以外も含めて、戦国〜安土桃山〜江戸時代に関する14巻を読んだ)歴史漫画タイムワープシリーズ通史編【全14巻セット】+別巻1冊セットAmazon(アマゾン)歴史漫画タイムワープシリーズ紫式部へタイムワープAmazon(アマゾン)学研ま
3月2日、3日に名古屋の吹石ホールにてにっぽん城まつりお城エキスポ2024が開催されましたブロガーを離れている間に歴女となり、武将好きとなり今現在住んでいるのが愛知県という現実に歓喜しております胸がアツイ!!なぜこうなったかと言うと旦那のせい←プレステ4で戦国無双4をプレイしたところ歴史とか興味なく織田信長ですら漢字でかけるか危うかったわたしがすっかり歴女となり現在戦国無双5(Switch)でプレイする始末話が逸れました武将を語ると止まらなくなります…全国の城100
あなたには、人生の「夢」とか「目標」ってありますか若い頃の私には「夢」や「目標」はなく、大学や仕事もなんとなく選択してきたように思いますそんな人生ってどうなのかなぁ、と思っていた頃、博多の歴女「白駒妃登美(しらこま・ひとみ)」さんのお話を聞いて気持ちが変わったので、それをご紹介しますね白駒さんは、人間の進化には2通りの形がある、と言われています一つは「目標達成型」これは、「夢」や「目標」をもって、そこに邁進していくタイプもう一つが「天命追求型」目の
3月10日の歴史1378年3月10日室町幕府三代将軍足利義満室町に造営した室町殿(花の御所)に幕府を移す足利家より崇光上皇に献上され仙洞御所となっていた花亭を皇室から再び譲り受け御所としたこれが花の御所である室町時代と呼ばれる本格的な時代はここから始まりますね室町幕府将軍列伝[榎原雅治]楽天市場3,520円足利義満花の御所と金閣寺(学研まんが人物日本史)[広岡ゆうえい]楽天市場836円戦国の城を歩く(ちくま学芸文庫)[千田嘉博
最近テレビの調子が悪かったです。付けると見られるんだけど、ちょっと経つと画面が真っ暗。主人がケーブルテレビ会社に電話してみた所、何か地域で工事していたと。てっきりお金が足りなくなったのかと、払ってしまった後に電話したのでした。そう、こちらのテレビ、有料なんです。私は毎日テレビ講座を見ているし、ほかにもスポーツ中継とかドラマとか、しっかり見ていますが、もしかするともう、パソコンさえあればいいかもしれないですね。テレビ講座もネットで録画が見られるし。でも、スポーツ中継は、特にサ
先日羽越線の旅をしてきた息子のお土産【12】先日完結を宣言した息子のお土産シリーズですが、すんません一品抜けていました。山形県むきそば今度こそほんとに完結、、、のはずです。それはさておき続きです。鹿児島市内見物だが、まずは城山公園に登る。展望所もあって桜島がよく見える。城山にあった遊歩道の案内。片道30分の往復で60分。入口2箇所とも制覇したり写真取ったり道草してプラス30分で計1時間半。西郷さんの像とか洞窟とか終焉の地とか、遊歩道
絢爛豪華なプレゼント娘からスマホケースをプレゼントしてもらいました。金色のところが角度によって色が変わり桃山文化のような豪華さがあります。歴女であり、名古屋に住んでいる私はすごく嬉しいです。
戦国武将ゆかりの地〜神奈川県/小田原市〜今月2024年3月20日と3月25日-29日までの間の2日「天下統一」を出品するSANNOMARCHEの開催場所を確認しに行きながら、CAFESANNOMARUでお茶して来ました!こちらのスペースへ出店します。CAFESANNOMARUこれです!この北條カプチーノと一緒に写真撮りたかったんです~3月10日までですが、デジタルスタンプラリーが開催されているようです。人気声優が担当ってすごくないですかそ
はい!奈央です。最近、私のブログで歴史関係が少なくなったと思われている方もいらっしゃるのではないでしょうか。そうなんです。実は、歴史関係の事を書くのが少し怖くなっちゃったんです。決して歴史のことに興味を失くしたわけではありません。むしろその逆なんです。いろんな方の古代史関係のブログや動画を拝見するうちに、「へー、そうなんだあ」とか、「うわっ、知らなかった!」、「そんな考え方もあるのね。」などと、それぞれの方の考えに影響されて、右往左往するうちに自分の考えの無
中1歴女、1年前から楽しみにしていた大河ドラマ【光る君へ】に釘付けです娘は戦国時代好きですが平安時代も大好き私は平安時代好き♥なので親子で一緒に楽しんでいます。昨年末娘と一緒に言っていた展覧会【源氏物語よみがえった女房装束の美】画像お借りしました素晴らしい復刻衣装がたくさん展示されていて眼福♥もともと平安装束は好きでいろいろ本は読んでいましたが、実物の衣装を見る経験はあまりないので楽しかったです♪娘ももちろん大興奮!この衣装がドラマの中で毎回みられるんだね~楽しみ
今日(2/29)で5歳8ヶ月。おめでとう。●寝る前の一言大きくなったら、サーカスがいい!あーでも、おくすり作るのもやりたいなーだって。おー、そう来ますか。笑丸薬作り体験とか行ってみる?工場見学も?キャンパス公開は時期的に無いし…サバイバルシリーズ、借りてみようかなぁ。あのシリーズ、内容がちょっと過激気味なのと、語彙的に上の子にはまだ早くて、うーん…薬に関する絵本なら、他にもあるはず。と思ったら急にやっぱりケーキ屋さんにする!お菓子もパンも売ってるよ!だって。もう
今日はとても寒い凍てついてますお散歩中に雪がちらついてきました街の雪は嫌いだけど、チラチラと、なんとなく風情があるのはいいものだな〜カッパちゃんは出張と大阪マラソンのため、数日、うしと2人きりたまには、なかなか良いものですだってね、好きなものをつくれるし夕べはね、ムール貝パスタ今朝は『篤姫』の再放送を観ながら食べてますなんちゃって歴女としては、とても嬉しい昔の方は、演技が上手いなぁ〜明日からは蝶々さんの稽古が始まります今日はお勉強dayかな今日も良き日であります
そういえば、日本で買ってきた『徳川家康』26巻、ゆっくりと読んでおります。最初からうちの近所の地名とか出てきて情報量が多い上、三河武士の名字が実家の近所の人達と同じ事が多いので、あの人達も家康と戦ってきた人達の子孫なのかな、と思ったりし、パッと読み進められないんです。今や農家の人達も、あの時代は家康と戦っていたのかしらね。山梨に『天目山』があるんですね。元への留学から帰ってきた僧が、浙江省の山の名を付けたんだそうです。そういう情報も一々立ち止まって調べたりするので読むのに時間が
皆さ〜ん明日から三連休ですねお天気はかなり寒くなるみたいですねさて、歴女(自称)の私ですが、ある筋からまたまた情報を得ました↓↓↓“幻の威容”安土城の実像探る「令和の大調査」で浮かび上がった信長と秀吉の天下人への思い【読売新聞】編集委員丸山淳一ひと山を丸ごと石垣で固め、青や赤の瓦や黄金を使った建造物が日の光に輝く。山の頂上には地下1階、地上6階、高さ32メートルの天主(※)がそびえる――。宣教師ルイス・フロイス(1532~97)がその威容をwww.yomiuri.c
戦国武将イケメンエピソード/北条氏康「相模の獅子」と呼ばれていた北条氏康は、民を大切にしていたと言われています。そのうちの逸話「四公六民」とは・・祖父北条早雲の代から続く税制で、全収穫量の40%を領主が取り、60%を農民に残す方式だそうです。他の大名家では、大体が五公五民であり、場合によっては六公四民の所がありました。領主より農民の取り分が多い「四公六民」の税制を守った氏康は間違いなくイケメンです今の政治家にも氏康のような人がいれば・・と思う
戦国武将ゆかりの地〜愛知県/犬山城〜数々の戦国武将とゆかりがある愛知県の犬山城に行って来ました。▼犬山城に設置の説明文より抜粋犬山城は、天文六年(1537年)に織田信長の叔父にあたる織田与次郎信康によって造られました。その後何代も城主が代わりましたが、1600年の関ケ原合戦の頃を中心に城郭は整備されていきました。小牧長久手合戦の際に、豊臣秀吉は大阪から十二万の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いました。▼天守最上階外壁にあるのは「華頭窓」(
アメブロガチおうち英語界(?)のかなとさん英語苦手母のおうち英語(DWE自主卒業後)かなとさんのブログです。最近の記事は「小4読んだ洋書&和書」です。ameblo.jp私もだーいぶ昔から勝手に同志と思って慕っております♡私が言うのも何ですが良い意味でヲタク街道を走ってらっしゃって(あー怒らないでかなとさん!笑)子育てしながらご自身の人生も楽しんでらして素敵ですそんなかなとさんのブログで紹介されていた『歴史ゴーストバスターズ』シリーズ歴史ゴーストバスタ
戦国武将ゆかりの地〜愛知県/名古屋城〜徳川家康の命に従い、加藤清正が諸大名と共に築城した名古屋城に行って来ました。当時、築城名人として知られていた清正は、わずか3ヶ月で天守閣の石垣を積み上げたと言われています。▼「天下統一」を前に置いて撮ったため、ぼやけて撮れてしまいましたが、この石垣を加藤清正が積み上げたと思うと感慨深いですね。▼清正公石曳の像がありました。この像は、巨石を運ぶ時に清正自ら石の上に乗り音頭をとった様子を模したものと言われています。