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本日は旧暦12月17日ですが、元禄十四年十二月十七日は(1702年1月14日)は、東山天皇の第五皇子慶仁親王が誕生された日です。慶仁親王は宝永四年(1707年)三月儲君に治定、四月に親王宣下、翌五年二月立太子、同六年六月二十一日父天皇の譲りを受けて践祚、同七年十一月十一日即位式を挙行(中御門天皇)し、翌年正月一日元服の儀が行われています。この天皇元服の儀は近来まれなことだったといいます。しかし元服をしてもまだ数えで10歳であったため、はじめは東山上皇、その年の内に父帝崩御後には霊
★第四十九代光仁天皇は奈良時代末期の天皇です。和銅二年(709年)生。御名は白壁(しらかべ)。御父は天智天皇の皇子の施基皇子(しきのみこ)/春日宮天皇(かすがのみやのすめらむこと)です。御母は紀橡姫(きのとちひめ)。『すめらぎのお話・・・追尊天皇と不即位太上天皇とは』天皇の歴史を知ると、実は実際には天皇に即位していないけれども、天皇号や院号、太上天皇号が贈られた天皇が何人もいることがわかります。それは追尊天皇、不即位太上天…ameblo.jp在位、宝亀元年(770年)か
京都画像クイズNo.38の正解は御辰稲荷神社左京区聖護院円頓美町にある神社。祭神は宇賀御魂神・猿田彦神・天宇受売神。社伝によれば宝永二年(1705)東山天皇が妃・新崇賢門院の霊夢によって創祀したという。かつては飯成社とも呼ばれ、五穀豊穣を祈願したと伝える。現在は怪我を防ぐ神、芸能上達の神として信仰される。『京都大事典』(佐和隆研・奈良本辰也・吉田光邦ほか淡交社昭和五十九年)解答を寄せられた皆さん正解です。難易度が高いと思ったのに、やはり手強いわ。
第百十九代光格(こうかく)天皇は江戸時代の天皇です。傍系から皇位を継いだ最後の天皇であり、昨年の御代替わりがあるまでは、最後に譲位された天皇でもありました。御父は閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひと)、東山天皇の曾孫です。御母は岩室磐代(いわむろ/いわしろとめ)。御名は兼仁(ともひと)、祐宮(さちのみや)。明和八年(1771年)生。在位、安永八年(1780年)から文化十四年(1817年)。第百十八代後桃園天皇は二十二歳の若さで崩御し、その年に生まれた皇女しかいませんでした。
現在開催中の京都国立博物館の「皇室の名宝展」行って参りました!個人的グッと来た作品をあげると海北友松浜松図屏風''かいほうゆうしょう''と読みます。建仁寺さんにある龍の襖画をお描きになった方です。松の緑の深さ美しさに、この豊かさを全身にいただきたい!と大きく深呼吸しました。とにかく緑が心にまで広がってくる素晴らしいお色でした。円山応挙孔雀と牡丹ベタなこと言ってんなあと思われたそこあなた、分かります。わたしも
第百十二代霊元天皇は江戸時代の天皇です。国立公文書館の「江戸時代の天皇展」展示の霊元天皇御影のコピー写真(撮影可だったもの)御父後水尾天皇の第十九皇子、御母は園国子。承応三年(1654年)生。諱は識仁。即位は寛文三年(1663年)から貞享四年(1687年)。徳川幕府は第四代家綱から第五代綱吉の時代です。兄の後西天皇から譲位され十歳で即位。父帝の後水尾法皇の院政が続きます。後水尾天皇の皇子女の天皇が、明正天皇、後光明天皇、後西天皇、霊元天皇と続いていました。即位十八年後に後水
いつもは旧暦で天皇の誕生日を紹介していますが、本日は新暦で天長節が重なる日付です。天長節は唐の時代に玄宗皇帝の誕生日を祝ったことに由来する日で、日本においても光仁天皇の時代に天長節の儀が行われ宴を賜ったことが始まりとされています。御歴代の天皇がたくさんいらっしゃいますから、天長節も重なる日があります。現在ここでは和暦基準で天長節をみていますが、新暦(西暦)での日付がはっきりしている天皇の天長節では本日は一番重なっている日となります。本日は、高倉天皇、後桜町天皇、光格天皇の天長節です
本日は旧暦の五月二十五日ですが、この日は二つの天長節が重なる日です。後土御門天皇と霊元天皇です。戦国の世となり、後土御門天皇の即位時に行われたのを最後に大嘗祭が途絶えてしまいましたが、それを簡略化ながらも復活させたのが霊元天皇です。★嘉吉2年(1442年)のこの日、後花園天皇の第一皇子成仁(ふさひと)親王が誕生されました。この頃は室町幕府の時代で、騒乱が続いている時であり、後花園天皇はそうした中で政治に無関心だった足利義政に戒めの詩を送った話が残されているような頃のことです。そうし
ごきげんよう。私は今日、あるお方のブログを拝読して〝鏡文字〟というもののことを知りました。私には単なるエラーでは無くて、何らかの意味があるような気がして、とても興味深かったです。それではごきげんよう。参考記事〜青木孝文さまのブログ青木孝文さまどうもありがとうございます。参考記事〜鏡文字についてNAVERさまどうもありがとうございます。参考記事〜東山天皇についてyoshipyutaさまどうもありがとうございます。
京都京都御苑下立売御門の近くの梅の花を堪能して、再び京都御苑の中へ🌸南へ下がって行きました🚶♂️京都御苑中山邸から桃林のブログはこちら⤵️https://ameblo.jp/ad1403-0652/entry-12582065030.html京都京都御苑梅林から烏丸の天神さんのブログはこちら⤵️https://ameblo.jp/ad1403-0652/entry-12582190268.html宗像(むなかた)神社付近⛩京都御苑の中では、鷺に近づいても人を怖がる様子もほと
★第四十九代光仁天皇は奈良時代末期の天皇です。七百九年生。御名は白壁(しらかべ)。御父は施基皇子(しきのみこ)/春日宮天皇(かすがのみやのすめらむこと)/天智天皇の皇子です。御母は紀橡姫(きのとちひめ)。すめらぎのお話・・・追尊天皇と不即位太上天皇在位七七十年から七八一年。第四十八代称徳天皇が崩御されると、群臣の推挙により白壁王が皇太子に立てられました。皇太子は称徳天皇の下で権勢を誇っていた道鏡を左遷したのち即位しましたが、その時の御歳六十二歳。記録が確かな時代以降の
平安宮廷スタジアム騎射武官束帯相撲の節会宮廷での展覧相撲ですかね。アップされてた2枚のパネル阿修羅の様な顔ですね。凄い迫力でした。江戸時代前期第113代東山天皇御即位式儀式の進行感無ですね。現在でも引き継がれている大切な儀式の一部を垣間見れました。
元禄14年12月17日(1702年1月14日)は、東山天皇の第五皇子慶仁親王が誕生された日です。慶仁親王は宝永4年(1707年)三月儲君に治定、四月に親王宣下、翌5年2月立太子、同6年6月21日父天皇の譲りを受けて践祚、同7年11月11日即位式を挙行(中御門天皇)し、翌年正月1日元服の儀が行われています。この天皇元服の儀は近来まれなことだったといいます。しかし元服をしてもまだ数えで10歳であったため、はじめは東山上皇、その年の内に父帝崩御後には霊元上皇が院政を行っています。御在位
今は街中がクリスマス…ですが、ワタクシが子供の頃は、12月14日といえば忠臣蔵でした。歌川国芳「忠臣蔵十一段目夜討之図」忠臣蔵といえば、言わずと知れた「時は元禄15年、師走半ばの14日…」と語られたものですが、今の時代はもはや「言わずと知れた」といえるかどうか…。東山天皇の勅使への饗応役であった浅野内匠頭が、礼儀指南役であった高家筆頭の吉良上野介へ刃傷に及んだことが発端となった元禄赤穂事件。喧嘩両成敗でなかったことが遺恨を残し、家臣が主君の仇をとったという義の美談から脚色化され
第百十九代光格(こうかく)天皇は江戸時代の天皇です。傍系から皇位を継いだ最後の天皇であり、今年の御代替わりがあるまでは、最後に譲位された天皇でもありました。御父は閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひと)、東山天皇の曾孫です。御母は岩室磐代(いわむろいわしろ/とめ)。御名は兼仁(ともひと)、祐宮(さちのみや)。一七七一年生。在位一七七九年から一八ー七年。第百十八代後桃園天皇は二十二歳の若さで崩御し、その年に生まれた皇女しかいませんでした。そのため急遽、閑院宮典仁親王の第六皇子祐宮
江戸時代の元号〔江戸時代、慶長から享和までの西暦と元号対照表〕2010-04-2011:46:26テーマ:○近世編2、江戸時代全般◇〔もしも「天保」の元号が幕末まで続いていたら〕2010-04-2013:29:15テーマ:○近世編2、江戸時代全般◇〔もしも幕末の元号が「嘉永」「安政」「慶応」の3つだけだったら〕2010-04-2013:32:32テーマ:江戸時代、幕末にて候◇〔もしも幕末の元号が「嘉永」と「安政」だけだったら〕2010-04-2017
閑院宮(かんいんのみや)は、伏見宮、桂宮、そして有栖川宮の四世襲親王家の一つで、江戸時代中期に東山天皇の皇子、直仁親王が創設した宮家である。参考京都御苑の歴史や見どころ案内閑院宮邸跡で催し京都新聞(2018.1.19、参考)京都市上京区の京都御苑を散策する絶好の入り口として「閑院宮邸跡」では、江戸期の公家屋敷が並んだにぎわいや明治以降に公園として整備された歴史、文化財発掘の成果、豊かな自然環境が映像など豊富な資料で紹介され、見どころ案内イベントが催されている。冬の御苑を巡る自然教室も2
先日、天皇陛下が即位を宣明する即位の礼正殿の儀を行いましたねここ数日、夜な夜なこの即位に関する一連の儀式をテレビでずっと見ていたのですが、あ~~やっぱりいいですね~儀式前に皇室の方々が松の間に静かにするするとお集まりになられる様子から、もうまるで平安絵巻のよう。。。十二単におすべらかし姿豪華で高貴な高御座(たかみぐら)、御帳台御帳が開き、静かで厳かな空間の中で宣明される天皇陛下隣にあられる雅子皇后ただただ美しいそしてこういう儀式を色んな
ここに来て再び、皇室の存続問題がクローズアップされています。昨日の即位礼正殿の儀を見ても、男子皇族はお二方のみ。(悠仁親王は未成年でご欠席)常陸宮さまはご高齢で車椅子のご参列。事実上、男子皇族で皇位継承できるのは秋篠宮と悠仁親王のみ。平成の即位の礼の際には6方おられました。将来、悠仁親王とその妃となるべき女性のプレッシャーたるや生半可なものではないでしょう。言うまでもなく現行皇室典範において、女性、女系天皇の即位は認められていません。側室制度が認められ
「閑院宮家」は東山天皇の皇子直仁親王を初代とする宮家で、1710年に創立され家領1,000石を献じていました。1947年に第7代春仁王が、皇族制度改革により皇籍を離脱するまで230余年にわたり宮家として存続しました。正門。お車寄。中庭。石灯籠。四阿。京都御苑内に、ほぼ完全な形で残る唯一の公家住宅で、江戸時代の宮家の生活を知ることが出来る貴重な遺構です。近年整備され、一般に公開されています。-END-
本年の石川県珠洲神社総代会総会は、8月31日、珠洲商工会議所にて、管内神職並びに管内神社氏子代表、約50名が集まり、開催されました。会場は、画像左端に、珠洲の名勝見附島が見える、風光明媚な、市商工会議所でございます。この日、審議事項終了後、当支部副支部長でもあります、春日神社K原宮司講師により、本年11月14~15日に齋行されます、大嘗祭についての講演がございました。なんかね、事前に、事務局から県神社庁に、適当な講師を紹介していただくよう依頼をしたところ、「大嘗祭関連なら、K原
椹木口から入ってすぐの閑院宮邸裏にあるこの一角が好きです毎回ああ〜きれいやなあて口に出してしまう奥の瓦が閑院宮邸いまの天皇のお血筋は東山天皇の二宮にはじまる閑院宮流ですこのお屋敷は江戸中期の宮家のあり方を伝える貴重な建物です中は見学できます閑院宮家断絶いろいろあったんだね。。。この奥は仙洞御所今上陛下が上洛の際にお泊まりになるところ左手は皇宮警察の詰所大きな百日紅この奥が京都御所の清所門あちらにまた大きな百日紅が一条家跡地です百日紅は近くで見るより遠く
宝永2年(1705年)に東山天皇の側室新祟賢門院が夢で、白狐が南東の森に祀って欲しいといわれ創建された神社です。辰というのは十二方位で東よりも少し南側、南東と東の間なのですが、御所から見た方位です。この辰という方位は発達、発展運、芸能運などがある事が知られています。この森を通ると琴の音が聞こえてくることから、琴を奏でるのが上手な狐と言うことで芸事をする人に人気となっています。境内は狭いのですが、見所があります。福石伝説というのがあり、貧しい夫婦が祈願をしていたところ、満
パソコンの調子が悪くてアップが遅れました。本日は祭日の日です。★第五十四代仁明(にんみょう)天皇は、平安時代初期の天皇です。八百十年生。御名は正良(まさら)。御父は嵯峨天皇の第二皇子、御母は壇林皇后、橘嘉智子(たちばなのかちこ)。またこの時同時に正子(まさこ)内親王が生まれていますので双子の親王と内親王でした。在位八三三年から八五十年。第五十三代淳和(じゅんな)天皇には多くの皇子がいましたが、皇太子には第五十二代嵯峨天皇である兄の皇子、正良親王を立てました。そして正良親
先日、国立公文書館で行われている特別展、「江戸時代の天皇」に行ってきました。ここの展示はいつ行っても満足できるのですが、今回も素晴らしかった。特に、今回光格天皇の時代にあった千度参りについて書かれた文献を生で見ることが出来たのは収穫ですし、絵巻の展示はほんの一部が開かれているという展示が多い中、長く開かれた行幸絵巻をそのまま辿って見ることが出来たのも贅沢なひと時でした。国立公文書館@JPNatArchives春の特別展【江戸時代の天皇】5/12(日)まで!第五章では天皇・朝廷
4月30日♪火曜日♪平成最後の日♪ドコ行こうか…???(´-ω-`)???さんざん迷って♪京都御苑♪右翼っぽいチョイスやけど右翼ちゃうよ♪(((^^;)御苑の西南部♪花山院家の邸宅アト・宗像神社を出て、右手(西)に見えたリッパな門♪ココまで歩いてきたコース♪地図の左上・京都市営地下鉄烏丸線の今出川駅から♪今出川通を東へ歩いて今出川御門♪今出川御門から♪京都御苑に入ってすぐ右手に行く道から近衛池(近衛邸跡)♪生け垣の小道を抜けて、朔平門の前♪朔平門から♪御所の北
竹橋の国立公文書館で『江戸時代の天皇』展を見てきました朝廷と幕府は当初緊張関係にありましたが後水尾天皇の二条城行幸により円満な関係への模索が始まりますが幕府主導でありました『寛永民恩沢』は二条城行幸の様子を冊子にしたものです公家の勧修寺晴豊の日記霊元天皇の譲位から朝仁親王(東山天皇)即位までをあらわした『御譲位諸次第並行列』『大嘗会祭図』水戸光圀が『大日本史』編纂の過程で、朝廷古来の行事や儀式が衰退していることに憂慮し編纂された『礼儀類典』(書名は霊元天皇が命名)高御
<第113代東山天皇>1687年即位。(将軍)徳川綱吉〔犬公方〕〔犬小屋・中野〕。(側用人)柳沢吉保〔六義園-りくぎえん〕。(天文方)安井算哲〔渋川春海〕。1687年大嘗祭・再興。1689年松尾芭蕉「奥の細道」。1702年赤穂事件。1709年(新井白石・通訳)シドッチ・屋久島潜入。
第112代天皇霊元(れいげん)天皇⑪在位期間1663年~1687年なお、「⑪」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系11代遡る」という意味です。識仁(さとひと)親王。後水尾天皇⑫の第19皇子。明正天皇&後光明天皇&後西天皇の異母弟。東山天皇⑩の父。1654年生まれ。8歳(数え10歳)で即位。1680年家光の4男&家綱の異母弟・徳川綱吉を江戸幕府第5代将軍に任命。同年、51年間も院政を布いていた後水尾法皇が84歳(数え85歳)で崩御。朝廷の復権を望み、朝廷人事も自ら決定したが、花見の