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若宮八幡社の後は、そのまま若宮八幡社の副野均宮司にご案内いただき、熱田神宮と、ひつまぶし発祥の老舗「あつた蓬莱軒」へ。神聖な場所のため、一部公開できないお写真もありますが、熱田神宮でも、ご祈祷をお受けしました。また。ご祈祷の後は、熱田神宮の千秋季頼宮司にもご挨拶をさせていただきました。千秋季頼宮司は、第113代・東山天皇の御子孫です。#熱田神宮#あつた蓬莱軒#ひつまぶし#安倍昭恵夫人
京都御苑内の閑院宮邸跡を拝観します。閑院宮家は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家と並ぶ四親王家の一つで、1710年に東山天皇の皇子直仁親王を始祖として創立され、公家町南西部のこの場所に屋敷を構えました。創建当初の建物は天明の大火(1788年)で焼失し、その後再建されていますが、現在の建物との関係など詳しいことはわかっていません。明治2年の東京遷都に伴い、閑院宮が東京に移られてからは、華族会館や裁判所として一時使用され、御苑の整備が一段落した明治16年、宮内省京都支庁が設置されています。第2次世界
本日は旧暦12月17日ですが、元禄十四年十二月十七日は(1702年1月14日)は、東山天皇の第五皇子慶仁親王が誕生された日です。慶仁親王は宝永四年(1707年)三月儲君に治定、四月に親王宣下、翌五年二月立太子、同六年六月二十一日父天皇の譲りを受けて践祚、同七年十一月十一日即位式を挙行(中御門天皇)し、翌年正月一日元服の儀が行われています。この天皇元服の儀は近来まれなことだったといいます。しかし元服をしてもまだ数えで10歳であったため、はじめは東山上皇、その年の内に父帝崩御後には霊
★第四十九代光仁天皇は奈良時代末期の天皇です。和銅二年(709年)生。御名は白壁(しらかべ)。御父は天智天皇の皇子の施基皇子(しきのみこ)/春日宮天皇(かすがのみやのすめらみこと)です。御母は紀橡姫(きのとちひめ)。『すめらぎのお話・・・追尊天皇と不即位太上天皇とは』天皇の歴史を知ると、実は実際には天皇に即位していないけれども、天皇号や院号、太上天皇号が贈られた天皇が何人もいることがわかります。それは追尊天皇、不即位太上天…ameblo.jp在位、宝亀元年(770年
第百十九代光格(こうかく)天皇は江戸時代の天皇です。傍系から皇位を継いだ最後の天皇であり、令和の御代替わりがあるまでは、最後に譲位された天皇でもありました。御父は閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひと)、東山天皇の曾孫です。御母は岩室磐代(いわむろ/いわしろとめ)。御名は兼仁(ともひと)、祐宮(さちのみや)。明和八年(1771年)生。在位、安永八年(1780年)から文化十四年(1817年)。第百十八代後桃園天皇は二十二歳の若さで崩御し、その年に生まれた皇女しかいませんでした。
2019/04/09配信<第113代東山天皇>1687年即位(将軍)徳川綱吉〔犬公方〕〔犬小屋・中野〕(側用人)柳沢吉保〔六義園-りくぎえん〕(天文方)安井算哲〔渋川春海〕1687年大嘗祭・再興1689年松尾芭蕉「奥の細道」1702年赤穂事件1709年(新井白石・通訳)シドッチ・屋久島潜入
閑院宮家は、1947年、皇室離脱した11宮家の中の一つです。伏見宮閑院宮久邇宮山階宮北白川宮梨本宮賀陽宮朝香宮竹田宮東久邇宮東伏見宮第百十四代中御門天皇の時代、宝永七年八月十一日(1710年9月4日)、313年前の本日、東山天皇の第六皇子直仁(なおひと)親王を初代とする新宮家創設が決定されました。その八年後、霊元法皇(前年崩御された東山天皇の父)より直仁親王に対して「閑院宮」の宮号と千石の新領が下賜されました。これは寛永二年の有栖川宮家が創設されて以来八五年ぶりの新宮家
本日の祭日、第百十二代霊元天皇は江戸時代の天皇です。国立公文書館の「江戸時代の天皇展」展示の霊元天皇御影のコピー写真(撮影可だったもの)御父後水尾天皇の第十九皇子、御母は園国子。承応三年(1654年)生。諱は識仁。即位は寛文三年(1663年)から貞享四年(1687年)。徳川幕府は第四代家綱から第五代綱吉の時代です。兄の後西天皇から譲位され十歳で即位。父帝の後水尾法皇の院政が続きます。後水尾天皇の皇子女の天皇が、明正天皇、後光明天皇、後西天皇、霊元天皇と続いていました。即位十八年
本日は旧暦の五月二十五日ですが、この日は二つの天長節が重なる日です。後土御門天皇と霊元天皇です。戦国の世となり、後土御門天皇の即位時に行われたのを最後に大嘗祭が途絶えてしまいましたが、それを簡略化ながらも復活させたのが霊元天皇です。★嘉吉2年(1442年)のこの日、後花園天皇の第一皇子成仁(ふさひと)親王が誕生されました。この頃は室町幕府の時代で、騒乱が続いている時であり、後花園天皇はそうした中で政治に無関心だった足利義政に戒めの詩を送った話が残されているような頃のことです。そうし
我ながら、どうして今日のこのブログを書いているのか、よくわからないのです。よくわからないながら、何かに突き動かされるようにこのところ私がず〜っと調べていた事を今やっと書こうとしています。きっかけは、吉野の吉水神社様で拝見したこの三帝御宸筆に違和感を感じた事です。吉水神社様には後醍醐天皇ゆかりの多種多様な御物が遺されていました。義経公や静御前や弁慶の遺物の場合は急いで落ち延びる為によんどころなく置いていったものです。秀吉公の遺物の場合は吉野の花見の後
★第四十九代光仁天皇は奈良時代末期の天皇です。和銅二年(709年)生。御名は白壁(しらかべ)。御父は天智天皇の皇子の施基皇子(しきのみこ)/春日宮天皇(かすがのみやのすめらみこと)です。御母は紀橡姫(きのとちひめ)。『すめらぎのお話・・・追尊天皇と不即位太上天皇とは』天皇の歴史を知ると、実は実際には天皇に即位していないけれども、天皇号や院号、太上天皇号が贈られた天皇が何人もいることがわかります。それは追尊天皇、不即位太上天…ameblo.jp在位、宝亀元年(770年)か
令和4年12月12日(日)今回は年休をもらっていたので、朝から岩倉にある実相院に行くことにした。京阪三条駅から京都バス実相院行に乗車する。京阪三条駅前からバスで約35分くらいとなる。ただし、京阪三条・祇園四条駅からは午前中の3便(1時間に1本)くらいしかなく、11時以降は直通便がない。なお、地下鉄国際会館駅前⇔実相院は多く出ている。実相院へは紅葉の時期に前回も来た覚えがあるところである。実相院は元は天台宗寺門派の門跡寺院であるが、現在は単立寺院となっている。本尊は不動明王である。
実相院(じっそういん)は、もと天台宗寺門派の門跡寺院です。鎌倉時代の寛喜元年(1229年)に近衛基通の孫・静基(じょうき)僧正が開山し、京都市北区の紫野に創建された。その後、京都御所の近くに移転したが、応仁の乱(1467~77)の戦火を逃れるために、当時管理していた岩倉に移った。実相院は門跡寺院であるから、昔から岩倉門跡とか、岩倉御殿とも呼ばれている。江戸時代の寛永年間、足利義昭の孫・義尊の時代に、母の三位の局が後陽成天皇に仕えて、道晃法親王(聖護院門跡)を設けたことから、天皇家とのゆかりが深
閑院宮家は、1947年、皇室離脱した11宮家の中の一つです。伏見宮閑院宮久邇宮山階宮北白川宮梨本宮賀陽宮朝香宮竹田宮東久邇宮東伏見宮第百十四代中御門天皇の時代、宝永七年八月十一日(1710年9月4日)、311年前の本日、東山天皇の第六皇子直仁(なおひと)親王を初代とする新宮家創設が決定されました。その八年後霊元法皇(前年崩御された中御門天皇の父である東山天皇の父)より直仁親王に対して「閑院宮」の宮号と千石の新領が下賜されました。これは寛永二年の有栖川宮家が創設されて以来
黒板勝美黒板勝美(くろいたかつみ・1874年9月3日~1946年12月21日)<歴史学者>日本の古文書を集積した『国史大系』を校訂するなど、古文書学の確立に貢献したほか、史学の多領域に渡って大きな業績を残しました。世界語として欧州で考案されたエスペラントの専門家としても知られます。~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~≪Shikako(しかこ)☆のおまけ≫
2019/04/09に公開<第113代東山天皇>1687年即位(将軍)徳川綱吉〔犬公方〕〔犬小屋・中野〕(側用人)柳沢吉保〔六義園-りくぎえん〕(天文方)安井算哲〔渋川春海〕1687年大嘗祭・再興1689年松尾芭蕉「奥の細道」1702年赤穂事件1709年(新井白石・通訳)シドッチ・屋久島潜入
名古屋のシンゾウですワクチン接種、3日目です。やっと体調が戻りました。3回目の時より、かなり大変でした。ついに、「第18・19回京都検定問題と解説」(本体1,800円+税)を購入しました。2回分ですので随分厚くなりました。過去の「問題と解説」本は殆ど読んだことがありません。今回も積読(つんどく)で終わるかもしれません。この本の内容をどのくらい知っているのか、興味はあるのですが....積読かな!!他にやることが沢山ありますからね。虻蜂取らずに注意が必要です。本日もブログを更
★第四十九代光仁天皇は奈良時代末期の天皇です。和銅二年(709年)生。御名は白壁(しらかべ)。御父は天智天皇の皇子の施基皇子(しきのみこ)/春日宮天皇(かすがのみやのすめらむこと)です。御母は紀橡姫(きのとちひめ)。『すめらぎのお話・・・追尊天皇と不即位太上天皇とは』天皇の歴史を知ると、実は実際には天皇に即位していないけれども、天皇号や院号、太上天皇号が贈られた天皇が何人もいることがわかります。それは追尊天皇、不即位太上天…ameblo.jp在位、宝亀元年(770年)か
土葬と異なり火葬ではその埋葬面積が小さくここ月輪陵にあるように葬られた歴代天皇の数に比してその霊廟の規模自体は小さいが、その霊廟前に立つとそのなんとも言えない凛とした壮麗さに、ただただ感動、、御陵印月輪陵つきのわのみささぎ浅野内匠頭の月の御命日にかぎって巡る忠臣蔵シリーズ討ち入りのあった元禄年間に在位されていた第百十三代東山天皇を含む複数の歴代天皇の御霊廟月輪陵御寺泉涌寺山内京都市東山区陵印保管場所月輪陵墓監区事務
第百十九代光格(こうかく)天皇は江戸時代の天皇です。傍系から皇位を継いだ最後の天皇であり、令和の御代替わりがあるまでは、最後に譲位された天皇でもありました。御父は閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひと)、東山天皇の曾孫です。御母は岩室磐代(いわむろ/いわしろとめ)。御名は兼仁(ともひと)、祐宮(さちのみや)。明和八年(1771年)生。在位、安永八年(1780年)から文化十四年(1817年)。第百十八代後桃園天皇は二十二歳の若さで崩御し、その年に生まれた皇女しかいませんでし
京都御苑の凝華洞跡の大銀杏はや師走に入りました。先月も多くの方々にご訪問頂き感謝いたします。今月も、どうぞよろしくお願いいたします。京都御苑の紅葉京都御苑の散歩ルートで、九条家別邸跡の捨翠亭や閑院宮邸にも季節ごとに行くことがある。改修前の捨翠亭(2021年5月撮影)捨翠亭は、改修のために来春まで公開が停止されていて、リニューアルされるのを楽しみにしている。捨翠亭・1階
昨日の、皇室の宮中祭祀。メディアがニュースで大きく取り上げなくても首相がツィートしてくれています。無事に行われているのは有難いことです。菅義偉@sugawitter秋分の日に当たり、宮中に参内し、秋季皇霊祭の儀、秋季神殿祭の儀に参列いたしました。清く澄みわたる秋空の下、豊かな文化と伝統に満ちた国を造り上げてこられた先人に深く感謝の念を捧げるとともに、国民の幸せと国家の安寧、そして皇室の益…https://t.co/NgQZCaUehN2021年09月23日12:34本
いつもは旧暦で天皇の誕生日を紹介していますが、秋分の日の本日は新暦で天長節が重なる日付です。天長節は唐の時代に玄宗皇帝の誕生日を祝ったことに由来する日で、日本においても光仁天皇の時代に天長節の儀が行われ宴を賜ったことが始まりとされています。御歴代の天皇がたくさんいらっしゃいますから、天長節も重なる日があります。現在ここでは和暦基準で天長節をみていますが、新暦(西暦)での日付がはっきりしている天皇の天長節では本日は一番重なっている日となります。本日は、高倉天皇、後桜町天皇、光格天皇の