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1195年(建久6年)3月、源頼朝が東大寺の大仏殿の落慶供養参列に付き従って上洛した畠山重忠は、4月5日、栂尾の明恵上人に会いにいった。重忠が栂尾に近づくと、土ぼこりが煙のように立ち上がったのだとか。洛中で火事が起こっているのか疑っている弟子たちに明恵は、「そうではない。名のある勇士がこちらへ向かっているのだろう。その気を感じる」と説いた。しばらくすると畠山重忠が参上。弟子たちは、今さらながらに上人の言葉を尊敬したのだいう。重忠は、浄土宗の教えを承って帰ったのだとか・・・高山
来年度の講義の教材作成に取り掛かろうと朝から💻pcの前に座った。窓から見る空は、良い天気。そうだ!桜を見ないと。駅のスタバにより、茅ヶ崎市新庁舎の隣に東横INができつつあった。驚いた。中央公園の桜🌸ここだけ、満開。何という桜かな?ソメイヨシノかな。この種の桜🌸が満開です。きれい。スタバでサクラドーナツとコーラフラペチーノを買ってきた。美味しい。この目の前の桜🌸と同じ木を南三陸町に植えたとのこと。一句できました。「きれいだな、本当にきれいだな、き
秋田市のカフェメリッサで3月のメリッサ読書会が開催されました📖🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸読書会に来たメンバーと最近、黄砂とか花粉とか🟡やばくないですか?とか自分の花粉症をヒトに押し付けながら🌲すっかりあたたかくなってサクラも咲きそーな🌸花粉さえなければ目も開けられてとても気分がいいであろうほんわかなお天気の中☀️コロナの警戒レベルも下がって夜の川反も人出が戻ってきたね!とゆーのをメンバーから聞いてたら🍶S川センセーがあらわれたので本好きのメンツがそろった
大阪と京都の旅国宝の「鳥獣戯画」所蔵で有名な栂尾・高山寺に参拝してきました。国宝建造物「石水院」拝観風格ある扁額明恵上人も目にしたであろう……深山の風景、落ち着きます京都の四条烏丸からバスで約40分弱。遠い、とおい……☆☆◆☆☆
丸新本家、湯浅醤油有限会社の新古敏朗です。和歌山の代表する偉い人の中に明恵さんが入ります。湯浅宗重(ゆあさむねしげ、生没年不詳)の孫にあたり、京都の高山寺を開山する(鳥獣人物戯画でも有名)湯浅醤油と金山寺味噌の始祖法燈円明国師国師とも交流があった。和歌山特報さんの記事よりWikipedia湯浅宗重(ゆあさむねしげ、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。藤原北家流藤原宗永の子とされる(諸説あり)。紀伊国湯浅城(現・和歌山県有
和本昭和7年(1932)「明恵上人臨終記」全1冊/徳富蘇峰(徳富猪一郎)/古書です。31丁+5頁。26.5cm×18cm。元題簽。奥付あり。限定300部のうちの197号。『データ』【書名】明恵上人臨終記【巻冊】全1冊【著者】徳富蘇峰(徳富猪一郎)【成立】昭和7年(1932)
・東博で、1Fを一回りして、ミュージアムショップに出る直前の大き目の部屋(18・近代の美術)に明治以降の名品がおいてあり、結構、速いタイミングで入れ替わる。この前は、鉄斎と大観の掛け軸があった。鉄斎の方には一部「日本水墨画全史」に解説を見つけた。・これは、鉄斎、最晩年の作。(p.423)。「天孫降臨の際、天の八衢(あめのやちまた)で道をふさごうとした猿田彦神に対して、先導の天宇受売命(あまのうずめのみこと)が豊かな胸を露わに話しかけ、ついに二神ともども道案内をすることになったという、古代の説話
おはようございます。今日は、鎌倉時代の僧で華厳宗中興の祖・明恵上人の1232(寛喜4)年の忌日です。明恵上人と言って、どんなことを思い浮かべられるでしょうか?明恵上人が開いた栂尾山に高山寺を開いたこと。この高山寺には鳥獣戯画があること。また、宋から栄西が将来した茶の栽培をしたことでも知られています。【明恵上人とは】出典Wikipedia没年:貞永1.1.19(1232.2.11)生年:承安3.1.8(1173.2.21)鎌倉初期の学僧で、仏教界の改革者。明恵は房名、諱は高弁。も
一月七日土曜日新春初の観能大津市伝統芸能会館にてシテの味方玄さんは昨年「観世寿夫記念法政大学能楽賞」を受賞されいま勢いに乗る観世流シテ方ですお年が近いことも有り学生時代よりお近くで拝見する機会に恵まれていて(能楽部の合宿にも来ててくださいました)いまでも「玄さん」とお呼びしています「春日竜神」は仕舞の地謡に入ったり仕舞を拝見する機会はありましたがお能は初めてです予め謡本で予習するとワキが明恵上人で僧の道を極めようとした超絶人生を歩
昔々、明恵上人と言う方がいました。「菫は人が見ても、見てなくても、人が綺麗と認めても、認められなくても、菫としてそこで輝いている。それこそが佛の姿なのだ。」と言われたそうなのです。多くの人は認められたいと思っています。人が見ていなければ良いことはせず、人が見ていると良いことをする。陰徳とは人が見てなくても良い行いをすることを言います。菫の花のように、謙虚
11月18日(金)の散策記、最終回。石水院に入りました。石水院は明恵上人(1173~1232)時代の唯一の遺構。上人が後鳥羽上皇より学問所を賜ったものとされています。また、鎌倉初期の寝殿造の面影を残す建造物としても貴重であり、国宝に指定されています。拝観料は800円。渡り廊下を歩いて奥に進みました。途中のお庭はもうひとつ。奥の部屋の入口に善財童子像が置かれています。明恵上人が敬愛した善財童子像。欄間には、富岡鉄斎の木額「
引き続き、11月18日(金)の散策記です。ここは高山寺こうさんじの表参道。記念碑によると、平成6年(1994)12月17日に世界文化遺産登録されたそう。入山料(500円)を払って境内へ。石灯籠の向こうにそびえ立つ北山杉。境内は神聖な雰囲気が漂っていました。石段を昇り切った所に金堂があり、釈迦如来像が祀られています。金堂の隣に春日明神社。少し離れた所に宝塔があります。よく整備された道を歩きました。かつて
私は、和歌山県生まれであるため、たとえ育ちが大阪であっても、和歌山県人という意識が強い。和歌山県には、有名な偉人や賢人はさほど多くはないものの、ごくたまに歴史上の偉人が出てくる。その中の1人として、今日は明恵上人について取り上げたい。ちなみに、タイトルに親鸞上人の名前を挙げたのは、実は明恵上人と親鸞上人両人が、平安末期の1173年生まれで同い年であるからである。同じ、1173年生まれで、同じ仏教のお坊さんであるにも拘らず、この両人ほど、考え方の異なる僧侶は日本の
画像満杯で高山寺のつづき明恵上人が愛した仔犬の木像。保護ケースが反射して全然見えへん。高山寺kyoto-kosanji.jp↑で見てな。明恵上人の頃から残ってる建造物という事で、仏像彫刻は慶派が出てきて派手に成ったけど、建造物の彫り物も含め質素やな。開山堂。明恵上人廟所。金堂。石水院だけちごうて、高山寺全体が質素。明恵上人の精神が引き継がれてるという事なんやろう。日本初のお茶畑も弱者救済の精神なんかも?この辺まで来ると、北山杉の産地と言うてもエエんかな?すてれんきょ
《高雄高山寺》京都でも、紅葉の名所で知られる地・高雄。そのいちばん山奥に「世界文化遺産のお寺・高山寺」はあります。奈良時代(774年)に光仁天皇の勅願により創建された古刹で、鎌倉時代に文覚の弟子の明恵上人により再興された山寺です。失脚により怨霊となり都に災いをもたらしたといわれる菅原道真公の霊を鎮めた法性房尊意僧正が11才より4年間修業した地であり、その法力を得たとされています。いわれてみれば、確かに境内は、古い石垣で囲まれ、ヒノキやスギの巨木がそびえ立つ自然と霊気のエネルギー
こんにちは、ライフスタイリングコーチのLifeKoselig(ライフコーシェリ)senriです。心地よい空間×お気に入りの時間で自分が整う世界を開くためのヒント、そして日々の暮らしや雑談をお届けしています。昨日の月曜日、いかがお過ごしでしたか?最近、わが家は鬼門でして…。と書きながら、「鬼門」だと思っているから「鬼門」になるのか?などと考えています。それこそ、昨日投稿した記事の言葉のチカラを、よくない方で使ってしまっているのかも~。そんな1つのお
京都二条城近くのサロン紬堺光子(さかいあきこ)ですブログにご訪問頂き、ありがとうございます(*^_^*)昨年同様、今年も京都三尾(さんび)に紅葉狩りに行きました。京都の西北郊外に位置する、高雄(たかおさん)槇尾(まきのおさん)栂尾(とがのおさん)と呼ばれる三つの山が連なるこの地は三尾(さんび:3つの尾根)と言われ、紅葉で有名です。北から栂尾山高山寺(とがのおさんこうざんじ)、槇尾山西明寺(まきの
北条泰時は現在でも鎌倉幕府一の名執権だと称えられることが多い。なぜ泰時は名執権だと言われるのか、北条泰時とその後を3回に分けて詳しく見て行こう。北条泰時は1183年寿永2年、北条義時の長男として生まれた。母は鎌倉幕府に仕えていた阿波局だと言われているが、詳しいことはわかっていない。母を幼くして亡くした泰時は幼名を金剛といったが源頼朝が金剛を可愛がった。泰時が元服した時には頼朝自ら名付け親となり、頼の1字を与え「頼時」と名乗らせている。泰時は後に改名しているが「吾妻鏡」には頼朝と泰時の
なお高山寺の明恵(みようえ)は湯浅一族の出身で,栖原(すはら)には明恵ゆかりの施無畏(せむい)寺があり,古文書を蔵する。白上峰や湯浅湾中の苅藻(かるも)島は明恵修行の地として知られる。『世界大百科事典』平凡社湯浅町の栖原海岸まで走ってきました。穏やかな日差しと風、そして波の音が心地よいです。苅藻島が見えます。明恵上人が修行をされたところです。小さな海水浴場です。夕日を受ける加速装置。チェーンの汚れを落として注油したら加速がなめらかになりました。この
高山寺を訪ねました。今回は…チョイとナレーションチックに高山寺をご紹介するところからはじまりはじまり…………■■■………京都の奥座敷三尾と呼ばれ、山々に抱かれた仏教の名刹は深甚な雰囲気を醸し出す…。訪れたのは、栂尾高山寺。高山寺は明惠上人が後鳥羽上皇よりこの地を賜り、中興したという華厳宗の名刹。中興…、とは言うものの、実質の開祖とも言えるかもしれない。10月末はまだ紅葉シーズン
今日は雨になりましたが、あまり寒くはないかな。暑がりの私は家の中では遠慮なくノースリーブです。2015年に出張で行った京都。紅茶絡みでしたので先輩と一緒に訪れたのはここ。アフタヌーンティーを楽しみに伺いました。渡月橋のたもとを上流に歩いていきます。大堰川の川沿い。最高のロケーションでした。和のアフタヌーンティー。フードもとてもおいしいし、景色もよいし、心からくつろげました。ちなみにお茶はMightyLeafでした。意識高い系。平日でしたから、そんなに混んではいなかった。そのあと、
10月10日。歴史や宗教に造詣が深い友人のお誘いで、再び京都へ。今回の旅の目的は、京都栂ノ尾『高山寺』の特別拝観です。友人は、高山寺の「明恵上人」と「アッシジの聖フランチェスコ」の清貧で慈愛に満ちた生き方が好きで、高山寺と聖フランチェスコ教会が兄弟教会(ブラザーチャーチ)であることを知り、高山寺を訪ねたいとの思いに導かれたのだそうです。私は昭和の歌謡曲『女ひとり』の「京都栂ノ尾高山寺恋に疲れた女がひとり〜♪」の歌詞と、「鳥獣戯画」くらいしか高山寺に関する知識はありませんでしたが、JR
無欲になりなされ。率先して欲心を捨て去って政治に励みなされ。そう師の明恵上人にいわれた北条泰時。これが泰時自身の生涯の自戒となり、信条となり、決して踏みはずさないこころの〝徳俵〟となった。鎌倉へ帰って執権となり、あらかたの政局を片づけた。評定衆による合議制もスタートした。さてこそと思っていた。が、現実は理想とはかけ離れていた。こんな判決があるか!えこひいきじゃないか!1226(嘉禄2)年10月9日の評定会議に、怒号が響きわたる。御家人・中原泰貞と別の御家人の郎党・大屋家重
おはようございます珍しく、ブログを出し忘れた朝ですさて、昨日は素敵なご夫婦と夕方にお会いしてまして、奥様がすみれさんと言われますすみれを佛の姿だと言われた、明恵上人と言う方を思い出しました。(ウィキペディアより)その方が道端に咲いていた菫(すみれ)の花をみて、涙が溢れてきて、「菫の花は佛の姿だ。」と感動されたそうです。日本での菫(すみれ)の花ことばは「謙虚」「誠実」「小さな幸せ」です。菫は道端などで、ひっそりと咲
明恵上人を知ったきっかけは何だったか忘れてしまったのだけど血生臭い鎌倉時代はその時代の新興宗教が多く出来てどうすれば救いの手を出せるか様々な宗教家が民衆に心を砕いていた中で明恵上人は宗教家らしく修行でしか仏の道を知ることは出来ないと言うその時代には非常にオーソドックスな人だったようです。北条泰時との出会いは承久の乱で朝廷側の人間をかくまったとして明恵上人が捕えられ六波羅探題の泰時の所へ連れて来られた時が初めてだそうですが、高山寺がある場所では殺生はしてはならぬ土地。
私事になるが、この年になると健診のため、毎年、胃カメラをのむ。いつも思うが、嫌なものだ。胃カメラが喉元を過ぎるとき、激しくえずく。カメラが胃に達してしばらくすると、医者は(カメラが胃を)押しますから少し気持ちが悪いかもしれません。などという。わけもなく涙が流れ、苦痛に顔が歪む。そのとき、多くの場合、付き添いの看護師さんが、やさしく私の背中を撫でてくれる。撫でてくれることで、苦痛はウソのように薄まってゆく。撫でるという行為はタッチングと言って、医療現場ではとても重要な看護技術
こんにちは明恵上人のお言葉です明恵上人とは…鎌倉時代に活躍した高僧です。※夢記で有名な方です。あるべきようは阿留辺畿夜宇和人は「あるがままに」生きるのではなく今、どのように生きるべきなのか(あるべきようは)を常に自らに問いかけその答えを生きようとすべきなのだと説いた。俗に言うとあるがままに!などとよく、耳にするスピリチュアルがブームとなるとなおさら、この声を耳にした開放していいのだ!自由になっていいのだ!我慢する必要はない自分は自分らしくあるがまま
明恵上人の御歌に「無常」を学びます。我が体も、花も山も無常であることを、静かに想います。だから今をしっかり生きねばなりませんね☆あはれ知れと我をすすむる夜はなれや松の嵐も虫の鳴く音ねも(玉葉615)【通釈】心なき我が身にも、もののあわれを知れと、その気にさせるような夜ではないか。松を吹く嵐も、虫の鳴く声も。【語釈】◇あはれ知れと秋の情趣を知れと。「心なき身にもあはれは知られけり」(西行)『明恵上人集』では「物あはれなるに、世の中あぢきなくおもひつづけて侍る筆すさ
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』、もうあのシーンは撮り終えただろうか。なにも、ドラマの先読みをするつもりは毛頭ない。ただ、ある人の言ったことばのために、以下のことを書こうと思う。承久の乱。京都の朝廷では、幕府の成立と勢力の拡大に直面して、これまでの朝廷の政治の立て直しがおこなわれた。その中心にあったのは後鳥羽上皇である。上皇は、分散していた広大な皇室領の荘園を手中におさめるとともに、新たに西面の武士をおいて軍事力の増強をはかるなど院政を強化し、幕府と対決して朝廷の勢力を挽回する動きを強め
お食事の後はほど近い高山寺に行きました。階段めっちゃ登るんですけどなんか見るとこ全て素敵で石水院の特別公開がめっちゃ楽しみなんですよね高山寺は京都の栂尾にある名古刹です。石水院は創建当初からの建物で世界遺産にもなってるんですね。この像のお部屋がパンフラットにもなっていますね。人がいなければもっと素敵に当たるんだけど。創建は奈良時代だそうでその後、神護寺の別院であったのが、建永元年に明恵上人が後鳥羽上皇よりここをいただいてお寺として名を高山寺としたそうです。これ、明