ブログ記事404件
新発田城攻略の後で立ち寄った白壁兵舎広報史料館の前にヘリコプターがいました。自衛隊の退役したヘリコプターの展示です。こんな機体ヘリコプターを間近で見る機会はあまり無いので、じっくり観察。鯱がいます。新発田城に縁があるこの駐屯地らしい。史料館の隊員に申し出れば、無料で乗ることができるそうです。もちろん飛行しませんけど。https://www.mod.go.jp/pco/niiga
3月14日、新発田城の隣にある自衛隊施設の白壁兵舎広報史料館https://www.mod.go.jp/pco/niigata/HP/sirakabe.html日本100名城スタンプを押すための来館。入館無料。由緒ある建物のようです。サクッと押して帰るつもりだったが、入館時に住所・氏名を記入させられる。自衛隊の施設だから仕方ないけど、面倒くさいなぁ・・・と思ったが、いやいや、記入するだけの価値がありました。日本100名城スタンプと、史料館のスタンプもG
3月14日、村上城訪問の後は新発田駅へ降り立つ。目指すは新発田城(新潟県新発田市)新発田駅タクシーで新発田城跡の東端あたりへ。辰巳櫓が見えます。辰巳櫓の裏手には陸上自衛隊の車両がズラリ。そう、新発田城は二の丸一帯が自衛隊の駐屯地となっているのです。つまり現代では最強の城ということ。タクシー運転手さんとの会話で、新発田城へ行く理由を聞かれたので「最強だから」と言ったら、運転手さん大笑い。元の新発田城はこの範囲現在残っているのはこの部分。しかも本丸
今回、私達が向かったのは〜北陸&東北福井県のSAで車中泊をしてそこで朝のコーヒーとパンを買って、走りながら朝ごはんこの季節の緑が濃い景色が好きそのまま新潟に入りました新潟で向かったのはここ『新発田城』もちろん日本100名城🏯石垣は綺麗に積み上げられた『切込はぎ』揃った形できれいに積み上がってるwお城のタイプは平城🏯天守閣はないけど櫓に展示物があって建築好きにはたまらないかも本当は三階櫓を見たかったけど公開日じゃなかったので断念100名城スタンプ39日
始まりました。日本100名城フィナーレの旅。東海道新幹線・上越新幹線を乗継ぎ新潟へ。さらに特急いなほで30分弱、新発田で降りる。駅から新発田城までゴールデンウィークのためか無料バスが出ていた。バスに揺られること10分。新発田城到着。新発田城と言えばこの三階櫓。シャチホコが3つある。近年再建されたものだが、古写真が残されており、当時の姿を再現している。全国的にもとても珍しい櫓となっている。二ノ丸隅櫓と本丸表門は江戸時代の遺構で、共に重要文化財。門の前に係員がおり100名城スタンプをもらう
おはよーございますさて新潟市までで後は自宅に戻ろうと思っていた今回の桜行脚ですがもう少し北のの桜も見ごろとの情報を得てこれは見逃せないと訪れました新発田城址公園chaoが6シーズンを暮らした地の桜の名所です去年の引っ越し時はまだだった桜が異常に早い今年はほぼ満開でした三階櫓全国で唯一、丁字型の屋根に3匹の鯱を配した三階櫓自衛隊敷地内のため内部には入れませんがその特徴ある外観は必見です今回の旅では色々と名所を回りましたが桜とお城の距離が遠いところが多かったんですがここは
先週の金曜日に具合が悪くなり、昨日復活しました。インフルでもコロナでもなく、風邪と花粉症の混合みたいです。やむを得ず、日曜日はずっと寝ていました。先週水曜日の新発田の桜を巡った書きかけがありましたので、せっかくなので書き終えてしまいたいと思います。桜の季節に新発田城を見ない手はないです。ここは断じて見逃してはいけません。ここ数年、目にすることが随分と減ってしまったタンポポがたくさん咲いていました。やっぱり春はタンポポです。幼い頃の春は、桜よりタンポポの方が身近でした。どこに行っても愛くる
前回の続きです。今回は蔵の資料館です。下図10・11・12です。Uの庭門を出て、V地点に行くと上図10・11・12の蔵の資料館があります。10は新発田藩資料館11は堀部安兵衛伝承館12は清水谷蔵所資料館です。この建物はもと新発田市五十公野にあった酒蔵です。明治中頃にこの地に移築し、米蔵として利用されました。約1万俵の米を保管できました。現在は蔵の資料館として、郷土資料展示や食堂として利用されています。ここは10は新発田藩資料館入口です。こ
前回の続きです。今回は清水園回遊式庭園後半です。前回は書院からP付近まで回遊しました。上図NからOにある丘道です。ここを過ぎると3枚の石板を一直線でなくジグザグに架ける事で景趣を出しています。幅が狭いので幼児やお年寄りには渡り難いです。橋の先には四阿(あずまや)が見えます。四阿の内部です。少し座り休憩しました。下図6⃣の四阿です。通り過ぎてから撮影してます。さらに石橋を渡り7⃣8⃣9⃣の方に行きます。この石橋を渡ります。渡
おばんです、皆様咲き始めたと思きやすでに満開!気象を操作する輩がいるようでなんと今日の体感温度は20℃越え!でも強い風が吹いてくるとひんやりしていました散り始める前に新発田城へGO~♪毎年のことではありますがご覧あれ!はい、お疲れ様でした。新発田城址公園の桜も古木が多いですよく風雪に耐えていると思いますありがとね~♪ご覧いただき、ありがとうございました。
前回の続きです。今回は新発田藩溝口家の下屋敷清水園回遊式庭園です。一般的な形式で池泉回遊式庭園と呼ばれるもので、大きな池を中心に配し、その周囲に園路を巡らして、築山、池中に設けた小島、橋、名石などで各地の景勝などを再現し。園路の所々には、散策中の休憩所として、また、庭園を眺望する展望所として、茶亭、東屋なども設けられています。書院から石橋を渡り池泉回遊式庭園を回遊します。下図JからK方向です。下図3⃣の茶亭桐庵が見えます。清水園の案内板です。K付近か
前回の続きです。今回は書院の続きです。囲炉裏の間から舞台の間とその奥の次の間を見たところです。書院間取り想像図を描きました。非公開の部分は空白です。居間・寝間・台所ではないかと思います。次の間とその奥に謁見の間があり、その奥に上段の間があります。上段の間は藩主の居場所で、12代続いた溝口藩主が、大名庭園の景色を楽しんだところです。上段の間解説板です。ここで記念撮影をしました。上段の間の書院窓から見える景色は上段の間書院窓からの眺
新潟スタンプ旅に行ったのは1年10か月ほど前。写真を見返し思い出しながら、書いています。【スケジュール】1日目(前日入り)新潟→新発田城No.31→弥彦駅・彌彦神社→長岡2日目長岡→直江津→春日山城No.32→高田城→「まつだい農舞台」→越後湯沢→東京初日はあいにくの雨っていうか、天気がよかったことがここ最近全然ない新潟には前日入りしているので、朝からさっそく新発田城へ向かいます。JR新発田駅で下車、コミュニティーバスおやゆびひめ号(1時間に1本くらいしかない)で新発田城址公
書院の間取り想像図を追加しました。前回の続きです。今回は清水園の大門から書院です。下図D付近です。ここから木橋を渡り清水園にいきます。このあたり一帯が清水谷の地名であったため、清水谷御殿、清水谷御座敷、または清水谷とよばれていた「清水園」です。新発田藩が、曹洞宗高徳寺を五十公野上新保(新発田市)に移し、跡地に下屋敷をつくるための整地をしたのは寛文元年(1661)です。棟上げが行われたのは同年6年4月。記録による「清水谷御座敷普請」の完了は元禄6年(169
最後に石黒家その後を追加しました。前回の続きです。今回は武家屋敷石黒家後編でその内部です。邸内に入った所です。左に玄関があり、右に座敷があります。(下図参考)庭から見た座敷です。下図庭から座敷方向です。座敷の向こう側によりつき、その奥に寝間と茶の間が見えます。玄関から入ると玄関式台です。その奥によりつきが見えます。よりつきから座敷を見たところです。座敷には床と棚がある本床があります。棚に置かれた石黒家の火鉢です。溝口の藩
前回の続きです。今回は中級武家屋敷で70石の石黒家住宅紹介です。石黒家住宅は清水園内に移築されています。江戸時代後期と現代の重ね図です。石黒家は江戸時代後期には上図Cの位置にありました。1石は約1両ですが、幕末には米の価格が下落しています。江戸後期に70両と言えば、70石は領地の収穫量なので、その半分が取り分となります。なので、石黒家の年収は約35両となります。これを現在のお金に換算したら、1石は約150kgなので、お店で10kg3000円で米を買うと
前回の続きです。今回は足軽長屋後編で内部の様子です。裏側から見たところです。背面には1間(1.8m)の杮葺き庇があります。赤枠が1軒の範囲です。畳部屋2室と炉のある板の間があります。赤い→から中を見ると裏側の赤い→から見ました。表側の玄関入口が見えます。構造の解説板です。住環境の解説板です。生活用水は横を流れる新発田川で、トイレは共同でした。足軽よりも低い身分の者も住んでいて、名字があっても名乗れない者がいました。役職は隣の下屋敷
前回の続きです。今回は足軽長屋です。下図E付近から南方向です。道の右側を新発田川が流れています。Eから少し進むと足軽長屋が見えます。右に行くと藩主下屋敷の清水園です。足軽八軒長屋です。国重要文化財になっています。平面図は八軒長屋の構造です。板設置が古いので見難いです。現在は1棟しか残っていませんが、この棟は昭和40年ぐらいまで使用されていたので保存できました。江戸時代は100棟余りの足軽屋敷があったそうです。城から離れた清水
前回の続きです。今回は新発田城から足軽屋敷まで歩きましたです。下図Sから三階櫓方向です。Sは下図西ノ門付近です。SからEまで歩きました。白壁兵舎を見ながらAまで歩くとAの附近に御作事所がありました。白壁兵舎です。白壁兵舎は現在白壁兵舎広報資料館になっています。明治7年に陸軍兵舎として、フランスと和洋式折衷で建造されて、郷土部隊の第16・116聯隊や戦後陸上自衛隊第30普通科連隊の資料中心に展示されています。開館は16:00までなので閉館して
前回の続きです。今回は天守代わりの三階櫓です。下図⑮付近から撮影した鉄砲櫓です。江戸時代と現在の合成図です。⑮から⑯の方に歩きました。上図⑮付近です。⑯の方に歩くと⑮から少し⑯方向に歩いたところです。三階櫓が見えます。ここでカメラを右に回すと鉄砲櫓です。切り込みハギの石垣がきれいです。上図⑯付近です。天守代わりの三階櫓が正面に見えます。左の塀は自衛隊敷地との仕切り塀です。ズームUPして撮影しました。明治5年の廃城令まで
前回の続きです。今回は再建された本丸辰巳櫓です。看板設置場所にある絵図です。表門の右側に辰巳櫓があります。登城のときに紹介しましたが、土橋門と帯曲輪での防御上での工夫についてからです。鉄砲櫓は表門方向に30度傾いていて、帯曲輪への攻撃はし易くなっています。辰巳櫓の出窓横(側面)にも狭間があり、表門方向が見えます。土橋門が破られても、帯曲輪にいる敵を攻撃出来る仕組みになっています。石落とし出窓横(側面)の狭間から見た表門前の土橋です。帯曲輪の解説
前回の続きです。今回は鉄砲櫓(旧二の丸隅櫓)です。本丸内から見た二の丸隅櫓です。1668年の大火災のあとで再建されたもので、国重要文化財です。カメラを右に回すと本丸御殿跡ですが、塀の向こう側は現在自衛隊基地です。三階櫓の屋根だけが見えます。三階櫓は自衛隊基地側にあり、内部非公開になっています。江戸時代と現在の重ね図です。(上が北)階段を上がり横から入口を見ると二の丸隅櫓入口です。解説板です。二の丸隅櫓を解体修理して、1959
前回の続きです。今回は本丸表門内部展示品の一部を紹介します。明治5年頃に撮影された古写真がたくさん展示されています。古丸が遠くに見えます。二の丸講堂と本丸三階櫓です。現在は撮影地点が自衛隊駐屯地です。講堂は下図にあります。8代藩主直養(なおやす)は、1772年に越後で最初の藩校「講堂」を設立します。のちに「道学堂」と改称しています。1775年には全国で3番目の医学館を設立しました。江戸時代の区画名図です。本丸と周辺の復元想像絵図です。
前回の続きです。今回は本丸表門内部です。1732年(享保17年)に再建された、渡櫓門で国の重要文化財です。腰回りは黒瓦を使ったなまこ壁です。これには積雪耐性があるようです。表門渡櫓入口です。江戸時代建築で国重要文化財です。渡櫓の土橋側(南側)の窓と内部構造です。古写真や藩主の肖像画などがあります。床には石落としがあります。その上の窓から外を見ると渡廊下窓から見た外側風景です。格子の隙間から見ると石橋(江戸時代は木橋)の向こう側に帯曲輪が見え
前回の続きです。今回は本丸表門です。本丸表門です。石垣は切り込みハギできれいです。現存する本丸表門は享保17年(1732年)に再建された2階の渡櫓門で、国の重要文化財です。腰回りは黒瓦を使ったなまこ壁で、冬場の積雪に耐久性があります。渡櫓に石落しを備えています。表門の解説板です。カメラを左に回すと鉄砲櫓(二の丸隅櫓移築)が見えます。表門の下から外側を見ると表門の下から外側を見たところです。表門渡櫓の下には地図などの展示品がありました。
お城巡りから21時頃に帰りました。遅れましたが更新します。前回の続きです。今回は本丸前帯曲輪から本丸です。本丸前帯曲輪の土橋門跡から本丸表門を見ると土橋門跡から本丸表門方向です。この反対側は土橋門跡から土橋方向です。表門の方に進むと本丸表門が見えます。表門は1668年の大火焼失の後、1732年(享保17年)に再建されています。表門と旧二の丸隅櫓が内部公開されています。冬は雪が積るので、公開は3月下旬から11月30日までで、公開時間は午
前回の続きです。今回は二の丸から本丸前までです。二の丸古絵図です。⑭付近から大手中の門を見た古写真は下です。(上が北の重ね図です)⑭付近から見た大手中の門と内枡形古写真です。一番右端の木は家老の速水邸の木です。上図⑫付近から振り返り見た中の門枡形内跡です。この反対側は⑫付近から北方向です。本丸の鉄砲櫓が見えます。広場は戦前陸軍病院があった所です。終戦前の陸軍新発田衛戍病院です。衛戍というのは陸軍駐屯地という意味です。戦後は県立新発田
前回の登城の続きです。今回は三の丸から二の丸です。⑦付近から⑦付近から看板(案内板)方向です。案内板の向こう側が掘で、その向こう側に、下図中の門がありました。中の門付近の古写真は三ノ丸から見た中の門古写真です。中の門付近だけは石垣があります。内枡形になっていました。官軍と戦わすに済んだので、城の建物が残ったのは、長岡城と大違いですね。(明治初期の写真です)二の丸内側から見た中の門です。右端の木は下図の家老の速水邸のものです。看板の案
今回は本丸御殿までの登城経路で、大手町口門から三の丸で、二の丸前までです。江戸時代の新発田城全体図です。現在と江戸時代の重ね図です。三の丸の大手町口門の枡形兼馬出は、現在警察署になっています。三ノ丸は堀も埋め立てられて、城の建物も全くない状態です。江戸時代の三の丸古絵図です。大手町口門が大手門とありますが、ここは外枡形で角馬出しの機能もあったようです。入った正面には藩主一族の家老:溝口半左衛門家がありました。三の丸大手門付近の現在は下図①付近から