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ポカポカと暖かい😍今日は何の日〜⁉️って聞いたら残った巻き寿司と豆を食べる日〜‼️って答えが返ってきましたせいかーーーーい‼️でもって立春やね〜🌸🌸寒いと古傷痛む人こわばりが強く出る人そんな私も今年は痛いでもそこばかりにフォーカスしてると頭がそこから離れなくて痛みが増しますそれはみんなおんなじだよね〜痛いことや辛いこと悲しいことばかり見てるとどっぷりつかってしまうちょっと見るところ変えたらいろんな気
これ、知らんかった(^^;)「ムー一族」が最初かと思ってたら、なんとその前があったのね(^^;)「時間ですよ/第3シリーズ/第12話」なんと浜さんが「ベルトクイズQ&Q」にでとる(T_T)押坂忍さん、若い(T_T)浜さん、赤の方あっさり負けてしまいます(T_T)ミリオンステージ、行って欲しかった(T_T)しかし、まさかこんなかたちでQ&Qが録画できようとは(T_T)ありがとうBS12(T_T)
伝説の始まりです(^^;)「時間ですよ第3シリーズ第3話」浜「健ちゃんのつらさもわかるし、おかみさんの気持ちもわかるし。こういう時、どうしたらいいんだろう......そうだ、ウルトラマンを呼ぼう(^^;)」このね「どうしたらいいんだろう....」から「そうだ」までの、ためが絶妙なのよ(^^;)さすがは悠木千帆(^^;)なんでウルトラマン呼ばにゃならんのか、んなこた聞いちゃいけない(^^;)しかしこのギャグはマチャアキ発案なのか、浜さん発案なのか、どっちなんでしょう?
オマセだったせいか、小さい頃からCMや歌謡曲が好きで、昔のものほどよく覚えてるトシだー樹木希林さんも素晴らしいけど私の中では名前をオークションに出す前の悠木千帆さん時代も印象的もう半世紀ほど前になると思うけどサンビシ醤油のCMに悠木千帆さん出ててお醤油の瓶を抱えて、最後にしょうゆうこと!って言うの美人ではないけど、ファニーフェイス魅力的ですこれはCMの画像ではありませんが、このくらい若い頃だった記憶です。画像はお借りしましたCMは動画で検索したけど出てこないわで
私より上の世代ならたいてい、悠木千帆時代から、樹木希林のことを知っている当時から、皮肉屋で頑固で気難しくて、近づくと火傷しそうなひりひりした個性が爆裂していた綺麗とか可愛い等のくくりとは異次元の、個性派としか言いようの無い女優そんな彼女がある日突然内田裕也と結婚したのには、本当に驚いたそして、酩酊した裕也がめんどくさい女にはめられたのだと思った今までずっとそう思っていた、少なくとも始まりはそうだったんだろうと(今となっては、それは全くもって下衆の勘ぐりだったとお墓を掘り返して詫びを
樹木希林より悠木千帆。名前を売るとか衝撃だったけどね。売った名前はどうなったのか?樹木希林さんだけど、悠木千帆。
前回の『風小僧』に続き、懐かしの子供TVシリーズ?第2弾1966年03月07日に始まった実写版『丸出だめ夫』第1話『ボロット誕生』丸出だめ夫:保積ぺぺ8歳丸出はげ照:十朱久雄58歳さぎ野:由利徹45歳そして、保健室の先生が悠木千帆さん先日お亡くなりになられた樹木希林さんこと悠木千帆さん23歳ごろの作品ですね。今までたくさんの作品で楽しませていただきました、ここよりご冥福をお祈りいたします。改めてこの第1話を見て思った事ですが、この大乱闘のロケ現場かなりの高級外車を扱う
樹木希林さんロスが止まりません。別に熱烈なファンだったわけでもないし、癌であることは知っていたので、こんな日が来る事は時間の問題だと思っていました。でも、いざ亡くなってみると、その存在感の大きさを改めて思い知りました。この「時間ですよ」では、若い役を演じていますが、彼女が「寺内貫太郎一家」で老女役を演じ始めたのは31歳の時であるというから驚きです。それから40年以上も老け役を演じ続けたということになるので大したものだと思います。どうでもいい話ですが、樹木希林さんとうちのカミさんと私の母
みなさんもすでにご存じのように、日本を代表するベテランの脇役で、個性派女優として活躍していた樹木希林さんが9月15日に、東京都渋谷区の自宅で、家族に看取られながらお亡くなりになりました。享年75歳でした。樹木希林さんは、数多くのテレビドラマ、映画に出演し、ナレーションでも活躍する一方でCMにも多くの作品に出演。私のブログでも、ワードやひとつの記事を含め数多く更新したことがあったのでした。そこで今回は、当初予定していた記事は後日更新するとして、樹木希林さんをしのぶ記事をお送りし
9月16日、ちょうどハワイから日本に帰って来た時のニュース・・・樹木希林さん死去闘病されながらお仕事を続けられていたことは存じ上げていましたが、日本国民なら誰もが知っているような女優さん日本国中に衝撃が走りました。・・・今、その名前を聞いてもピンとこない人が多いでしょうが、かつては悠木千帆という芸名でいらっしゃいました。お若い頃は、目が大きなチャーミングな女性でいらっしゃって、これも知らない人が多いのですが、岸田森さんと結婚されておられたのですよね。それが・・
またひとり昭和の名優があちらの世界に旅立ってしまいました(T_T)初めての樹木希林さんはドラマ『寺内貫太郎一家』のばぁちゃんの悠木千帆さんでした天国でヒデキと会えたかな?ジュ・ジュ・・ジュ・・・ジュリー!!!そして『ムー一族』の金田さん『かねだ』じゃなくて『かねた』です目の下のシミは天ぷらを揚げたときにできたものです加世ちゃんとのどつき合いみたいなシーンも名物でしたよねそして歴史に残る素晴らしいフジカラーのCM二人の掛け合いがもう神の領域です名前を訊ねられて戻ってきてからの
みなさんご存知の通り、樹木希林さんがお亡くなりになりました。とても好きな女優さんでした。ファンになったのはこのドラマ寺内貫太郎一家毎週、夢中になって観てました。ジュぅリぃーーーっそれよりちょっと前、このドラマも女将さーん時っ間ですよーーっ!この頃は樹木希林さんじゃなく悠木千帆さんでしたね。意外と可愛かったですね~。そしてコレも。めっちゃオモシロかったです。「オバケのロック」「林檎殺人事件」今でも歌えます
樹木希林さんの訃報はショックだった思えば以前より「私は病気なので時間のかかる連続ドラマの仕事は受けないの」と言い放ち何らかのインタビューには「ずっと死ぬ死ぬ詐欺でやってきたのに申し訳ないです」と言ったジョークを飛ばしていた彼女だったがそれが現実となったのはやはり衝撃的で悲しい。彼女が日本映画界にとって唯一無比の存在であったことは紛れもない事実で、あの強烈とも言えるキャラクターを二度と見ることができないという消失感は拭えない。樹木希林が出演した映画は数限りなくあるのだが僕が最近見た中で彼
「文学座出身の正統派女優・樹木希林(悠木千帆)」2018年9月18日火曜日希林さんが亡くなって、正統派の演劇女優がいなくなってきている。希林さんは、戦後の文学座の付属演劇研究所の第一期生で、同期の岸田森と1964年(昭和39年)に最初結婚する。希林さんの当時の女優名は、悠木千帆であり、岸田森とはおしどり夫婦としてもてはやされるが、なんとなく、どちらからともなく、「別れようか」と言って離婚したという。文学座とは、1937(昭和12)年9月、久保田
樹木希林さんが亡くなった。私が子供の頃は悠木千帆さんだった。お目にかかったことはないけれど、彼女の演技を見るたびに自分を省みて軌道修正。役者であるための公私のあり方を彼女の演技からいつも考えさせられていた。海を航海するときの北極星のようなそんな存在だった。指針。彼女の演技を見ていれば、きっと自分は正しい方向へ導かれると感じていた。寂しいです。ふと、彼女ほど、”冥福を祈る”という言葉の似合わない方はいないなぁ、と思った。勝手な感じ方だけど…
個性派女優の樹木希林さんが、他界した。御冥福を祈りたい。さて、樹木希林さんは悠木千帆から改名して更なる成功をしたが、一般に成功している人が改名をすると、逆に不運に転ずる事がよくある。樹木希林さんが成功したのは、前の芸名をオークションに掛けて、他人に譲ったから。つまり、改名した場合は、旧名をチャンと自分の手元から離して始末しなければならない。名前を二つ手元に置いておくと、反発し合って運が悪くなる。あくまで、私的見解ですが・・・
昨日は。安室奈美恵ちゃんが芸能界を引退して、名女優樹木希林さんが亡くなった。デビュー。奈美恵ちゃんと言うと覚えているのが、彼女たちがデビューして直ぐの頃、仕事が一緒になった。「今度デビューしたSUPERMONKEY'Sです、宜しくお願いします」確か川崎球場でのイベントだったような気がする。実はその時のSUPERMONKEY'Sのマネージャーが「たけし軍団ヒット&ビート」のコントで「悪役レスラーガスマスクマン」をやった男だったんだ(笑)一生懸命軍団に紹介してんのに
長年ガンを患っていた、樹木希林さんが逝かれました。彼女と言えば「寺内貫太郎一家」のばあちゃんや「ムー一族」のクセのある家政婦の金田さん。ばあちゃんはまつげも白く染めたのが印象的でした。でも樹木さんの事がとっても印象に残ったのは、「悠木千帆」という芸名を、売るものがないのでとオークションにかけてしまったことで、芸名とは言え自分の名を売るってすっごい事だと、強い印象を受けました。たしか、「時間ですよ」の途中で、名前が変わった記憶があります。トーク番組では、飾らない真っ直ぐな言い様が
大女優、そんな肩書きだけでは語りつくせない名優樹木希林さんがお亡くなりになられました。面識はないのですが、子供の頃からテレビなどで拝見しておりましたので、とても残念です。樹木希林さんと言えば、まだ悠木千帆という芸名だった頃に出演されたテレビドラマ、寺内貫太郎一家の印象が強いです。街中にある小売の石屋が舞台で、寺内貫太郎一家はまさに当社と同じ墓石店だったのです。当時は自宅兼作業場で石をカンカン加工していると、お客さんがやってきて墓石を注文してくれるという販売スタイルだったのです。現在の石
こんにちは、落武者です。昨日は朝から晩まで落武者農園に居りました。ネギを植え直し、秋じゃが芋を掘り返して玉ねぎの畝を確保。200本を植える予定なのでうーん、足りないかな。そんなことを考えながらいつものように0次会。風呂上りにビール。無花果の生ハム包み。前日の残りですなwいつものウズラの玉子2種。秋じゃがいも。硬いのwだから薄切りにして食べました(;^_^Aシャキシャキしてこれはこれで美味しい。菊芋のような食感ですね。ビールの次はウィスキーの水割り。あー、後ろの電源の
悠木千帆さんという芸名を聞いてもピンと来る方は少なくなったと思います私も子供の頃にチラ見した「寺内貫太郎一家」であぁ、なんだか面白いおばあちゃんだなぁと思っていたけど実はとても若い人なんだと聞いてびっくりした印象がとても強かったので「ゆうきちほ」という名前がその時にインプットされてしまったんだと思いますそしてあるチャリティ番組で「売るものがないから」という理由で「悠木千帆」という芸名をオークションにかけたという話ものす
女優の樹木希林さんが死去されたそうです。夫の内田裕也氏はショックだろうな。内田氏の方が心配です。樹木希林さん、旧芸名悠木千帆さんといえば我々の世代では寺内貫太郎一家のおばあちゃん役が印象深かったですね。襖のポスターに向かってじゅりぃぃぃぃ~~~ぃ~~ってさけんでたなぁ。合掌。
おはようございます。「ジュリー~~ィィ!!」樹木希林さんといえば、沢田研二のポスターを眺めて老婆が腰をフリフリしながら悶える、、あのシーンが強烈でした。じつはその頃、彼女は、、悠木千帆という芸名で、まだ、30歳過ぎやったんです。あれから40年以上、、「老けキャラ」を貫いていました。しかも芸名を競売で売り飛ばしたり、こんな女優、見たことありません。そして、あの”シェキナベイベー”の奥さんでもあります。不思議度がハンパない感じ
今朝はまたしますねぇ~ING・・・希林さん、亡くなってしまいましたね時間ですよは年前でしたか~まぁ男子にとっては今日はあるかなって観ていたもんですよこの頃はまだ「悠木千帆」だったのでしょうかね時間ですよ御座いました寺内貫太郎一家御座いましたジュ
ジュリーぃぃぃっ!寺内貫太郎一家たい、ちゃんぽんちゃん。その頃は、悠木千帆でしたっ!1977年に改名したとて。この曲は、1978年なので、樹木希林ですっ!お亡くなりになられたばい。長きにわたり、お疲れ様でしたっ!そよなら。さよならっ!
おはようございます新しい1週間が始まりました生かされてる私達今週も頑張って生きましょう本当に…痛切に…そう思う朝です3連休だった方も普通にお仕事だった方も尊い今日が良い日になぁれ
樹木希林さんが亡くなりました。今年になってあの毒舌がずいぶんと柔らかくなり遺言のようなコメントが多くなっていたのでひそかに心配していました。“悠木千帆”という芸名の時代からその強烈な個性は光っていました。一連のTBSドラマ(「寺内貫太郎一家」ほか)で育った世代です。「じゅりぃ〜〜〜❢」は老若男女の誰もが真似したものでした。AERAが早速発表したこの記事、彼女の晩年のキリッと筋の通った人生観に圧倒されるばかりです。スタイルとしてのミニマリストじゃない思想ゆるがないミニマ
神戸市灘区六甲道の行政書士泉つかさ法務事務所です。土曜日でしたか、先日亡くなられたさくらももこさんの追悼番組としてちびまる子ちゃんの特番を放送していました。チョット涙腺を刺激する放送でしたね。今日は久しぶりにゆっくりとちびまる子ちゃん~サザエさんを見ました。お勤めの方も今日のサザエさんはゆっくりご覧になれたことでしょう。明日もお休みですからね?特に大ファンというわけではありませんが、安