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今日の戦国時代は戦国姫お市の方様天文16年(1547年)-天正11年4月24日(1583年6月14日)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。小谷の方(おだにのかた)、小谷殿とも称される。戦国大名・織田信長の妹で、信長とは13歳離れている。通説では、父は織田信秀で、五女と伝えられ、母は土田御前とされている。信行、秀孝、お犬の方は同腹の兄姉という。初めは近江の大名・浅井長政の正室となり、後に織田家重臣の柴田勝家の後妻となった。子に茶々(豊臣秀吉側室)、初(京極高次正室)、江(徳川秀忠
徳川和子辞世の句(明正天皇の生母)辞世武蔵野の草葉の末にやどりしかみやこの空にかへる月かげ徳川和子(とくがわまさこ・かずこ)慶長12年10月4日(1607年11月23日)-延宝6年6月15日(1678年8月2日)江戸時代前期の女性。徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。後水尾天皇の中宮。明正天皇の生母。また女院として東福門院(とうふくもんいん)。略歴慶長12年(1607年)10月4日、徳川家康より将軍職を譲られた徳川秀忠と正室・江(崇源院)夫妻の間に7番目の
第百九代明正天皇は、江戸時代の天皇、女帝です。御父は後水尾天皇、御母は徳川和子(まさこ)、徳川秀忠と織田信長の妹お市の娘お江の子です。つまり、徳川家康の曾孫で、三代将軍家光の姪でもあり、織田信長の家系の血と信長に滅ぼされた浅井家の血も引いています。御名は、興子、女一宮。一六二三年生。在位一六二九年から一六四三年。後水尾天皇は第三皇子でしたが、徳川幕府の後押しがあり天皇に即位しました。和子の入内はその家系や、不遇な時代の長かった朝廷に入る莫大な持参金や幕府との関係を考える上でも歓
昨日の続きです。今日は中離宮の客殿からです。客殿の南側です。入母屋造で、木賊葺きの屋根のひさしは深いです。1678年に東福門院(徳川和子で秀忠の娘です。後水尾天皇の中宮。女帝の明正天皇の生母)が亡くなった後、1682年に仙洞御所(院の御所)北側にある、女院御所の奥対面所から移築したものです。修学院離宮を建てた費用は和子の要請により、江戸幕府から捻出されたそうです。光子(みつこ)内親王は和子と後水尾天皇の第八皇女です。光子内親王のために移築されました。光子内親王は林丘寺の
【平成29年10月25日(水)参拝】引き続き月輪陵。後水尾天皇皇后徳川和子陵御陵名:月輪陵陵形:九重塔所在地:京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺皇后遇なので天皇本陵の次に記されている。徳川和子(とくがわまさこ・かずこ、慶長12年10月4日(1607年11月23日)-延宝6年6月15日(1678年8月2日))は、江戸時代前期の女性。徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。後水尾天皇の中宮。明正天皇
武蔵野の草葉の末に宿りしか都の空にかえる月かげ武蔵野の草葉の末に宿るのだろうか京都の空に帰る月の光は徳川和子の辞世の句。彼女は二代将軍徳川秀忠の娘で、現在のところ最後の女性天皇である明正天皇の生母です。徳川和子は将軍徳川家に生まれて天皇家に嫁ぐという、当時としては究極の地位に立った女性でした。しかし、その生涯は、息子二人には早死にされ、また気が強い夫・後水尾天皇と天皇家を押さえつけようとする幕府の間を取り持つことに奔走するという気苦労の多い人生でした。歌の方は生まれ育
8月4日、豊國神社を訪れた後、京都女子大の上、阿弥陀ヶ峰中腹に在る、豊国廟に登る。※豊國神社の模様はこちらの記事をどうぞ↓↓↓豊國神社扁額修復相変わらず、階段がたくさん。約500段ある。※前回訪れたときの模様は、こちらから↓↓↓2016年2月豊國廟さあ、登りましょう。中腹までに、1度休む。登りきるまでに、女性が一人、上から降りてくる。中腹に到着。麓の、夏の暑さは、ここにはない。清々しい。大学ラグビー部らしき、5人のアスリートたちと、明るくご挨拶。「ここ、大変ですよ
主人と宝塚を観に行きました平日に休みが取れるのは、1〜2月の閑散期です。前回は友人と行き、盛り上がりましたが、主人は貧乏ゆすりをするわ、寝るわ2度と行きたくないと思いました目が悪くなっても、真風涼帆さんは見分けがつきます茶寮華でディナー。天ぷら、カレイの煮付けが本格的でした。この日にスタッフからバレンタインのチョコ?!を戴きました。私がプレゼントの伊根の日本酒。赤米だから赤く、ワインのようにスウィーツすぎる舞台は京都市に…閑臥庵(かんがあん)日本の禅宗の臨済
吉野でお好み焼きをいただいた後、向かった先は養源院。淀殿が、浅井長政、祖父浅井久政らの供養のため秀吉に願って創建されたお寺です。その後、妹である江によって再興され、徳川氏の菩提所となり豊臣家の供養も行なわれるようになりました。さらに、江の娘、和子が後水尾天皇に入内。天皇家、豊臣家、徳川家と関わりが深い、格式の高いお寺となりました。こちらは、伏見城の戦いで亡くなった鳥居元忠と家臣たちの血の染み込んだ床板を「血天井」として供養していることでも有名です。元忠らは4万の軍勢に対し、たっ
私のように、歴史に疎い方のために、ちょっと補足。茶々さんは、浅井3姉妹(茶々、お初、お江)の長女として生まれています。お母さまはお市の方(上の肖像画)と呼ばれる織田信長の妹にあたり、戦国一の美女とも賞された方です。お市の方は浅井長政に嫁ぐも、信長との対立により浅井家は滅亡、そのあと、柴田勝家と再婚するも、勝家は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、お市の方はこの時夫と共に自害。茶々は、母を死に追いやった秀吉に側室として嫁ぎました。そして、茶々の妹