ブログ記事221件
崇徳院の記事続きまする〜父である鳥羽上皇に騙された形で政治の世界から追放されてしまった崇徳上皇。1155年に近衛天皇が眼病により17歳の若さで崩御したことにより、再びチャンスが到来します。崇徳上皇の第一皇子である重仁親王に天皇即位の可能性が巡ってきたからです。しかし。。。鳥羽上皇と藤原得子の策略により、崇徳上皇の同母弟である雅仁親王が後白河天皇として即位します。後白河天皇は藤原璋子の子なので、藤原得子にとっては微妙なところですが…藤原得子は後白河天皇の息子(後の二条天皇)を養子として
今日は午前中宅配便待ちで出かけられないのでブログを読んだり母の電話帳でまだ連絡していなかったお知り合いに連絡してみたり思わずコメントさせていただいた✨おもしろきこともなき世をおもしろくそうだったよね人生は〜🎶(浪花節!?)そうしたらタイムリーにこれが届く!歴オタですが、古典文学にはさほど興味が向かずしかしふと読んでみようかなと思い立って注文していたのです。「梁塵秘抄」後白河天皇は平安時代末期の第77代天皇。1127年〜1192年(在位:1155年8月23日(久寿2
おはようございます。三連休最終日です。この三連休はお天気にも恵まれ、紅葉も見頃で、京都の街はものすごい混雑していたようです。三連休最終日、どのようにお過ごしになられますか?さて、今日は1181年高倉天皇の中宮・平徳子が院号宣下され建礼門院になった日です。建礼門院といって、なにを連想されるでしょうか?【建礼門院とは】建礼門院像安楽寺蔵平徳子(たいらのとくし/とくこ/のりこ)久寿2年(1155年)-建保元年12月13日(1214年1月25日))は、高倉天皇の皇后(号は中宮
崇徳・後白河天皇の母が「待賢門院得子」。保元の乱のキーパーソンです。鳥羽天皇の祖父・白河天皇のお気に入りがったのが、孫に「譲られ」て、そのあと崇徳天皇を生みます。そのため、崇徳は鳥羽の実子ではない、と疑い「叔父子」と呼んで忌避した。それが保元の乱の遠因。って、いい夫婦の日にする話じゃないな。というわけで、大河「平清盛」では、待賢門院が壇れい、鳥羽上皇が三上博史でした。ところで、ドラマでは、鳥羽上皇がまだ生きているのに、「待賢門院」って呼ばれてたけど。これは、正しいのか?それともドラマ
独特の精神世界を刺激的に展開する女流作家・田口ランディさんの短編小説『縁切り神社』。この物語は、京都を旅するひとりの女性が偶然、ある神社に迷い込むところから始まります。このある神社というのが、京都で最強の縁切り神社と言われている「安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)」です。京都東山、建仁寺の東に位置する安井金比羅宮。その歴史は古く、日本初のクーデターといわれる「大化の改新」を起こした中心人物とされる藤原鎌足(ふじわらのかまたり)がこの地に藤を植え、藤原家の隆盛と子孫繁栄を願って「藤寺(ふじ
はい。こんにちは。今回は保元の乱・平治の乱を講義します。保元の乱は簡単に言えば天皇家内の内紛から起きた戦いのことです。鳥羽法皇は近衛天皇が病のため崩御(天皇や上皇、法皇が亡くなること)した後、崇徳上皇の子ども重仁親王を皇位つけないで、雅仁親王を天皇にしました。雅仁親王は後白河天皇と名乗りました。鳥羽法皇は崇徳上皇を嫌っていたのです。まもなく鳥羽法皇は崩御しました。すると、重仁親王を天皇にして自ら院政(天皇に代わって行政すること)をしようと、崇徳上皇が反乱を
平岡八幡宮の花の天井絵公開があり伺いました今回2回目の参拝です前回は椿の花を今回は花の天井絵です平岡八幡宮は梅ヶ畑八幡宮とも呼ばれ、応神天皇が御祭神大同4年(809)に神護寺の鎮守として弘法大師が自ら描いた僧形八幡神像を御神体として創建された山城国最古の八幡宮らしい。本殿は室町時代に焼失しましたが、足利義満により再建され、現建物は文政9年に修復されました。本殿天井には極彩色の花卉図が44面描
寛弘5年9月11日、1008年10月12日、つまり1010年前の本日は、一条天皇の皇子だった後一条天皇が誕生された日です。後一条天皇の母である中宮彰子には紫式部が仕えており、その出産の様子が「紫式部日記」に残されています。8月20日過ぎから中宮の関係者はみな土御門殿(彰子の父、藤原道長の邸。彰子は出産に備えて7月16日から退出中だった。)に宿直し、とりとめのない管絃遊びに夜を明かしていたとして「琴、笛などの演奏に未熟な若者達が、読経の声や節回しの良さを競うのや今様を競うのも面白かった」と書
職場の友人が今年は三十三間堂をお参りすると良い…と教えてくれたのでお参りです良いと言われると何でもやりたい❗️笑娘がこの10月に新しい職場に変わるとの事で受け入れていただけるようお参りです幾つになっても心配してる…笑笑1164年(長寛2)後白河上皇が発願し、平清盛が寄進して創建。清盛ゆかりのお寺です三十三間堂と言えばなんと言っても御堂に並ぶ1001体の千手観音像圧巻と言うか…言葉が出ない
『平家物語を読む』シリーズ、第2回です。読んでいる最中の岩波文庫の平家物語の本には、ダイソーさんで昔買った、このカバーをつけてます。***前回の第1回の記事はこちらになります↓***『平家物語』の本文に入る前に、軽く舞台となった時代の歴史を確認しています。お勉強に使うのは、これです。高校生用の日本史の参考書です。山川出版社の『詳説日本史研究』です。ちょっと調べ物をするのに便利な本ですよ。高校生だけでなく、大人の読書家にも役に立つ本だと思います。西暦850年から1300年く
京都市東山区にあります法住寺近くの後白河天皇法住寺陵参道のところに来ています(^^♪土日曜・祝日は、参道手前で扉が閉まっているので、拝所まで行けません(T_T)現地まで来て分かったのは、参道内に一歩たりとも足を踏み入れることも、制札の近くに寄ることもできないということです(・・;)でも、簡単に諦めないのが私です(^-^)v周囲を歩いてみます(^_-)まず、参道南隣の法住寺境内から陵墓や拝所、制札を窺うことができないものかと歩き回ったのですが、一般の参拝客が立ち入れる範囲では無理でし
★第五十八代光孝(こうこう)天皇は平安時代の天皇です。仁和寺の像御父仁明天皇の第三皇子、御母は藤原澤子(たくし)。先帝陽成天皇の祖父文徳天皇の弟。御名は時康。八三十年生。在位八八四年から八八七年。第五十七代陽成天皇は乱行・奇行があり群臣を悩ましたため、何度も退位を迫られ、手続き的には十七歳で譲位の形をとり光孝天皇が即位となります。次の天皇を決めるため太政大臣であった藤原基経が何人もの親王を訪ねるとどの親王も大騒ぎをした中、破れた御簾の中で縁が切れた畳に座り
僕の名前は建皇子(たけるのみこ)(^_^)/今回は、僕ら(正確に言うと、僕の父である天智天皇)の末裔になる皇族の話を少しだけしますね(~_~)天皇として即位するも、僅か3年で譲位し、その後、上皇としての院政を行っている間に激動の時代(武家政治への移行)の波に呑まれた後白河天皇の話です(^。^)武家として初めて天下を治めた源頼朝から、日本第一の大天狗と評された人物のことです(^_^;)と、またまたタケルくん(僅か8才で死去したものの、日本の歴史に大きな影響を与えた障害児です!)口
千佳前回は50人やりました。今回は51人目から100人目までです。51【小館】藤原惟常(そう呼ばれていたから命名)52【荒ぶる2代目】藤原基衡(攻撃的性格から命名)53【とばっちり】源光信(そういう目にあったから命名)54【悪左府】藤原頼長(やはりこの人はこれで)55【83奪三振】平清盛(子供時代に読んだ歴史漫画では、清盛が熱病になったときに清水で体を冷やしていたが沸騰してしまう。その熱を利用して平家がゆで卵を売っていた。ゆで卵と言えば板東英二、板東英二といえば甲子園での83奪三
第七十八代二条天皇は平安時代末期の天皇です。御父後白河天皇の第一皇子、御母は藤原師実の三男で大炊御門家の祖、経実の娘・源懿子(よしこ/いし)。諱は守仁(もりひと)。一一四三年生。在位は一一五八年から一一六五年。生母が守仁親王誕生直後急死したため、祖父の鳥羽法皇に引き取られ、美福門院(藤原得子)の養子となって育てられました。既に近衛天皇がおられ、同じく美福門院の養子には崇徳上皇の第一皇子の重仁親王がいらっしゃったので、皇位継承はないものとされ僧となるべく覚性法親王(鳥羽天皇の第五皇子)の
1180年9月8日源頼朝のブログウザっ!マジウザすぎ!今更、平氏追討とか、めんどくせぇー俺、伊豆に長年引きこもってるニートなんやけど、、、行家のオッさんが、なんか以仁王とかいう人の手紙持ってきたんやけど、俺、やる気ないし、、、ニートは働いたら負けやん!ハロワすら行ったことないのに、いきなり戦とか、ありえへんし。今更、社会復帰とか、もーマジ無理。リスカしよ、、、注①1180年9月8日源頼朝が伊豆で挙兵②行家のオッさん➡︎頼朝の叔父、源行家③以仁王➡︎平氏追討を企て
第七十六代近衛天皇は平安時代末期の天皇です。御父は鳥羽天皇、御母は藤原得子(美福門院)、異母兄に崇徳天皇と後白河天皇がいます。諱は体仁(なりひと)。在位は一一四一年から一一五六年。大治四年(一一二九年)、治天の君として君臨した白河院が亡くなると、孫の鳥羽院が政治の中心となりました。そして永治元年(一一四一年)鳥羽院は寵愛している美福門院との子である体仁親王への譲位を、待賢門院璋子との子である崇徳天皇へ強要します。この時体仁親王はまだ二歳で即位されたのです(近衛天皇)。当然、治世中は鳥羽上
おはようございます。8月最後の日曜日です。残暑とはいえ、引き続く暑さには、辟易しています。早く涼しくなって欲しいものです。さて、今日は、崇徳天皇の忌日です。1164年崇徳天皇(顯仁親王,讚岐院)(天皇(75代))<数え46歳>出典wikipedia実はこの崇徳天皇、菅原道真、平将門と共に非業の死を遂げた歴史上の3人を日本三大怨霊と呼ばれています。これには歴史学者の山田雄司は、江戸時代における読本や歌舞伎などが大きく影響を与えているとしているとしている。【崇峻天皇とは】
皆さんこんにちわ^^昨日に続き私の盆休みをばw久留米北野さんを後にし、目指したのは筑後水田天満宮。水田天満宮は後白河天皇の勅令により、菅公の玄孫で、当時の太宰府天満宮宮司家から菅原為永が宮司となり分祀したのが始まり。後白河天皇と言えば、のちの源平合戦の黒幕w向かう途中、ちょっと大きな神社を発見して、立ち寄ることに。渋滞もしてたしちょうどいい休憩と思いつつ…それがここ。久留米市大善寺町玉垂宮。祭神は藤大臣(高良明神とも)といいますから詳細不明の人です。なんでも、神
第七四代鳥羽天皇は、平安時代後期の天皇です。安楽寿院に伝わるという鳥羽法皇像御父は堀河天皇、御母は藤原苡子。また祖父は、父の堀河天皇時代から次の崇徳天皇まで三代の長い院政を敷かれた白河天皇です。崇徳天皇は第一皇子、後白河天皇は第四皇子。御名は宗仁。在位は千百七年~千百二三年。鳥羽天皇の時代には源氏物語絵巻が作成され、現存する絵巻の最古のものとなっています。源義親の乱の追討や当時多かった武装した僧兵の乱暴狼藉を鎮圧など、源氏や平氏の武士の台頭の契機となる事件が多い時代でもありま
仕事の帰りに新日吉神宮さんを訪れました。京都女子大の近くです。以前にも訪れたことがあり、今回も貼るタイプの絵入りの御朱印をいただきました。この日はスマフォのバッテリーが切れていたので、御朱印の写真だけとなります。御朱印は、ご由緒書きに挟んでいただいきました。このご由緒書きによると、創建当時は7つの神座がある荘厳な神殿があり、渡り廊下が巡らさせていたそうです。どんなんだったのだろうと想像を巡らせます。現在、本殿は創建された後白河天皇。山王七社は、後白河天皇が、創建時に比叡山東坂本の日吉大
元永二年5月28日、1119年7月7日は鳥羽天皇の第一皇子、顕仁(あきひと)親王が誕生されました。後に悲劇の天皇とも呼ばれることになる顕仁親王はその御誕生からが悲劇でした。母である藤原璋子(待賢門院)は白河院(法王)ご寵愛の養女として白河院の孫である鳥羽天皇の中宮に入られましたが、顕仁親王は鳥羽天皇から(おじ子)として疎まれたと伝わるからです。つまり、白河院の御子だったのではないか?ということです。鳥羽天皇は白河院に譲位させられ5歳の顕仁親王が即位しました(崇徳天皇)。しかし白河
東福寺から歩いて10分。新熊野神社に到着。洛中熊野三山の一つです。前回の京都一人旅で残る二つは参拝しているので、洛中熊野三山は全て訪れたことになりました。熊野若王子神社熊野神社逆光で扁額がみえません。すみません。弁財天もいらっしゃいます。新熊野神社は熊野大好き後白河上皇により1160年に勧請されて造られました。本殿は1673年に造営されたものです。旅の無事をお祈りします。このくすのきは、京都市指定天然記念物です。
貞観五年(863)五月廿日朝廷は使を派遣して京都の神泉苑で御霊会を修した。六つの霊座を設けて僧侶が経を読み、舞楽を行い、都の人びとに参加することを許した。神泉苑いわゆる御霊とは、崇道天皇、伊豫親王、藤原夫人(吉子)、観察使*1、橘逸勢、文室宮田麻呂らこれなり。並びに事に坐して誅せられ、冤魂は厲となる。近代以来、疫病繁発し、死亡はなはだ衆し。天下おもえらく、この災いは御霊の生ずるところなりと。京畿よりはじまりてここに外国に及び、夏天秋節に至るごとに御霊会
後白河天皇が行った三千院の懺悔の法講むさぼり・怒り・愚痴の三毒えお取り除く心を清らかにする行いです30日は三千院に行きましょうお先に失礼します
智積院とか妙法院、三十三間堂辺りから参道を東へ進みました。この日も既に16時は過ぎていたと思うので結構な夕方でしたよ。途中で京都女子大の記念講堂か何かを見掛けました。そういえばこの付近の地理について擦れ違った女子大生にお伺いしたら本当に親切に教えて下さいました。きっと私のような観光客だけでなく外国人とかにも英語で質問されたりするんでしょうね。女子大生っぽい皆様が道すがら、咲き始めの桜を撮ろうとスマホを掲げていらっしゃいました。そういえばリクルートスーツの方も何
百人一首の中に七枚ある一枚札五枚目の札はこの歌です[さ][あまりにもさびしくてわが庵からでてあたりを眺めるとどこも皆同じだ秋の夕暮れの景色よ]【さびしさ+秋の夕暮れ】のモチーフの先鞭をつけた歌とか[ほ]ホトトギスは夏鳥で燕と同じく暖かくなると南からやってきて秋になると帰っていく渡り鳥初音をききたいばかりに今か今かと待っていてある明け方についに聞こえたその声に気がついて姿を探したがホトトギスは何処かに飛びさってしまった空にあるのは薄明かりの中に残
第七十七代後白河天皇は平安時代末期の天皇です。一一二七年生。御名は雅仁(まさひと)。御父は鳥羽天皇、御母は藤原璋子。在位一一五五年から一一五八年。雅仁親王は鳥羽天皇の第四皇子です。既に第一皇子の同母兄の崇徳上皇が譲位し、鳥羽法皇の寵愛する皇后美福門院から生まれた弟の近衛天皇が即位していましたので、皇位を継ぐとは誰からも思われていませんでした。しかも、父や兄からは、「即位の器量にあらず」「文にも武にもあらず、能もなく芸もなし」と言われていたのです。ところが近衛天皇は身体が弱く、十七歳の