ブログ記事219件
さて、いよいよ、秀吉公のお墓を訪ねるわけですが。その前にも、2箇所ほど、寄り道していきます。こちらは、秀吉公とも所縁のある、妙法院さん。この時、門跡の意味がわからなかったのですが。皇族や貴族の子弟が、歴代住持となる別格の寺院のことだそうです。さらには。正面方向に、秀吉公のお墓が見えてきましたけれども。新日吉神宮にも、立ち寄らせていただきましょう。新日吉と書いて、「いまひえ」と読みます。読み方が難しいだけでも、凄そうに感じてしまいますよね。アホの感想やなっしかし、意外にも、こ
わが産土の地、四国讃岐に天皇陵があると書けば、意外に思う方が多いと思う。崇徳天皇陵である。自分の舌先を食いちぎり、「日本国の大悪魔とならん!」と流れる血で経文に呪詛の文字を書いたと言われる崇徳(1119~1164)は、第75代天皇。鳥羽天皇の第一皇子で、祖父白河上皇に溺愛された。白河院は鳥羽天皇を退位させ、わずか5歳の崇徳を即位させた。実は崇徳は、白河院が養女の待賢門院(たいけんもんいん)を鳥羽に嫁がせた上、その後も愛人関係を続けたために生まれた子だった。そんなぐ
ドイツミュンヘン発祥世界最大規模のビールの祭典「オクトーバーフェスト」。シュマッツ・ビア・ダイニング...時事通信1世界最古の食品規定『ビール純粋令』にのっとって造る日本国内醸造の、クラフトドイツビール「SCHMATZ」のこだわりは、なんといっても500年以上の歴史を...レジェンドたちが繋いだ日本ラグビーの魂。NumberWeb代表チームを誇らしく思う気持ちが芽生えた瞬間だった。イングランドがスコットランドと世界最古のテストマッチを戦ってから100年目のことだった
前回からの続きです油小路通りから醒ヶ井通りに移って、北上していくと(ほんとは途中で三善清行邸跡石碑を見るつもりが工事してて見つからなかったんです戻橋で書いていた生き返ったという三善清行というはこの人です)住吉神社が右手にあります住所・京都市下京区西高辻町高辻下る住吉町481醒ヶ井通冠木門由来後白河天皇が和歌の参神を平安京に勧請されるため、保元2(1157)年藤原俊成に勅された。俊成は勅を奉じて、摂津の国、住吉より五條室町の地に分祀し、新住吉と稱え奉った。その後、応仁の乱などにより
新日吉(いまひえ)神宮まずは、楼門の左右にいらっしゃる随身像にご挨拶お参りさせて頂きますよろしくお願い致します🙇♀️御本殿御祭神後白河天皇大山咋命妃神賀茂玉依姫命大己貴命田心比売命菊理比売命大山咋命荒御霊賀茂玉依姫命荒御霊素戔嗚命大年神後白河天皇が、皇居の守護神として比叡山の日吉大社からお迎えになり1160年に、ご創立神使の狛さまも、いらっしゃいました🐒境内社の豊国神社豊国神社廃止の時、秀吉公の御神体を秘かに遷し祀っ
妙法院門跡と智積院の間の坂道を登った途中にある新日吉神宮(いまひえじんぐう)は、後白河法皇が法住寺殿を造営し、厄除けのため比叡山の日吉山王七社を勧請したのが始まりとされている。神社庁に属さない単立神社。楼門拝殿本殿ご祭神大山咋命大山咋命荒魂大己貴命玉依比売命玉依比売命荒魂田心比売命菊理比売命後白河天皇素盞嗚尊大年神本殿の両側には狛犬ではなく神猿(まさる)が両側にいた。神猿は大神の使者で信者の災禍を去るという不思議な働きをする。囲っ
おはようございます。8月最後の週の始まりです。最近では、学校の夏休みが短縮され、今日から2学期の始まる地域もあるようです。夏の終わりは、なんだか切なくて、名残惜しく感じます。さて、今日は、崇徳天皇の忌日です。1164年崇徳天皇(顯仁親王,讚岐院)(天皇(75代))<数え46歳>出典wikipedia実はこの崇徳天皇、菅原道真、平将門と共に非業の死を遂げた歴史上の3人を日本三大怨霊と呼ばれています。これには歴史学者の山田雄司は、江戸時代における読本や歌舞伎などが大きく影響を与
先月お参りしました清浄華院(しょうじょうけいん)の身代泣き不動尊の記事を書いていて辿り着いた法住寺さんです。後白河法皇もその身代不動尊の霊験に事なきを得たといいます。歴代天皇、公家をはじめ厄除け、方除けを祈願され「身代りさん」として国家安泰の守護仏と崇められてきました。こちら正門後白河法皇御所聖蹟天台宗法住寺創建は永祚元年(989)藤原為光公後白河天皇は皇位を二条天皇にお譲りになり、法住寺の地を院政の御所と定められ、保元3年(1161)新設御所(法住
最初に向かったのは三十三間堂です。ここに来たのは、前に来ようとしていたのと、NHKで紹介していたので訪ねて見たかったからです。入ってみると、何体も千手観音が並んでいて、圧巻でした。手前にある仏像の一つ一つは、聞いたことのないものばかりでしたが、じっくり解説を読みながら時には手を合わせ、進みました。(ここを訪れた人々はどんな思いをしていたんだろう)と思っていました。端まで来ると、裏側を歩くことができました。今度は打って変わって、三十三間堂を建てた後白河上皇について
今日はオフだったのでしかも夜は京都に泊まるから折角ならここに行きたいと思っていた所へ!滋賀県やけど京都駅から電車で約10分のここへ!義仲寺✨ここには今回8月公演で私が演じる巴御前さんのお墓、そして我らが朝日将軍様のお墓もあるのです!あとは松尾芭蕉さんのお墓もここにあります。家出た時曇りやったのにお寺近くなるにつれ大雨。やっとの思いでたどり着きました!門閉まってましてまさかなー思ったらこれや。もー😭😭😭ちゃんと調べてから行けばよかったー😭門の前からご挨拶して帰りま
日本において祟りを成した人物で有名なのは誰かと問われた時、貴方は誰の名前を挙げるだろうか?平将門や菅原道真の名前が真っ先に思いつく事だろう。だが、実は日本の根幹を変えるレベルの祟りを(結果だけ見れば)成し遂げた人物がいた事は意外と知られていない。その呪いの主こそ、今回の主人公となる崇徳天皇である。崇徳天皇が生まれたのはいわゆる「院政」が盛んなりし頃であった。鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれた崇徳天皇は、父には終生疎まれ続けていた。一説には崇徳天皇は白河法皇と璋
今日の京都は昨日と同じように大気が不安定なで急に雨が降ったりしました。先日、今出川通りをポタリングしているとこんなお知らせが早速お邪魔しました。こちらは「般舟院陵」はんしゅういんのみささぎ。室町時代の歴代の天皇の奥様のお墓だそうです。残念ながらここから中に入る事はでしませんでした。塀から少し塔が見えます。そして、その左側にある「定家塚」後白河天皇の娘さんのお墓だそうです。塚の奥に仏塔がありました。心静かにお参りさせていただきました。そして今日届いた賀茂
滝沢修(たきざわ・おさむ)本名滝沢脩別名義瀧澤修明治三十九年(1906年)十一月十三日生まれ。平成十二年(2000年)六月二十二日死去。九十三歳。滝沢修氏は演技に熱き情熱を燃やされた大名優です。昭和戦前は新劇の活動で当局に睨まれ、治安維持法によって逮捕・投獄されました。反骨の精神で平和の大切さを教えて下さった、演技者です。『綴方教室』『藤十郎の恋』の重厚な演技は圧巻です。戦後森雅之氏・宇野重吉氏らと劇団民藝を旗揚げされます。『王将』の関根金次郎役は坂田
数字を感じていますか?いつもありがとうございます上松皆江です6月の過ごし方はこちら先日は、数字道の平日コースを開催しておりました数字道では、感じたことをアウトプット自分で言えるという練習も含まれています今今今を生きるってことは今何思ってる!??って、聞かれたら即答できるはずそんなアウトプット自分の頭の中に浮かんだ事を言う中で三十三間堂と言う言葉が出てきましたそしたらその晩のNHKの番組「三十三間堂国宝大移
美しいピカピカな魂のみなさんへ♡今日は朝方から京都へ行くのですが、なぜか眠れず。。。たまたま録画されていた歴史的ヒストリアの三十三間堂の特集を見ていてまたメモしたので📝記録してみます♡笑激動の時代に建てられた祈りの空間・三十三間堂にある国宝が今回本来の位置に大移動されたそうです。そのきっかけになったのは、千手観音像の中に入っていた仏像の版画だったようで、千手観音の指示により動く風神雷神の位置も変わったそう後白河天皇三十三間堂を造られた後白河天皇は、1192年66歳で生涯を閉じる最後
昨日、三千院にご案内いたしました。とても珍しい場面に出くわしました『御懺法講(おせんぼうこう)』という法要です。約860年前に後白河天皇が宮中御懺法講として行われたのが始まりです。懺法とは、諸悪の行いを懺悔して、「むさぼり・怒り・愚痴」の三毒を取り除き、心を鎮め清らかにするという儀式だそうです三千院の門主様の後ろ姿を拝見いたしました。この法要は声明懺法といい、声明と雅楽が合わさり美しく奏でられます。古儀にのっとり宮中法会を再現されます。三千院では、最も重要な法要だ
こんにちは。お久しぶりでございます。愚痴聴きセラピストの真月です。インターネットが繋がらなくなって早一週間が過ぎ去りましたが全く進展がなく今日はWi-Fiのある喫茶店で書いています。パソコン💻では無いのでやりにくさはどうしようもありません。このところ真夏のような日が続き幸いにも私はエアコンの中で仕事をしていました。私はちょっと個性的なので暑い→真夏→怪談→祟り→菅原道真→崇徳天皇などという訳わからない連想が頭の中で駆け巡り平成から令和になって天皇も変わったので悲
ありがとうございます石浜地域の寺院縁起並びに石浜神社・石浜城についてその11そして「更に言えば鎌倉時代の建久三年(1192年)三月十六日後白河天皇が六条殿で亡くなり京都から鎌倉にその知らせが届くと幕府では後白河天皇の御仏事が行われました。この点については前科の浅草の歴史で見てきました。特に「吾妻鏡」に記されているように後白河天皇の四十九日の法要に際して鎌倉幕府は百僧供という法事を行うために当時の鎌倉をはじめ金国の武蔵・相模・伊豆の主たる寺社に招請する書状が発せられました。
これが今回旅行のメインイベント熊野川舟下りきっと後白河天皇もこの船で34回?熊野詣でした!午後から雨も上がりました
ありがとうございます石浜地域の寺院縁起並びに石浜神社・石浜城についてその10ところが、保元寺の場合、前記した通り「法源寺浄土宗芝増上寺末帰命山無量寿院と号す。開山大僧都智海法印大同元年(806年)三月十四日寂せり砂尾石浜道場開基と石火にあり、三世権大僧都恵海法印斉衡元年(854年)四月十五日寂す石碑当寺にあり云々」と記され下の石碑(現在は残されていません)がありました。しかしこの石碑を読んでも知られるように「由緒宝亀元年(770年)春貮間四面大日堂延暦三年(784年)秋
第七十七代後白河天皇は平安時代末期の天皇です。一一二七年生。御名は雅仁(まさひと)。御父は鳥羽天皇、御母は藤原璋子。在位一一五五年から一一五八年。雅仁親王は鳥羽天皇の第四皇子です。第一皇子の同母兄の崇徳上皇が譲位し、鳥羽法皇の寵愛する皇后美福門院から生まれた弟の近衛天皇が即位しましたので、皇位を継ぐとは誰からも思われていませんでした。しかも、父や兄からは、「即位の器量にあらず」「文にも武にもあらず、能もなく芸もなし」と言われていたのです。ところが近衛天皇は身体が弱く、十七歳の若さで皇
今日は第79番天皇寺と隣合せ崇徳上皇ゆかりの神社を訪ねます奈良の大神神社で代表される全国で三ヶ所しかない三輪鳥居の正面に拝殿が映ってるよ神社名;白峰宮(しらみねぐう)所在地;香川県坂出市西庄町1719【主祭神】崇徳天皇崇徳上皇は百人一首にも選ばれるほどの和歌の才能を持ちながら「鳴けば聞く聞けば都の恋しきにこの里過ぎよ山ほととぎす」平安時代末期の保元元年(1156年)後白河天皇方と権力の座を賭けた政争「保元の乱」に敗れ讃岐国(香川県)に流され
こんにちはスピリチュアルメッセンジャーの江利です花冷えが少し和らぎましたね福島県の旅の続きです会津若松のホテルで一泊して〜次の日は大内宿に行きました大内宿は、古い街道にあるかつての宿場町です宜しくお付き合いくださいねー【大内宿】福島県会津郡下郷大内山本大内宿パンフレット人気の観光地らしく、ピークの季節では渋滞も起こるほどだそうです。会津の方からは【大内宿こぶしライン・県道131号下郷会津本郷線】を使うと良いそうですそして大内宿には、宿場を守護する神社が有ります。大内宿全体
頭痛持ちの私…ありとあらゆる治療法に挑戦しています。先日は頭痛封じのお寺である三十三間堂(京都)に行ってみました。このお寺は、「頭痛持ちだった後白河上皇」が建てたそうです。実は、上の写真の千手観音像の中に…ドクロ💀が納められているそうです何でそうなったのかは、下の漫画で…ちょっと怖かったけど、「頭痛から解放されますように」と祈願しました。お守りも買ったし…ふむ…どうかなぁ…いや、ドクロ💀から、パワーを授かった気がする頭痛持ちの方で、京都に遊びに行く機会があれば、三十三間堂
<第77代後白河天皇>日本一の大天狗。長きにわたる院政〔二条天皇・六条天皇・高倉天皇〕。1156年保元の乱(源為朝伊豆大島・配流→琉球王説)。
<第74代鳥羽天皇>(皇子)第75代崇徳天皇。(皇子)第77代後白河天皇。(皇子)第76代近衛天皇。1118年最勝寺。「今昔物語集」「大鏡」鳥羽僧正覚猷「鳥獣戯画」
本日は旧暦では1月16日となりますが、康和5年1月16日(1103年2月24日)、堀河天皇の第一皇子宗仁(むねひと)親王が誕生されました。堀河天皇はその父君白河上皇が後に長く院政を敷かれたこともあり、後の世では白河上皇の影に隠れてしまっていますが、当時人望厚く「末代の賢王」といわれていたといいます。白河天皇には寵愛が深かった中宮賢子がおり、その中宮賢子が28歳で急死した時には悲嘆にくれその屍をいつまでも抱いていたと伝わります。その中宮賢子との皇子が後の堀河天皇であり、白河天皇
「遊びをせんとや生れけむ戯れせんとや生れけむ遊ぶ子供の声きけば我が身さえこそゆるがるれ」は、後白河法皇の歌謡集『梁塵秘抄』に載せられた歌です。その意味の解釈は多々あるようですが、一般的には、「遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。遊んでいる子どもの声を聞いていると、私の身体さえも動いてしまう」ということのようです。※「今様」とは、平安時代に流行した歌謡曲のこと。後白河法皇は、鳥羽天皇の第四皇子として誕生。母は待賢門院藤原璋子。諱は雅仁。青年
第76代天皇近衛(このえ)天皇在位期間1142年1月(旧暦12月)~1155年なお、「㉜」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系32代遡る」という意味です。体仁(なりひと。旧字体で躰仁)親王。鳥羽天皇㉜の第9皇子。母は寵妃・得子(なりこ。美福門院[びふくもんいん])。崇徳天皇&後白河天皇㉛の異母弟。1139年生まれ。鳥羽法皇の力で2歳(旧暦での数え3歳)で即位。皇子女に恵まれず在位のまま16歳(数え17歳)で崩御。◆1154年イングランドでヘンリー2世が即位しプランタジネット朝が