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京都市東山区にあります法住寺近くの後白河天皇法住寺陵参道のところに来ています(^^♪土日曜・祝日は、参道手前で扉が閉まっているので、拝所まで行けません(T_T)現地まで来て分かったのは、参道内に一歩たりとも足を踏み入れることも、制札の近くに寄ることもできないということです(・・;)でも、簡単に諦めないのが私です(^-^)v周囲を歩いてみます(^_-)まず、参道南隣の法住寺境内から陵墓や拝所、制札を窺うことができないものかと歩き回ったのですが、一般の参拝客が立ち入れる範囲では無理でし
★第五十八代光孝(こうこう)天皇は平安時代の天皇です。仁和寺の像御父仁明天皇の第三皇子、御母は藤原澤子(たくし)。先帝陽成天皇の祖父文徳天皇の弟。御名は時康。八三十年生。在位八八四年から八八七年。第五十七代陽成天皇は乱行・奇行があり群臣を悩ましたため、何度も退位を迫られ、手続き的には十七歳で譲位の形をとり光孝天皇が即位となります。次の天皇を決めるため太政大臣であった藤原基経が何人もの親王を訪ねるとどの親王も大騒ぎをした中、破れた御簾の中で縁が切れた畳に座り
僕の名前は建皇子(たけるのみこ)(^_^)/今回は、僕ら(正確に言うと、僕の父である天智天皇)の末裔になる皇族の話を少しだけしますね(~_~)天皇として即位するも、僅か3年で譲位し、その後、上皇としての院政を行っている間に激動の時代(武家政治への移行)の波に呑まれた後白河天皇の話です(^。^)武家として初めて天下を治めた源頼朝から、日本第一の大天狗と評された人物のことです(^_^;)と、またまたタケルくん(僅か8才で死去したものの、日本の歴史に大きな影響を与えた障害児です!)口
千佳前回は50人やりました。今回は51人目から100人目までです。51【小館】藤原惟常(そう呼ばれていたから命名)52【荒ぶる2代目】藤原基衡(攻撃的性格から命名)53【とばっちり】源光信(そういう目にあったから命名)54【悪左府】藤原頼長(やはりこの人はこれで)55【83奪三振】平清盛(子供時代に読んだ歴史漫画では、清盛が熱病になったときに清水で体を冷やしていたが沸騰してしまう。その熱を利用して平家がゆで卵を売っていた。ゆで卵と言えば板東英二、板東英二といえば甲子園での83奪三
第七十八代二条天皇は平安時代末期の天皇です。御父後白河天皇の第一皇子、御母は藤原師実の三男で大炊御門家の祖、経実の娘・源懿子(よしこ/いし)。諱は守仁(もりひと)。一一四三年生。在位は一一五八年から一一六五年。生母が守仁親王誕生直後急死したため、祖父の鳥羽法皇に引き取られ、美福門院(藤原得子)の養子となって育てられました。既に近衛天皇がおられ、同じく美福門院の養子には崇徳上皇の第一皇子の重仁親王がいらっしゃったので、皇位継承はないものとされ僧となるべく覚性法親王(鳥羽天皇の第五皇子)の
1180年9月8日源頼朝のブログウザっ!マジウザすぎ!今更、平氏追討とか、めんどくせぇー俺、伊豆に長年引きこもってるニートなんやけど、、、行家のオッさんが、なんか以仁王とかいう人の手紙持ってきたんやけど、俺、やる気ないし、、、ニートは働いたら負けやん!ハロワすら行ったことないのに、いきなり戦とか、ありえへんし。今更、社会復帰とか、もーマジ無理。リスカしよ、、、注①1180年9月8日源頼朝が伊豆で挙兵②行家のオッさん➡︎頼朝の叔父、源行家③以仁王➡︎平氏追討を企て
第七十六代近衛天皇は平安時代末期の天皇です。御父は鳥羽天皇、御母は藤原得子(美福門院)、異母兄に崇徳天皇と後白河天皇がいます。諱は体仁(なりひと)。在位は一一四一年から一一五六年。大治四年(一一二九年)、治天の君として君臨した白河院が亡くなると、孫の鳥羽院が政治の中心となりました。そして永治元年(一一四一年)鳥羽院は寵愛している美福門院との子である体仁親王への譲位を、待賢門院璋子との子である崇徳天皇へ強要します。この時体仁親王はまだ二歳で即位されたのです(近衛天皇)。当然、治世中は鳥羽上
おはようございます。8月最後の日曜日です。残暑とはいえ、引き続く暑さには、辟易しています。早く涼しくなって欲しいものです。さて、今日は、崇徳天皇の忌日です。1164年崇徳天皇(顯仁親王,讚岐院)(天皇(75代))<数え46歳>出典wikipedia実はこの崇徳天皇、菅原道真、平将門と共に非業の死を遂げた歴史上の3人を日本三大怨霊と呼ばれています。これには歴史学者の山田雄司は、江戸時代における読本や歌舞伎などが大きく影響を与えているとしているとしている。【崇峻天皇とは】
皆さんこんにちわ^^昨日に続き私の盆休みをばw久留米北野さんを後にし、目指したのは筑後水田天満宮。水田天満宮は後白河天皇の勅令により、菅公の玄孫で、当時の太宰府天満宮宮司家から菅原為永が宮司となり分祀したのが始まり。後白河天皇と言えば、のちの源平合戦の黒幕w向かう途中、ちょっと大きな神社を発見して、立ち寄ることに。渋滞もしてたしちょうどいい休憩と思いつつ…それがここ。久留米市大善寺町玉垂宮。祭神は藤大臣(高良明神とも)といいますから詳細不明の人です。なんでも、神
第七四代鳥羽天皇は、平安時代後期の天皇です。安楽寿院に伝わるという鳥羽法皇像御父は堀河天皇、御母は藤原苡子。また祖父は、父の堀河天皇時代から次の崇徳天皇まで三代の長い院政を敷かれた白河天皇です。崇徳天皇は第一皇子、後白河天皇は第四皇子。御名は宗仁。在位は千百七年~千百二三年。鳥羽天皇の時代には源氏物語絵巻が作成され、現存する絵巻の最古のものとなっています。源義親の乱の追討や当時多かった武装した僧兵の乱暴狼藉を鎮圧など、源氏や平氏の武士の台頭の契機となる事件が多い時代でもありま
仕事の帰りに新日吉神宮さんを訪れました。京都女子大の近くです。以前にも訪れたことがあり、今回も貼るタイプの絵入りの御朱印をいただきました。この日はスマフォのバッテリーが切れていたので、御朱印の写真だけとなります。御朱印は、ご由緒書きに挟んでいただいきました。このご由緒書きによると、創建当時は7つの神座がある荘厳な神殿があり、渡り廊下が巡らさせていたそうです。どんなんだったのだろうと想像を巡らせます。現在、本殿は創建された後白河天皇。山王七社は、後白河天皇が、創建時に比叡山東坂本の日吉大
元永二年5月28日、1119年7月7日は鳥羽天皇の第一皇子、顕仁(あきひと)親王が誕生されました。後に悲劇の天皇とも呼ばれることになる顕仁親王はその御誕生からが悲劇でした。母である藤原璋子(待賢門院)は白河院(法王)ご寵愛の養女として白河院の孫である鳥羽天皇の中宮に入られましたが、顕仁親王は鳥羽天皇から(おじ子)として疎まれたと伝わるからです。つまり、白河院の御子だったのではないか?ということです。鳥羽天皇は白河院に譲位させられ5歳の顕仁親王が即位しました(崇徳天皇)。しかし白河
東福寺から歩いて10分。新熊野神社に到着。洛中熊野三山の一つです。前回の京都一人旅で残る二つは参拝しているので、洛中熊野三山は全て訪れたことになりました。熊野若王子神社熊野神社逆光で扁額がみえません。すみません。弁財天もいらっしゃいます。新熊野神社は熊野大好き後白河上皇により1160年に勧請されて造られました。本殿は1673年に造営されたものです。旅の無事をお祈りします。このくすのきは、京都市指定天然記念物です。
貞観五年(863)五月廿日朝廷は使を派遣して京都の神泉苑で御霊会を修した。六つの霊座を設けて僧侶が経を読み、舞楽を行い、都の人びとに参加することを許した。神泉苑いわゆる御霊とは、崇道天皇、伊豫親王、藤原夫人(吉子)、観察使*1、橘逸勢、文室宮田麻呂らこれなり。並びに事に坐して誅せられ、冤魂は厲となる。近代以来、疫病繁発し、死亡はなはだ衆し。天下おもえらく、この災いは御霊の生ずるところなりと。京畿よりはじまりてここに外国に及び、夏天秋節に至るごとに御霊会
後白河天皇が行った三千院の懺悔の法講むさぼり・怒り・愚痴の三毒えお取り除く心を清らかにする行いです30日は三千院に行きましょうお先に失礼します
智積院とか妙法院、三十三間堂辺りから参道を東へ進みました。この日も既に16時は過ぎていたと思うので結構な夕方でしたよ。途中で京都女子大の記念講堂か何かを見掛けました。そういえばこの付近の地理について擦れ違った女子大生にお伺いしたら本当に親切に教えて下さいました。きっと私のような観光客だけでなく外国人とかにも英語で質問されたりするんでしょうね。女子大生っぽい皆様が道すがら、咲き始めの桜を撮ろうとスマホを掲げていらっしゃいました。そういえばリクルートスーツの方も何
百人一首の中に七枚ある一枚札五枚目の札はこの歌です[さ][あまりにもさびしくてわが庵からでてあたりを眺めるとどこも皆同じだ秋の夕暮れの景色よ]【さびしさ+秋の夕暮れ】のモチーフの先鞭をつけた歌とか[ほ]ホトトギスは夏鳥で燕と同じく暖かくなると南からやってきて秋になると帰っていく渡り鳥初音をききたいばかりに今か今かと待っていてある明け方についに聞こえたその声に気がついて姿を探したがホトトギスは何処かに飛びさってしまった空にあるのは薄明かりの中に残
第七十七代後白河天皇は平安時代末期の天皇です。一一二七年生。御名は雅仁(まさひと)。御父は鳥羽天皇、御母は藤原璋子。在位一一五五年から一一五八年。雅仁親王は鳥羽天皇の第四皇子です。既に第一皇子の同母兄の崇徳上皇が譲位し、鳥羽法皇の寵愛する皇后美福門院から生まれた弟の近衛天皇が即位していましたので、皇位を継ぐとは誰からも思われていませんでした。しかも、父や兄からは、「即位の器量にあらず」「文にも武にもあらず、能もなく芸もなし」と言われていたのです。ところが近衛天皇は身体が弱く、十七歳の
第八十一代安徳天皇は平安時代末期の天皇です。御名は言仁(ときひと)。※仮名を間違えていましたので訂正しました。2018.9.18一一七八年生。御父は高倉天皇、御母は平清盛の娘徳子(高倉平中宮)。後白河天皇と平清盛の皇孫です。在位一一八十から一一八五年。高倉天皇の第一皇子として誕生された言仁親王は、生後間もなく親王宣下を受け立太子されました。そして二歳で高倉天皇の譲位を受けて即位されます。外祖父の地位を確保し、平氏一門の政治的基盤を確固たるものにするという平清盛の願いが叶った時です。こ
近代以前の日本ではLGBTは普通だった何度も書きますが、前田利家は織田信長の愛人で、本人もそのことを自慢していたぐらいでしたからね。男が男を好きになってなにが悪い❗身体は女でも心が男なヤツがいてなにが悪い❗というのが近代以前の日本人の「普通」の価値観だったんですよ。これが明治になって西洋のキリスト教的価値観が大々的に輸入されてLGBTは異常な存在という「差別」が生まれるようになってきたんです。例えば近代以前の西洋ではLGBTは問答無用で処刑されることも珍しくありませんでした。人
<今日のあらすじ>天皇と上皇の争いは源氏と平氏を巻き込んだものになりました。そこからの最近の政治とSMAPと二項対立の話。さて、昨日院政について書きました。院政が始まったのは「藤原家とは離れたい=摂関とかもうやめたい」という意志の表れだったのですが、重宝していた源氏が藤原家と手を結ぼうとし始めます。面倒だと思い始めた白河上皇は、別に使えそうな武士を探します。待ってました。それが、平氏でした1108年、平正盛は、源氏を討伐し、源
前回のブログ『天神さん信仰のはじまり♪(文子天満宮♪)』のつづき♪七条を東へ歩いて、間ノ町通を北上♪たまたま通りかかった文子天満宮へ♪再び、間ノ町通を北上♪六条に出たトコで、東の方にお寺を見つけて…着いた♪長講堂♪皇室伝来の所領『長講堂領』で有名やね♪正式な名前…『法華長講弥陀三昧堂』てゆうんやて♪長い名前やね…(((^^;)法華経の講義をして阿弥陀仏を念じるためのお堂てイミの名前で、ココは後白河上皇(77代)が自身が住んだ六条院に建てた長講堂やけど、他の人が建て
青蓮院門跡を後にして、向かったのは聖護院門跡。青蓮院門跡の真ん前の道を北へ。平安神宮の横をさらに北へ。歩いて20分くらいで聖護院門跡に到着。江戸時代後期に二度仮皇居となるなど皇室との関係が深いそうです。日本の修験道の本山派の中心寺院。後白河天皇の子が宮門跡として入寺してから、代々法親王が入寺する門跡寺院として高い格式を誇ったそうです。拝観料はありません。自由に入ることができます。一階の寺務所で御朱印をお願いします。本堂は二階。不動明王がいらっ
昨日は義母の13回忌で、京都へーー。専定寺(烏寺)というお寺で、豊国神社すくそば。入り口入ると、お花が目につきなんと!!椿の花の、原木だそうです花びらの中の花弁がとってもゴージャス今まで何年も通ったのに、昨日は時間もゆっくりあってお寺の住職のお母さまが、何故かお話しが始まりお寺に飾ってある由緒ある大仏や、お地蔵様や、兜、瓦、茶釜、ドラ、などなど。。。。一つ一つ説明して下さり。本堂の大仏様は、菊の御紋付きの後白河法皇の念持仏だそうで、大仏様の台座も金の柱に囲まれ、それは
天皇は、血統最優先ですから、子供でも病人でも、ときには女性でも構いません。しかし、摂政・関白は「天皇の親代わり」であり、天皇に代わって政治を仕切れなければ話になりません。つまり摂関は、親から子へと世襲できません。息子が幼かったり器量がなかったりすれば、兄弟や叔父、従兄弟に地位を譲ることになるし、そうなれば戻ってくることは期待できません。藤原道長と甥の伊周のケースのように。「摂関家」である以上、平和で安泰な長子相続というのは無理なんです。つねに、兄弟・分家が熾烈な競争するのが宿命です。「
この記事は、今年2018年(平成30年)の干支戊戌について書いてます。そして最近では、今年2018年の干支である戊戌の年は歴史的にどんな年だったのか?を確認していく記事を書いてきました。↓1958年について1958年について21898年について1838年について1778年について1718年について1658年について1598年について1538年について1478年について1418年について1358年について1298年について1238年、1178年について1118年に
この記事は、今年2018年(平成30年)の干支戊戌について書いてます。干支というのは60年周期なんで、60年ごとに同じ干支が巡ってきますよね。つまり干支は60パターンあります。「あれ?」「干支って十二支のことだよね?」「12個しかないんじゃないの?60年周期?なんでやねん?」という人はこちら↓をご覧ください。干支とは何か。その0干支とは何か?その1干支とは何か?その2↑これらの記事を読むことで干支の概要はわかってもらえると思います。ちなみに「戊戌」という干支がそもそも理論的に
康和5年1月16日、西暦では1103年2月24日、堀河天皇の第一皇子宗仁(むねひと)親王が誕生されました。堀河天皇はその父君白河上皇が院政を敷いていた時代でもあり、後の世では長い院政を敷かれた白河上皇の影に隠れてしまっていますが、当時人望厚く「末代の賢王」といわれていたといいます。白河天皇には寵愛が深かった中宮賢子がおり、その中宮賢子が28歳で急死した時には悲嘆にくれその屍をいつまでも抱いていたと伝わります。その中宮賢子との皇子が堀河天皇であり、白河天皇は父君後三条天皇の遺命