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前回からの続きです(令和2年5月30日のことです)嘉祥寺の横くらいに天皇陵があります深草北陵住所・伏見区深草坊町駐車場あり陵印あり→桃山陵墓監区事務所こちらは珍しく?平地にあります横には電車も通っていて、踏切もあります😅こちらは納骨堂で、十二名の天皇が納められているそうですそのため十二帝陵と呼ばれるということですその十二名は後深草天皇第89代天皇生没年1243~1304年在位年1246~1259年享年62歳この頃、後深草天皇の父である後嵯峨上皇が崩御された
★第九十五代花園天皇は鎌倉時代末期の天皇です。永仁五年(1297年)生。在位、延慶元年(1308年)~文保二年(1318年)。御名は、富仁(とみひと)、遍行。御父は伏見天皇、御母は洞院季子。花園天皇の時代は、両統送立で朝廷が二つに分かれ出したときでした。花園天皇の祖父である後深草上皇とその同母弟の亀山上皇の治天の君争い、つまり次の天皇が後深草上皇系(持明院統)になるか、亀山上皇系(大覚寺統)になるかの争いから始まったものです。両統送立は、鎌倉幕府が間に立ち交互に両統
紅葉ももう、終わりですね。名残の紅葉を観に行きました。北白川の「曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)」です。「門跡」とは、皇族や公家が、住職を務める位階の高い寺院のこと。その昔、天皇の男子は、後に天皇になる皇子以外は、争いを避けるために、寺院に預けられました。有名な「一休さん」もそうですね。一休さんは、後小松天皇の皇子。皇子は母親から離されて、小さい頃に寺院に預けられます。かわいそうですね。天皇の皇子は、やがてその寺院の住職になります。それが、門跡寺院です。曼殊院門跡勅
本日は、奇しくも法皇、天皇でさえも世の無常を感じずにはいられなかったことが特にわかりやすい天皇の祭日が重なった日です。昔も今も、世の無常は変わりませんが、現在の私達と同じ感情を共有していたことを実感しやすい天皇であるといえるかと思います。★第五十九代宇多(うだ)天皇は平安時代の天皇、菅原道真を引き立てたことでも有名な天皇です。御父光孝(こうこう)天皇の第七王、御母は桓武天皇の孫の班子(はんし)女王。御名は定省(さだみ)。貞観九年(867年)生。在位、仁和三年(887年)から寛平
北朝第五代後円融天皇は室町幕府三代将軍足利義満が権力を深めた時代、南北朝時代の北朝、持明院統の天皇です。なお、識者によれば、南北朝という表現は戦後一般化したもので当時南北朝などと呼ぶ人はいなかったそうです。つまり現在南朝と呼ばれているのは吉野朝であり、北朝は旧来通りなのであらためて北朝などとは呼ばれたりはしなかったということです。生年は延文三年(1359年)。御父は後光厳天皇、御母は藤原仲子(崇賢門院)。仲子の姉が母の足利義満とは従兄弟同士で同い年(新暦では一つ違い)。御名は緒仁(お
ここは兵庫県丹波市にある永谷山円通寺。目のグレイ感が凄い。。。現在は紅葉の名所として親しまれている。訪れたのは去年の5月。元々は源融(光源氏のモデル)が父親と賀茂別雷命を祭った地らしい。室町時代に曹洞宗の寺院として建立。勅命により足利義満が建てたそうな。ご本尊は如意輪観音。後小松天皇が南北朝の統一を祈願して彫ったとされる。明智光秀の丹波攻めでは兵火を免れる。豪氏の荻野喜右衛門が光秀の本陣へ説得へ行ったそうな。
第九十九代後亀山天皇は室町時代の朝廷が二つに分かれていた南北朝の南朝四代目の天皇にして南朝最後の天皇です。正平五年・貞和六年(一三五〇年)後村上天皇の第二皇子として誕生。御名は熙成(ひろなり/のりなり)。御父は後村上天皇、御母は近衛勝子(阿野実為の娘説もあり)、また祖父は後醍醐天皇。在位は一三八三年から一三九二年。弘和三年・永徳三年(一三八三年)冬、同母兄の長慶天皇の譲りを受けて三四歳で即位されました。後醍醐天皇が南朝を開いて半世紀、この時期は南朝が最も衰えた時期でした。一方で三代将軍
本日は旧暦の4月22日ですが、建武元年4月22日(1344年5月25日)は、光厳上皇の第一皇子益仁親王が誕生した(践祚後、興仁に改める)日です。(単純に旧暦にあてはめています)この頃は、後醍醐天皇による建武政権に始まる南北朝動乱の時代であり、いわゆる北朝である持明院統が劣勢の頃で、光厳上皇は大覚寺統の後醍醐天皇により退位させられ太上天皇(上皇)の尊号を奉わっていました。しかし益仁親王誕生後、持明院統がじわじわと盛り返したのは、後醍醐天皇が足利尊氏と不和になり建武政権が崩壊し、後醍醐天
*4月27日付記事の続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回はEメールのやりとりで、テーマは中世の怪物・足利義満。本日は、室町殿君臨のおはなし。あんみつ“先生、永徳三年(1383)二月に後円融上皇が愛妾の三条厳子(たかこ)を刀の峰で滅多打ちにする事件が発生しました。父親の内大臣・三条公忠と後円融の母・崇賢門院がなんとかとりなして厳子を手当てし、院御所から逃げさせます”ぜんざい“騒ぎ
*4月20日付記事の続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回はEメールのやりとりで、テーマは中世の怪物・足利義満です。本日は魔人、宮廷蹂躙のおはなし。あんみつ“先生、足利義満は康暦元年(1379)七月の右近衛大将拝賀の儀式で、センセーショナルに公家界に登場しました。にしても当時21歳で権大納言。すごぉく高い官職じゃないのに、どうしてここまであっさり格上の公家を圧倒できたんでしょう”
後小松天皇、神器を後龜山天皇に受く(「日本外史足利氏正記」より)。Name御名:Emperor"Go-Komatsu"後亀山天皇Go-KomatsuIn後小松院PersonalName御諱:Motohito幹仁Father御父:Emperor"Go-En'yū"(北朝第5代)後円融天皇Mother御母:FujiwaranoTakako藤原厳子Spouse夫人:FujiwaranoSukeko藤原資子Mausoleum御陵:Fuk
先日、由緒あるお寺さんの桜を見に行きました京都では「黒谷さん」と呼ばれる金戒光明寺です。承安5年法然上人が比叡山の黒谷を下り、草庵を結ばれたのが浄土宗最初の寺院のはじまりです。この山門は1860年の完成、桜上正面に後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額がかけてあります。重厚な山門に華やかな桜が彩を添えて、とても美しい光景でした。桜の花が、こんもりと可愛いブーケの様でした広い境内には「紫雲の庭」など見どころが多く文殊菩薩や吉備観音など重要文化財も多いです。ぜひ春の黒谷さん(
★第九十五代花園天皇は鎌倉時代末期の天皇です。一二九七年生。在位一三百八年から一三ー八年。御名は、富仁(とみひと)、遍行。御父は伏見天皇、御母は洞院季子。花園天皇の時代は、両統送立で朝廷が二つに分かれ出したときでした。花園天皇の祖父である後深草上皇とその同母弟の亀山上皇の治天の君争い、つまり次の天皇が後深草上皇系(持明院統)になるか、亀山上皇系(大覚寺統)になるかの争いから始まったものです。両統送立は、鎌倉幕府が間に立ち交互に両統から天皇を立てるというものです。
第九十九代後亀山天皇は室町時代の朝廷が二つに分かれていた南北朝の南朝四代目の天皇にして南朝最後の天皇です。正平五年・貞和六年(一三五〇年)後村上天皇の第二皇子として誕生。御名は熙成(ひろなり/のりなり)。御父は後村上天皇、御母は近衛勝子(阿野実為の娘説もあり)、また祖父は後醍醐天皇。在位は一三八三年から一三九二年。弘和三年・永徳三年(一三八三年)冬、同母兄の長慶天皇の譲りを受けて三四歳で即位されました。後醍醐天皇が南朝を開いて半世紀、この時期は南朝が最も衰えた時期でした。一方で三代
<第100代後小松天皇>北朝(皇子)一休宗純〔安国寺〕南朝皇子の可能性大。世阿弥〔風姿花伝〕。足利義満〔日本国王源道義〕。勘合貿易開始。
(京都市北区にある、金閣。金閣寺こと鹿苑寺の舎利殿)第100代天皇後小松(ごこまつ)天皇在位期間1382年~1412年幹仁(もとひと)親王。北朝6代。在位中に南北朝合一が達成される。後円融天皇の第1皇子。称光天皇の父。『一休さん』で有名な一休宗純(いっきゅうそうじゅん。1394年生~1481年87歳[数え88歳]で没)の実の父と言われている。なお「後小松」は第58代天皇・光孝天皇㊷の別称「小松帝」にちなむ。1377年生まれ。4歳(数え6歳)で即位。実権は室町幕府第3代将軍・足利義
ジェームス・イングラムさん死去米R&B歌手朝日新聞複数の米メディアによると、ジェームス・イングラムさん(米R&B歌手)が29日までに死去、66歳。オハイオ州出身。レイ・チャールズのバンドなどでキーボード奏者..漫画家の板井れんたろうさん、81歳で死去読売新聞漫画家の板井れんたろうさん、81歳で死去...れんたろう氏81歳(いたい・れんたろう、本名・錬太郎=漫画家)2017年12月6日、進行性核上性まひで死去。一茂&良純コンビがテレ東で10年ぶりに復活!丸山桂里奈
★第九十五代花園天皇は鎌倉時代末期の天皇です。一二九七年生。在位一三百八年から一三ー八年。御名は、富仁(とみひと)、遍行。御父は伏見天皇、御母は洞院季子。花園天皇の時代は、両統送立で朝廷が二つに分かれ出したときでした。花園天皇の祖父である後深草上皇とその同母弟の亀山上皇の治天の君争い、つまり次の天皇が後深草上皇系(持明院統)になるか、亀山上皇系(大覚寺統)になるかの争いから始まったものです。両統送立は、鎌倉幕府が間に立ち交互に両統から天皇を立てるというものです。富仁親王は異母兄
ナチュラルガーデンランキングにほんブログ村佛通寺の正門に通じる橋寺の前を流れている佛通寺川の上にかかっています橋の上から見た川見事な紅葉の間をせせらぎが!逆方向の風景川に覆い被さるようにモミジの大木錦のように織りなす、色とりどりのモミジの葉境内聖域との結界となる佛通寺川にかかる屋根つきの橋は、美しい紅葉で縁取られてました橋を渡って、寺の外
加藤清正から伊達政宗まで!全国の武将が熊本城に集結ニコニコニュース同イベントには、北は仙台の伊達政宗率いる「奥州・仙台おもてなし集団伊達武将隊」から、南は熊本の加藤清正率いる「熊本城おもてなし武将隊」まで、12組の“おもてなし武将隊”が参加する。見どころは、各武将隊がステージで繰り広げる「全国武将隊演舞合戦」。華やかな衣装を身に着けた武将隊による、殺陣やアクロバット...「明石城築城400年」特大ポスターが日本観光ポスターコンクール最終審査へ3月1日から一般投票受付CNETJ
磨いて磨いて「映った」-銅鏡づくりに挑戦奈良新聞(会員登録)歴史に親しむ同館の夏休み子ども体験教室の一環で、今年で3年目。同市山城町の椿井大塚山古墳(3世紀後半)で32面以上の三角縁神獣鏡が出土するなど、...さきたま古墳群アメーバブログ今月の上旬に、埼玉県行田市にある、「さきたま古墳群」に行ってきました。「さきたま古墳公園」という名前の公園にもなっています。ここを訪れるのは、2回目です.紙くず同然だった命仙台であすからパネル展も/宮城毎日新聞茶話会」
【平成29年7月15日(土)参拝】後小松天皇灰塚所在地:京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺雲龍院内今日は月輪陵横から入っていきます。後小松帝は分骨ではなく灰塚ここへはあと1回来ないといけない…。
【平成29年7月11日(火)参拝】いよいよ南北朝合一、そして約3年かかってキリ番の第100代までやってきました。残り24代、ゴール目指してコツコツと頑張ります!またまた円町からなのでこの前と同じ稲荷駅ルート。今回で5度目の深草北陵。後小松(ごこまつ)天皇陵御陵名:深草北陵陵形:方形堂所在地:京都府京都市伏見区深草坊町
【平成29年7月11日(火)参拝】再び、華開院。今日も事前に電話で了解を取ってから中に入りました。(観光寺院ではございませんのでご注意!)三条厳子(藤原厳子)(さんじょうたかこ/いずこ、正平6年(1351年)-応永13年12月27日(1407年2月14日))は、南北朝時代・室町時代の女性。後円融天皇の後宮で、後小松天皇、珪子内親王の生
【平成29年6月13日(火)参拝】いよいよ南朝最後の天皇まで来ました。JR「嵯峨嵐山」駅から北西に約2km。(駅でいうとトロッコ嵯峨野駅が至近)嵯峨嵐山駅北口二尊院を通り過ぎます。二尊院の門から道なりに400m程行くと御陵参道入口に到着。玉砂利の参道が100m続きます。