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北畠神社から奈良吉野方面へと帰ってくると晴れてはいないですが雨も降ってなくて、少し陽がさして良い感じになってました。建武の中興の北畠神社からの帰路という訳でもないのですがなんとなく『吉野神宮』へ行きたくなりました!桜の時期も来なかったし・・・。【境内】「手水舎の折鶴」。【神門】【外拝殿】「七夕」ももう過ぎたか~!【拝殿】「紫陽花」【摂社】【摂社御由緒】「純忠の誠」の御朱印は摂社三社の名が入った印ですね。時間もあった
川上山若宮八幡神社から伊勢本街道(国道368号線)へと戻り、さらに東へと走りました。途中で左折、県道30号線に入りました。そして、津市美杉町上多気という地区にある『北畠神社』に行きました。神社のお隣がこじんまりした農協(JA)の支所とAコープというのがいいですね!田舎育ちですのでそういう雰囲気安心感があります。境内へ入ります。【拝殿】【北畠神社由緒】【花将軍北畠顕家公】建武の新政で活躍しました。「日本最古の石垣」どこにあったんやろ?雨降っ
津市藤方に鎮座してます。白河結城氏の結城宗広公(南朝方)を祀る建武中興十五社の一社にあたる。手水舎狛犬(北村西望作、日本一高い鋳銅製1.4メートル)拝殿本殿福松稲荷大明神社結城医王大明神社御祭神結城宗広公墓所御朱印
【千葉】千葉県成田市名古屋の小御門神社【小御門神社御朱印帳】(小さいサイズ)藤原師賢公の肖像画と比叡山で琵琶湖を眺め詠んだ歌がデザインされています【小御門神社御朱印】【小御門神社御朱印】印が増えていました以前お受けした【小御門神社御朱印】【大鳥居】昭和9年香取神宮の御用材で建てられた鳥居【拝殿】【御祭神】藤原師賢公後醍醐天皇の側近藤原師賢公をお祀りしています。
いつもありがとうございます。大和奈良の井志田和叶です。新時代「令和」を迎えた、ゴールデンウィークの後半に、令和元年の「初詣」に行ってまいりました。行き先は奈良県吉野町にあります…「吉野神宮」でした。建武中興(建武の新政)を主導された「後醍醐(ごだいご)天皇」がお祀りされています。平和なカタチで行われた今回の今上陛下の御即位に際して、最もむずかしい時代のかじ取りを担われた後醍醐帝の御霊に、いちばんに御祝いを申し述べたいと思い、新時代「令和」の最初に参拝
長田神社の次に湊川神社を参拝しました湊川神社は、江戸時代末期、尾張藩主徳川慶勝の建白かなされ、明治天皇がそれを受けて、明治元年に創建を命じ、明治三年に建立されました。もともと、この地には御祭神である楠本正成の墓があった場所で、徳川光圀によって、石碑が建てられていました。建武中興十五社のひとつです。楠本正成の墓徳川光圀の像境内社の楠本稲荷神社拝殿勇ましい狛犬です。湊川神社の御朱印楠本正成の墓の御朱印境内社の楠本稲荷神社の御朱印。
寺社No.4922御朱印No.5033四條畷神社大阪府四條畷市なにわ七幸めぐり、建武中興十五社、神仏霊場2019年1月18日
2019年4月11日。(ちょうど9ヶ月ぶり3回目)【住所】福井県福井市毛矢3-8-21。【最寄駅】JR北陸本線・福井駅。【駐車場】あり。【創建】明治3年。【祭神】新田義貞公。【配祀】新田義宗公・脇屋義助公・新田義顕公・新田義興公・一族郎党殉難将士。【社恪】別格官弊社。【神徳】文武両道・安産・厄除け・商売繁盛など。【境内社】野神神社・秋葉神社・新田神社・歳德神社。【備考】建武中興十五社・藤の市(毎月最終日曜日)。足羽山の北端の一角にあります。近くには神社仏閣
寺社No.4698御朱印No.4760名和神社鳥取県西伯郡大山町建武中興十五社2018年5月4日後醍醐天皇を隠岐の島から迎えた名和長年を祀る。
小御門神社(成田市)の御朱印です。2回目御祭神・藤原師賢公創建・明治15年(1882)別格官弊社建武中興十五社
湊川神社と同じく「建武中興十五社」の一社であり、三重県津市は美杉町多気の地に鎮座する北畠神社に参拝、宮崎宮司様より大変ご丁重なご対応を賜り正式参拝させていただました。北畠神社は、御祭神として北畠顕能公・北畠親房公・北畠顕家公の三柱をお祀りする旧別格官幣社の社格を誇る神社です。数々の戦乱の中に於いて五百有余年に亘り奇跡的に存続してきた北畠氏館跡庭園を宮司様に御案内いただきつつ、北畠氏の事蹟と歴史について御教授いただきました。また、悠仁親王殿下のお印である「高野槇」数本が、
元防衛大臣の稲田朋美代議士様にご挨拶に伺わせていただき、楠公研究会の活動についてお話しさせていただきました。稲田代議士様は、とてもお美しい方で、知性が溢れておられました。ご出身が福井の越前市でいらっしゃる事から、松平春嶽公や横井小楠先生を敬愛していらっしゃり、その深い憂国のお志に感銘を受けました。また、福井といえば、藤島神社や金ヶ崎宮と二社の建武中興十五社に列せられた神社があり、また、平泉白山神社境内に大楠公墓塔と伝わる塚があるお話などもさせていただきました。その後、河村様率いる
大名持神社の次は、吉野神宮(よしのじんぐう)に行ってきました白い一の鳥居をくぐり、車で5分くらい山道を登ると、境内に到着し、二の鳥居があります二の鳥居をくぐり、5分ほど参道を歩いて行くと、大鳥居があり、大鳥居をくぐると、正面に神門があります神門をくぐると、拝殿があり、奥に本殿があります御祭神は、後醍醐天皇(ゴダイゴテンノウ)境内には、境内社の御影神社・船岡神社・瀧櫻神社がありました吉野神宮は、建武中興十五社(けんむち
大阪府大阪市阿倍野区北畠神仏霊場巡拝の道建武中興十五社別格官幣社北畠顕家北畠親房神道阿部野神社にお参りと御朱印を頂きました🙏
去年の事になりますが建武中興十五社の一社として知られる浜松の井伊谷宮へ参拝させていただきました。御祭神は、後醍醐天皇の第四皇子・宗良親王。明治天皇の勅旨により明治5年に鎮座しました。足利方によって都を追われた宗良親王は、吉野朝方に組みしていたこの地の豪族・井伊家を頼り、井伊谷を拠点として正統な皇統護持の為に尽くされたと共に、文化的な教養も持ち合わせておられ、「新葉和歌集」も編纂されています。境内には、親王のご墓所もお祀りされており、二宮神社宮司の特別なお計らいにより、ご墓
2019年1月1日。(初)【住所】鳥取県西伯郡大山町名和556【最寄り駅】JR山陰本線・名和駅(300m)。【ランドマーク】道の駅・大山恵みの里(1km)。【駐車場】あり。※社号標。※鳥居(ちょうど逆光)。※注連縄柱。※参道を振り返ってみる。※左手に手水舎。※門。※門から拝殿。※太鼓倉と蘇鉄。※由緒。【創建】承応・明暦年間(1652年~1658年)。【祭神】名和長年、他一族郎党。【社格】別格官幣社(旧)、建武中興十五社。
大変お世話になっている三重県議会の水谷県議様に、ご挨拶に伺わせていただきました。三重県は、四日市の楠城、伊賀上野の敢國神社の摂社・楠社、建武中興十五社の北畠神社と結城神社の二社などなど、南朝や楠木一族ともゆかりの深い県でもあり、今後、それらの繋がりも紐解いていきたいと思っています。水谷県議様からは、三重県の持つ多くの魅力と底力をお教えいただきました。不肖私ども楠公研究会も、三重県の魅力発信の一助となれますよう努めさせていただきたいと思います。ご多忙の所、お時間をいただきました
月の始めの日は、おついたち参り。何時も行っている北畠神社へ。赤い一の鳥居をくぐるとすぐに赤い欄干があって、すぐに森の中という雰囲気になる。参道を歩いてすぐに石の二の鳥居。くぐると広い境内で空がパッと広がっている。ここは、建武中興十五社のひとつで南朝の北畠公をお祀りしている。後醍醐天皇に代々仕え織田信長に滅ぼされてしまった北畠一族。全国に散らばる十五社。スタンプラリーのようにいつかは全部を制覇したいけれど、今はまだ
11月10日、建武中興十五社の一つ・名和神社へ。元弘の変にて、隠岐島に流された後醍醐帝を自邸近くの船上山上にお迎えし、帝の大御心の為に大きな貢献を果たした名和長年公をお祀りする旧別格官幣社で、現在の宮司は、名和長年公第24代目に当たられる名和宮司が務めていらっしゃいます。突然の参拝にも関わらず、宮司様の特別のご配慮にて正式参拝をさせていただきました。私もまた、670年の時を超えて、楠木氏と名和氏の縁が再び繋がれた事に感激でした。名和氏は、伯耆国を代表する名族で、特
9月14日、建武中興十五社の1つである安部野神社へ参拝。僅か21歳で戦死した悲劇の将・北畠顕家公とその父・親房公を祀る。ここでも、先般の台風の爪痕が痛々しく、本殿の屋根の銅板が全て吹き飛んでいる有様で、改めて先般の台風の威力を思い知らされた。さて、安部野神社の祭神である北畠顕家公は、公卿出身で僅か14歳で参議となった程、文武に秀で将来を有望されていた。建武の親政下では、義良親王(後の後村上天皇)を奉じ、陸奥守とて陸奥国府の多賀城へ父・親房公と共に赴任。尊氏謀叛の折はこれ
9月23日に南朝四天王「三木一草」の一人である結城宗広を祀る結城神社へ参拝した。結城神社の宮崎様(宮司代務者)から、御祭神の結城宗広公について、詳しくご教示いただいた。こちら結城神社は、建武中興十五社の一つ。御祭神の結城宗広は、陸奥の白河を領有した結城氏族で、建武中興に大きな功があったとされた楠木正成・名和長年・千種忠顕、そして結城宗広をして、当時の人々は「三木一草」とその権勢ぶりを讃えた。湊川にて楠木正成が自刃、京都で名和長年が、福井では新田義貞が戦死、阿倍野で北畠顕家が戦死と
建武中興十五社の一つで、藤原(花山院)師賢公を御祭神とする千葉県成田市の小御門神社へ正式参拝をさせていただきました。藤原師賢は、元弘の変の折、南都へご遷幸される後醍醐天皇の身替りとなり、服装と腰輿を整え、四条隆資らの公卿を従えて比叡山に留まりました。師賢公を天皇と思った延暦寺衆徒は大いに士気を挙げ、押し寄せる六波羅の幕府軍をよく撃退したので、天皇は幕府軍の追撃を受けずに笠置に潜幸することができました。しかし、師賢公の載る牛車の簾が風でめくれた際に、牛車に載ってい
建武中興十五社の一つである鎌倉宮へ参拝。小岩宮司様にご挨拶に上がらせていただきました。鎌倉宮は、後醍醐帝の皇子・大塔宮護良親王をお祀りされている神社。建武中興が成って間もなく、大塔宮の優れた先見の明を畏れた足利尊氏の奸策によって捕縛され、ちょうどこの地にあった東光寺の土牢に幽閉されてしまいます。そして、遂には、中先代の乱の混乱に乗じて、尊氏の弟・直義は、刺客を土牢に差し向け、大塔宮は僅か28歳の若さで薨じられました。土牢は、今もご本殿
南朝で陸奥平定にあたる為、多賀城からここ霊山へ国府を移した北畠親房、北畠顕家、北畠顕信、北畠守親の親子を祀る福島県の霊山神社へ。建武中興十五社の一つで、北畠氏の支城があった霊山の西方山麓の地に社殿が造営された。山城の跡らしく、小高い丘の上に神社は鎮座している。神社では、宮司様御令室様のご配慮にて、正式参拝をさせていただき、また、茶菓の接待のお心遣いもいただきつつ、神社の由緒や北畠一族の事蹟について御教授をいただいた。
成田市にあります小御門神社(こみかどじんじゃ)に行きました。後醍醐天皇の側近贈太政大臣藤原師賢公が御祭神として祀れている、別格官幣社で建武中興十五社の一つです。御祭神の藤原師賢公(文貞公)は、若くして後醍醐天皇の側近となり、尹大納言に任していました。元弘元年(1331)の元弘の変の際、後醍醐天皇の身代わりとなり、比叡山に登り鎌倉幕府軍を迎え撃ちました。その際天皇から赤い龍紋つきの御衣を賜り、天皇になりすまして幕府軍をひきつけたといわれています。しかし志遂
浄妙寺をあとにして、徒歩で鎌倉宮へ。15分位で到着。後醍醐天皇の皇子、護良親王を祀る神社。建武中興十五社の一つ。厄わり石。陶器のお皿に息を吹き掛け、厄を移したのち、石をめがけて投げて割る。三回やってやっと割れました。御朱印は社務所でいただきます。左の御朱印は月替わりです。こちらのクリックをお願いいたします。にほんブログ村
結城神社#建武中興十五社#結城神社#津市#日本一の狛犬#alpha#watch#EOSM5#EF16_35mmF2_8L#クローズアップレンズNo3KojiEsakiさん(@esakikoji)がシェアした投稿-2018年May月24日am5時35分PDT
【三重】三重県津市美杉町上多気の旧別格官幤大社伊勢国司之宮北畠神社のステキな新作【御朱印帳】平成30年4月末よりいただけます【北畠神社御朱印帳】(小さいサイズ)前回いただいた【北畠神社御朱印帳】(布製の小さいサイズ)捕らえられ桜の木に縛り付けられていた8代国司北畠具教の娘「雪姫」を白い狐が助けたという「雪姫伝説」がデザインされていますなんでもその桜は400年経ってた今で
小御門神社(成田市)の御朱印です。御祭神・藤原師賢公創建・明治15年(1882)別格官弊社建武中興十五社