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5月2日金曜日この日は2022年8月11日に探訪した羽幌線の廃線跡を再度巡って来ました。前回巡った際は、草木が茫々と生えており廃線跡を巡るには条件が悪すぎる時期でしたが、今回はまだそれほど草木が伸びていない5月初旬という事もあり、前回見落とした場所や、草木に阻まれ撮影が難しかったものを撮れたりしたため、写真は今回撮影したものと過去に撮影したものとを混在させ記事を追加する形としましたので、一部重複する箇所があります。留萌-幌延間を結んでいた羽幌線は昭和2年に建設が始まり、途中戦争による工事中
(旧)弥生三日早咲きの桜ほころぶ公園はかつて電車の闊歩した道雲端動物園前一番街を進んで行くとアーケードを横切るように開けた一帯に出る。山王みどり公園と名付けられたこの場所は『第2437首南海電車の面影~南海そば天王寺店~』(旧)如月二十七日天王寺に南海電車の面影を残して湯気立つ南海そば食う雲端JR天王寺駅中央改札と地下鉄御堂筋線を繋ぐ通路に南海そばの店がある。こ…ameblo.jp先日、天王寺駅の駅そば「南
東京の北区はかつて陸軍の一大拠点であり実に北区の1割が陸軍用地であった。ほとんどの施設は実戦部隊では無く兵器工廠や弾薬庫、補給処などの兵站の拠点であった。なぜ北区かというと、敵国からの攻撃を受けにくく(昔は空爆という概念が無く、攻撃といったら艦砲射撃による攻撃の事)、交通の便の良いという事で北区に集中的に配置された。西の立川、東の赤羽(北区)は軍都と呼ばれる位に軍事拠点であった。現在ではほとんどが無くなって団地や公園、様々な民間地に変わってしまってあまり面影は無い(現存は自衛隊の十条駐屯
夜明け前、大阪市内の借上げアパート(いわゆる文化住宅)から原付バイクで出発。国道176号線を順調に走り、思ったよりも早く加悦駅跡に着きました。(1987.9.27加悦鉄道旧.加悦駅構内)加悦駅構内に佇む車両は現役当時と変わりない配置でした。ただ、僅か2年間の雨晒しは老朽車両には過酷で、腐食が目立ちます。現役時代に2度訪れましたが、2度とも60系客車改造のキハ08が運用に就いており、幸運に感謝しました。草むした加悦駅構内、踏切跡を横切るお婆さんと自転車の少年・・・昭和の原風景です
都電の廃線時、線路や敷石を撤去せずに、そのままアスファルトで埋めた手荒な工法を採ったので、後年に線路が現れてしばしば話題になります。(2024.10.16文京区白鳥橋付近)今回、神田川を跨ぐ白鳥橋の撤去工事中に都電の線路(39系統・1968年廃止)が出現し、一般公開が行なわれました。2日間で僅か4時間の一般公開、平日の日中にも関わらず大勢の人で賑わっていました。現れた線路は40mほどの複線、線路は溝付きレール。この地点に大曲停留場がありました。会場内に諸河久さん撮影の白鳥橋を渡る都
8月13日(火)第4,378話こんばんは今日も素敵な1日を過ごされましたか?まずは1杯、今日の疲れを癒してくださいませDreamWorks&Keypersons株式会社-人材育成・営業研修、コンサルティング、セミナーなどを展開DreamWorks&Keypersons株式会社は大阪を中心にコンサルティング、人材育成・営業研修、セミナー・講演などをビジネスサポートを展開しています。dw-k.jp何を思う今は昔新幹線が開通して東京と繋がった町があ
仕事で1週間ほど阿寒湖のカムイルミナの通訳を担当し、その前後に釧路に立ち寄り、釧路駅から、かつてあった初代浜釧路駅(1917までは初代釧路駅、1962-89は釧路工場の一部)へ伸びる貨物支線の廃線跡を確認しました。和商市場の横の道がそれです。私が釧路に住んでいたのは1975-1978ですので、その時はこの線路とこの先の車両工場があったのはなんとなく覚えています。和商市場の勝手丼もチェック。釧路はもちろん炭鉄港のエリア外ですが、同様に雄別炭鉱、雄鉄線や臨港線、もちろん釧路港と、独自の炭鉄港
続いて、旧北日本製紙(王子製紙)専用線の跡を探索しました。1908富士製紙第五工場1933王子製紙1943王子航空機(軍需工場)1949北日本製紙1970王子製紙レンガ倉庫が綺麗らしい。いつかまじかで見てみたい1975年頃に作られた国道12号の現在のルートは、まだ稼働していた専用線と斜めにクロスしたたまにクランク状になっている。専用線はおそらくこのガソリンスタンドの洗車機のスペースをRを描いて通っていた。その後、早苗別通りと並走。岩田醸造(実は札幌のいつもお世話にな
その2より続きます。さて、このタルレイと第2駐車場、観光バス駐車場より先は、最初は小樽臨港鉄道として作られた複数の線路となります。今回は地図で、第2埠頭に入る支線の痕跡を確認したいので、大きくわけて埠頭側、そして運河側に別れているうち、埠頭側の途中までを見て行きます。まずはなると軒から小樽港縦貫線を北に300m行き、かつてここに第1埠頭(現在の港町埠頭)に枝分かれしていく線路があった場所が、道路の舗装が違うので判別できました。向こうに港町埠頭の第9号大同倉庫が見えます。そちらの方に支線は
前編から続きます。いったん、北一第2駐車場に至るまでの間、貨物支線の西側に伸びて行った有幌倉庫群を見ます。一本西側の小さな通りがかつての倉庫街のメインストリートで、ここからすぐに貨物視線を利用できたのでしょうか。この辺りの倉庫がかなり消えてしまったことはもちろん、日本遺産候補としての小樽の核心たるテーマのひとつですが、今でもいくつか風情ある倉庫が現役のようです。そしてまた貨物支線のあった道に戻りますと、やがて北一第2駐車場に到着。この北の広大なスペースが、小樽観光バス駐車場(かつての北一バ
1932-1984の期間、小樽築港駅(昔の場所)から港湾が拡大したのに伴い函館本線の貨物支線が伸びていました。これは小樽市が4.2kmを市費で作り鉄道省に寄付をし、それにより鉄道省は浜小樽駅を作ったのです。両方の駅間は3.2kmなので、構内線を含んでいるのかもしれません。そして浜小樽駅(貨物駅)から更に各埠頭と、後は運河沿いの現在の港町交差点のところまで支線が伸びていました。この部分は当初は小樽臨港鉄道という会社が運営していたようで、戦後に国鉄となりました。今回は時間の関係で、小樽築港駅構
インクラインを「鉄道」の範疇に含むか悩むところですが、実際に訪問すると「廃線跡」の情緒を感じます。(2022.4.1蹴上インクライン)蹴上インクラインは、琵琶湖疏水の舟運ルートの一部で、急斜面(全長582m)で舟を台車に載せてケーブルで牽引する「傾斜鉄道」でした。蹴上インクラインは言わずと知れた桜の名所で、まだコロナが恐れられていた2年前でも相当な人混みでした。(今年は外国人旅行者で大変な混雑なのでは?)インクラインの終点、舟を載せる台車が静態保存中。第1疏水の水路付近、線路が水路に
山形交通三山線(1974年廃止)の電車が保存されていることを知りました。場所は、旧.三山線沿線の「設楽酒造酒蔵資料館」で、当時は羽前高松駅から三山線代替路線バスが走っており、時刻表にも記載されていたので容易に辿り着けました。保存車両は木造単車のモハ103で、事業用車として最後まで残った車両でした。木造、降雪地帯、露天と悪条件下での保存でありながら、極めて良好な保存状態でした。ただ、訪問から30年の歳月は木造車両には過酷だったようで、最近のネットニュースで「天井崩れ、車体もゆがみ・・」と、
東北新幹線の七戸十和田駅で下車、歩くこと約40分で旧.七戸駅に到着。週末は車両の公開が行われており、駅舎内の観光協会職員に願い出ると、機関庫の施錠を開け内部に入れました。(現在は機関庫外からの見学らしいですが、当時は庫内に立ち入れました)(2013.12.1南部縦貫鉄道旧.七戸駅構内)庫内には良好な状態のレールバス2両が並び、現役時代と全く変わっていません。残念ながら、キハ104(旧.国鉄キハ10)は、レールバスの奥に置かれ撮影断念!2階に本社があった旧.駅舎の建物が健在です。最
こんばんは。正月に廃線跡を追いました。2代目大工の三島です。お正月のある日。今日は岐阜駅周辺の散策。歩くのは私と電車好き長男とオマケの長女。そして私の母。やや珍しい組み合わせ。母は昔この辺りに住んでいたのです。目的は古い線路の跡探し。その昔にあった工場専用のヤツ。流通の要が鉄道だった時代。大きな工場は自社まで線路を整備していました。いわゆる引き込み線というヤツ。ソレがこの辺りに通っていたのです。ココに通した会社は専売公社とニチボー。専売公社は現在のJT(日本たばこ
国鉄旧鍛冶屋原線(かじやばらせん)は、徳島県北部、板野町の板野駅と上板町の鍛冶屋原とを結んでいた6.9キロの路線。惜しまれつつ、昭和47年(1972)に廃止されました。国鉄時代には、有名な赤字ローカル線だった鍛冶屋原線。現在では、徳島バスが徳島駅から直通の便を運行しています。今回は、その廃線跡を歩いてみようと思い、JR徳島線の「牛島駅」(うしのしま)に降り立ちました。牛島駅を出発する阿波池田行き普通列車。住宅地を抜けると、吉野川にかかる西条大橋を渡ります。吉野川市から、阿波市に入り
一見目立たない県である福井県に大変興味深いエリアがある。そこに行くと新旧の道路と鉄道が入り乱れて組ず解れず(くんずほぐれず)状態。ここはいったいどうなっているのか。福井県若狭地方東端の敦賀市から、福井市方面に北上しようとすると断崖絶壁エリアとなる。そこを国道8号が走っているのだが、すぐ近くを北陸自動車道やJR北陸本線も通っている。JR北陸本線に乗り、敦賀を出ると長大な北陸トンネルに入る。13km以上におよぶ長いトンネルを走って抜けると、そこはもう福井の越前地方。今でこそこのトンネルがあるからこ
#3940やっと夏が終わったな。半月遅れくらいかな。朝晩の気温差が大きくなる季節でもあるからお気をつけ下され。さて、東京都北区王子にある飛鳥山公園の3つの博物館。最初に行ったのはココです。紙の博物館。何でここで紙?って。紙といえば王子でしょ。王子製紙の工場があったんだよ。飛鳥山にあったわけじゃないけど。廃線跡探訪で行った北王子貨物線跡もかつては王子製紙の工場からの出荷のための貨物線だった。『廃線跡探訪4北王子貨物
先月、ELLEさんとかつて三田尻(防府)〜堀(山口市徳地)を走っていた蒸気機関車『防石鉄道』の跡地を巡ったRieruです『防府市『防石鉄道』なる鉄道③』先月、防府市へ行った際に『防石鉄道記念広場』へELLEさんに連れて行ってもらったRieruです『防府市『防石鉄道』なる鉄道②』先月、ELLEさんと防府市を巡っ…ameblo.jpELLEさんの車で、しかも助手席にてGoogleマップを確認しながら。途中で、『田舎の保健室』さんで美味しいランチタイムを過ごしました。『防府市『田舎の保健室』さ
8月13日の第4部は大畑線の廃線跡巡りの続きです。正津川駅跡を見た後、線路沿いの小道を行くと正津川に突き当たり、そこに架かる橋梁を見る事ができました。正津川-川代正津川橋梁廃線跡が真っすぐに伸びていました。正津川-川代川代駅跡にもホームが残っていて、ミラーの支柱と電信柱が残っていました。ホーム跡は地元の方の生活道路になっているようです。川代駅跡出戸川を渡る橋梁も残っていました。川代-陸奥関根出戸川橋梁陸奥関根駅跡にもホームが残っており、ホーム跡には木が生い茂っていて、廃止
8月13日日曜日の第3部は大間線の遺構巡りの続きです。水路を跨ぐ箇所に遺構があったので、車を近くに停めて見上げると、トンネルの坑口が見えたので近くまで行ってみる事にしました。下風呂-桑畑下風呂第二隧道大川尻沢に架かるコンクリート橋の先は家屋が建っていて建設が中止になってからの年月を感じます。下回りを覗くと大した風化も無く綺麗な状態が保たれている様に見えました。焼山沢に架かるコンクリート橋梁も残っていました。渡って対岸に行ってみようかとも思いましたが、先の草むらに入るのも難儀に
8月13日日曜日の第2部です。南部縦貫鉄道の車庫を見学した後は、十和田観光電鉄の七百駅跡に行って来ました。現役時代は十和田観光電鉄線内では唯一の交換可能駅で、車両基地も併設していました。その車両庫は現在七百鉄道記念館となっておりコロナ禍前は年2回ほど一般公開されていたようです。車庫内には電気機関車や東急から購入したモハ3603、自社発注のモハ3401が静態保存されているとの事で、覗いてみたかったです。十和田観光電鉄七百駅十和田観光電鉄線内で残っている遺構は七百駅だけだったので、一気に北
8月13日日曜日青森遠征3日目です。この日も朝から雨模様で、時折強く降ったり小降りになったりでしたが、めげずに廃線跡巡りをして来ました。この日は初めに南部縦貫鉄道が乗り入れていた野辺地駅へ向かいました。跨線橋の中央付近から南部縦貫鉄道のホームへ繋がる通路が延びていた様です。青い森鉄道野辺地駅ちょうど列車がやって来る時間だったので、無理矢理ですが撮ってみました。JR東日本のE721系に準じた仕様の703系がやって来ました。青い森鉄道703系569M野辺地川を渡る橋梁の橋台跡が
8月12日土曜日青森遠征2日目です。朝からどんよりとしていて今にも雨が降り出しそうな天気の中、弘南鉄道の石川駅にやって来ました。弘南鉄道と奥羽本線が近接していて、少々の移動で両方ともに撮れるかと来てみましたが、駅がやけにひっそりとしているのと、いつまで経っても電車がやって来ないので調べてみると8月6日に発生した大鰐と宿川原駅間で起きた脱線事故により弘南鉄道は運休中でした。弘南鉄道石川駅終点の大鰐駅に来てみると、リンゴをラッピングした7000系が留置されていました。7030系703
日高本線廃線跡巡りの第五部です。全長116kmに及ぶ鵡川-様似間にあった24駅を巡り、途中にある橋梁にも立ち寄っている間に、だいぶ日も落ちて来ました。日高幌別駅は西幌別市街地に位置し、まるでドライブインの様なトイレ・駐車場付きの「レストビレッジシンザン」(簡易郵便局、レストランもあります)の奥に、1面1線のホームがありました。この駅もかつては島式ホーム1面2線と側線を有する、列車交換が可能な駅でした。この時点ですでに18時過ぎ。日が長い時期で良かったと思いながら先を急ぎました。日高幌別
6月24日の日高本線廃線跡巡りの第四部です。思った以上に長くなりましたが、鵡川-様似間には24もの駅があり、橋梁の数もまた多いいため第五部まで行きます。さて、本桐駅を出ると鳧舞川(けりまいかわ)を渡ります。橋梁名は不明ですが、鉄道省と書かれた銘板が取り付けてありました。れ、本桐-荻伏鳧舞川橋梁荻伏駅は有人駅時代の駅舎を撤去し有蓋緩急車を改造した貨車駅舎です。正面出入口にアルミサッシの扉が設置されていると共に、横からの出入りも可能な構造でした。2011年に簡易委託を廃止し完全無人化するまで
6月24日の日高本線廃線跡巡り第三部は静内駅からです。静内駅は厩舎をイメージした鉄骨造一部2階建てに2001年改築されたもので、廃駅後も駅舎内では現在も立ち食いそば屋が営業していました。静内駅静内駅の海側の道を線路沿いに進むと、古川を渡る橋梁が見えて来ました。ゆったりとした流れのためか、川面に橋の姿がくっきりと映っていました。静内-東静内古川橋梁さらに進むと、全長355mのガーター橋の静内橋梁が現れました。橋の袂から橋梁の上を見ると錆びついたレールがまっすぐに伸びていました。静
6月24日この日は2021年4月1日に部分廃止された日高本線の鵡川から様似までの区間を辿って来ました。廃止前は苫小牧から様似までの146.5kmの路線でしたが、この部分廃止により30.5kmという短い本線となってしまいました。2015年1月に発生した高波により不通となったものの復旧工事により運行が再開されましたが、2015年、2016年と立て続けに到来した台風による路盤流出や土砂流入によって、鉄道での運行が不可能となった後は復旧工事が行われることもないまま、一部廃止となってしまいました。
東京都港湾局専用線の廃線跡を散策しました。まずは、越中島貨物駅(旧.越中島駅)の引き上げ線からスタート。草むして、線路も錆びていますが、50mほど手前の線路までは光沢があり、いちおう現役です。(2023.8.23越中島貨物駅構内引き上げ線)引き上げ線の終端部にコンクリート製の車止めがありますが、この先に東京都港湾局専用線(1989年全廃)の線路が続いていました。越中島貨物駅構内の引き上げ線の終端部から公道を隔てて専用線の廃線跡が残っています。かつては、随所に廃線跡がありましたが、再
9年前の冬、常総線水海道駅の裏手にレールが残る農業倉庫を見つけました。(2014.12.21水海道淵頭町農業倉庫)常総線の線路から100mほどの地点で、この倉庫までSLがやって来たことを想像すると実に感慨深いです。先日、この農業倉庫の状況が気になって再訪しました。レールは手付かずでしたが、傷んだ倉庫の屋根の補修が進んでいます。(2023.7.16水海道淵頭町農業倉庫)倉庫内の掲示板によると昭和2年建造。常総鉄道(現.常総線)は既に大正2年に開通しており、鉄道輸送を目論んでこの