ブログ記事117件
昨日15日に次男三男家族と墓参りしました。祖父母、聰祖父母誰一人掛けても、自分は存在しない。長い先祖のつながりで今の自分が存在する。父の兄弟は98歳99歳、102歳の長生きの伯父伯母がいる。祖父は92歳の時「誠の道は天の道、人の道」と掛け軸に書き残し、93歳で亡くなった、亡くなる1週間前に「もうすぐ死ぬから人を集めとけ」と言って亡くなった。師範学校も、教育大学の無い明治時代に独学で勉強して、小学校の校長になった、そして、催眠術で病気を治したり、無くした物を思い出させたりした。こん
毎年8月16日に1歳ずつ年齢を重ねるのですが、とりあえず書き続けて行こうと。という感じで今年で生きてたら114歳になられる昇地先生のお話を。こちらに過去の経歴などを事細かく紹介させて頂きまして今回それ以外のところで9人兄弟の2番目が昇地先生で私のお爺さんが6番目そして、1番兄の長兄に陸軍大佐で陸軍大学校教官に山本善一さんという方がいまして(山本の苗字の方は、善が頭につく方が多く、私もそのうちの一人になり)この善一さんが終戦時に陸軍で上の位の方にいたので敗戦の責任を
熊本大空襲75年「むごい負傷者、今も忘れぬ」語り継ぐ集いで体験記朗読7/2(木)10:13配信毎日新聞叔母の平田房子さんの空襲体験記を朗読する田尻和子弁護士=熊本市中央区で2020年7月1日午後2時35分、城島勇人撮影熊本市で多数の住民が犠牲になった熊本大空襲から75年の1日、市民団体「平和憲法を活(い)かす熊本県民の会」が同市で「熊本空襲を語り継ぐ集い」を開き、約30人が参加した。当時17歳で熊本師範学校に入学した日に空襲に遭った92歳の女性2人の体験記が朗読され、参加者
『どうして早生まれって言うの?☆』『答えに窮する子供の質問がある。友達より誕生日が来るのが遅いのに、どうして早生まれって言うの?うまく説明できずにいたが、佐藤秀夫さんの「学校ことはじめ事典」(小学館)に明快な答えがあった。早生まれ、遅生まれという呼び方は、同じ年に生まれた子で学校に入学するのが早いか遅いかで付けられた。明治時代に、学校の始業が4月に統一されたことによる副産物だそうだ。それまでは、日本でも多くの学校が9月始
おはようございます今日は蒸し暑いですね夕方の都心を歩いていて見つけた碑学校の隅とか公園とかにありますよね見たら旧制師範学校の跡地だったとか…戦争で消失してしまい、学校があることさえ見つけられない場所の片隅…その日々を懐かしんで有志で建立したようですその建立の日付が1971年…もう50年近く前のことです人は思い出を、きっと形として残したく思うのですね今日も良い日をお過ごしください○o。.
記念すべき四十回目の今回から始まりますは文学編です。この文学編は定番の文学作品を内容を、しゃべれるくらいに理解すると言うものです。第一回紹介するのは誰もが知っているでしょう夏目漱石が書いた坊っちゃんです。登場人物は、無鉄砲で損ばかりしていて数学の教師の主人公文学士で赤シャツの教頭マドンナと呼ばれる遠山のお嬢さん数学の教師の山嵐主人公の家で奉公している老婆の清大きく分けるとこの五人です。内容は、主人公は数字
今宵も「爺ィの夜話」をどうぞ!!第7話は・・第98回全国高等学校サッカー選手権大会・第28回全日本高校女子サッカー選手権は男女共に静岡勢が優勝飾りました。女子は藤枝順心がV。2大会ぶり4度目。男子はカズ母校の静岡学園が24大会ぶりV、単独優勝は初でした。男女共に決勝戦のそれぞれのチームに観客からは万雷の拍手!!特に男子の決勝戦は観客56000人が詰めかけ万雷の拍手の中でキックオフ!!良い試合でしたね〜しかし男女共に静岡とは・・正にサッカー王国復活と言ったところ!!でも静岡県
前回は試験会場に無事到着しました!という話教師になる登竜門高等師範学校の試験会場で親友となると人に出会うことに少しおっちょこちょいのみーちゃん全ての試験が終わるまで途中で「どんな答えを書いたの?」などと周りにきいてはいけない。動揺したりするのでやってはいけないのに数学の答えどう答えた?と周り近所に声かけてしまう。隣の子とは違っていて前の席の子とは一緒!さて合格者発表ではみーちゃんお見事合格です。入学式で試験の時前の席だった子を見つけてやっぱりあの答えだよね!
家系図って作ったことありますか?母方の大叔母祖父の妹貢さん「けーこちゃんが小学校に就学するまで文字を教えないでほしい」と言った貢さんのことわたしからの主観ですお話します貢さんを「みーちゃん」って呼びますねみーちゃんは2人の兄の下に生まれた女の子上の兄は女系家族に生まれた久しぶりのの男の子とても過保護に育てられました次の兄は優秀でみんなから好かれました母親は村一番の美人でした。彼女は駆け落ちをして引き戻された悔しい経験から女の子も職を持たねばという強い思いのもと育
病床にて退職辞令を受ける。渡される辞令、受ける辞令、唯無言だった。自ら選び自ら求めたこの教育界の仕事、事遂げて勇退するのではない。病のため止むなく退職しなければならないのだ。在校児童にも職員にもPTAにも別れの挨拶も出来ず、病床にこの辞令を受けるとは、返す返すも残念であった。これも自分に与えられた運命であったのか。師範学校入学前、代用教員として母校日下にて2,5年、師範学校を卒業して中郡吾妻(二宮)小学校にて1年、母校日下小学校にて19年、南太田小学校にて3年、永野小学校(
『人間の分際』ー曽野綾子●得をしようと思わない✪お金の問題は低い次元の話である。しかし、低い次元の部分には却(かえ)って単純明快なルールを自分で作っておかないと、心が腐ってしまう。最近、私の周囲を見回すと、実にもらうことに平気な人が多くなった。「もらえば得じゃない」とか「もらわなきゃ損よ」とか、そういう言葉をよく聞くようになったのである。「介護もどんどん受けたらいいじゃないの。介護保険料を払っているんだから、もらわなきゃ損よ」と、はっきり言う。受ける介護のランクを決める時には、できるだけ
四国の伝説的なお話のベートーヴェンの第九同様に、やはり、ドイツ人、しかも、この時代に、この写真のようなユニフォームが、揃えられた????なんて、凄いです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーサッカー王国・静岡100年の歴史…源流は第1次大戦ドイツ人捕虜、師範学校に蹴球部誕生10/31(木)11:02配信NHK静岡など静岡県の地元ラジオ3局による静岡県サッ
教師教育委員会は士族の集まり、、仙台市、、地方都市、、士族、、仙台なら、、宮城師範学校、、とにかく江戸時代から師範学校がない地域なんてありえないのだ、、師範学校こそ武士教育地方役人の養成学校であるのだ、、教育委員会は士族役人の集まりである、、ガイドラインに従うのみだ、、ガイドラインいじめ年間欠席30日しにたい手紙取扱❤️今回の仙台市いじめ母子自殺事件、、事件の涙❤️、、教育委員会対応ナイスだったよ、、いじめの重大事態の調査に適用さ
尚禮舘事務局は、渡口政吉先生の沖縄本来の文化としての「尚禮舘空手」を師との約束の地「沖縄」に還す為の道場を設立する目的で活動をしています。→はじめての方へ。尚禮舘のご紹介→誰も知らない渡口政吉先生の逸話→月刊「秘伝」特集平川樹高師範の紹介ページ→尚禮舘のストーリーと活動記ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー✴︎こちらでは、尚禮舘指導教本に掲載されている「序渡口政吉の志を誇りに思う文学博士外間守善氏」の文章を紹介します。宮城長順先生の空手に対する情熱。渡口先生の事
【宮崎県川南護国神社秋季大祭】(毎年11月23日)〜陸軍落下傘部隊の発祥地、川南町唐瀬原‼️〜今年7月、旧陸軍落下傘部隊に所属、戦後は陸上自衛隊第一空挺団に勤務された田中賢一さんが逝去された。(100歳の大往生でした。)田中さんは陸士52期生、落下傘部隊の練習部所属や空挺戦車部隊に所属、実戦の経験はないが、自衛隊退職後に聞き取り情報をもとに多くの書籍を上梓されました。(田中さんは元陸軍少佐、自衛隊では陸将補)所謂、落下傘部隊の生き字引的存在でした。生前、亡き父もパレンバン作
イランカラプテ2019/10/13表現の自由』が奪われた時代を生きて―生活図画事件とわたしたちの今」と題する講演会とクロストークの集いが十三日(日)午後一時から、いってきましたなんとなく知ってた事件なので、どんなことなのか興味がありました、生活図画事件で逮捕された、当時旭川師範学校の学生だった菱谷良一さん(97)の証言、これはとてもとても現実感ありました寝てておきたらそばに警察官がいていきなり連行された、すぐに解放されると思ったら1年3カ月の勾留生活北海道の厳寒零下30度の独居房に閉じ
大阪府師範学校跡大阪府大阪市北区中之島4丁目3官立(国立)としては1873年、文部省により大阪医学校跡地(大阪市中央区法円坂)に大阪師範学校を設立。1878年、財政難により廃止され、大阪府に移管。府立としては1873年、真宗大谷派難波別院(南御堂)内の集成学校に「講習所」を開設。1874年、教員伝習所を設立。1875年、大阪府師範学校に改称。1877年、西南の役により、難波別院が征伐総督府にあてられたため、興正寺別院に移転。現在地の旧久留米藩邸に校舎を建設。1878年、官立大阪
この非常に苦しい時期に、五島は一つの言葉を思い出す。師範学校時代に嘉納治五郎と言う学校の校長でもあり、柔道の先生が講義してくれた言葉だった。その先生は「なあに、こんなこと」、「なあにくそ」、そういう言葉しか数えなかった。どんな時でも、「なあに」という精神を養う事。「『なあに』と言う精神が一番必要だ。どんな事にもぶつかっても、『なあに、このくらいのこと』と言う様に始終考えろ。全て物事を大きく考えたならば必ず怖気を生じて震えてしまって成功しない。どんな事でも物事を小さく考えて、
新見南吉に逢ってきました。彼は、東京外国語大学?(の前の学校)の卒業生のようです。師範学校は、体格だけで「門前払い」だったようです。平成天皇・皇后さまもいらっしゃったようです。特に、皇后さまは、南吉の大ファンらしい。今は、ほぼ100%に近く、小学校の教科書に採用されているらしい。で、内部の展示は、何度も見ています。目的は、次のコーナーです。
※注意事項このブログは超長文です車を運転しながらの閲覧は危険ですので絶対に止めてください携帯からの閲覧は目が疲れる可能性があるので休み休み見ることをお勧めします仕事の休憩時間にご覧の方は休憩時間が終わってしまう可能性があります電車内でご覧の方は降りる駅を乗り過す可能性があります出来れば、ご自宅のPCで、酒でも飲みながら「あもんって馬鹿やな~」と笑いながらご覧ください♪古来、日本国は大和と呼ばれていたと云う大和魂という言葉を調べたら日本人固有の実生活上の知恵や能力と記されてい
私の祖父と我が家の子供達との間には共通点があります。それは、書道と武道(武道は息子のみ)。書道の部長女の書息子書道で入賞祖父書道家長女と息子、団地の中の書道教室に通ってました。全く違う作風でした。息子に至っては、サッカー、空手と並行でしたから、流石に途中で辞めさせて頂きましたが、先生からは、勿体ないから、将来いつでもいいから書道に戻って欲しい!と、おっしゃって頂きました。祖父は多才でしたが、書道家の部分が一番大きかったと思います。武道の部祖父は学校教師で、剣道をやっていま
今回の旅も、ついにラストスパート。。石山駅からは京阪バスに乗り換えて、滋賀大西門で下車。。やって来たのは、●滋賀大学大津キャンパス滋賀師範学校と彦根高等商業学校を母体として1949年に発足し、今年で創立70周年。教育、経済、データサイエンスの3学部と大学院3研究科を有し、文理融合型の人材を育成。するとそこへ年配の方が声をかけてきた。👴「すいませーん、学食はどこやろか??」「え!?僕も学食探してるんです!」w「あ、ここっぽいですよ!」👴「あった、あった!」生協食堂( ̄◇
大量退職、大量採用時代で、景気回復や学校の働き方もあり教師志望者が減少(出所:文部科学省)「日々勉強!結果に責任!」「国づくり、地域づくりは、人づくりから」を信条とする参議院議員赤池まさあき(比例代表全国区)です。我が国の伝統精神である「智勇仁」の三徳に基づき、「文武経」の政策を国家国民のために全身全霊で実現します。9月4日は、我が国の近代教育制度が開始された「学制」発布の日です。明治4(1891)年、廃藩置県が行なわれ、新政府の行政機構がつくられることとなり、教育行
孫の一人が、学校で理不尽な目にあった。泣いて悔しがるので、話を聞くとさすがの爺もムッときました。詳細は省きますが、要するに担任がおバカなのです。教科の下調べが不十分で生徒より知識が無かったり、質問に対して無造作に知らないと言ったり、採点間違いがあったり、およそ教師としての資質に欠ける先生様がいらっしゃるようです!デモシカ先生とかつて呼ばれた人達、つまり教員デモやるか、教員シカ仕事が無い………そんな人達でも正規の教師で、それなりの責任感はありましたが、いまはなんと!パートです!
どうして父は朝鮮に渡ったのでしょうか。時の政府は、次男、三男は朝鮮に行けという政策でした。父は、苦労の末、朝鮮大邱師範学校を出て教職に就いたのです。田んぼ7反と山を持つ、百姓が父の生家です。父も私たちから遅れて無事に引き上げてきました。祖父母、父母と私たち4人の子供、父の妹(私には叔母)が二人それぞれ夫が戦死し子供を二人ずつ連れて、計14人がひしめいて暮らす生活が始まったのです。嫁の立場にある、母がどんなに神経をすり減らして舅、姑、小姑たちに接したか想
今日は広島の原爆記念館です。父と母今日は原爆記念日父は中学生の時両親、弟が原爆で亡くなりました。父親の兄に師範学校に通わせて貰って小学校の教員になりました。戦後の苦しい中前向きに生きてきた両親、父は89才父の親代わりになって育てて下さった兄は98歳で天国に。優しい叔父さんでした。私は原爆ドームの近くの本通りに28才まで住んでました。被爆体験を語れる方々が少なくなってます。父いつまでも元気でいて欲しいです。夫婦仲良くね。
私は、日本統治時代(1910-1945)の朝鮮で生まれました。父は、朝鮮の大邱師範学校を出て教師をしておりました。私が物心ついた時には父は慶尚北道というところで日本人学校の校長をしていました。当時33歳だったそうです。父の学校の広い校庭の東側に正門があり、そこをくぐって外に出るとすぐに私たちが住む校長宿舎があり、私たち一家はそこに住んでおりました。家の周りは板塀と有刺鉄線で囲まれた広い屋敷でした。家の中の雑用まで学校の用務員さんがお手伝いしてくれておりました。
今日7月3日(水)は、チェコスロバキアの作曲家レオシュ・ヤナーチェクの誕生日です。レオシュ・ヤナーチェク(1854年7月3日モラヴィア-1928年8月12日)は、モラヴィア(現在のチェコ東部)出身の国民主義を代表する作曲家です。彼は、モラヴィアのラシスコ地方の田舎町に、貧しい小学校教員の10番目の子として生まれます。モラヴィアの首都ブルノにあるアウグスティノ会修道院付属の学校に入学し、修道院の少年聖歌隊員となりました。その後、ブルノ市のドイツ人中学校を経て王立師範学校の教員養成科に入