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閲覧注意‼️「撃った、殺した、若い女性だった!」とまどう米兵。彼女の時間はこのとき止まった。1945年6月12日、白い肌を日にさらして倒れているのは「ひめゆり学徒隊」の一員。米兵に狙撃された若い女性である。医療班とともに国吉台地(糸満市)方面を駆け抜けていたところを射撃された。カバンのなかには自決用の手投げ弾、小銃弾、包帯などの衛生材料が入っていた。女性の雑嚢(ざつのう/布製のカバン)のなかには、鉄の「98式柄付き手榴弾」が2発。1発は敵に、もう1発は自分に。女性はそれを敵に投げること
朝、3時半起きで、経営者向け勉強会に参加をしてきました。伊勢修養団。もともとは、明治39年(1906年)に、現在の東京学芸大学(当時の東京府師範学校)の学生が創立した社会教育団体とのことです。活動の拠点が、伊勢にありますので、日本人の心とはどういうものか、日本の国はどのような国か、この辺りが講話の中心にありました。世直しは、余直しというフレーズが、大変印象に残りました。社会(日本・世界)を変えたければ、余(自分の心・自己)を見つめよ。ということでしょうか
造幣局を出ました、チーム55は大川沿いを西へと走ります。そこで、幹事様に教えていただきましたのが。こちらです。今では、その姿を残しているものも、数少なくなってしまったそうですが。なんとラジオ塔、つまり、ここから放送が流れてくるのを、人々が集まって聞いていたそうでして。街頭テレビよりも、古い話になりますよね。さあ、力動怒った、力道山怒りの反撃、怒涛の空手チョップであります。おじいちゃんのジダンですら、街頭テレビの話を、昔話でしか知らないと言いますのに。早よ、走れっラジオ塔の存在は
かなり大人になってから、父に聴いた事があります。「お父さんは、何時も家族の健康や栄養を言ってのは何故?」「当時は結核が流行っていてそれに罹っては大変だと思ったから」とういう返事が返ってきました。私がまだ中学生の頃、中讃地区にある滝宮病院には「サナトリューム」と言って結核患者の病棟が何棟もありました。今では考えられませんね。父が、祖父母の理解を得られないまま「師範学校を卒業するまでの苦労話」は母が子供に伝えてこそ意味があります。
No.95平成31年4月25日(木)前回、「致知」の記事のことを少し書きました。(^^)その中で森信三先生の言葉も少しご紹介しましたが今回、もう少しだけ、森信三先生のことを書きます。(^^)森信三(もりのぶぞう)さん通称、しんぞう1896年(明治29年)9月23日-1992年(平成4年)11月21日日本の哲学者・教育者。天王寺師範学校(後の大阪教育大学)の専攻科講師を経て、1
『クセジュ文庫』若い読者の方手にとって読まれたことあるだろうか?かつては白水社からかなりの巻数発刊されていたがCollectionQuesais-je?有名なフランスの叢書オールジャンル・ノンジャンルというところがまた一つの魅力でガチガチの『構造主義の入門書』があったりあの秘密結社GoldenDawnヘレナ・ブラヴァツキーとかアレイスター・クロウリーとかああいった名前がポンポン出てくるような本が同じ列に並んでいたりどちらも19世紀から20世紀にか
にほんブログ村国立台北教育大学の台湾文化講堂/台湾の師範学校あれこれ台湾二日目<3>張恵妹の喫茶店を後にしてMRTの二駅分飛ばして忠孝復興駅まで歩くことにした。国立台北教育大学の敷地に接して日式住宅と思われる古い建物があり職員宿舎か何かだったのか不明であるがとりあえず路地に入写真を撮る。路地に入ると「台湾文化講堂」という看板を設置した古い住宅を利用した建物があった。この台湾文化講堂を調べると国立教育系卒業者の修士課程所謂大学院の建物で台湾文化研究所とのことHPによると
私も、齢80を超え一番に思い出すのは結婚するまで私を支えてくれた父のこと。父は、香川県の真ん中に位置する「中讃地方」の南の山手、ここから車で40分はかかる田舎に生まれました。祖母の話では4歳で般若心経を覚え、仏壇によくお参りしてたそうです。農業に熱心な祖父は子供の教育に無関心。が父は向学心に燃えており、高等小学校をを終えたあと、学校で「小遣いさん」として就職しお金を貯めていったそうです。師範学校を目指す父は、さらに善通寺というところにある尽誠という私立学園に編入試験を受けます
ゆう実道場開講です🤗日本己書道場総師範杉浦正先生推薦師範学校開発室室長西尾志乃生師匠23期師範89名無事認定式も終えいよいよ発信🤗初幸座は4月5日✨高浜のESカフェ😍14時30分からスタート🤗お待ちしています💕<ahref="https://line.me/R/ti/p/%40noc7778p"><imgheight="36"border="0"alt="友だち追加"src="https://scdn.line-apps.com/n/line_add_fr
私の母は、90歳超えです。母は、戦前の教育を受けています。当時の女子師範学校附属の女学校に通っていました。終戦の時は、小学校の教員になっていたそうです。その後も長く教員をしていました。どうも、一風変わった教員だったようで、今でも、教え子さんたち(皆さん、70歳超えです)に、「先生!」と、声をかけていただいています。母の教育論は、なかなか面白い。それは、私自身の子育てや仕事のヒントになっていることが多いです。母の教育論の中で、一貫しているのは、「常に、愛を持ちながら、客観的視点を
本当に文京区の身近な所が大河ドラマの舞台になっている。主人公の「金栗四三」が活動した場所になっていたんだとしみじみと!関係の場所のスタンプラリーがスマホのアプリでできるように区役所が企画していた。コースマップを作っていた。赤が,放送大学文京学習センターがある場所。四三が通った元師範学校があった場所。黄色は文京区役所がある場所。(自称・暖かい場所)役所広・司扮する嘉納治五郎が柔道を教えた,柔道の聖地,講道館がある場所。青は,湯島天満宮がある
2019/02/10(日)久高島→斎場御嶽→覚醒映画ウル→竜宮神の後は、本日ラストの旅。『平和祈念公園』へ。もう夕方だったので、じっくりと館内を見て回りはしなかったんだけど。感じるまま、園内を巡りました。このたくさんの石碑は、沖縄戦争で犠牲になった方、1人1人のお名前が刻まれていました。この戦争で亡くなった方は、米国側は1万2520人。日本側はその15倍、18万8136人が亡くなったとみられています。このうち沖縄県民全体では12万2千人以上、県民の4人に1人が亡くなった
こんにちは!教育リライザー&和心メッセンジャーのかなえです。今朝は、ひさびさに茗荷谷に行きました^_^有名な学校が並ぶ土地。品格ある制服を身にまとった学生さんたちを見かけます。そんな茗荷谷は、たくさんこ師範学校があったようです。江戸から東京に移り変わる、近代教育をつくったベースとなる場所。あぁ、やはり東京から、志ある人たちが時代を作ったのだと思いました。次の時代を見越して、今の時代に問題意識がある人たちが自ら主体的に動き変えていく。これこそが、本物の日本の精神なのだと
四三くん、くすぶってたのね。すぐに師範学校行ったわけじゃなかったんだ。あれだけ盛大に見送ってもらうって愛だねぇ😌お兄さんも父みたいな気持ちなのだろう。四三が東京で頑張ってるのはよきことだけど。スヤちゃんをお嫁にするのはもう無理なのか?でもここで綾瀬はるかをもってきた意味を考えるとヒロインじゃないの?次の女性が出てくるのか?のんちゃんが事務所問題なかったら、ヒロインは彼女だったのかなーそれも見てみたかったものだ。(まだ可能性はある)
そういえば、母も体悪いみたいだし。なんか、適当に結婚すべきかとさえ思ってきた。そういえば、特に好きでもない人は、よく近づいてくるので。まぁ、何でもいいかもしれない。というか、条件並べ立てても、ロクでもないし。けど、変なんよく近づいてくるなぁ。。。。本当に変な奴。師範学校とか、いいかもと思ってたけど。日本人なら、100歳超えだから、いないなぁ。。。。台湾人なら、まだ若いけど。まぁ、多分ムカつくから、結局は1人でいいと思うんだろうけど。まぁ、ロクでもない。ロクでなし(笑笑医
愛知県東浦町は10日、愛知県半田市出身の童話作家新美南吉さん(1913~1943年)が、旧制半田中学(現半田高)時代からの友人で、東浦町出身の国文学者久米常民さん(1913~1977年)に宛てた手紙6通を、新美南吉記念館(愛知県半田市岩滑西町)に寄託したそうですこの手紙は、2013年5月に久米常民の遺族が東浦町中央図書館に寄贈した資料の中から見つかったそうです1929(昭和4)年8月から31年7月までの計6通で、新美南吉さんが初恋の相手に抱いた思いや、師範学校の入学試験に落ちて失望した気持
2018年平成最後の大晦日ですねいかがお過ごしですか?山に行って(所有地)お飾りの材料を揃える田舎ならではの、日本むかし話みたい…守り神水の神様そして年賀状の亥❗️松も亥❗️雲も亥❗️背景も亥亥亥亥亥亥~私が大好きな場所~久々嵯峨御流で生けてみました~赤を真ん中がよかったのかも……下梅長いよ…時間決めてるからタイムリミット~😁1輪…洋菊、高いから、短くしとこ残りで、下駄箱上です主人祖母師範学校先生和裁の先生だったので、素晴らしい掛け軸でっす‼️今年も沢山の出逢いがあ
文豪と呼ばれる島崎藤村は、小説「破戒」の取材のために雪の飯山を訪れた時〜二人の娘さんが同行してました〜小諸市で教師生活を送っていた島崎藤村は、1904年(明治37年)1月、飯山市上町の真宗寺に泊まりがけで取材に訪れました。真宗寺は、小説「破戒」の主人公、瀬川丑松が下宿する寺のモデルとなりました。この時の、島崎藤村には二人の同行者がいました。IとKという娘で、二人は、小諸の高等小学校を卒業して、教師をめざし師範学校に入学、この時は、飯山にある「下水内高等小学校」で教育実習を受けるための飯山
旧県庁の宮殿のような建物を見学したあと、少し歩いて次は旧山形師範学校本館へ。なかなかいい感じの神社の紅葉眺めつつ。道の正面にドンと明治の洋館。かっこええ。内部は教育資料館として山形県における教育の歴史の展示がされていました。床の板が斜めなのが面白い。旧制の学制って複雑で、しかも勉強できたらスキップできるし、よくわからんのだけど、師範学校は学費タダでしかも、生活のための給付金ももらえたので勉強できても貧乏な家のこどもたちの希望の場所だったんだろうと思う。
11月27日は昇地三郎先生命日亡くなられてから早5年になる11月27日。時間の経過と共に記憶の中から段々と忘れ去られる訳ですが、親戚の一人として、素晴らしい教育者として、何より生き様を教えてもらえた恩としてプラスになる事があるのであれば伝え続けて行ければと祝島で心に決めてから早5年経過した感じです。凄いかただ、すばらしい人だと言われる事は多々ありましたが、・何が凄かったのか?・何が素晴らしかったのか?を少し深く知る事によって自分にも何か活かせる事が無いか?そんな視点で人を知る事
尋常師範学校は明治18年、府県立師範学校通則によって本格的な小学校教員養成機関として整備されました備中/地頭→岡山(明治19.10.9)(10.10)今は無き「細謹舎」発行
2018.10.7(日)11:00~13:25昭和文化小劇場飛行機が飛んでいる、あんなに高い所をまるで、自分の意志で飛ぼうとしてそこまでたどり着いた意欲さえあれば出来るこのタイトルを見た時に感じた事はそういう事なんですしかし、飛行機は自分の意志で飛んでいる訳ではない必ず、誰か人の力によって人が飛ばせている高く、早く、遠い所まで行きたいと人が願ってその為に必要な道具を作った人の能力に無限の可能性を感じる
戦後のベビーブームと高校大学への進学率上昇にあわせて、全国に多くの大学が誕生しました。近年、一部の私立大学では募集定員に満たず経営難を招き、国外からの募集を募る法人まで現れております。問題は、私学法人が独立採算で「営業」するのであれば問題ないものの、実際は少なからずの官費に頼っております。その一方で、低所得世帯の子弟の進学に支障が見られるのは、まことに残念なことです。さて、明治維新後、貧困世帯の学業優秀子弟を埋没させないために、師範学校や陸士海兵等の学費の掛からぬ教育機関
勤務医開業医高校名を聞けば、、だいたい聴いたことがあるのだ、、滋賀なら膳所高彦根東、、彦根城内🏯旧彦根藩校、、旧師範学校、、僕は基礎疾患を患者さんに改善する様に指導してる、、、レバービタミン食育、、、時間栄養学、、時計遺伝子、、血液検査を精査してから、、
①2018年7月12日(木)~17日(火)②北千住・シアター1010③ミュージカル座④蒔田優香さん⑤7月13日(金)⑥太平洋戦争末期の昭和20年。国内唯一の地上戦となり、日米合わせて25万人以上の犠牲者を出した沖縄戦は、3月23日の沖縄本島への空襲と、同24日の艦砲射撃を先ぶれとして、3月25日の慶良間列島への米軍上陸に始まります。4月1日には5万の米軍が沖縄本島に上陸。『鉄の暴風』と言われた米軍の激しい砲爆投下に死闘が続きました。米軍は上陸3日目には本島中部のもっとも狭いところを東進
福岡西公園。福岡の桜の名所のひとつ。父親と福岡の話をしてると出てくる「西公園」。なんでも父親の従兄弟にあたるお兄さんが福岡教育大学(父親達の年代的には福岡第一師範学校?)で勉強していたらしく、子供の頃、そのお兄ちゃんを訪ねて行って西公園で遊んだらしい。私は、向かいの大濠公園や舞鶴公園にお花見🌸🍺🌸に行く事が多いもんね。今度、西公園に行ってみよう🎵福岡教育大学は、その後、大橋(現在の九州大学大橋キャンパス辺り)を経て現在は宗像にキャンパスがあるようです。福岡教育大学には、以前、熊本