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町名佐賀キャッチフレーズ明治維新の際に薩長土肥(肥前=佐賀)といわれるほど、多くの人材を輩出したことで知られる。所在地佐賀県佐賀市最寄駅JR長崎本線佐賀駅訪問2020年6月江戸時代末期の大名は鍋島氏、36万石、外様観光案内所有地図を見るとわかりますが、町じゅうに水路が縦横に張り巡らされているのにまず興味を惹かれました。川船好きなので。町はうらぶれた感じで歩行者も車も少ない。そのぶん人は優しくて、信号わきできょろきょろしていると青信号なのに車が止まってくれました。セブン
新町の雪道を、丑松は右に左によけながら愛宕町の蓮華寺をめざして歩いた~丑松が見た景色~歩いた雪道~様相は変わったが新町から愛宕町方向の景色~雪道は「かんじきで踏み固めた細い道」~やっと人すれ違うことのできる広さ。すれ違うときは右によけたり左によけたりしなければならなかった。「破戒」の丑松は、父親の葬儀と二七日(ふたなのか)を済ませ、姫子沢から飯山に戻るために、田中駅で信越線に乗り豊野駅に着いたのはお昼を過ぎた頃。川船の出る蟹沢湊まで歩き、休茶屋で船を待ち、船に揺られて飯山へ着いたのは5時
雪の真宗寺「破戒」の舞台のモデル「蓮華寺」は「真宗寺」~その「蓮華寺」は下水内郡飯山町愛宕町という設定~島崎藤村が、明治37年1月13日夕方、千曲川を船で下り飯山に来て、次の日の14日の午前中に中野市側の千曲川右岸側を橇に乗って帰るという忙しい日程で飯山に来たことは、「千曲川のスケッチ」に記されている。この時の藤村の宿泊先は真宗寺であった。同行者は小諸の白檮山いそじと三村喜乃であり、二人は明治36年9月から飯山小学校で開講されていた信濃教育会主催の準教員養成のための「三種講習」に真宗寺に
冬の千曲川綱切橋と新幹線菜の花大橋が見える辺りが「上の渡し」のあった場所中央橋の西詰辺があった場所があった場所島崎藤村は118年前にこの風景を見ていた。「破戒」の丑松は、蟹沢湊で「川船」に乗船~「上の渡し」まで五里の船旅をして飯山へ戻った~島崎藤村が一泊二日の忙しい日程で冬の飯山へ来たのは明治37年1月13日。当時、千曲川には一日二往復の定期船が運航されていた。その定期船が、冬期間も休まず運航されていたというのは、今では想像もできない。下りは川の流れに従って下ればいいとはいうもの
飯山町の船着き場は上の渡し(綱切橋付近)下の渡し(中央橋付近)の二ヶ所写真は中央橋から島崎藤村が蟹沢湊から千曲川の「川船」に乗り飯山へ来たのは118年前の明治37年1月13日~「破戒」で藤村は、その舟のことをこう書いている。「~川舟は風変りな屋形造りで、窓を附け、ふなべりから下を白く化粧して赤い二本筋を横に表してある。それに、艫寄(ともより)の半分を板戸で仕切つて、荷積みの為に区別がしてあるので、客の座るところは細長い座敷を見るやう。立てば頭が支へる程。人々はいづれも狭苦しい屋形の下
千曲川冬景色硲地積この川を便船が運航しており島崎藤村がその便船に乗船した「蟹沢湊」には、便船の待合所を兼ねた「休茶屋」があった~藤村は、ここで高柳利三郎と会った~118年前一昨日(明治37年1月13日)、島崎藤村は千曲川の「川船」に乗船するために、信越線の豊野駅から、千曲川の定期船の乗船場所「蟹沢湊」まで約6kmの道を歩いたが、便船は出たばかり、次の便船が出航するまで休茶屋で一時間ほど休んだ。その休茶屋で、出会ったのが高柳利三郎だった。「破戒」では、この高柳利三郎との出会いが、丑松が
中野市硲を流れる冬の千曲川(撮影1月11日)藤村は豊野駅から「蟹沢湊」まで約6kmを歩いた~「破戒」第拾弐章は藤村の実体験~118年前の昨日(明治37年1月13日)、島崎藤村は千曲川の「川船」に乗船するために、信越線の豊野駅から、千曲川の定期船の乗船場所「蟹沢湊」まで約6kmの道を歩いた。「破戒」には「およそ一里ばかり」とあるが、実際には6km以上はある道のりである。6kmの道のりを、藤村は白檮山いそじと三村喜乃を伴ってあるいたのである。「破戒」第12章㈠にはこう書いている。川船の出
118年前の今日~明治37年1月13日島崎藤村は~この景色を見ながら船で冬の千曲川を下った~島崎藤村は、明治37年1月13日、小諸から豊野駅まで信越線に乗車し、豊野駅から千曲川の蟹沢港まで歩き、蟹沢港から飯山港まで厳冬の千曲川を「川船」で下った。この時の藤村の飯山行は、この「川船」に乗ることが目的の取材であった。当時の、千曲川の「客船=川船」は、一日に二便の定期運行だったという。千曲川には、白い帆を張った川船が上り下りしていた。下りは、白い帆を張り川の流れと、帆に風を受け自力で川を下っ
島崎藤村が~冬の千曲川を「川船」で下ったのは118年前~古牧橋の辺りには船橋が架けられていた~島崎藤村が、小説「破戒」取材のために冬の千曲川を「川船」で下ったのは明治37年1月13日です。明日13日が、藤村が「川船」で千曲川を下って118年目となります。取材は、冬の「川船」への乗船体験が目的のためでした。同行者は、小諸の藤村の借家の大家の娘の白檮山いそじと、その友人の三村喜乃。白檮山いそじと三村喜乃は、飯山小学校で開講中の教員養成の三種講習の「冬休み」の帰省で飯山へ戻る旅。藤村が二人
株ちゃん川船🚢配当金は出なかったけど2マンいただきキリン🦒🍺は配当金6500円きっちりいただき残り100株は権利通過します。週末はクリスマスだって🎄また作った練乳でミルクせんべい手作り練乳は出来立てより冷蔵庫で冷やしたほうがとろみがつきます。でもね、市販の練乳よりはさらっとしてますよ。それに、防腐剤入ってないから作っちゃ食べきってます。食いしん坊だからじゃないんですよ。たっぷりかけていただきます
丹波篠山にてお友達のワンコ株ちゃん川船が前回の買値まで下がったので100買いました。2匹目のどじょうを狙います。三井住友とUSSも買ってこちらも何匹目かのどじょうをお待ちしています。家族名でも三井住友買い日本紙をナンピンしてます電飾ついたよとらやの最中いただき今日はほうじ茶と供に
真っ赤なオーナメントはピンクペッパーかい?株ちゃんは川船買うたら終わりは500円以上の下げ(;;)INPEXを400株にして、大成温調を家族名で100株1900円はうまく待ち伏せたと思うけどこの株はよく下がるからなぁピンポ〜ン隣りのおじさまがまた手づくりをとどけてくれた今度は蕎麦初めてにしては上手やから配合を聞くと5割だった素人が最初から10割なんて無理やもんね。(私はかって初から10割に挑んで撃沈しました)薄揚げ好きなのでほぼ毎日揚げさんの炊い
日本3第河川の[吉野川]の河口(^^)❣️川漁師さんの川船を繋ぐ桟橋が、鋼管柱で組まれています(^^)❣️今日は、暖かい小春日和☀️(^^)❣️水面に揺らぐ桟橋。(^^)❣️小春日和の凪の水面。ユラユラ反射する直線(^^)❣️がクネクネ曲がる(^^)❣️私は、脳の前頭葉が劣化しているので、また、悪なる遺伝子を引き継いでいるらしく、このような現象を見ても、綺麗な[言葉]で、表現することができません。なので、それを持って、私の人格や生き様を、否定してくる人達
どうも、こんばんは。今朝も、スマホのアプリに4年前の「長崎くんち」の写真が表示されていました。眺めていると委託販売先の「魚の町」の「川船」の奉納踊りの演し物の写真がありました。↑こちらですね。あたしが好きな「川船」です10月8日長崎くんちの中日(なかび)は、比較的に庭先回りが中心になってきますが移動中は、大きな会場での奉納踊りとは異なりショートバージョンでの庭先回りになります。近年は特に本踊りなどは、2班に分かれての庭先回りが多いようです。前は、あたしもおくんちの
今日もお船御三家、順風満帆。郵船、+2.88%上昇、1万円越えちゃった。商船、3.15%上昇川崎汽船、+4.24%上昇各社どこも約3万円の値上がり、含み益も10万円越えている。ここは一旦売って、利益確定してから配当権利日までにまた買い戻そうかと考えるね。そういう賢明な人が多いんだね、昨日は郵船も商船も下げたのはその現われか。来週からは配当狙いの買いが多くなるから、もっと上げ幅大きくなるんじゃなかろうかと考え、今日は
先日倉敷で一泊して、午前中美観地区を見て回りました以前泊まったことのあるホテルがアイビースクエア倉敷といえば、蔵屋敷の景観が素敵ですね~倉敷川沿からアイビースクエア側の迷路のようなエリアです観光客が殆どいないので静かな佇まいがいいですね!観光客が少なくて地元の人たちの素顔が見られました右上に阿智神社でしょうか?今はアイビースクエアになっている倉敷紡績跡の赤レンガと現在のデニムが対照的、この景観が好きになりました倉敷アイビースクエアは、蔦の絡まる美しい
先日倉敷で一泊して、午前中美観地区を見て回りました倉敷といえば、蔵屋敷の景観が素敵ですね~倉敷川沿からアイビースクエア側の迷路のようなエリアです観光客が殆どいないので静かな佇まいがいいですね!観光客が少なくて地元の人たちの素顔が見られました右上に阿智神社でしょうか?今はアイビースクエアになっている倉敷紡績跡の赤レンガと現在のデニムが対照的、この景観が好きになりました細い路地の向こうには倉橋川が見えています路地から出ると、川船乗船場にたどり着き中橋が見
日経6日連続の連騰。株が上がると気持ちも跳ねますね。体にいいですね。終値は531円高の29,659円でした。色々の銘柄が年高を記録した。トヨタももうすぐ1万円だよ、うれしいね。総裁選がらみで、期待する人がいるから値上がりしているんだ、その人が選ばれなかったとき怖いことになるね。海運株今日もアゲアゲでした。9104商船三井を高値かなと思いつつも買い戻した。これで9101日本郵船、9107川崎汽船と海運御三家が揃いました。どっぽ
いまから15年前の2005年のことです。大手新聞に、100年以上前(1906)明治の日本を撮影した8ミリフイルム」が海外で発見されたとの記事が掲載されました。記事によると、フランスのパテ社という会社が撮影したもので、2005年にオーストリアで発見された紀行映画(トラヴェローグ)で、調査の結果「日本の風景や風俗を撮影さたものでは最も古く世界映像史の上でも初期製作の部類に入る、歴史的な映像フイルムだということで衝撃的に報道されていました。そして、その貴重なフイルムの中に「
町名新見キャッチフレーズ鍾乳洞の街だそうです所在地岡山県新見市最寄駅JR伯備線新見駅(旧城下町ゾーンは駅から1.5キロくらい)訪問2013年4月江戸時代末期の大名は関氏、一万八千石、外様観光案内所あり高梁川最上流の風情ある素敵な陣屋町。城山公園の東側「御殿町」に武家屋敷遺構がだいぶ残っています。「温故館」と銘打たれているのは元用人筆頭渡邊家長屋門と土塀。百十石取りの幹部でした。温故館前の道は『四間幅』で、江戸時代には五万石以上でなければつくってはいけない決まりだっ
長野市豊野蟹沢の渡し藤村「川船」文学碑藤村の飯山での取材メモが~「破戒」に生かされ~「千曲川のスケッチ」としてまとめられた~飯山再発見のための連載~198破戒に描かれる飯山藤村は「破戒」執筆のために最低5回飯山を訪れた~「千曲川のスケッチ」と「破戒」「千曲川のスケッチ」の「序」は、敬愛する吉村さん――樹さん――私は今、序にかえて君に宛てた一文をこの書のはじめに記すにつけても、矢張り呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。私は多年心掛けて君に呈したいと思っていたその山上生活の記念
舟橋の下流に架けられた古牧橋=昭和38年完成1泊2日の藤村の飯山訪問は、冬の千曲川を下る川船に乗船することが目的の旅であった~飯山再発見のための連載~195破戒に描かれる飯山藤村は「破戒」執筆のために最低5回飯山を訪れた~4回目の飯山訪問は明治37年1月13日から14日の1泊2日~❿1泊2日の藤村の飯山訪問は、冬の千曲川を下る川船に乗船することが目的の旅であった。その体験は、「破戒」第拾弐章に生かされている。丑松は父親の二七日を済ませ飯山に帰ったが、その時豊野駅から千曲川便船の蟹
千曲川古牧の舟橋向こう岸近くの橋げたの下をくぐったか?「島崎だとは言うな」と固く口止めしたのは~「破戒」に第拾七章の場面を書いたことにあるのではないか~飯山再発見のための連載~194破戒に描かれる飯山藤村は「破戒」執筆のために最低5回飯山を訪れた~4回目の飯山訪問は明治37年1月13日から14日の1泊2日~❾「破戒」の第拾七章(六)から(八)の場面~蓮華寺の奥様が「瀬川さんお勉強ですか」と、入ってくるところから始まる場面は、住職の「女狂い」の記述は事実とは違うと、娘婿である唱歌「故
飯山訪問の藤村の服装は~黒い脚絆に、ワラジばき、鳥打ち帽子~一見馬子のような出で立ち~ち~飯山再発見のための連載~192破戒に描かれる飯山藤村は「破戒」執筆のために最低5回飯山を訪れた~4回目の飯山訪問は明治37年1月13日から14日の1泊2日~❼島崎藤村と、白檮山いそじ、三村きのの三人は、船べりから下を白く化粧し、紅い二本筋を横に塗り、屋形船のような川船に乗って飯山に来た。藤村研究家の田中富次郎氏が後に、三村きのに聞いた話しとして「破戒その前後」の中に、「~飯山行きのときの藤村の服
千曲川に架かっていた舟橋藤村と同行したもう一人の少女三村喜乃~茶の水女子高等師範学校へ進み~力石長野県知事夫人に~飯山再発見のための連載~190破戒に描かれる飯山藤村は「破戒」執筆のために最低5回飯山を訪れた~4回目の飯山訪問は明治37年1月13日から14日の1泊2日~❻藤村の4回目の飯山訪問の時同行した二人の女学生、白檮山いそじと一緒だったのは三村喜乃。「千曲川のスケッチ」その十「千曲川に沿うて」では「K」と書かれている。この三村喜乃は、白檮山いそじの近所の「紙屋」の娘だという
かって飯山港があった場所に中央橋がある~「白檮山いそじ」は~小諸で不動産貸付業や小料理屋を営む資産家白檮山虎治の娘~飯山再発見のための連載~189破戒に描かれる飯山藤村は「破戒」執筆のために最低5回飯山を訪れた~4回目の飯山訪問は明治37年1月13日から14日の1泊2日~❺島崎藤村は、「破戒」の中で、「丑松」が父親の葬儀が終わり「ふた七日」が終わり。飯山へ戻る場面設定を、初冬の千曲川を「川船」に乗って下ることにし、急きょ4回目の飯山訪問を計画した。藤村と同行したのは、小諸義塾の教え
飯山港の跡の碑中央橋西千曲川の蟹沢港~飯山港間の旅客を運ぶ「飯山旅客便船」運航が始まったのは明治34年である~飯山再発見のための連載~186破戒に描かれる飯山藤村は「破戒」執筆のために最低5回飯山を訪れた~4回目の飯山訪問は明治37年1月13日から14日の1泊2日➊明治37年1月13日、二人の女学生白檮山いそじと三村喜乃とともに、長野市豊野の蟹沢港から川船に乗り、飯山港まで千曲川を下った。千曲川下流の通船は、江戸時代に始まったといわれる。飯山市西大滝の斎藤太左エ門は、通船につ
島崎藤村千曲川のスケッチ「川船」碑蟹沢付近「明治37年1月と、その年の初秋」の他に~明治37年以前の初秋のころにも飯山へきている~飯山再発見のための連載~116藤村が飯山へ来たのは4回以上2島崎藤村が「破戒」の取材のために何回来たのか?通常言われているのは2回である。その2回とは、明治37年1月と、その年の初秋に丸山晩霞と来た時の2回だとしている。そして、その根拠は、いづれも明治44年雑誌「中学世界」に藤村が発表した「千曲川のスケッチ」により推測しているのである。この「千曲川
町名三次(Miyoshi)所在地広島県三次市三次町最寄駅JR芸備線・福塩線三次駅(駅からの距離1.3キロ)訪問2012年12月、運甓居のみ2017年9月観光施設運甓居(頼杏坪役宅:常時開放していないため訪問には注意が必要)。三次もののけミュージアム(三次町が舞台の妖怪物語『稲生物怪録』は、まだ侍屋敷が健在だった頃の話です)。辻村寿三郎人形館(三次市歴史民俗資料館)昔の三次町が模型展示されています。雲海:季節によっては雲海が見られます。旧城下町へ行くにはJR三次駅から少
町名五條キャッチフレーズ維新の魁・天誅組、重要伝統的建造物群保存地区(五條新町)所在地奈良県五條市最寄駅JR和歌山線五條駅、又は大和二見駅訪問2019年11月観光施設五條市民俗資料館(長屋門)、まちや館、まちなみ伝承館など江戸時代末期は天領で陣屋がありました。文久三(1863)年八月に起こった「天誅組の変」で有名です。現在民俗資料館となっている代官所長屋門は天誅組以降、場所を変えて建て直したもので、五條駅からはちょっと距離があります。天誅組当時、代官所は今の五條市役所