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賀茂御祖神社(下鴨神社)紀伊国愛宕郡京都市左京区下鴨泉川町59(有料P有)■延喜式神名帳賀茂御祖神社二座並大月次相嘗新嘗の比定社[境内社河合神社]鴨川川合坐小社宅神社名神大月次相嘗新嘗の比定社[境内社出雲井於神社(比良木社)]出雲井於神社大月次相嘗新嘗の比定社[境内社三井神社]三井神社大月次新嘗の比定社※境内式内比定三社は別記事を上げます■社格等[旧社格]官弊大社[現在]別表神社山城国一宮二十二社(上七社)勅祭社■祭神
田中神社(京都市左京区田中西樋ノ口町)山城国愛宕郡京都市左京区田中西樋ノ口町1(P有)■祭神大國主大神二つの川が合流する地点に鎮座する賀茂御祖神社(下鴨神社)の、東側を流れる「高見川」の東方に鎮座する社。◎かつては愛宕郡下粟田郷田中村と称された地名。また「田中村」は明治四年に「たてはら」と「川崎」が合併してできています。うち「川崎」の方が当地。「川崎」は「河崎」「神先」「神早」「神崎」などの字が宛てられています。賀茂御祖神社の領有区域であったとされ、賀茂建角身系の氏族が住んでい
藤尾社・熊野社・霊魂社(伏見稲荷大社境内社)山城国紀伊郡京都市伏見区深草薮之内町68(無料P有、ただし常にほぼ満車)■祭神[藤尾社]舎人親王[熊野社]伊邪那美神[霊魂社](祖霊神)伏見稲荷大社の境内社。一の鳥居から参道を進んだ向かって左手にあり、三社が並んで鎮座しています。◎藤尾社(冒頭し)かつて当地は「藤森」と称されていました。その当地には藤森社が鎮座していたものの、伏見稲荷大社が「稲荷山」から現社地の麓へと遷座されるに合わせて追い出されたとされています。現在は藤
こんちわー。私です。いやぁ人生って上手くいかないものですね。自分、今まで割と運任せで生きてきたせいか、社会に出るとやっぱ詰まることが出てきました。ホントに、マジで人の出会いとか幸運かと思えるくらいいい人ばっか当たってたんで、神様の御加護めっちゃ得てると思うんですよ。ただ、こっからは自らの努力も必要になってきたなって、最近つくづく思います。そんな感じに間接的に神様の崇敬を持ちつつ今回もやっていきましょう。小社相楽神社ではいつも通り軽く概要を鎮座地:京都府木津川市相楽御祭神:足
何か思ふ何をかなけく世の中はたた朝かほの花の上の露ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーおそらくあの有名な清水寺の事でしょう。清水寺地主権現のこと。祭神は大国主命・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の事を指すらしいです。これしか書かれていないので、どんな文脈で読まれた歌なのか全くわかりません。ただ何となくですが、色々悩んでも仕方ないよ、という話でしょうか。という前提で話をしていきます。ある人が悩んでいました。話を聞いても何について悩んでいるのか分かりませんでした。延
衆生は常に世界を変える穢し、自分ひとりの思いだけで天に逆らい地に背こうとする者は火乱神を遣わして、その不浄を焼き滅ぼすだろう。身分が上の者だけが豊かに下の者が苦しむときは、火の雨を降らせて、身分が高い者の財産を散らして苦しんでいる者に与えよう。我は王法[1]を守り、国家の安全を守るので、邪見の者の家を潰す。心が満たされると思うな。天は満たされることはない。我は人間が驕るのを。[1]仏法に対する世俗の法律や慣習である。京都市右京区にある愛宕神社の事のようです。伊弉冉尊(いざなみのみ
世の中の人は跡継ぎがなくて悲しんでいるか、あるいは子供が産まれるとき、母親が心穏やかにいたいと思うならば、常に我が前にしるしの沙(いさご)[1]を奉納しなさい。必ず思うようになるだろう。これは我がよくやることだ。[1]いさごは、細かい砂のこと。京都市の梅宮大社の事のようです。大山祇神、此花咲邪姫が主祀神のようですが、酒造業者向け?のような解説がついていました。おそらく産土神の事なのかなという気がします。産土神についてはいろいろ調べてみましたが、その地域の子供を授ける神としかわか
民たちが我が前に来て、願いを遂げようと思うならば、その心は偽りなく身の内側も外側も清々しく鏡に向かうようなようにして祈りなさい。自分の罪ではない罪を受けようという者は、我に頼んだのに十七日のうちにその願いが、思うようにならないようであれば、我は神とはいわれないだろう。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー北野天満宮の事のようです。天満宮は全て藤原道真が御祀神です。学問の神としか認識がなかったのですが、北野天満宮のHPによるとかなりの御神徳があるようです。もちろん、えん罪を晴らす神でもあ
民が一柱の神に一礼をすれば、無限の助けがある。ましてや心得を正して懸命に正直の大道に入るだろう。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー松尾大明神は虚空蔵菩薩の化身らしいです。松尾大社は、大山咋神(おおやまぐいのかみ),市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の2柱が主祀神らしいです。キリスト教はじめ一神教は、神を信じなければ地獄に落ちると脅迫しますが、神道を信じればよいことがあるというご神託です。だいぶ違いますね。
わが国で神道人道が衰えようとするとき、世に現れ出て、広く従えて治めよう。天の下の草創に私がいたから、私の子孫の産屋に至る証拠。瑞鳥[1]が来るのも私である。民たちよ、世の中の草木が枯れ、人は悩みに臥し、国土は豊かではない。人の心がおかしくなった時は、私の前に来なさい。必ず心をよくしよう。民たちよ。先祖を祀り善い兆候が出なければ、心が清くないからである。神明を恨むな。民たちの心の心の鏡に積もれば、神明の清い光の影は映らない。民たちよ。国を治め、天下を取ろうと思っても、この国の草創であるので、
私が治めることがあれば、実行する方法は全て尊が見える範囲を治めなさい。我は退いて世の見えないところを治めよう。つまり、身に満つの八尺瓊[1]をとって、長く隠れていよう。[1]八尺瓊(やさかに)は、珠や勾玉を通して八尺の長さで輪にしたもの。国を直接治めるのは天皇家、神は見えない裏方をやって頂けるということでしょうか。今で言ったら、政治家や会社経営者がしっかり見える範囲を管理しなさい。どうしようもない部分は神頼み。ということは、神に最初から頼むようなことをしないで、まずは自分たちで
我が名は山王三諦である。すなわち一つであることを表す。山の字の縦方向に三画は、空仮中[1]である。横の一画はつまり一である。王の字の横三画は三諦である。縦方向の一はまた一である。二字三画で、しかも一貫した形がある。だから我の名前にした。一心三観[2]と一念三千[3]もこのようなものである。この考えを持って天台宗をまもり、永遠に国家を守護する。我が身の他に名は無し、名の他に身なし。名に合わせての身であり、名の他に法はない。法の他に名はない。名に合わせた法であり、法に合わせた名である。身は名と法と
我は武略の健将である。末世の大将である者は、常に我が名を唱えれば、必ず神力を加えて天下にとどろく武将にしよう。伝わるところによると、高良は武内宿祢[1]である。孝元天皇の五代孫であり、官位に就いていたのは二百四十四年、死去したのは二百九十有五歳、あるいは仁徳天皇五十五年である。[1]景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。京都にある高良神社なので、石清水八幡宮の摂社でしょうか。武内宿祢といえば、戦前にお札の肖像画に
一度私の前に来て、一礼をする者はその思いに従って神力を加えて思いを遂げるだろう。ましてや日を重ね願いをかける人には。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー今日はこの言葉だけです。毎日信心しなさいということでしょうか。心理学者に言わせれば、毎日欲しいものを念じることによって無意識がそれを実行させてくれるというところでしょうね。斎藤一人さんも、念じて行動せよとよく言っております。神の存在証明云々よりもそれに乗っかったほうが得であると、論文を書いた人がいたとかいないとか。
四万十市不破に鎮座する神社です。主祭神(3柱)品陀和気命玉依姫命息長足姫命土佐一条氏祖の一条教房は応仁の乱を避け、一条家の荘園があったこの地(幡多荘)に逃れてきた。教房は幡多郡総鎮守として山城国の石清水八幡宮を勧請し、室町時代中期の文明年間(1469年-1487年)に八幡宮を建立したのが創建となる。手水舎拝殿本殿(国重要文化財、永禄2年(1559年)建立)住吉神社三島神社土俵御神木御朱印は
◆安土桃山時代_善光寺如来遷座のこと天正十一年、徳川家康は善光寺如来を鴨江寺にお迎えしました。爾後慶長二年四月二十七日に後陽成天皇の勅により山城国(京都)方広寺に移されるまでの十余年、善光寺如来は鴨江寺でお祭りされていたのです。「死ねば善光寺へ行く」と古くから言われていますが、善光寺とのこの因縁と、開山行基菩薩が現在お地蔵様の前にあります泉(阿伽井戸)で亡霊の為に水を手向けられ、亡き人々が皆成仏したという因縁とが合わさって、「死ねば鴨江に行く」という信仰がこの地方の人々の心奥に染み込んだと云わ
先祖を千年、遡る(幻冬舎新書)Amazon(アマゾン)79〜5,493円平家の落人伝説について前回佐野村の小字の由来を調べてみると、多くの字地名に平家の著名な人物名との関連があることをお伝えしました。そこで、「地名から探る平家の足跡シリーズ三好市山城町」として、お隣の字名も調べて見ました。徳島県三好市山城町、明治期までは山城谷村と呼んでいました。ご先祖の墓地のある佐野村の南側、土佐との国境の間にあります。有名な平家の落人村で、祖谷のかずら橋のある祖谷村の西側になります。
いつもありがとうございます。大和奈良の井志田和叶です。奈良市歌姫町の添御縣坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)をあとにしまして、つぎは京都府木津川市にあります…岡田国神社(おかだくにじんじゃ)に参拝させていただきました。延喜式内社(大社)の由緒ある神社で、山城国(京都府)の南端に位置し、大和国(奈良県)との国境に近い神社です。京都の神社仏閣への想いが募ったとき(つまり「京都行きたい病」を発症したとき…)に、こころのなぐさめにお参りさせていただ
いつもありがとうございます。大和奈良の井志田和叶です。ここしばらく、子供たちが「マイコプラズマ肺炎」に罹っておりました。上の子と下の子が、順番に発症しましたので、どちらかは元気で、どちらかはダウンという状況で、子守りと看病を両方こなすのにひと苦労でした。が、ようやく癒えてきましたので、おかげさまで、ブログを書く時間が確保できるようになりました。この日は、祝日の勤労感謝の日であり、土曜日でしたので、いつもは早朝参拝をさせていただくのですが、子供たちの体調に
こんばんは。京都癒しの旅案内人下戸眞由美(おりとまゆみ)です。今日の京都は冷え込みました。明日は宮絵師・安川如風先生が複製製作してされた孝明天皇行幸図大絵馬を先生の説明で拝見できる機会をいただき、総勢45名で上賀茂神社に参拝させていただきます。特別参拝もさせていただくので、ご挨拶に伺いました。明日は結婚式も多く、七五三の方もたくさん参拝される良い日になりそうですとおっしゃっていました。大嘗祭も終わり、新嘗祭に向けて、とても良い気が漂うこの時期に皆様と山城国一ノ宮である上賀茂神社に
11月8日の歴史桓武天皇が山背国を山城国と改め新京を平安京と称する詔を発布した日です
少しずつ更新していますこちらはブログを京都の地方別に分けたリンクページですどこの御朱印をお受けしたか分かりやすいようにまとめていきます《中部地域》【亀岡市】・出雲大神宮(丹波国一宮)・愛宕神社・稗田野神社・鍬山神社・大井神社・篠村八幡宮・小幡神社・岩城神社・拝田八幡神社・小林天満宮・走田神社・出雲大社京都分院・穴太寺・神蔵寺・金剛寺・谷性寺・龍潭寺・養仙寺【南丹市】・生身天満宮・南陽寺〔船井郡〕【京丹波町】・玉雲寺《乙訓地域》【長岡京市
産土神社リサーチの真友花です。毎年開催しております、年末の神社参拝。今年は、再受講の方を対象に、いつもより少し踏み込んだお話をさせていただきながら、上賀茂神社を巡りたいと思います(^-^)いつもの参拝は基本のお話しだけで、時間いっぱいいっぱいなので、たまにはね♪通常の、初参加の方も対象の参拝セミナーは、東京12/17(赤坂で午前中から参拝ツアー)京都1月下旬(神社未定)を予定しています。詳細はまた改めて。山城国一宮は、年末参拝セミナー
賀茂氏の出自当資料(前回)のこのくだりは、山城賀茂族に限らず、全国に点在する賀茂氏の痕跡理由を、明確に解き明かしてくれている。そしてここでは、今一つ重要な証明も為されているのだ。それは、その時代に鉄工技術を持った人々は、渡来人以外にはあり得ない・・ということである。記紀にて示されるように、神武と共に東征した彼らは、もともと筑紫の日向の地にいた。これらの示唆するところは、天皇家と賀茂氏の祖の、同時期の渡来である。既述したように、史記に記された「徐福伝説」「振男女三千人を遣わし、之
八坂神社山城国愛宕郡京都市東山区祇園町北側625(近隣コインPにて、ただし料金は高額)■社格等[旧社格]官弊大社[現在]別表神社二十二社下七社の第五位■祭神[中御座]素戔嗚尊[東御座]櫛稲田姫命(配祀)神大市比売命佐美良比売命[西御座]八柱御子神(配祀)稲田宮主須賀八耳神京都市四条通の東端に鎮座。全国八坂神社の総本社。同じ四条通の西端には松尾大社が鎮座、それぞれ向かいあっています。◎神名帳には列格しておらず、当時は寺院とみなされていたのかもしれませ
石清水八幡宮(境内社等)山城国綴喜郡京都府八幡市八幡高坊30(駐車場は覚えていません、当日はケーブルに乗車しました)当社概要は本編の紹介記事にて。ここでは境内社等の紹介のみを行います。既に消失した写真も多く、現存するものだけとなります。特筆すべきものはありませんが、石清水社(写真消失)と三女神社(写真消失)、麓の高良社と頓宮辺りが気になるところ。石清水社は岩間から涌き出る霊泉を天御中主命としてを祀る社とされ、これが八幡神が勧請されてくる前の原初の姿かと思います。現地を確認したところ
賀茂氏族の伝承(2)梅辻氏は「賀茂の神は日向の国の曾の峰(高千穂の峰)に降臨した、賀茂建角身命という神・・・」と記されているが、曾の峰が宮崎の高千穂の峰であるとは、原文にある訳ではなく、梅辻氏がそう解釈されただけである。原文を見てみよう。「可茂と稱(い)ふは、日向(ひむか)の曾の峯(たけ)に天降(あも)りましし神、賀茂建角身命・・・」どこにも、日向(ひゅうが=宮崎県)の国とか、高千穂の峰とかは記載されていない。ここは、既に述べてきたように、筑紫(ちくし=福岡県)の日向(ひなた
「賀茂県主族の伝説」神社に絡め、既に「秦氏」と「賀茂氏」について述べたのだが、これはほんの序章でしかなかった。ここからは、その何たるかをもう少し深く掘り下げて見たいと思う。まず「賀茂氏」の渡来時期について考察する。但し、「賀茂氏」この氏族は果たして渡来人なのかという問題がある。何故なら「記紀」のどこにも、賀茂氏族の渡来を示唆する記事は見当たらないからである。秦氏族とはここが大きく異なる点だ。先に、我が国の王(倭王・天皇家)の祖は、徐福ではないか、記紀神話はその象徴では・・
今日、思い立って上賀茂神社。久しぶりの上賀茂神社は七五三の支度で色とりどりの旗であざやか前から気になっていた特別拝観(500円)にその場で申し込んだら平日で夕方近くということもあってか私一人贅沢な気持で待っていると神職さんが歴史を語って下さり、禊も。そこでふと古事記に登場される神様との関係をお聞きすると(知らないということは、なんと大胆にさせることか)、「古事記ではなく、山城国風土記に~」とそうなんや!別の物語なのね。なんにも分かってなかった…恥ずかしい「ただ、天上の記載