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(速報)鉄道開業150年記念乗り放題切符で、10/18〜20にかけて、山陰、山陽地方の「城巡り」に行出掛けてます。10/19の2城目は、「月山富田城」(島根県安来市)です。「米子城入口」から直通バスで「月山富田城」の最寄りバス停で降り、登城ルートに沿って進みました。最近のTV放映の影響からか、団体での登城客や個人のお客様も多く見られました。「千畳敷」の石垣は草で覆われて迫力はありませんでしたが、「花ノ壇」では復元建物越しに見える198mの「月山」が見えて、今からそれに上がる「七
因幡街道宿場町平福を散策しているとこの山城跡がかすかに山頂に見ることが出来ます。利神城(りかんじょう)、または雲突城(くもつきじょう)と呼ばれています。案内版を見てみると有名な武将が数多く出てくるのでとても興味深いお城です。山中鹿之助も関係していました。天守閣が残っていたらさぞかし見事だったろうなと思わせる山城跡でした。残念ながら個人での登頂は禁止されていていました。団体での登頂は予約すればガイド付きで可能とのことでした。
山中鹿之助首塚鞆の浦の町中、静観寺の門前に山中鹿之助の首塚があります。鹿之助は毛利氏に滅ぼされた尼子氏の家臣(優れた武将)です。主家の再興を計るも岡山県の高梁川「阿井の渡」で討たれた。毛利輝元や足利義昭に首実検をされた…(説明板要旨)。それにしても何故ここに首が運ばれる必要があったのでしょう?…(後述します^^)ささやき橋首塚を右に曲がってすぐの所に「ささやき橋」あります。短い!見落としてしまいそうな橋です^^。再び説明板を読みます^^。「昔々、百済よりの使節の接待役・
山中鹿之助さん。戦国時代の人。この人の解説はまあ、いいや。有名だし。山中鹿之助さんが・・・・鴻池家の祖だったとは。鴻池家は大阪でブイブイ言わせた豪商なんだよな。渋沢栄一みたいな派手さはないけど。どんちゃん「山中鹿之助と鴻池家の大河ドラマは面白いかもな。時代を行き来しながら。展開する・・「いだてん」みたいな作品がいいや。」
この日記は、縦15㎝×横21.5㎝、50ページほどのものだ。しかし、1ページいっぱいに丁寧に書かれており、ほとんど訂正もない。旧字体で書かれた漢語、熟語は漢和辞典(なんと読むかわからないため、漢和辞典を引いた)で、意味を確認したり、流ちょうな字体を、くずし字辞典で調べたりもした。森鴎外の小説を読んでいるかのような、端正な文章だ。たくさんの本をじっくり読んでいたようで、ここでも、山中鹿之助、貝原益軒、黒住宗忠の名を挙げている。黒住宗忠は黒住教の開祖で、肺結
おはようございます、たけちです。9月シルバーウィーク、1日目の9月17日(土)、皆さん、いかがお過ごしになりますか?たけちは今から旅に出ます。行き先は、武田信玄と上杉謙信の激戦地川中島には行かない長野松本、新潟上越です。台風が気になるところですが、安全運転で行ってきますねさて、今日は100名城にして5大山城の一つ月山富田城を紹介します。『山陰大紀行(その4)月山富田城』おはようございます、たけちです。令和4年9月11日日曜日、みなさん、いかがお過ごしになりますか?来週
正観さんによると…。(旅じょうず入門…昭和57年)●旅先で出会う人旅先で出会う人は、土地の人か旅行者か、どちらかだ。土地の人とは、旅行者の場合、宿かお店、あるいは交通機関くらいでしか知り合えない。それを少し勇気を出して、浜にいる漁師、あるいは畑で働くおばさんなどにも声をかけてみたいもの。きっかけは道を聞くことである。失礼な態度でなければ、まずみんな優しい笑顔で答えてくれるだろう。スイカ畑で働く人にたまたま道を尋ねたらスイカを三つも食べさせられて往生した、と嬉しそうに語る友人が
「山中鹿之助」と三日月大雨の地方の皆さま特に東北地方の皆さまくれぐれもご注意くださいませ今日の國史を学びましょう!「山中鹿之助」没天正6年(1578)山陰地方の戦国大名「尼子」家に忠誠を誓いました「尼子経久」(4代)は島根、鳥取、備中を支配し「十一ケ国太守」となります経久の長男「政久」の子である「尼子晴久」(5代)の時には山陰山陽「8国」の守護となり中国地方最大の大名となりますしかし晴久の急死(1590)を知った「毛利元就
今回のブログは神社巡り岡山城再訪問です⇩今年の2月はこんな感じ⇩『神社巡り~岡山城』今回のブログは神社巡り番外編市中心部に位置してるので、行こうと思えばいつでも行ける場所敷地内は何度も歩いた事あるんだよっお隣の後楽園と合わせて、絶好のお散歩…ameblo.jp今は令和の大改修中前回は岡山城全体にカバーがかかってましたが、今はほとんど取れてましたあいかわらず綺麗なお城です⇧角の所に鳥さんがいるんだよ⇩11月リニューアルオープンに向けて着々と工事
今回のブログは神社巡り先日サッカー送迎で神原スポーツ公園(高梁市)へ行って、山中鹿之助のお墓にお参りした後寄り道しました『神社巡り〜山中鹿助のお墓』今回のブログは神社巡り先日サッカー送迎で神原スポーツ公園(高梁市)へ行ったとき、道すがら看板を見つけたのでお参りに寄ってきました👇この看板ね『山中鹿助…ameblo.jp『JYサッカー備忘録~U15公式戦6戦目』昨日の息子くんのサッカーは県北(高梁市)で公式戦会場はココ👇めっちゃきれいな天然芝グラウンドでした3年生になり、
今回のブログは神社巡り先日サッカー送迎で神原スポーツ公園(高梁市)へ行ったとき、道すがら看板を見つけたのでお参りに寄ってきました👇この看板ね『山中鹿助の墓』所在地:岡山県高梁市落合町阿部あれ山中鹿之助じゃないのかな『之』いらないのかななんとなく違和感が、、、☝この地で34歳で討ち死に、、、最後の景色は、この山と川を見たのかな、、、ここは供養塔って扱いだそうです。お墓は別の場所(福山市、高梁市内)にあります。なぜ2カ所あるのかって
系図史料山中鹿介は尼子氏の重臣ですが、そもそもどのような家柄の武将なのでしょうか?実は、鹿介の出自どころか父が誰であったかすら、一次史料もないため、明確には分かっていません。一次史料とは、たとえば大名が部下の武将に下した命令書であったり、ほかの大名へ宛てた手紙であったりといった、その時代のナマの文書のことです。対して、覚書などは後年に書かれたものなので、記憶違いや根も葉もない噂や伝聞を事実として書いていたり、制作目的によっては意図して事実と違う事を書いていたりするため、そのまま信じる
どーも、子連れおーかみです。お久しぶりです。前回更新してから、あっという間に1週間が過ぎてしまいました。その間、アウェイの土地で、アウェイの仕事を、アウェイの人間関係の中で行い疲労がかなり蓄積しています(>_<)。その上、同じく慣れない土地でストレスの溜まっている嫁と対決し、更に小さい子供の相手・・・・。仕方ない事とは言え、かなりハードです。私は山中鹿之助じゃないから「憂き事の、なのこの上につもれかし、限りある身の力試さん」とは行きません。ふつうにツラい・・・。
日常の中で感じる些細な幸せ?そんなものはありませんし幸せなどというものはぼくの敵です忌み嫌っておりますぼくの日常は寂しさよりは冷たくて悲しみよりは温かいそんな微妙なところの彷徨い人ガスライト煙る行きつけのクラブ派手に装えば夜が騒ぐギター抱くように腕を回したらブルーなフレーズ注ぎ込むよあなたも同じラ・ボエム?ヒカルさんは自らの赤い傷の在り方を罪な指先の爪でなぞるのです愛は捨てたのですかつてわたしが仕えた出雲の国の尼子氏が滅んだときわたしはその尼子氏の再興を
医王山城から下山し、城跡からも望めた城下の田園地帯にたたずむ素晴らしき場所を尋ねました。岡山県津山市堀坂美作滝尾駅昭和3年(1928)に西日本旅客鉄道(JR西日本)が、因美線の津山ー美作加茂駅間が開業した際に建てられた美作滝尾駅。昭和45年(1970)貨物および荷物扱い廃止され駅員無配置駅(無人駅)となり、古い木造平屋作りの駅舎は平成20年(2008)11月に登録有形文化財に登録されています。一時、駅舎の取り壊しの話もあったが、市が駅舎の払い下げを受け、現在では地元の人
なんとも言えないですピーンとはりつめた感じの場所でした鳥居⛩の後ろから撮影しました年配の方がおひとり熱心に写真を撮っておられましたすると?一羽のカラスさんがスイスイ〜っと羽を🪶広げてよこぎっていきました鳥さんたちのさえずりがここちよいですこの場所は鳥さんたちの楽園なのかしらお花さん達もそれぞれの場所で咲いてます山中鹿之介さま最高峰の戦国武将
連戦連敗??前回の記事を知人が読んで、こう言いました。「山中鹿介は失敗してばっかりだな。山中鹿介って弱かったの?」…うーん、確かに、出雲侵攻で失敗、因幡の戦いで失敗、播磨上月城で失敗…って、失敗しか書いてないから…結果が全て、といわれれば最終的には負け続きだから、そういわれても仕方がないかもしれないけれど、そんな負けてばっかりの弱い人だったら、流石に歴史に名前は残りません。(いや、案外負けても負けても生き残る、名物男として有名になるのかもしれないけど…)そこで
山中鹿介それでは今回から、いよいよこのブログのメインテーマ、「山中鹿介」について書いていきましょう。とはいえ、山中鹿介のことを啓蒙しようとこのブログを立ち上げたくらいなので、鹿介のことは、歴史好きな人や、戦国時代を扱ったゲーム(「信長の野望」とかね)をプレイしたことのある人でなければ、地元山陰の人やちょっと年配の人を除いては、あまり知らないことでしょう。まず名前ですが、「鹿介」は「しかのすけ」と読みます。小説などでは「鹿之介」「鹿ノ助」など、いろんな表記をされていますが、
まっつんでございますさてさて、今回は記念すべき第1回目の記事です。ということで、まずはこのブログを書いてる私「まっつん」は何者で、このブログがどういったものか、という説明をご挨拶も兼ねて書いてみようと思います。ということで、改めましてこんにちは(おはようございます、こんばんは)。まっつんと申します。私まっつんは、生まれも育ちも島根県、一時期お隣鳥取県で働いていた時期もあるけれど、山陰から住まいを移したことはない、という根からの田舎者です。現在はある地元企業でサ
ロシア・ウクライナ戦争の話ですが,日本史から始まります「山中鹿之助(幸盛)」山陰の大名尼子氏の家臣。毛利氏に敗れ,領地を失ったのちも,尼子の一族を奉じて「お家再興」に尽力。織田信長に接近。しかし,最後は毛利氏に囲まれ籠城するも捕虜となり殺害される。織田勢は助けに来たものの,勝機なしとみて撤退。見殺しにする。「上杉謙信」宿敵は甲斐の武田信玄。山国とあって生活必需品の塩が取れない。太平洋側の今川氏,北条氏が結託して塩の販売を停止。そのとき,謙信は武田に塩を提供。世にいう「敵に塩を送る
前回からの続き(12月4日のこと)です百丸大明神を後にして、一旦駐車場で荷物を下ろし、その近くにあったお寺へ向かいます本満寺住所・京都市上京区寺町通り今出川上ル二丁目鶴山町十六番地正式名称本願満足寺御本尊十界曼陀羅HP本満寺広布山本満寺広宣流布山本願満足寺temple.nichiren.or.jp札所日蓮宗京都八本山日蓮宗京都十六本山洛中法華二十一ヶ寺洛陽十二支妙見めぐり(丑)本山のはめ
困難なこととかに直面したら、この言葉を知ってから、この言葉が、が思い浮かんでくる。山中鹿之助「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」自分の子供が、知的障害で自分の代も子の代も一生背負っていかなければならい事。誰が見ても、「苦」であるけど、今5人家族で、誰かが死んでしまったりしたらこれ以上ない「苦」でありそれに比べたら屁でもないと思う。昔、訪問リハに行っててその歩行訓練してた部屋の壁に「今日無事」って書いてあった。今日が、1日無事である事が何より。色々な、「苦」を体験
前回からの続きです。安来郵便局を後にしまして、県道45号線を使って南下していきます。飯梨川の川沿いを進み、やがて見えてくる安来市立病院の近くに郵便局はあります。図柄は、月山富田城跡、富田橋、山中鹿之助(幸盛)像です。この後は、風景印にも記されている月山富田城跡が近くにあり、その城跡の前に道の駅「広瀬・富田城」があるので向かいました。月山富田城は戦国時代、出雲地方を支配していた尼子氏の居城です。山中鹿之助は尼子氏の忠臣として有名ですね(’’では道の駅の写真から。一見して道の
山中鹿之助さん。戦国時代の人。この人の解説はまあ、いいや。有名だし。鴻池家の祖だったとは。鴻池家は大阪でブイブイ言わせた豪商なんだよな。渋沢栄一みたいな派手さはないけど。山中鹿之助と鴻池家の大河ドラマは面白いかもな。時代を行き来しながら。「転生モノ」も良いかも。どんちゃん「ボクは戦国時代が好きだな♪」
河原城で鳥取城飢え殺しを学んだる後、向かいましたのはっ…鳥取城っ…!(あの山の上の側にある鳥取県立博物館っ…!!!鹿之助愛好家のわたくし。鳥取県立博物館にて鹿之助展示がされると聞いてやってまいりました!開催が11月7日までですから、土曜日休めるのはシフト的には今日しかございません!駐車場はかなり満車ぎみっ…?やはり山中幸盛ファンが大挙しているのでしょう。世の中では、王アンド王子というグループが人気と聞いていますが、尼子義久アンド勝久の事なのかな?皆さん見る目がありますね。そして遡る
前回からの続きです。末広郵便局を後にして、国道179号線を更に東へ進みます。JR姫新線の三日月駅の駅前交差点を左折して住宅街へ入っていくと、三日月郵便局があります。図柄は、三方里山、北条時頼座像です。北条時頼は鎌倉時代の5代目の執権で、晩年に出家して諸国を行脚したそうで、この佐用町にも訪れ、三か月滞在したことから、三日月の地名がついたとか。調べてみないと分からないものですねえ。さて、次にご紹介するのは、上月郵便局。今まで来た道を戻り、国道373号線に戻ります。そして、西へと進みます。
こんにちは。本日3本目の記事になります。旅は前回の『道の駅広瀬富田城』から島根県に入り、最初の城攻めは月山富田(がっさんとだ)城跡を攻めに行軍しました。道の駅広瀬富田城からの登城口から徒歩で登城開始です。車で途中まで上がる事は出来ますが、やはり、見どころを逃したく無かったし、行きたかった城跡だったので…。登城開始!道の駅のすぐ裏山が城跡になっていました…。かなり広いらしいので、時間は気にしなくて良いので、とにかく慌てずゆっくり登城しようと最初からそう思っていました。慌てずゆっくり
こんにちは。今日も張り切って頑張りましょう!さて、備中松山城展望台から向かった先は、総社市にある鬼ノ城跡と言う奇妙な名前の城跡ですが、途中の川の堤防のそばに、山中鹿介の墓って看板を見つけてしまいまして、ちょっと寄り道しました。場所は、高梁市の国道313号線落合町のローソン近くにありました。高梁市落合町の国道313号線。後日、訪れた月山富田城跡周辺では、メチャクチャなヒーローでした。その彼の地元では、大河ドラマにしよう!企画プロジェクトがあるみたいで、オイラも署名して来ました。彼の生
昨日までのテーマの続きです。昨日ミラーさんで一旦締めくくりましたがブログ友のリモーネさんから今日の言葉を教えて頂きましたので、急遽ご紹介させて頂きます。(リモーネさんありがとうございました!)この言葉は、山中鹿之助さんだったのですね。そういえば、敢えて火中の栗を拾うなんて言葉もこの数日お送りしてきた心情に近いかもしれないですね。人間心理の面白さです。※一粒で二度美味しい笑企画昨年の今日の日めくりから芥川賞作家の町屋良平さんでした。『謹製日めくり町屋良平さん9/
今日から9月がスタート!今年の前半戦はなかなかハードでした。ちょっと前に「天よ、我に100難与えよ!」と三国志の曹操ばりに思っていましたが、今は100難は多すぎるので戦国武将山中鹿之介の「我に七難八苦を与えたまへ!」というかそれでも多いから、2〜3難くらいで勘弁してくださいと思っています笑まあ、冗談はさておき、昨晩、たまたまつけたTVに幼馴染みが出てて、「自分は誰かにしかわからない音楽を届けたいわけではないんです。」って言っていたのを聞いて、ターゲットを絞る中小企業のビジネ