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もう既に秀吉は石川数正を引き抜こうとしてたのかもな、でもまだ時期尚早だな、これで家康はこの後狸寝入りする事になるのかな、前に北大路欣也が家康をやった時に今はまだその時にあらずと言って、秀吉が衰えるまで家康はじっと待っていたからな😊
小牧・長久手の戦いにゆかりのある愛知、岐阜両県の10市町でつくる「小牧・長久手の戦い同盟」は、日本郵便東海支社と協力して、史跡などの写真をあしらったオリジナルフレーム切手を8月22日から発売すると発表しました徳川家康が陣を敷いた小牧山城など愛知県名古屋市東区,中区,中村区,中川区,千種区,天白区,名東区,緑区,熱田区,昭和区,瑞穂区,守山区,西区,北区,南区,港区の探偵・浮気調査・離婚相談はガル愛知!西三河・東三河西三河(豊田市,岡崎市,安城市,刈谷市,知立市,みよし市,碧
愛知県丹羽郡大口(おおぐち)町にある小口城(おぐちじょう)跡です。大口町にあるのに小口城とはこれいかにですが・・・長禄3年(1459年)尾張国守護代岩倉城主の織田敏広の弟・織田広近によって築城されました。文明元年(1469年)には広近は新たに木之下城を築いて居城を移し、その後は岩倉城や犬山城の支城となりました。永禄年間(1558年~1570年)には犬山城主織田信清の家老中島豊後守が城主でしたが、織田信長に攻め落とされ廃城となりました。その後、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い
皆様おはようございます2023年8月13日(日)のNHK大河ドラマのどうする家康は、第31回『史上最大の決戦』です。先週はムロツヨシさんが演じる羽柴秀吉に吉原光夫さんが演じた柴田勝家が敗れて、北川景子さんが演じたお市の方が自刃しました。今回は松本潤さんが演じる徳川家康は、お市の死に怒り、ムロツヨシさんが演じる羽柴秀吉に戦いを挑み、小牧・長久手の戦いが起きます。実際に徳川家康とお市の方との間に交流があったかはわかりませんが、話をおもしろくするための仕掛けです。徳川家康の懐刀である松山ケン
浜松秋葉神社は、「井伊の赤備え」発祥の地。「赤備え」とは、武田信玄が率いた精鋭部隊。井伊直政は、徳川家康にその精鋭部隊を任されました。小牧・長久手の戦いでは、直政が先鋒を命じられ、「井伊の赤備え」70名が秋葉神社に血判状を奉納。武功をあげた「井伊の赤備え」は、その名を天下に轟かせました。浜松秋葉神社
2023年7月7日から『北から南へ「天守」シリーズ』をスタートさせ、初回の「プロローグ」では「天守」についてのエピソード等をお話をしました。『<北から南へ「天守」シリーズ>プロローグ』本日から、『北から南へ「天守」シリーズ』をお届けしようと思います。まずは「プロローグ」から。「天守」については、3年ほど前に、現存、復元、復興、模擬をグルー…ameblo.jpそして2回目以降は、具体的に「天守(御三階櫓含む)」があるお城を、北から順次、現存・復元・復興・模擬の「天守(御三階櫓含む)
1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いで徳川家康が陣を敷いたのは、織田信長が美濃攻略のために城を築いた小牧山。たった4年で廃城となった小牧山城だが、近年の研究では、簡易な城ではなく、四方を石垣で囲んだ本格的な城であったと考えられている。
8月2日に「長久手の戦い」の陣触れが発せられました。部隊長とスケジュールなどが続々決定していっているようですので、さっそく発表したいと思います。お見逃しなきようお願いします。それではどうぞ(*゚0゚)/////以上の通りとなっております!!「小牧・長久手の戦い」は、羽柴秀吉と織田信雄の対立に徳川家康が加勢する形で起こったものですが、局地戦である「長久手の戦い」では、羽柴軍を秀吉の甥の秀次が率いており、秀吉自身は日中は戦場にはいません。一方の徳川・織田軍も、一部の
続々とリニューアルされてる!大河ドラマ館内展示更新!ドラマで再登場したあの人!これからでてくるあの出来事!関連した展示に更新しました😊お越しの際はぜひご覧ください!#どうする家康#岡崎#大河ドラマ館#茶屋四郎次郎#小牧・長久手の戦いhttps://t.co/tvDSHwLQzD—【公式】岡崎でどうする家康大河ドラマ館を作りたい人達(@dousuru_okazaki)2023年8月1日今度は岡崎大河ドラマ館小牧合戦之図と茶谷四郎次郎の木造が更新長篠合戦絵図は1ヶ月だけだ
犬山から楽田城へと進出した秀吉と、小牧山城を本営とする家康。両者は指呼の間に無数の砦を築き、互いに一歩も譲らぬ状況が続いていた。この緊張を打ち破ったのが、羽柴軍による三河中入りである。秀吉は自らの甥・秀次を総大将に池田恒興、森長可ら歴戦の将を擁する大部隊を編成し、家康の本拠である三河を急襲する策を採った。しかし、この動きを察知した家康も織田信雄とともに密かに小牧山から出撃し、自ら三河中入りの阻止へと動いた。長久手の南北に展開する羽柴軍とこれを追う徳川軍。戦役全体の帰趨を左右する合戦の
小牧市広報8月号小牧市広報8月号小牧長久手の戦い直前#どうする家康特集制作統括磯さん「家康にまつわる地を訪ねた中で、最も印象が変わった場所が小牧山だった」と電子版を下記リンクからご覧頂けます。https://t.co/TSxRmpQBvPpic.twitter.com/KJwxFnBRUg—宝飾工房K'sCRAFT(@KsCRAFT1)2023年7月28日小牧長久手の戦い直前#どうする家康特集で磯Pのインタビューが掲載されてます。「家康にまつわる地を訪ねた中で、
1584年、小牧・長久手の戦い、ゆかりの地の愛知県犬山市をPRする為に、愛知県犬山市と市観光協会は8月1日から、金色でデザインした「御城印セット」を2000部限定で、販売します1000円です戦いの舞台になった犬山城、羽黒城址(じょうし)、楽田城址の3種類の御城印がセットになっていて、台紙でもある合戦帳に入れられているそうです同じ組み合わせの御城印は、今年3月にも販売していました。その際は、用意していた合戦帳2000千部が1カ月たたずに売り切れたそうで、好評でした現在放送中
"次男の織田信雄は、長男の信忠と同じく生駒家の娘・吉乃から産まれた。11歳の時、父・信長の伊勢国司北畠侵攻の際に和睦の条件として、北畠家の養子となった。更に北畠家の姫を娶り、元服した当初は北畠具豊、後に家督を貰い受けてから信意と改めた。"一方の信孝は、北伊勢の豪族の娘に産ませた子で信雄よりやや先に産まれたと言われている。しかし、母親の家格によって三男にされたとも。ここから二人の間には確執が始まっていたと噂された。"信意が北畠の家督を継いだ翌年に事件が起こる。信意が信長と企て、義父の
"本能寺に宿泊していた織田信長が、明智光秀の謀反により死去した。同じく京にいた、嫡男の信忠も免れられず命を落とした。これにより歴史が大きく動き出す。"最初に動いたのは豊臣秀吉。毛利攻めを打ち切り、急いで京に戻り軍をまとめると謀反人明智光秀を討ち取る。この功績により、織田陣営で秀吉の発言力が格段に増していく。"そして信長の後継者選びの為、宿将重臣が尾張清洲城に集められた。ここて羽柴秀吉の本領が発揮される。
家康の選択小牧・長久手Amazon(アマゾン)935〜4,950円戦の心掛けを2つ、「その一、笑え。その二、わしを見習うな」と家康が井伊直政への言葉。家康には雪斎以降、師と呼ぶべき人がおらず、なにもかも「どうする家康」状態だったのでしょう。若い直政に戦場で教えます。「笑え。肩の力が抜ける。余裕を見せろ。形だけでいい。見栄を張れ。中身はあとからついてくる」「わしを見習うな。43のわしと24のそこもととでは、合戦での戦い方が違う。いい年をして先頭に立って馬を駆れば軽率のものとそし
うっちーこと宇都宮芳綱です夏くじが実装されたり、くじが半額になったりで、そっちを記事にしていたら、探訪記の更新が遅くなってしまいましたまああまり需要はないと思いますが、少しずつ更新していきますね当初は犬山城と名古屋城に行くつもりでしたが、このパンフレットを見たら折角なので他にも行きたいと思いましたそこで女房と相談しこの日は小牧山城に清洲城を、翌日に名古屋城と岡崎城に行くことにし、
龍源山・太清寺・・・春日井市勝川町2-14-3かつては醍醐山龍源寺と呼ばれた太清寺(たいせいじ)は、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、徳川家康が小牧山から長久手に向かう途中で休憩した所です。(6月上旬訪問)家康は庄屋の勘助からここの地名を「勝川」と聞き、縁起が良いと喜び、勘助の妻が振る舞った牡丹餅を食べたところ、箸が一本折れて気弱になるが、甚助が「これはまさしく天下が一本に成る予兆でございます」と申し上げたところ大いに喜び、付近の竹やぶで旗竿を切り、ここで全軍
お盆真っ只中8/13(日)に小牧市で行われる、#大河ドラマ「どうする家康」プレミアムトークショーに#ムロツヨシが出演します。#どうする家康のパネル展示もあります。観覧ご希望の方は申込が必要になります。下記をご覧下さい。皆さんのお越しをお待ちしております。https://t.co/GW1WXlDGnh—ash&A(@ash_and_A)2023年6月26日8/13(日)小牧市で「どうする家康」プレミアムトークショー✨ゲストはムロツヨシさん浜野謙太さんどうする家康のパネル展
宮後城(みやうしろじょう)宮後城は、尾張国丹羽郡宮後村、現在の愛知県江南市にあった日本の城。「蜂須賀屋敷」、「小六屋敷」などとも呼ばれる。築城年は不明であるが、応永年間(1394年-1428年)に安井氏が居城していたとされる。戦国時代には、安井重幸の息子・安井重継が居城していた。重継の姉・安井御前は、夫・蜂須賀正利とともに居城していた蜂須賀城が織田信秀との対立により土地を奪われてしまったため、長男の蜂須賀正勝とともに宮後城へ移り住んだ。正勝の長男・蜂須賀家政(後の阿波徳島藩祖)は、この
御器所八幡宮(ゴキソハチマングウ・愛知県)の境内に佐久間社がありいやでも目立つ風の看板に徳川家康公と佐久間美作守の名前がインパクト大。お二人はどのようなご関係なのか時代が違うし仲良しでもなさそうで「やだ。いっしょに並べないでよ」と佐久間美作守「オイラだって。やだ」と徳川家康公草葉の陰でモメてるかと余計なおせっかいの老婆心を平和っていいなああ、ときれいにまとめました(無理)伝承では、小牧長久手の戦い(1584年)の前に徳川家康公が島田城
【問題】小牧・長久手の戦いの中で、徳川方の丹羽氏重が戦死したのは、次のうちどの戦いでのことか?【選択肢】楽田城岩崎城広見城竜泉寺城【正解】岩崎城【解説】小牧・長久手の戦いにおいて、池田恒興らの羽柴勢は三河への奇襲作戦の途次に、徳川方の岩崎城兵と戦闘になった。城代・丹羽氏重は奮戦したが、氏重以下ほとんどが戦死した。
めっちゃめちゃ久しぶりに書いてまする😊💜💕💜💕💜💕💜💕💜💕💜💕今日は雨も上がったことだしずっと前から行きたかった小牧山へ🚗💨💨(運転手付き🤣)自宅からほんの😆27㎞とは言え、あまり行かない方面しっかりナビセットして☝️一般有料駐車場に停めて北側から敷地内入り口には土塁の断面を見ることが出来るようになっていたほぇ~最初から同じ土を一度に盛り上げたわけじゃないんやね~🤔勉強になりますっ‼️土塁断面を抜けて右折して山のふもとを🚶♀️木の根っこで転びそうで気をつけ
愛知県長久手市の古戦場公園と、長久手中央2号公園で4月9日、「長久手古戦場桜まつり」が開催されました徳川家康と、羽柴(豊臣)秀吉が激突した「小牧・長久手の戦い」(1584年)で激戦となった仏ケ根の決戦が4月9日にあった事より、例年この時期に開いています新型コロナウイルスの影響で2020〜2022年が中止となった為に、今年は4年ぶりの開催となりました総勢25人による火縄銃の発砲披露では「撃てー!」というかけ声に合わせて、順番に火縄銃が発砲されました長久手市内の団体によるダンスや
毎週水曜日は、趣味のお城🏯巡りです。今日のお城🏯は、小牧山城です。1563年に、織田信長が築いたとされます。その後信長は、稲葉山城を陥落させると、これを岐阜城と改名して入城。小牧山城は、いったん廃城となります。その後1584年の小牧・長久手の戦いで、徳川家康が小牧山に本陣を敷き城を改修して、豊臣秀吉と互角以上にわたりあったとされてます。模擬天守の4階展望室からは、濃尾平野を一望することができますが、今日は、曇空で絶景とはいきませんでした。😞空手にご興味のある方や護身、体
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正12年(1584年)1月、大阪城…現在の大阪城「まだ決まらぬのか⁉︎」羽柴秀吉(はしばひでよし)の激怒する声が響いていた。秀吉をなだめていたのは弟の秀長(ひでなが)と黒田官兵衛(くろだかんべえ)だった。羽柴秀長秀長さんは秀吉さんの異父弟なんだよ秀吉「人質を交換したのに、毛利(もうり)はまだごちゃごちゃと言っておるのか⁉︎」官兵衛「毛利は割譲される備中、美作、伯耆の配
3月25日、文化の家「森のホール」で長久手市郷土史研究会主催の「書簡に見る小牧・長久手の戦い発刊記念講演会」が開かれました。ガバメントクラウドファンディング(市内で活動する団体が行う事業に対して市が補助金を交付することを目的として寄付を集める制度)を活用して、開催費用が賄われています。舞台上には、小牧・長久手の戦い同盟都市の市長、町長が出席していました。第1部は中京大学文学部の播磨良紀教授の講演でした。天正10年「本能寺の変」で織田信長、信忠(信長の長男)が死去→山崎の戦い→清須会議→賤ヶ岳の
弊社のお客様、フォロワーの皆様、いいね!を押してくださる方々、いつも有り難うございますソフトブレインのシニアAです今日は、小牧・長久手の戦いの後半戦です家康の背後の三河を焼き討ちにするため、羽柴秀次が率いる別働隊が夜半に紛れて出発したところですそれでは家康の対応をお楽しみ下さい(^o^)/【小牧・長久手の戦い(後半戦)】天正12年(1584年)4月7日、家康は小牧山城にて、秀吉の養子である羽柴秀次(はしばひでつぐ)が尾張国の上条城(じょうじょうじょう)の周辺に宿営したとの情
1584年の「小牧・長久手の戦い」で、愛知県犬山市内で起きた戦いの舞台をPRする期間限定の「3種の御城印」が3月13日、発売されました先着2000人の購入者には、御城印を納める「犬山合戦帳」がプレゼントされます販売場所の1つ、犬山城前観光案内所には発売前から40人程の行列ができていました。「小牧・長久手の戦い」は、3月13日に尾張地域での攻防が始まったとされています。放送中の大河ドラマ「どうする家康」でこの戦いに注目が集まる事を期待して、市と観光協会が御城印を作られたそうです
【問題】小牧・長久手の戦いの際、竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)は、次のうちどのような方法で開城させられたか?【選択肢】秀吉が得意とする水攻めを仕掛けられた城下で多くのキリシタンが磔にされた亀甲車でほとんどの城門が破壊された金堀り攻めで城内に多数の敵が侵入した【正解】秀吉が得意とする水攻めを仕掛けられた【解説】小牧・長久手の戦いの際、織田信雄方だった竹ヶ鼻城は羽柴方の攻撃を受けた。その際、低地に城があったため秀吉により水攻めを受け、孤立無援となった城は開城した。