ブログ記事147件
今朝は19℃日中28℃曇り空の朝昨日は孫預かりプチお砂場で遊ぶばぁばは助手らしい…おっしゃる通りにいたしますぅ…今日午後からやっと晴天気持ち良いスッキリした空ビニールハウスのドア2つ開けても暑い畑の大好物のトウモロコシ順調〜こんな気持ち良い午後…コロ助が寄って来たので撫で撫でふぁ〜んウットリ〜午前中は…ツレアイ連れて総合病院へ駐車場激混み…高齢者のワクチン接種スタートの日らしく混んでいると歩いていたら、オジサンが言ってた…。市内、やっとやっと
禁門の変蛤御門の変とも言われる帝の命を受けて慶喜が長州を討ち果たした凛々しい慶喜の姿を皮肉な様子で窺う西郷隆盛慶喜公の尊皇思想は全くぶれないはっきり言って西郷隆盛と慶喜公が仲良かったらとか天皇の許可も得ずに調印した日米修好通商条約の尻拭いくるくると変わっていく朝敵長州にイギリス幕府におフランスがついたことでまたパワーバランスが変わるのだろうこれからの慶喜公の心は朝廷を守ることのみに徹する幕府の人間であり最後の将軍となる慶喜の冷徹さ天狗党への挙兵「尊
【武田耕雲斎】1804~1865(文化元-慶応元)先祖は、武田信玄の一族で水戸徳川家の藩祖・頼房(家康11男)に仕えた。水戸藩士跡部正続の長子で耕雲斎の代に武田の姓に復した家祿300石の中士。通称・彦九郎、諱(いみな)は正生。号は如雲。天保年間参政(若年寄)、安政から元治にかけて三度執政(最高の要職、家格は家老)、家禄も500石に昇進したが、慶応元年(1865)二月、天狗党の首領として越前敦賀で処刑され、62歳で歿す。武田耕雲斎といえば江戸時代好き人間なら誰でも、水戸天狗党の首領とし
今回は【禁門の変】で激変する京の顛末と、その裏で進行する天狗党の乱を中心に元治元年の日本が描かれていた。そして渋沢栄一はそんな乱世をよそに、使命である農兵徴募に関東の一橋領を転々としていた。.........先ずは禁門の変に関して、せっかくなので少しばかり使えるウンチクをご紹介しておこう。この戦争の戦闘自体に関しては、私がかつて描いた幕末長州の長編小説【ベテルギウス】の中で細かく描写してある。余裕があれば本項最下部にそのハイライシーンへのリンクを用意した。是非ご
Part2「伊那の勘太郎」は、NHKの大河ドラマ「青天を衝け」に登場する「天狗党」の中にモデルとなった人物がいるのかいないのか、いずれにしても「https://ux.nu/V0geh」を読めば分かります。
禁裏御守衛総督を任命された一橋慶喜は、政治の中心で活躍することになりました。慶喜は、体制を安定させるために水戸藩に人材の援助を要請します。また、渋沢篤太夫と渋沢成一郎は、一橋家の家臣を増やすために「人選御用」として関東に出張することになりました。篤太夫と成一郎は故郷を一目見ようとしますが、水戸藩の騒乱によって阻まれます。水戸藩では藤田小四郎率いる天狗党が挙兵。「尊皇攘夷」の言葉に集まった兵力は、約1000人といわれています。天狗党は常陸国筑波山を本拠地に
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「青天を衝け」見てますかぁ〜見てるぞ〜ってことで第15話の感想ぉ〜一橋家に仕えることになった栄一と喜作。平岡円四郎から名を頂きますが…栄一は何やら、ご不満な感じ〜栄一はダサって顔に出てるね栄一は隠密として薩摩藩の調査に行きますが、そこで出会ったが、あっ!?華丸さん!博多華丸…じゃなく西郷吉之助、後の西郷隆盛でした。目力凄い!そんな西郷と栄一はお近づきになりましたね。2人でさしで飲んだり…栄一は薩摩の殿様が徳のある人なら世を収めれば…と言いましたが、島津
仁王像の修復頭部に“巨大化した二ホンミツバチの巣”奈良・葛城市/當麻寺Yahoo!ニュース映像視聴における推奨環境はこちらをご確認ください。読売テレビ.奈良県葛城市にある寺で、仁王像の内部に巣くったハチを追い払う作業...人麻呂しのぶ歌塚/奈良毎日新聞中世には柿本寺は鳥居の外に移転したとされるが、延宝9年(1681)の『和州旧跡幽考』には、「此社(治道社)の鳥居の内に柿本寺あり、その東...みやこのあとまち歩きマップ(奈良市)宮跡東の寺院など紹介/奈良毎
幕末、水戸藩内で武装蜂起した「尊王攘夷派」の一部(天狗党と俗称)が、京都にいた「一橋慶喜」を頼り、朝廷に「尊王攘夷の志」を訴えるとして、水戸藩を脱出京都へ向った(天狗党の乱)が、結局「幕府の討伐軍」に降伏した地「敦賀」に行きました。天狗党は、ここ越前国・「新保宿」(敦賀市)で討伐軍に包囲され、先鋒の「加賀藩」に投降します。藩を出てから47日目でした。頼みの一橋慶喜が、天狗党討伐軍を指揮した事も堪えたようです。新保宿(木ノ芽峠への道)天狗党首領「武田耕雲斎」本陣跡旧新保宿は、越
元治元年(1864)六月六日、妻のつねとともに天狗党からの脱走を図ったものの捕まってしまい、小山宿の持宝寺に連れ戻されて殺害されてしまったと『藤岡屋日記』に記されている粕谷新五郎ですが、この話にも疑問点はあります。そもそも粕谷新五郎の妻の名はたかであったはずで、つねではありません。しかも子息の親之介が書き残した『勤王殉国事蹟』にも、母が一緒に殺されたという記述はありません。あるいは内縁の妻、もしくは妾だったかとも考えられそうですが、『結城藩届書』にある、前日の夜に結城城下で捕らえられたとい
元治元年(1864)六月六日、小山宿の持宝寺にて自刃したと伝わる粕谷新五郎ですが、その死に関しては異説があります。それは『藤岡屋日記』に以下のように書かれています。六月七日、栗橋宿より御届水戸浪人の内、粕屋新五郎と申すもの小山宿逗留中、女房尋ね参り候につき、去る五日夜同処を欠け落ちいたし候ところ、浪人ども追いかけ城町にて取り押さえ、小山宿へ引き取り帰り、同前慈宝寺境内に於いて翌六日死罪にいたし、右慈宝寺へ右の者ども葬式入用として金十両相渡し、且つ小山宿へはこれまでたびたび人馬継ぎ立て並び
元治元年(1864)三月二十七日のこと、幕府が自ら表明した横浜鎖港が一向に実行されないことに憤った水戸藩士藤田小四郎(藤田東湖の四男)らは、水戸藩町奉行田丸稲之衛門を主将に担ぎ出して筑波山に兵を挙げました。世にいう天狗党の乱のはじまりです。粕谷新五郎もこの挙兵に参加し、別働隊であった田中愿蔵(たなかげんぞう)組に加わっていました。が、その田中組は各地で殺人・掠奪・放火・強引な軍資金徴収・人足の強要などを繰り返したため、人々から「ザンギリ勢」と呼ばれて恐れられていました。田中組は五月
前回の記事の内容を補足訂正させていただきます。文久三年(1863)四月十五日、浪士組は新徴組と名をあらため、庄内藩主酒井忠篤の支配下となる(ただし、この時点ではまだ幕府の組織)のですが、同月二十一日には箱館奉行支配与頭であった河津祐邦が鵜殿鳩翁と交代するのですが、その直後に作成されたと思われる隊士名簿に、上役である幕臣たちの名も記されています。『文久癸亥雑記』(新徴組人名/文久三年五月)より抜粋新徴組支配小十人組松平上総介次席河津三郎太郎千石高中条金之輔新徴
壬生浪士組の結成に参加しながらも、まもなく江戸へと帰って行った粕谷新五郎ですが、一旦回復した病が再発してしまったのか、再び病床につくことになってしまったようです。妻のたかに宛てた手紙に我等も八月中まで大病にて、まことに困りおりながら、佐々木只三郎と申す者よく世話いたしくれ、それゆえに命はひろい申し候。とあり、(文久三年の)年末までには国に帰るから心配しないようにと書かれています。三月下旬から四月頃に京を発ち、半月から一ヶ月後ぐらい、つまり四月中旬から五月までの間に江戸に到着したとして
文久三年(1863)三月三日、関白鷹司政通より浪士組取扱鵜殿鳩翁に対して達文がありました。このたび横浜港へ英国軍艦渡来、昨戌年島津三郎儀、江戸表出立の節、生麦において英国人両人打ち果たし候儀に付、三カ条の儀申し立て、何れも聞き届け難き筋に付、その旨応接に及び候間、速やかに戦争に相成るべきことに候。よってその方引き連れ候浪士共、早々帰府いたし、江戸表において差図を受け尽忠粉骨相勤め候様致さるべく候。生麦事件に対してイギリスが突きつけた三カ条(一、賠償金の支払い。二、島津久光を打
江戸を出立し中山道を進んだ浪士組一行は文久三年(1863)二月二十三日、15日間の旅を終えて京に到着しました。浪士組は洛西壬生村の新徳寺を本部として周辺の民家に分宿することになりましたが、清河八郎はその夜のうちに浪士を新徳寺に集め演説を打ちます。そして翌日、清河八郎は浪士全員の署名を添えた上申書を学習院に提出します。「幕府お世話にて上京仕り候得ども、禄位などは相受け申さず」の一文が有名になり、清河八郎は浪士組を朝廷の軍隊にするために幕府を利用したのだといわれて久しいのですが、その検証は別の
時は流れて文久三年(1863)初頭、幕府は関東の浪士を集め浪士組を組織します。これは出羽浪士清河八郎の献策を容れたもので、有為の浪士を集めて一集団を編成し、同年三月に上洛する将軍家茂の警護にあたらせ、また京に跋扈している過激派浪士の取り締まりにあたらせようというものでした。その清河八郎の献策は「急務三策」と呼ばれていますが、大まかにいうと一、軍備を強化し攘夷を断然決行すること一、大赦を実施し、囚われの身となっていたり、罪を得て逃亡している有為の浪士たちを許し、国事にあたらせること。
週末なので、どうでもいい話を。今日の(正確には先週の)大河ドラマから。「ご老公(斉昭公)亡き後、水戸はまとまっていない!」との、攘夷派志士のセリフ。そうなんです。水戸は佐幕派と攘夷派にわれて文字通り血で血を洗う闘争を繰り広げていました。ひいひい爺さまは佐幕派だったので水戸藩内の攘夷派である天狗党に屋敷を襲われました。ふすまも天井も人が隠れていそうな場所はすべて槍で突かれたそうです。ひい婆さまが隠れていた長持にも槍が何
福井県敦賀市新保にある武田耕雲斎本陣へ行ってきました(・ω・)ノ門は閉まっておりましたが横から入れるみたいで入って行きましたがあれっ(;・`д・´)??閉まってる・・・。NHK大河ドラマ「晴天を衝け」に福井出身の津田寛治さんが武田耕雲斎役で出演しているので水戸天狗党がどのように描かれるか楽しみでございますー♪降伏を決断したこの本陣もきっと注目されるでしょうね(*´ω`*)説明はこちら↓読めたら読んでね(・∀・)閉まっていたので周辺を散策していると近所のおば
粕谷新五郎ら37人の水戸浪士たちは芝田町の薩摩藩邸に入り、そのまま薩摩藩に身柄を預けられることとなりました。言うならば軟禁状態に置かれたわけですが、その翌二十七日のことです。水戸浪士たちから薩摩藩に対してある申し入れがありました。それは軍用金調達のために一行とは別行動をとっていた者がいるのだが、どうやら道に迷ったようで到着が遅れているので、彼らも藩邸に入れてほしいというものでした。しかし薩摩藩としては前日入邸の37人は幕府の命で「当分お預かり」となった身なので、他の者を合流させるわけ
安政五年(1858)八月、孝明天皇から水戸藩に向け勅諚が下賜されました。これは幕府が勅許なしに開国に踏み切ったことへの叱責と、攘夷実行のための政策を推し進めるよう、幕府に対して働きかけよという内容のもので、戊午の密勅と呼ばれています。幕府は水戸藩に対し勅書の返納を求めましたが、水戸藩内の激派はこれに反発し、安政の大獄の弾圧を経てもなお勅書返納を阻止しようと水戸街道長岡宿(現・茨城町)に集結しました。当初は18人の集まりだったといいますが、やがて200人近い人数にまで膨れ上がります。彼
壬生浪士組(のちの新選組)結成時のメンバーである粕谷新五郎は、非常に多くの謎に包まれた人物です。出自ははっきりしていて、ご子孫も健在なことが確認されているし、壬生浪士組やその前身である浪士組に加わっていたり、それまでの経歴もある程度はわかっているのですが、それでも「謎」なのです。『勤王殉国事蹟』(明治7年/東京大学史料編纂所データベース)第36巻には、長男の親之介が記した粕谷新五郎の事跡が残されていますが、簡潔にまとめられていて、家族の名前と、小山宿(現・栃木県小山市)に埋葬されてい
大河ドラマ「青天を衝け」の録画を木曜日にやっとこさ観た。新婚の栄一がにやけて締まらないなぁ。って思ってたら、急転直下“安政の大獄”。「武田耕雲斎」出て来たねぇ❗雲黒斎とちゃうで、「耕雲」やで。慶喜が重要人物なんで、藤田東湖は当然出てくると思ってたけど、息子の小四郎がなんか予想以上に出てくるなぁ。とは思ってたんよ。武田耕雲斎が大河ドラマで出てくるって、すてれんきょの記憶にないけど、もっくん主演の「徳川慶喜」には出てた❓藤田小四郎も覚えが無いんやなぁ🤔藤田小四郎や武田耕雲斎がこれ
保和苑までお散歩して、左を見ると【回天神社】と見えて、参拝していくことにはしたものの、ここは天狗党の乱で命を落とした志士のお墓があるとネットで見てたんで、「重そうだなァ」って思ってたんだけど、実際かなり重くて、お墓に手を合わせてから速やかに参拝して移動することにした。本殿は忠魂碑、それから格さんのモデルになった安積澹泊のお墓まで行って、手を合わせて戻ることにした。【回天神社】アクセス・営業時間・料金情報-じゃらんnet回
ども~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!実は昨晩というか、今朝早朝深夜1時、家族の急病で、夜間外来に突入し、帰ってきたのは朝9時(+o+)おかげさまで、病気のほうは大丈夫そうですが、ボクが死にました(+o+)復活しましたけどw。というわけで、昨日は水戸藩天狗党などの狂気と、他人事の徳川慶喜はなんなの?というお話しでしたが、ペリー来航から15年間の幕末って、朝から晩まで人殺し。何はなくても人殺し江戸城の門前で大老井伊直弼をぶっ殺しても全然OK、という時代。
ども~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!さきほど18時11分に宮城北部でM7.3、最大震度5強の地震。津波注意。なんか最近地震が続いてます。まるで大地が「五輪やめろ」と言ってるみたい。というわけで、今日は大河「青天を衝け」にまたまたイチャモンをつけてみたいと思います。先週第5話で16%を回復した青天。唯一評価できるのは、裏の日テレ「イッテQ」などを制しているという点。NHK上層部も大満足らしい。まあ、いまさらイッテQ見る奴もどうなのと思うけどw。で、イ
大河ドラマ「青天を衝(つ)け」に登場している水戸藩士、武田耕雲斎(1803〜65年)ゆかりのかぶとや掛け軸が、岐阜県美濃加茂市太田本町の旧中山道太田宿の民家に眠っているそうです幕末の動乱期、尊王攘夷(じょうい)を唱える「天狗(てんぐ)党」の総大将として、筑波山から京都に向かう途中で、太田宿に残したと伝わっています。水戸藩は幕末、尊攘派と佐幕派の争いが激化天狗党は、前藩主・徳川斉昭の子・一橋慶喜に志を直訴し支援を受ける為、1864(元治元)年、京都を目指して出発しました。総大将に担が
やっぱり、僕はこのドラマが好きになりそうだ。何かが、今までと違う。巷では視聴率急落と報じられているが、これはもう何時もの事だ。僕の好みは常に視聴率と反比例する(笑)。ここ二十年でのベストは...1位...八重の桜2位...平清盛3位...いだてん...なのだから、仕方がない(笑)。完全に世間一般とは好みがズレてしまっている。それは自覚している。だが、今回の【青天を衝け】はつまらぬ侍物語など描くよりも、幕末〜明治〜昭和を描くに当たってはずっとリアルな物語になるだろう
万治の石仏を見た後、中山道・信濃路歩きに戻り、「和田峠」を目指します。ここからしばらくは旧中山道は、国道142号線に吸収され消滅しています。歩道の無い国道を歩きます。かなり歩いた右側に「注連掛(しめかけ)」という広場がありました。ここは山から切り出された御柱8本が曳行され、最大の難所「木落し坂」を過ぎ、ここで注連縄が張られます。ここまでの4.7㎞が「山出し」といわれる行事です。ここから春宮まで1.7㎞、秋宮まで3.1㎞が「里曳」といわれる行事で、約1ヶ月後それぞれの社殿の四隅に
「天狗党」1969年11月15日公開。三好十郎の代表的な戯曲を映画化。江戸末期の茨城の農民の天狗党入りの末路を描く。原作:三好十郎(「斬られの仙太」より)脚本:高岩肇監督:山本薩夫出演者:仲代達矢、若尾文子、加藤剛、十朱幸代、山田吾一、神山繁、中村翫右衛門、鈴木瑞穂、亀石征一郎あらすじ:常陸国の百姓・仙太郎(仲代達矢)は貢租の減免を願い出たことから強訴とみなされ、北条の喜平一家に村から追われた。復讐の念に燃える仙太郎は江戸で剣法の修業を積み、博