1494年、大田原康清によって築かれたと云われています。大田原氏ははじめ大俵と表記、後に資清のときに大田原と改めたそうです。また、武蔵七党の1つである丹党を出自とし、阿保氏を称していたそうですが、康清のときに那須氏に仕えて5代にわたって居城としたと伝えられています。縄張りは平地にあり、城というより方形居館であったようですが、北東の土塁は内側に折れており、鬼門除けの入隅とっていたそうです。1518年、当主が大田原資清の代のとき、白旗城主の大関宗増と福原城主の福原資安によって失脚させられ、水口城を捨