ブログ記事1,134件
お借りしました徳川幕府260年経ち欧米列強による植民地政策の揺さぶりを受けていた天下安泰の為に大政奉還を行う慶喜大久保利通らは慶喜の首を見なければ納得できなかった日本は戦乱の世となり越後高田城下に集まった西軍は長岡城下を目指す鉄砲隊を指揮する家老カワイ西軍に刃向かえば国賊に陥る可能性が有ると助言する西軍は会津藩を落とそうとするだろうと察し長岡藩は調停役に徹しようとしていた調停を聞かなければ聞かない方を撃つ方針だった
「大政奉還」目標は決まりましたかみなさん、おはようございます明日、15日は来年の祈願をする日です目標は決まりましたかまだの人は、今日一日、しっかり考えましょうさあ、今日「10月14日」の國史を学びましょう!「大政奉還、上表(じょうひょう)」慶応3年(1867年)徳川慶喜(15代)が二条城で大名を集めて明治天皇へ政権返上を奏上しました土佐藩主・山内容堂が慶喜に提案幕府も加えた雄藩連合で日本の政治を行おうとしたのです
どこからが江戸時代かはいろいろ議論があるだろうが、征夷大将軍就任〜大政奉還迄として265年。アメリカ合衆国がどこから、いろいろ議論があるだろうが、独立宣言が始まりとして248年目。あと18年、私は生きているかもしれないし、予知能力などはまったくないが、衝撃的な何かを見る事、あるいは聞く事になるかもしれない。
今日「10月3日」も歴史上重大な出来事があった「記念日」になります。皆さまと心ひとつに想いを寄せ合い、愛しみ合いたいトピックスになりますので、やはり毎年お届けするお話になると思います。◇慶応3年(皇紀2527・西暦1867)の「10月3日」。土佐藩主山内豊信・後藤象二郎等、徳川慶喜に大政を奉還することを建白、日本はいよいよ「近代」という新しい時代と世紀に向けて胎動していくことになります。日本の国家権力の質的転換を伴う政治制度の根本的な変革を基軸とし転換点として行われた、経済、
燃えよ剣第17話[公式]東映時代劇YouTube2023/09/14視聴回数5,571回4時間前登録者数30万人2023/09/14/Thu.17:06fromYokohamaCityJapan俺は独りでも遣るそれが俺の生き方だ
こんにちは。さくら姫です。京都旅行中二条城がめっちゃ気になる~。自分に合うパワースポット属性から調べるというサイトで調べたら二条城は、さくら姫のパワースポットでした。属性は、「火」属性はこちらから調べられます。京都二条城について調べてみました。↓徳川家康の指示で1603年築城。京都御所の守護と将軍上洛時の宿泊場所。徳川慶喜の「大政奉還」の場所としても有名な場所です。1939年二条城と改名されました。二条城観光のために
63.市原の戊辰戦争⑤・戊辰戦争の始まりまずは日本最初の軍歌として知られる「宮さん宮さん」の歌詞をご紹介いたしましょう。作詞の品川弥二郎は長州藩士です。戊辰戦争では官軍がこの曲を笛、太鼓で伴奏しながらこの近く、房州街道沿いを南下して参りました。「宮さん宮さん(トコトンヤレ節)」作詞品川弥二郎作曲大村益次郎?宮さん宮さんお馬の前にヒラヒラするのは何じゃいなトコトンヤレ、トンヤレナあれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないかトコ
「薩長土肥」の一角を成す土佐藩ですが、維新期に活躍した有名な人物は、龍馬、慎太郎、瑞山など「郷士」出身者が殆どで、上級武士出身者は、後藤象二郎と板垣退助くらいでしょうか。お城の近くに住めた上級武士出身者として、後藤象二郎生誕地と板垣退助生誕地は、僅かに150m程の距離しか離れていません。まずは、後藤象二郎。容堂の「散田屋敷」にほど近い処に屋敷が有りました。馬廻格150石の家に生まれ、幕末の参政「吉田東洋」は義理の叔父にあたりました。東洋暗殺の後は、一時、失脚しましたが、文久3年(1863)
「旧散田屋敷(旧山内家下屋敷)」、「鷹匠公園(旧山内家分家南邸跡)」に隣接して鎮座する「山内神社」です。此処は、歴代土佐藩主を祀っています。明治4年に藤並神社御旅所があった此の地に、山内家最後の藩主(高知藩知事):山内豊範が創建しました。戦後、藤並神社を合祀して再建されています。土佐藩主のうち有名人は、初代の一豊公と第15代の豊信(容堂)公でしょう。容堂は、「四賢候」のひとりとして、有名です。安政の大獄で藩主の座を退きますが、後に赦され、政局に復帰します。「公武合体」を推進し、「大政
山内家第15代藩主:豊信(容堂)の隠居所として元治元年(1864)に建てられ、維新後は、山内家の「高知本邸」となった「旧山内家下屋敷(散田(さんでん)屋敷)」です。司馬さんの「竜馬がゆく」から。竜馬から「大政奉還」の提示を受けた後藤象二郎が、急ぎ、土佐へ戻る場面です。「この日、容堂は散田屋敷にいた。容堂のいわば隠居屋敷で、潮江川の岸にあり、水を隔てて筆山を臨み、城下では最も秀麗な風景の場所である。」。。。。。。現在、母屋は取り壊されたものの、「長屋と表門(国の重文)」は保存されてい
2023年8月30日--------------------------------------------結果として日本は守られた。他国から侵害を受けることはなかった。ご先祖様に感謝しなければなりませんね。2022年8月30日--------------------------------------------徳川慶喜公、大きな決断で日の本を救ったのだと思います。日本人同士での争いを最小限にとどめなければ、外国の餌食になったと思います。今の日本があるのもご先祖様方々のお
新選組の料理人(光文社文庫)[門井慶喜]楽天市場太平の世であった江戸時代。武士の本分とはかけ離れた弱腰の鉢四郎。新撰組の料理人にスカウトされて、隊士たちの活躍を目の当たりにします。近藤勇のどっしり感。原田左之助の軽妙さ。学生時代はあまり幕末に興味がなかったのですが、最近少しわかるようになってきました。坂本龍馬の暗躍ぶり。渋沢栄一が出てきた時には、身分を越えた交流が始まっていたのだと感じました。隊士の最後は哀しいものがありますが、そのくらいの荒療治が必
こんにちはMichiyo!です✨いつも読んでいただきありがとうございます江戸から明治へと変わったのは、江戸幕府の「大政奉還」です私はこの「大政奉還」、それに続く江戸城の「無血開城」が世界史の中でも最も尊い偉業だと思っています徳川幕府は250年ですが、遡れば平清盛が作った武士の世を全部終わらせ明け渡したのですからその後の「廃藩置県」を含め、開国しなければならないと理解しつつどれだけの葛藤があった事だろうとその時代を生きていた一人一人に思いを馳せます明治維新と言えば華々しい活躍をした幕末
人がおるから國が在る。人がおらんかったら國は、既に國では無い。徳川幕府が、のうなっても侍がのうなっても、人がおれば、國は在る。其の為の大政奉還ぜよ。人が生きてこその國ながじゃき。人が國。國は人じゃ。龍馬は、大政奉還の根幹を鋭く洞察し、貌(かたち)造った。
根っこじゃ。儂(わし)は、根っこに為りたい。根っこは、地面の下で絡み合う。情報の伝達を行う。世界中で絡み合う。そんな根っこに為りたいがじゃき。龍馬は、大政奉還に日本の未来を託す。
迷った末の大政奉還。漸(ようや)く道は、視えた。龍馬は、心に道標(みちしるべ)を刻み込み、歩み、進む。
…その舞台となった二条城の建造物は?江戸幕府15代将軍・德川慶喜は、慶応3年10/11、在京の諸藩重役などに同月13日の二条登城を求めた。登城した約50名は、「二の丸御殿」大広間でそれぞれの主君宛の書付を大目付・戸川安愛(ヤスチカ)から渡される。大政奉還の意志を示し、対する意見及び上洛を求めたものである。ここで将軍への言上希望が問われ、薩摩の小松帯刀土佐の後藤象二郎・福岡藤次安芸の辻将曹(ショウソウ)の他、備前と宇和島の出席者が応じた。6人は大
歴史の教科書を見ると、大政奉還→江戸幕府滅亡という流れになりますが、その間に抗争があったのです。徳川慶喜という御仁がおめおめと引き下がるわけがありません。実は巧妙な罠だったのが、大政奉還なのです。1867年10月14日に朝廷に上表されます。二条城で諸藩を集めて、大政奉還しようと思うんだけど・・・という、絵が残っていますが、これは10月13日の出来事です。その場で反対や意見を言う諸侯など徳川慶喜が呼ぶはずないので、ことはすんなりと決まってしまいます。徳川慶喜は討幕という大義名分を潰すのが目的で、
江戸時代が終わり、明治新政府が始まる時に、大政奉還、版籍奉還、廃藩置県で地方分権が中央集権になり、藩が廃止されて、士農工商の身分制度もなくなり、武士はチョンマゲを切り、再スタートを切る状況を余儀なくされた。800年続いた武家社会の、日本の仕組みが大きく変わり、様々な変化が起きた激動の時代だったのが、少し想像しただけで、容易に想像できる。800年続いた当たり前が、当たり前で無くなる。新政府は、西洋列強の侵略に対応しなければならないが、西洋に迎合しすぎて、今まで
1866年、第2次長州征伐で果敢に攻め込んだ、一橋慶喜でしたが、長州藩の抵抗にあい、旗色が悪くなると、何とか口実を付けて、撤退しようと考えます。ちょうどタイミングよく、第14代将軍、徳川家茂が亡くなったので、長州征伐を諦めて、撤退してしまいます。なんと、日本全土の兵力で山口県に負けるという大失態。幕府の権威やメンツは丸つぶれです。この事件から、徳川幕府はどんどん勢いを無くして、滅びる一方という見方になります。この教科書的な解釈は間違えではありませんが、その間の細かい出来事が実は重要です。そこで
今日は、本題に入る前に、前回少し触れた小栗忠順(おぐりただまさ)について書きます。この小栗忠順を調べれば調べるほど、同時代の勝海舟や西郷隆盛が小物に見えるほどの天才であることが分かります。この人の功績を挙げるとキリがないほど多岐にわたっており、特に、明治維新の時に取られた政策の殆どが、この小栗忠順の遺産であること、そして、オランダを通じていち早くイギリスの思惑に感づいており、一人でこのイギリスを相手に日本の為に働きます。小栗は、曖昧な処理や問題の先送りを嫌い、老中に改革案を示し
※BGMでも聴きながらお読み下さい。片想い浜田省吾幕末の「王政復古の大号令」という具体的な出来事は存在しません。ただし、幕末の時代においては、日本の政治体制に関する大きな変革が起こりました。幕末の時代は、江戸幕府が力を失い、外圧や内部の不満などによって日本の政治情勢が混乱していました。この時期、幕府に対する不満や西洋文化の導入を
2018年夏休み。二条城見学。ストリートミュージシャンの女性に取巻きファンが一杯。昨日京都への友人からのお誘いがあって、、
6月4日松戸「戸定が丘歴史公園」水戸藩最後の藩主徳川昭武(あきたけ)の別邸「戸定邸(とじょうてい)」が現在も残っている。徳川昭武は徳川15第将軍慶喜の弟。13歳の時に慶喜の名代でパリ万博に派遣され、ナポレオン三世と謁見。その後欧州各国を歴訪し「プリンス・トクガワ」と呼ばれる。その渡航先のパリで大政奉還を知る。帰国後は最後の水戸藩主となり新政府に従う。29歳で隠居。そしてここ松戸に「戸定(とじょう)邸」を構えた。昭武が亡くなったのは明治43年。享
江戸時代末期、江戸幕府の権威は揺らいでいました。しかし、幕府も来たるべき時代のために、フランスの支援を受けながら体制の変革について準備をしていたことも確かです。最近は、NHK大河ドラマで渋沢栄一がフランスで資本主義における株式会社という考え方を見つけたことは多くの視聴者をとおして知られたことと思います。一方、イギリスの支援を受けていた薩摩・長州も討幕へと具体的な計画を進めるようになります。雄藩として知られる薩摩藩と体制刷新を図った長州藩ですが、軍事力においては、圧倒的に幕府
今日は2023年6月29日(木)です。夕方の情報番組「よんチャンテレビ」を見ました。その中で京都の二条城を紹介するコーナーが有りました。僕は2013年に二条城に行った事が有ります。懐かしいので振り返って見ました。過去記事です。↓============2013年12月1日(日)の出来事です。昨年の2012年12月25日クリスマスの日徳島から我が家に帰る途中女房の母親が、亡くなったと言う知らせを受けました。その日の記事です。↓クリ
御所来る度に笑ってしまいます文久年間盛岡藩が朝廷から命じられた内裏守備役内裏守備役とは京都御所の警護役慶応年間に幕府から命じられた京都勤番とは京都市中の警護勤番とは武士が交代で出仕するこの場合は警護ですよね文久から慶応まで京都は激動の嵐尊王攘夷派公家や長州藩排除大政奉還に戊辰戦争に大変だったのですね東北北方警護しとるだけ場合やないロシアが京都に攻めてくる可能性もあるわけでほんまええように朝廷にも幕府にも武士の誉れとはいえ扱われていたんやなあ思いますそら原敬みたいに
6月28日の歴史幕末の尊皇思想家高山彦九郎自刃通称三条京阪の土下座前の像こそ高山彦九郎です昔から京都の有名待ち合わせスポット土下座前ですが高山彦九郎は謝ってるのではなく皇居望拝してる姿です寛政5年6月28日(1793年8月4日)自刃享年46幕府に捕縛されその後も幕府の監視が厳しく最後は筑後国久留米にて自刃しました高山彦九郎は尊王思想家であり寛政の三奇人の1人で吉田松陰や多くの幕末の志士に影響を与えた人物です高山彦九郎寛政三奇士の一、京都をゆく(日本の
こんにちは。いつも読んで下さり有難うございます。寺田屋。(前にも来てます)幕末当時、船宿として賑わう。坂本龍馬が、宿泊中、襲われた場所。(1866年)→でも、この時は逃げ切ったただ、現在のこの建物は、どうも再建された寺田屋らしい。。元の寺田屋は、どうも焼失してしまったらしい。。(1868年鳥羽・伏見の戦いで)現在の建物の東隣(現在、庭になってる)に、元の寺田屋はあったらしい。。でも、元の建物の造りは、ほぼこんな感じだったんでしょうね。。幕末
名古屋市昭和区にある尾陽神社です。比高差10メートルの小高い丘の上に築かれた神社です。社地は嘉吉年間(1441年~1443年)に佐久間美作守が築いた御器所西城の跡地だと言われています。尾陽神社の由緒書きの看板が出ています。この神社には三つ柱の神様が祀られています。主祭神は天照大神です。二柱目の神様は徳川義直命(とくがわよしなおのみこと)で初代尾張藩主の徳川義直公を神格化してお祭りしています。義直公は名古屋東照宮に合祀されて