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南北朝時代最大のミステリーと言えば、「大塔宮護良親王捕縛事件」であろう。後醍醐天皇の皇太子ではなかったものの、皇子を臣民が弑する等、近代の感覚で言えば大逆罪に相当する、許されざる蛮行である。建武政権下で最も優秀な人物であった大塔宮護良親王をライバル、危険視した足利尊氏は、親王に征夷大将軍の座をあっさり奪われてしまった事を恨み、親王を失脚させる火種を仕込んだ。そう。讒言である。讒言とは、組織内の人と人とを仲違いさせる事や分断工作を目的として使われる、とある人物を陥れる為につく虚
吉野神宮からバスで終点の奥千本口にやって来ました。バスを降りると、目の前に急な上り坂❗️坂を200メートルほど登ったところに金峯神社があります。金峯(きんぷ)神社は吉野山の地主神とのことですが、昔の人は、こんな山深い地で、どのように参詣されていたのだろうかと考えずにはいられませんでした。昔は、バスはおろか、道も整備されていなかったでしょうし、、。徒歩で来るには、かなり険しく長い道のりです。本殿前でのお詣り後に、御朱印を頂こうと思って社務所の方に声をかけたら、「今、地震ありまし
「太平記」の群像18~大塔宮護良親王①の、つづきです。令旨を発して各地の武士を集めて倒幕に貢献した大塔宮護良親王でしたが、足利尊氏の一派や阿野廉氏の一派と対立し、意気軒昂に武力衝突寸前までエスカレートします。しかし最後は味方の武士たちを切り崩され、後醍醐天皇からも見放されて孤立無援となってしまいます。そして遂には名和長年らによって捕えられ、身柄を足利尊氏に引き渡されます。尊氏は奪還を恐れて宮を鎌倉にいた直義の下に送ります。鎌倉では土牢に押し込められていたと伝えられていま
↑2019年撮影鎌倉宮の紅葉(大塔宮護良親王、後醍醐天皇の第三皇子)感情は表情に出る動揺は声に出る生活は体型に出るだらしなさは歩き方に出る考え方は態度に出る自信は目に出る気力は姿勢に出る生き方は顔に出るこの頃、思う事あってつくづく実感しています
奥千本の金峯神社⛩から、吉野山の一番手前まで戻ってきました。🛵。。。祭神は、後醍醐天皇南朝の後村上天皇は、父の後醍醐天皇が延元4年(1339年)に崩御した後、その像を吉水院に安置した。以降、仏教式の供養が行われていたが、明治時代に入って神仏分離により明治6年(1873年)に吉水院を後醍醐天皇社という神社に改めた。2年後に吉水神社と改称して後醍醐天皇を祭神とする神社となった。このとき太政官政府は官費(国費)で別の神社を創建する考えを表明したが、そのまま棚上げ
金峯山寺から歩いて南朝皇居吉水神社へ(後醍醐天皇玉座の間☝️)吉野名物吉野葛吉水神社の鳥居⛩社伝では、白鳳年間に役行者により建立されたと伝えられる。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に潜幸したとき、宗信法印の援護を受けて吉水院に行宮を設け、一時居所とした。後醍醐天皇の崩御の後、後村上天皇が後醍醐天皇の像を作って吉水院に奉安した。明治時代に入ると神仏分離令と国家神道化の観点から天皇を仏式で供養することが問題視され、明治4年(1871年)5月に五条県が
(パンフより)。特別ご開帳、行ってきました仕事、テレワークやし、閑散期やし、翌日は雨予報なので、有給とって🛵goto吉野山花見シーズンなら、大混雑するところです。観光駐車場に到着。朝6時過ぎに出発したのに、川西町の近鉄結崎駅からR24に出る庵治町交差点のところや、明日香村当たりで混みました。ちなみに、壺阪山駅のコスモスは綺麗に咲いてました☝️金峯山寺を目指して歩きます。大橋大塔宮「太平記」。先日の般若寺でも大塔宮
→コスモス寺花だより住職ブログ朝から台風がらみの雨。レモン🍋と枇杷の鉢植えがこけました雨雲レーダーで調べたら11時30分ごろから雨が上がると。(ネットからいただきました。)で、これを見に出発🛵10分ちょいで到着駐車場には車は無かった。入口を入ったところ。歴史に残る「般若寺」は、その歩みの中では数多くの災難に見舞われました。例えば、1180年、平清盛の命を受け、平重衡による南都焼き討ちが行われた際は、興福寺や東大寺と同じく焼け落ちてしまいます。その後鎌
足利尊氏と激しく対立していた護良親王派でしたが、自らの皇子に帝位を継がせたい阿野廉子派からも疎んじられ、建武新政府で冷遇されることになります。廉子の讒言を真に受けてしまう後醍醐天皇もどうかと思うのですが…。赤松則村(円心)は護良親王の令旨を受けて早くに倒幕の挙兵を起こし、六波羅攻めでも活躍しましたが、恩賞として与えられた地元の播磨守護職を取り上げられ(後に新田義貞に授与)元々の佐用庄の領有しか認められなかったため激怒し、大河では「公家に武士の心は分からぬ」と捨て台詞を残して領地に戻ってしま
横浜市十日市場での依頼を済ませ、前々から行きたかった場所に行く事にしました十日市場駅から5つ先に、お目当ての場所である『淵野辺』があります駅前からバスで10分ほど行き、そこから徒歩で5分ほど閑静な住宅街を歩くと目的地に到着です⬆️個人宅の玄関先に、目印の石碑がありました住宅横の小道を入って、すぐ左側にお目当ての石碑がありました『渕辺義博は南北朝時代に渕野辺村の地頭であった義博は足利直義譜代の臣で、史書によると建武二年主命によって大塔宮護良親王を弑しのち駿河国手越河原で主の
2020-09-20七曲署(by太陽にほえろ)から、ぃぇ七曲坂から歩いてすぐに休憩所がありました入ってみます下を見ると、線路?近鉄の吉野駅かしら?ベンチもあるので、ドリンクタイムにします橋だ川のためではなく、お堀のための橋だったのね〜3千人対6万人で戦うって、かなり無茶だ先程の村上さんは、大塔宮護良親王の身代わりで亡くなったらしいです。激戦区だったこちらには、今はこんなにカワイイお花が咲いてます平和だね〜写真撮ってたら、ご近所?のお爺ちゃんが出て来られて、目が合っちゃった
倒幕後に上洛した大塔宮護良親王の軍勢にはならず者も含まれていて、京の都で狼藉を働いたため足利高氏に捕縛されました。宮側は身柄を引き渡すよう要求しますが、都の治安を取り仕切っていた足利直義(高氏の弟)がそれを拒み処刑という強硬策に出たため、宮と高氏の対立はより激しさを増します。強盗を働いたならず者は、宮の家臣の殿ノ法印(とののほういん)の配下でした。いかにも悪そうな顔つきで、高氏を恨んで暗殺計画を率先して企てます。殿ノ法印は良忠という天台宗の僧侶で、二条良実(鎌倉時
太平記原本にも多くのエピソードが収載され、混沌としたこの時代に激動の生涯を送られたのが大塔宮護良親王です。上は有名な護良親王の肖像画ですが、付き従っている配下が何だか人相の悪い雑兵みたいな連中なのが、宮の状況の実際をよく表しているように思われます。宮は後醍醐天皇の第一皇子として生まれ、母は民部卿三位と呼ばれ北畠師親の娘など諸説ある人物です。師親は北畠親房の祖父にあたるので、だとすると宮は親房の従兄弟にあたります。また宮は親房の娘を正室としているので親房は舅でもあります。
3日前くらいから、体の痒みが止まらなくなりました。背中やお尻の肌が赤くなってヒリヒリもします。病院に行って診てもらったら、なんと汗をかきすぎて肌がかぶれてしまってるそうです。そこに日焼けも加わってヒリヒリとするそうです。ちなみに服を着ていても薄着だったら日焼けするそうです。・・・どんな日差しやねんいちおう飲み薬と塗り薬もらいました。話は変わりまして、奈良県は五條市から国道168号線を走って十津川村まで行って来ました五條市内本陣交差点から国道168号線に入り、十津川方面へと
神奈川県鎌倉市二階堂大塔宮鎌倉宮⛩御朱印鳥居手水舎獅子頭は古来より厄除け・魔除けのお守りとして知られ鎌倉宮の御祭神・大塔宮護良親王におかれましてもご自身の兜の中に入れて戦い鎌倉幕府打倒を果たしたという誠に由緒あるものです玄関に置いて置くと悪いものを打ち払い福を招き車にのせておくと身代わりとなって大難を小難に小難を無難にと守り導いて頂けます御祭神護良親王護良親王(もりながしんのう)は延慶元年(1308年)に後醍醐天皇の皇子としてご誕生になり
25日に開催する浦安日本塾の為の調査の一環で鎌倉に赴きました。主に、後醍醐天皇の皇子で建武中興に貢献した大塔宮護良親王の史跡巡りが目的です。最初に護良親王をお祀りする鎌倉宮をお参りしました。境内では、親王の令旨や騎馬像などを納めた宝物殿や、親王が幽閉されていた土牢を拝観しました。そこから歩いて近くの距離にある親王のお墓もお参りしましたが、昨年9月の台風による倒木で参道が封鎖されておりましたので、遥拝に留めました。さらにそこから歩いて十分ほどの距離にある瑞泉寺を訪れました。この寺は、吉田松陰先生
こんにちは!今日は連勤明けの休みですが3度寝して朝から何も食べていません。笑最近はもっぱら休日は家にいるので給料もおろさず終いでお財布がかなりエコ🌏さてさて、なんの予定もないこんな日にはブログを更新したい😊今日は久々に南北朝ネタ。2年前に鎌倉に行った時の写真をば。はい、鋭い方はこの鳥居でもうお分かりですね。笑↓鎌倉宮〜〜〜⛩(シレッとコレモリストがいます)御祭神はみんな大好き(?)護良親王💜【大塔宮護良親王】(おおとうのみやもりよししんのう)1308〜133
この投稿をInstagramで見る都留市石舩神社日本史に登場する人物の中で、私が敬愛する双璧のひとり・大塔宮護良親王とされる首級が御神体の神社でございます感無量(涙)#山梨県都留市#石船神社#石舩神社#山梨県の狛犬#大塔宮護良親王#大塔宮さま#護良親王#山梨県の狛犬#狛犬めぐり#昭和の狛犬YUKAOHNO(@yuka_tamayura)がシェアした投稿-2020年Jun月19日am4時52分PDT
山梨の地名の一つに「無情野」と呼ばれる地区があります。それにはこんな悲しい伝説が残っています。簡単に説明します。後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王の妻の一人の雛鶴姫が策略にはまって、鎌倉で斬首された大塔宮護良親王の首を妊娠中にもかかわらず持って山梨方面に逃げてきました。タイミング悪く、暮れの29日頃に産気づきましたが、近くに助けてもらえる民家もありませんでした。雛鶴姫を護衛する人達によって、雛鶴姫は男の子を出産はしましたが、飢えと寒さによって母子共に亡くなってしまいました。男の子の父
私本太平記(二)(吉川英治歴史時代文庫)Amazon(アマゾン)1〜2,106円★★★★★吉川英治先生の私本太平記二巻目。足利高氏は家督を継いで執権北条氏から嫁をもらって。なんと。足利高氏はその後に滅ぼす北条家の外戚だったのだ。正中ノ変を経て楠木正成がしっかり登場。既に後醍醐天皇は都を落ち笠置山に立て籠り、大塔宮護良親王が比叡山で挙兵する。その中で血氣にはやる弟楠木正季をなだめつつ、楠木正成はまだ立たない。面白いな、と思ったのは戦国時に強大になった毛利
玉置神社の波動をたっぷり頂いて帰路につきました。時間に余裕があったので、いつもと違うコースを行くと展望台がありました。大峯南奥駈道を見晴せる場所でした。何処が何処やらさっぱり分かりませんでしただいぶ吉野の方に帰って来ました。大塔宮護良親王の像五条で柿の葉すしを食べて帰りました。🥒🐿️🎶
安部龍太郎の太平記シリーズ第一作の『道誉と正成』を読んでいる。どのようにして読んでいるかといえば、自宅パソコンを起動させて、動作ができるようになるまでの間に読む。パソコンのスイッチを入れて7、8分くらいか。起床後、また仕事を終えて帰宅後にパソコンを起動させるとき、1日に2回、本を読む。これを1か月続けていると、いつの間にか半分くらいまで読み進んでいた。新聞の連載小説を毎朝読むようなものである。安部版「太平記」は、先に第2弾『士道太平記義貞の旗』を読み終えた。これは新田義貞の活躍
文庫本に集英社新刊案内10が挟んであった。注目の新刊に安部龍太郎〈集英社文庫〉『士道太平記義貞の旗』と〈単行本〉『蝦夷太平記十三の海鳴り』が紹介されていた。『義貞の旗』はすぐに手に入れた。「太平記」を数年前から読みたいと思っていたが、手を出せないままに月日が流れた。きっかけは熊本県山都町にある清和文楽を観たことにある。文楽にとり上げられている題材が太平記をもとにしてあった。日本と日本人を知るには「太平記」を知らなければならない。そのように思った。だけど、本物の「太平記」をいきなり読むのは荷
まさかの山登りなんで後醍醐天皇の神社は山奥にあるのだろう身体の痛みのリーディングをしていて吉野山の如意輪寺へお参りに行こうかどうしようかと考えていた奈良だから簡単に行って来れないどうしようかな(ズキズキ)年末だしどうしよう❗️今まで行ったところをおさらいしなさいとメッセージじゃあ行く方向性かな⁉️山梨県富士吉田の南朝神社⛩神奈川県総本山総持寺御霊殿北陸は気比神宮金崎宮尊良親王恒良親王藤島神社⛩新田義貞北陸総持寺祖院後醍醐天皇ゆかり極楽寺宗方親王
はい!奈央です。大蔵幕府旧蹟の前の通りを東に向かって歩いてきました。そしてたどり着いたところが鎌倉宮です。日本でたった一社だけ、天皇が自ら創建した神社が、ここ鎌倉宮です。「鎌倉宮」という名前も明治天皇によって名づけられたそうです。鎌倉宮のご祭神は、後醍醐天皇の第三皇子大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)です。護良親王まなれきドットコムHPよりお借りしました。明治天皇が、護良親王の平和国家の実現に努力した遺志を伝えていくことを望まれ、明治2
橋を渡った先にあったのは、黒木御所(くろきのごしょ)跡🍁かつて、大塔宮護良(だいとうのみや・もりなが)親王が、匿われていた場所🍁後醍醐天皇もおいたわしいけど、悲劇の皇子・護良親王の流転の人生を思うと、涙がにじむのを禁じ得ません😢訪れる人のいない、ひっそりとした静寂の中、遠い南北朝時代に想いを馳せました…😢そのあとも、寄り道を重ねる🚗紅葉見たり〜道の駅で休んだり〜ゆずこんにゃく、めちゃくちゃ美味〜🍢😍こんな調子じゃ、もう今日は熊野を回れないんじゃないか〜😱と、思い始めた矢先…
昨日の鎌倉散歩で、文化財じゃないけど、グっと来たものを、、、これは床屋さんの残骸であるもうかなり前から営業していないようだしかし繰り返し襲ってきた台風にも負けず、レトロな看板は健在しているこの看板に明かりが灯る日は、再び来るのだろうか?QBハウスみたいな廉価な床屋が流行って以来、普通の床屋さんは景気が悪いみたいだが、そして僕自身、10分1080円の床屋に通っているが、できるなら、もう一度、顔に、あの温かいタオルを押し当ててもらって、夢
令和元年9月29日母が私の長男の運動会を見に福岡からやってきたので、家族とともに比叡山延暦寺に連れていきました。ここは最澄さんが平安時代に建てた天台宗の総本山です。当時、中国から取り入れた仏教を学ぶ者が集まる大学のようなものでした。ここで学んで独自の宗派を広めた者を多く輩出しています。大講堂この近くにある梵鐘は誰でもつくことができます。願いが叶うらしいです。現在根本中堂は工事中のため、入場券を撮りました。これです。これこれ。ついに見つけました!この碑を見たくて、これまで