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…建武新政のきっかけを作ったが、のち天皇に背いて光明天皇を擁立し、征夷大将軍となり室町幕府を開いたのは【78】足利尊氏である。その尊氏は天皇から離反した事を後悔していたともされ、帰依する夢窓疎石の進言を入れて諸国に持つ土地を寄進し、元との貿易を再開して天龍寺開創の資金に充てた。
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします♪ちょうど今、大分県立美術館で「大本山相国寺と金閣・銀閣の名宝」の展覧会をやってるので、先日の休みを利用して若冲の絵を見に足を延ばして行ってきました♪大本山相国寺と金閣・銀閣の名宝|大分県立美術館(OPAM)|おおいた芸術文化の旅OITAArt&Culture大本山相国寺に守り伝えられてきた名宝www.o-bje.net美術館に入って1番初めに展示されていたのが、夢窓疎石(むそうそせき)の書が飾ってあり、そこ
国師様の警護につけた密偵は、侍者となり、「妙吉」と名乗る。
怪しい画僧のしかけは排除したが、国師様は、対の肖像画について、八幡菩薩と弘法大師の「互いの御影」があるという。
遠景の嵐山と近景の亀山を借景とした「天龍寺」庭園は、夢窓疎石の作庭で、康永3年には完成していた事を示す記述が残る。天龍寺は右京・嵯峨天龍寺に所在する臨済宗天龍寺派の大本山。暦応2年に後醍醐天皇の菩提を弔うために創建され、夢窓疎石を開山とする。庭園は方丈前の曹源池(ソウゲンチ)を中心としたもので、曹源池と龍門の滝、その前方に架かる3連の石橋と前面の池中立石と云う一連の意匠は日本庭園の傑作と評される。
聖徳太子の肖像画の中には、達磨大師と聖徳太子が対になった肖像画が祀られることがあると、国師さまは言うが、御舎弟は、別の妄想が・・・。
執事殿は飛び出す役行者や異国の預言書の話をはじめ、御舎弟は国師様に話を聞きに行く。
一泊二日錦秋の京都漫遊。夏に巡ったのがつい最近に思える京都。11/下旬の週末に巡ってきました。相当な混雑が予想されたので、新横浜6時発の新幹線で8時に京都入り。<旅の行程>1日目:嵯峨野・嵐山→東山2日目:東山9時前に天龍寺に到着です。◆天龍寺◆(世界遺産)晴天の下、紅葉"見頃"の掲示に心躍る。中門(京都府指定有形文化財)朝9時前ですが、人の流れが出来ています。11時には表まで続く行列でした…(やはり、人気観光地は11時迄が勝負)
…法号を「慈照院喜山道慶」とした。義政が創建した山荘の東山殿は義政の遺言により、夢窓疎石を勧請開山として禅寺に改められ、義政の法号にちなんで寺名を「【67】慈照寺」とした。山号は「東山(トウザン)」である。
南禅寺の三門から東に入って、水路閣の奥に南禅院があります。ブログを始める前に一度お参りしたことがあります。中3の頃から京都に幾度となく遊びに来てますが、学生の頃は父親の会社の保養所が南禅寺の近くにあったのでよくそこに家族利用で宿泊していました。福利厚生でちょっと安めだった記憶があります。部屋とかあまり覚えてないんですが、近くで湯豆腐を食べたのと風呂場の窓にイモリが張り付いてた記憶だけ残っています。南禅院▶臨済宗南禅寺派▶御本尊:亀山法皇像▶京都市左京区南禅寺福地町86鎌
【きょうの人】1020■二宮尊徳歩きスマホの先駆者■夢窓疎石(夢窓国師)禅宗の僧ですが庭園設計者としても知られる独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。■夢窓疎石(夢窓国師)禅宗の僧ですが庭園設計者としても知られるむそうそせき道号が夢窓、法諱が疎石建治元年(1275年)-観応2年/正平6年9月30日(1351年10月20日)享年7
西芳寺は、西京・松尾にある臨済宗の単立寺院。天平年間、行基が開創した四十九院の一つ・西方寺の跡を南北朝期の暦応2年に禅僧・夢窓疎石を請じて開山とし、寺名を「西芳寺」に改称した。苔庭で知られ、一般に「苔寺」と呼ばれている。この庭は、夢窓疎石・作。上部・洪隠山(コウインザン)の枯山水と、下部の池泉庭園から成る。池泉庭園は、中心に黄金池を設け2つの島を配している。池の周囲には重層の瑠璃殿や湘南亭、西来堂(サイライドウ
10月初めの秋晴れの休日。4月以来の瑞泉寺へ。◆瑞泉寺◆(国指定史跡)*入山料¥200奥鎌倉の終点から続く参道。参道脇の梅林は秋の花で華やいでいます。美しい模様を描く石畳。その先へと吸い込まれていきます。古道との分岐。数百年の歴史と今が交わる空間。木漏れ日が照らす奥鎌倉の自然。苔むした岩、流れる清水、生い茂るシダ類…そこは悠久の歳月変わらぬ風景。静かに流れる湧水のつくばい。山門枯山水庭園越し
…有名な庭園があるが、その作庭者は誰か?嵐山には、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(カチコ)が営んだ檀林寺があった。その檀林寺の跡地に後嵯峨上皇が営んだ亀山殿が、亀山天皇から後醍醐天皇に伝えられた。後醍醐天皇が崩御した後、足利尊氏が天皇の菩提を弔うため、荒廃していた亀山殿の地に建てたのが「天龍寺」である。「夢窓疎石」は建長寺の高峰顕日(コウホウケンニチ)の法を継いだ。後醍醐天皇の招きを受け、南禅寺の住持になった。後醍醐天皇の
【きょうの人】0930夢窓疎石(夢窓国師)後醍醐天皇に厚遇された臨済宗の僧■テレジアカルメル会修道女、後に聖人独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。■夢窓疎石(夢窓国師)後醍醐天皇に厚遇された臨済宗の僧むそうそせき道号が夢窓、法諱が疎石建治元年(1275年)-観応2年/正平6年9月30日(1351年10月20日)享年76ht
「夢窓疎石」尊氏に後醍醐天皇の寺を頼むみなさん、こんばんはそして、おはようございます!9月も最終日今年度の上半期も今日で終わり今日は、笑って過ごしましょう!笑う門には福来る!!さあ、今日「9月30日」の國史を学びましょう!!!「夢窓疎石(むそうそせき)、没」天正6年(観応2年、1351)南北朝時代、臨済宗の事実上のトップです後醍醐天皇の帰依を受け足利尊氏の信任を得ました後醍醐天皇の崩御の際足利尊氏に「寺を創建してください」と頼
【クレーンの日】1972年(昭和47年)に「クレーン等安全規則」が公布された。労災防止がよびかけられる。【ジェームス・ディーン忌ジェームス・ディーンの命日享年24】1955年(昭和30年)9月30日、『エデンの東』『理由なき反抗』『ジャイアンツ』に出演した映画俳優。愛車のポルシェスパイダーを運転中に大型セダンと衝突、亡くなった。【夢窓忌夢窓疎石の命日享年77】禅宗の僧。世界文化遺産に登録されている京都・嵯峨に所在する天龍寺や、京都御所のほど近くにある相国寺を開いた。三重県伊勢の
松尾大社前からバスで5分程。苔寺として名高い名刹へ。◆西芳寺◆(世界遺産・国指定史跡・特別名勝)衆妙門*参拝料¥3,000以上(事前申込制)昭和52年(1977)から2ヶ月〜2週間前の往復ハガキ申込による少数参拝制で、現在は空きがある場合のみ、2週間前からネット申込が可能。*ネット申込参拝料¥4,000以上門で参拝料を納めて御本堂へ。御本堂<由緒>臨済宗洪隠山西芳寺創建:天平3年(731)御本尊:阿弥陀如来開山:行基中興:夢窓疎石聖徳太子
3泊4日京都・北近畿漫遊初日。締めは京都五山第一位の名刹。◆天龍寺◆(世界遺産)中門(京都府指定有形文化財)賑わう街道沿いに建つ中門。慶長年間(1596〜1615)の建立です。門から続く参道の奥行き感。勅使門(京都府指定有形文化財)元は伏見城の門で、後に御所の門となり、寛永18年(1641)に当地に移築されました。屋根の反り、太い柱、重厚な土塀…貫禄。庫裡*参拝料¥500(庭園のみ)、+¥300(諸堂)臨済宗らしい、真壁造
洪隠山西芳寺(苔寺)▶臨済宗系単立▶御本尊:阿弥陀如来▶京都市西京区松尾神ヶ谷町56当地には飛鳥時代に聖徳太子の別荘があり、奈良時代に聖武天皇の勅願を得た行基が法相宗の西方寺を創建したのが始まりとされます。空海や親鸞にもゆかりがあります。一時荒廃しますが、室町時代に夢窓疎石が招かれて達磨大師に因んだ「祖師西来、五葉聯芳」という言葉から西芳寺と改められ臨済宗の寺になりました。足利幕府に篤く保護され将軍もたびたび行幸しています。応仁の乱で東軍の陣が敷かれたため攻撃を受けて焼失しますが再
台風が来るのかと怯えていた妹たちをしり目に頭が(本当は衰えているのだけれど、壊れていないと言われて勇気100倍の姉はのしのしと車に乗り込んでいつものように言いたい放題)「出発!!」道の駅にて、休憩おてららんちをいたしましょう身延山久遠寺近くのお庭の綺麗な宿坊ランチが昨年より1000円値上がりしたらしいので凹みましたが私は愉しい時間を手に入れそうな気持でワクワクお姉ちゃんだし、私の性格少し悪くても妹たちが良い人なのでやりたい放題(><)
…美しさが通称「苔寺」と呼ばれる寺院は?通称「苔寺」と云えば、西京の「西芳寺」である。山号は洪隠山(コウインザン)、本尊は阿弥陀如来である。聖徳太子の別荘が寺院になったとする説(西芳寺縁起)、聖武天皇の勅願を受けた僧・行基が建立したとの説(夢窓国師年譜)などの他、諸説があり、創建の時期や経緯を特定するのは困難だとされる。鎌倉期には、「西方寺」と「穢土寺(エドジ)」の2寺に分かれていた記録がある。法然上人が招かれて寺勢は復活したが、
…開山に迎えて建立し、嵐山と亀山を借景にした曹源池庭園がある寺院は?「天龍寺」は暦応2年、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔う為、後嵯峨・亀山上皇の離宮だった亀山殿を寺に改め、夢窓疎石を開山に迎え創建した。疎石は、自ら作庭も担当した。遠景の嵐山、近景の亀山を借景に、亀山東麓に設けられた曹源池(ソウゲンチ)を中心に構成された庭園は、池の中央正面に瀧に見立てた巨石を置き、石橋や岩島を巧みに配置した造形で、その後の枯山水や園地護岸の発展に大きな力を与えた。
鎌倉の二階堂の奥地にあるお寺【瑞泉寺】に行きました。京都の【天龍寺】や【西芳寺】などの庭園を設計した【夢窓疎石】の庭園です。奥にある岩盤をくり抜いた『岩庭』は、他に類のない光景でした。植え込みなど不要の物を一切排除した鎌倉時代に流行った禅寺の庭園だそうです。鎌倉でも奥の方にあるので、結構空いていて穴場です。混雑していないのが良いです!花も多くて、とても気持ちいい庭園でした。これが、夢窓マジックかな・・・
こんにちはSTKです。丁度去年の今頃、横浜生活も終わるので鎌倉の名所を幾つか訪問。確かこの瑞泉寺が最後だったはず。1327年、夢窓疎石の創建、岩盤を削って造られた有名な岩作庭園が目当て。参道が良いですね、出雲大社や戸隠を思わせます。緑がとにかく濃い、深い。杉本寺にも負けない苔、緑の絨毯。本堂に向います何でしょう、マイナスイオン満載。心洗われますねー。本堂へ到着。何をお祈りしたか忘れました。凄いとしか言いようがない、岩造り素晴らしい‼日本じゃないみたい、水墨画をそのままリア
というわけで・・妙心寺東林院で沙羅双樹の花を愛でて・・仁和寺~龍安寺~金閣寺のラインを「きぬかけの路」と呼ぶのですが、その近辺で行ったことのないお寺、「等持院」にマヤさんと行きました。マヤさんの車のナビが怪しい道を示すので二人で笑ったわ。たまにナビって「え?マジでここ行く?」みたいな道教えるよね結局スマホのナビでたどり着きました・・・駐車場に銅像。日本で最初に映画を作った牧野省三の銅像ここ等持院に撮影所があったそうです。(そのロケで等持院の障壁画がボロボロに
女房と喫茶店に行きました、、、日本史は、室町時代から、戦国時代の直前まで読みました、、、足利尊氏(あしかがたかうじ)は、夢窓疎石(むそうそせき)のすすめで、後醍醐天皇の冥福を祈るために、天龍寺を建設したそう、、、この天龍寺、高校の修学旅行で1回、女房と2回、計3回行ったのに、足利尊氏が建てた、と
西芳寺は、庭一面に広がる苔で有名で、通称・苔寺(こちらの方がメジャー)。奈良期の創建当初は法相宗(ホッソウシュウ)であったが、鎌倉期に法然上人が浄土宗に改め、暦応2年、夢窓疎石が入山して禅宗寺院・西芳寺に改めた。庭園は「洪隠山(コウインザン)」の枯山水を中心とした上段の庭園と、「黄金池」を中心とした下段の庭園からなり、下段の池庭はそれまでの池泉を夢窓疎石が改修したとされる。復興当初、下段の庭園は西方寺川から導水した黄金池を
…曹源池庭園を有する天龍寺の開山は?遠景に嵐山、近景に亀山を借景とした天龍寺の庭園は、「夢窓疎石」による作庭で、康永3年に庭園が完成したと云う記述が残されている。当寺は右京・嵯峨野に所在する臨済宗天龍寺派の大本山。暦応2年に後醍醐天皇の菩提を弔う為に「夢窓疎石」を開山に創建された。夢窓疎石は鎌倉末期から室町初期にかけての臨済宗の僧で、後醍醐天皇から国師号を贈られ、歴代天皇や室町幕府初代将軍・足利尊氏からも崇敬された。庭園は方丈
相変わらず唐突な投稿順になりますが、印象が強く残っているうちに庭園探訪レポートを。「苔寺」の通称で広く知られる、西芳寺を訪問しました。初めて訪れるところだったので、感動もひとしおでした。こんな生え方をする苔を見るのは初めてで。苔むした部分だけ見ると、新芽で覆われた春の森林の連なりを上から見下ろしているようにも見えます。苔の色も角度によって微妙に異なるのが新鮮で池泉回遊式庭園を3回も廻ってしまいました。ここは鎌倉時代に夢