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吉田神道【1】伊勢神道は祀官側からの神道説として提唱され、これが以降の神道思想に大きな影響を与えた吉田神道へと繋がっていきます。この吉田神道という神道説を唱えたのが吉田兼倶(かねとも)で、応仁の乱が終息した文明年間(1469~1487)のころでした。この時代は中世から近世へと至る狭間の時期で、京都は荒廃し、宮廷祭祀も滞って二十二社も一之宮も総社も経済的に困窮した状況に陥ってました。吉田家とは吉田家の本姓は卜部(うらべ)で、亀卜(きぼく)の職能を以て朝廷に仕える家柄でした
とふざけてるとお思いでしょうふざけてはいない(いやふざけてる)なんだかいろいろ調べていたら行き着いたのが吉田神道だけど、なんかいろんな繋がりがありすぎてわけわかめ~となった今日はさ尾張徳川家初代徳川義直の母於亀の方のこと調べていたんだよねこの方はさ石清水八幡宮祀官家田中氏の分家正法寺の志水宗清の娘母親は東竹甲清の娘龍雲院東竹家も石清水八幡宮と繋がりがあって石清水八幡宮っていろんなこと調べてるとちょいちょい出てくるなぁそうい
神社仏閣を巡る中で神様ってそもそも何処から来たの?どんな神様なの?なんで、それぞれに得意とする力(ご利益)があるの?仏様って?なんだか神様と似てるそれぞれに得意とする力がある神と仏は何が違うの?なんて疑問がふつふつと湧きどうしても知りたくなり古事記や日本書紀に関する本をみたり関係するものを読んでいくとあれ?神様ってちょっと想像してたのと違ってなんだかドロドロしててなんだか光じゃなく闇の部分もあるんじゃん?と
●細川藤孝・吉田兼見の家系図(吉田・清原。番外編)※参考文献ウィキペディア〇清原氏。①飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや。奈良県明日香村飛鳥)②大原浄貞(おおはらのきよさだ。都良麻呂つらまろ)(信濃守)※764年頃、浄原浄貞(きよはらきよさだ)に改名する。〇卜部兼豊(うらべかねとよ)(卜部氏16代)吉田兼熈(かねひろ)(吉田卜部中興の祖。吉田氏初代)(卜部氏17代)(1348年~1402年6月3日)吉田兼敦(かねあつ)吉田兼冨
●安田作兵衛国継の家系図(占部氏・吉田氏。番外編)3※参考文献系譜概略・占部氏年表ウィキベテア※占部氏。亀の甲羅で占う氏族。占部平麻呂(807年~881年12月29日)数代占部祐安(ひろやす)(1440年~1517年5月)占部豊安(主君・大内義興よしおき)妹(夫・吉田尚賢なおかた)占部賢安(かたやす。吉田賢安?)(越後守)吉田種安(たねやす)占部豊安(1471年~1545年11月)占部尚
●安田作兵衛国継の家系図(占部氏。番外編)2※参考文献系譜概略(千葉市と臼井・野見・占部の関係)ウィキペディア◎桓武天皇(50代)(かんむてんのう)(737年~806年4月9日)葛原親王(かずわらしんのう)(786年12月1日~853年7月13日)高見王(たかみおう)(?~?)高望王(たかもちおう)(平氏)平良将平将門(903年?~940年3月25日)次女・春姫(夫・千葉忠頼)平良文平
●安田作兵衛国継と妹の家系図(義弟・吉田秀時。吉田・占部氏。番外編)※参考文献戦国武将録・美濃美濃山岸氏の庶流諸氏と他氏に入った者たち宗像大宮司の一覧筑前宗像争乱その4宗像氏貞時代筑前宗像争乱その5宗像家の終り●安田氏安田国利(主税介もんどのすけ)(1556年~1597年)(岩津郡安田館主・愛知県額田郡岩津町?)安田国継?娘(夫・吉田秀時)娘(夫・吉田守致もりただ?)
2021年3月1日参拝。大麻止乃豆乃天神社~占いの神・櫛真智命を祀る式内社~読みは「おおまとのつのてんじんじゃ」または「おおまとのつのあまつかみのやしろ」。JR南武線・南多摩駅南口より徒歩5分。川崎街道を横断して住宅街を進むと、赤い常夜灯が目に入りました。参道入口。社号碑。「延喜式内」は控えめに細い文字です。石段は何段階にも分けて続きます。最初は5段。2対めの常夜灯があり、次は20段ほど。そして、鳥居です。創建年代は不詳。所在地は、稲城市大丸。大丸村の鎮守で、江戸時
(以下すべて神社本庁発行「御代替り」より)昨日(令和元年五月十三日)「斎田点定の儀」が行われ、その結果が発表されました。悠紀田(ゆきでん)は栃木県に、主基田(すきでん)は京都府に、それぞれ決まりました。京都て…とツッコミを入れたくなりましたが。府知事さんはどう思われたのでしょうかね…。プライドの高い京都人のこと、「東京はんにえらい蔑んでみられたもんやね」などと(笑)「うちがちゃんと決めたろか?」などとも(笑)やはり京都でも丹波国や丹後国からということになるのでしょうか。いく
Aloha!☆彡守山市幸津川町の下新川(しもにいかわ)神社へお参りしました。神使が鴛鴦(おしどり)なので、こちらも鳥の神社ですね。神社に隣接する足湯「ほっこりおしどりの湯」♨覗いてみたけど、お湯が入ってませんでした。閉まっていたのかな?鳥居をくぐって参道を歩いていると、一番始めに牛神社がありました。祭神は大己貴命。医薬・病気技芸上達の神と立て看板に書いてありました。拝殿本殿豊城入彦命が、西江州からおしどりに案内されて西のほうの浜から上がって来られ、その時に民が鮒の塩切りしたの
卜部氏は、大中臣清麻呂の曽孫の日良麿(又は平麿)が卜部に改姓したのが始まりとされています。しかし、日良麿の姓(かばね)は宿禰であるのに対し、大中臣氏の姓(かばね)は朝臣であるため、日良麿が大中臣氏の出身であることには疑念が呈され、後世の仮冒であるという見解が有力です。日良麿の子孫は代々神祇大副を務め、吉田神社の社務の家と平野神社の社務の家に分かれます。吉田社系は、室町時代の兼煕のときに朝臣の姓(かばね)を賜り、家名を吉田とするとともに、正三位に昇り公卿に列しました。戦国時代に兼俱が吉田神道