ブログ記事81件
「医学教育における模擬患者との「協働」の実態」という論文を読みました(元濱奈穂子:教育社会学研究109、93-114,2022)「かつてSPは、医学生の効率・効果的教育という教育者側のニーズを満たすための教材として位置づけられてきたが、近年は、教員と模擬患者とを立場の異なる対等なパートナーとみなしたうえで、SPの参加を通して生きた「患者視点」を医学教育に反映させる、「協働」というアイデアが提案されている。」その実態を調査した結果「第1に,患者視点は医師の専門性との差異化という条件下
第54回医学教育学会総会での「医療面接模擬患者が身体診察を兼任したPost-CCOSCEの試み」という演題では、模擬患者にアンケートを取ったところ、身体診察を兼任することで「診察の流れが双方にとって自然で良かった」と18名中11名が答えたとのことでした。良かったことは、たかだかこの程度でしかないのでしょうか。もっと深いところで「良かった」ことはなかったのでしょうか。僅差でも多数決で多かったから良かったのでしょうか、7名の人の思いはどんなものだったのでしょうか。第55回の学会では「模擬
私が初めて模擬患者というものの存在を知ったのは、『臨床教育マニュアル』(篠原出版1994)の執筆者打ち合わせの席でしたから、1992年ころだったでしょうか。接遇についての本は既に書いていたのですが(『患者さんとのふれあいハンドブック』照林社1992)、「こんな「手」があったのか」と驚きました。それで、ご縁があって東京SP研究会の模擬患者活動の手伝いを依頼された時には、とても嬉しくなりました。その時(1996年)、これで日本の医療を少しでも市民の手で変えていくことができるのではないかという夢
1996年の夏、私は、筑波大学(当時)の大滝純司さん(現・東京医大教授)から、しばらくの間東京SP研究会(現・一般社団法人マイインフォームド・コンセント)の活動の手伝いをしてくれないかと打診されました。それまで研究会を医師として支えておられた大滝さんがアメリカに1年留学している間の代理ということで、私は喜んでお引き受けしました。模擬患者のことは少し前から知っていましたし、これからの医学教育にはぜひ必要だと思っていたことも、その気持ちを後押ししてくれました。その1年前、川崎医大で行われた
★はじめに★★★★★★★★★★★★★★★2016年10月30日よりヨガを始め、インコ・オウムをこよなく愛し、食べるの大好きな東京在住アラ?♀です。長寿のインコ・オウムと暮らし始めてから、心身共に健康であることの大切さを痛感しヨガを始めました。ヨガを通して思うこと、日々の心身の変化、家族であるインコ(カボ)とオウム(ガブリエル)、旦那さまとの日常を綴ります。「ヨガ」のこと「インコ・オウム」「鳥」の魅力、そして「日々の楽しい出来事」をマイペースで綴っていけたらと思っています。*******
月曜日。始まりました、1週間。やっぱり、忙しかった。ありがたいことです。昨日までとは打って変わっての冷たい雨模様。鉛色の空、これぞ新潟!まだ、2月なんですものね。浮かれていては行けません。今週は、スタッフが一人減なので、みんなでカバーしあってがんばっています。頼もしいスタッフです。夜、実家に行ったら父がしょげていました。心臓のことでずっとS病院にかかっていたのですが、担当医が若い女医さんに変わって、開業医に紹介されたとのこと。聴診器ひとつ当てずに、
第48回医学教育学会大会(2016年)のシンポジウム「共用試験OSCE10年を考える」で、「医学生は変わったか」と問われたシンポジストが「挨拶ができるようになったことは確かだ」と答えたことに対して、「それだけなのか」と言いたげな笑いが会場に広がりました。現実には、挨拶するようになっただけでなく、言葉遣いも丁寧になりましたし、「開放型の質問」で相手の話を遮らず聞き、「共感的な言葉」を言い、話をまとめ、患者さんの考えや希望を尋ね、言い残したことがないか確認することが大切であることも知るようになりま
模擬患者は医学教育の「ツール」です。模擬患者のことを「道具なんだから使い勝手が良くなくては」と思う医学教育者がいても、それはそれで「あたりまえ」のことかもしれません(道具は、「使い捨て」のものだと考える人もいます)。医学教育者の「模擬患者さんには、いつも医学教育にご協力いただいて」というような挨拶は、「道具」だという思いの裏返しだと考えるのは穿ち過ぎでしょうか。「模擬患者さんの言葉に、医療者の在り方が問われています」などと言う人にもほとんど出会えません1)2)。それにしても、その「道具
模擬患者は医学教育のツールの一つにすぎません。そのツールをどのように教育に活かすかは教員の仕事です。教員が「演習室・試験場の外でも、模擬患者さんに礼儀正しく接しなさい」と指導すればその思いを受け止める学生・研修医は必ずいます。教員が「模擬患者とは教育上使用・利用するツールに過ぎず、教員の要請とおりに動いてくれさえすればよい」と思っていれば、その雰囲気が必ず学生・研修医に伝わります。どのように活かされるか、模擬患者は「まな板の上の鯉」です。その意味で、模擬患者さんと接する教員・指導者は、
OSCE(客観的臨床能力試験)や医療面接演習の場面では笑顔でとても爽やかにあいさつしていたのに、その学生が演習終了後、室外の廊下で模擬患者さんに会っても挨拶もしないことがあると、しばしば耳にしました。教育が身についていないと言われれば、その通りです。でも、学生の立場になってみれば、演習室・試験室の外で模擬患者さんに会っても、どのように挨拶してよいか少し戸惑っているのかもしれません。つい先ほど、ほんの短い時間会っただけの、もともと知り合いでもない人に挨拶をしてよいものか迷います。若い人で
それでも、OSCEは間違いなく成果を上げています。卒後10年くらいまでの医者が、それまでの医者より挨拶や自己紹介をきちんとするようになったという言葉は、どこの病院でも(大学病院も含めて)必ず聞かれます。そのことは、医者よりも看護師のほうが敏感に感じ取っています。「型か心か」とも言われますが、この国の習いごとでよく言われる「型から入り」、「型に込められた心を知り」、「型を超えていく」という第一段階には到達していると思います。「挨拶」には倫理が生きています。挨拶をきちんとしなければその
OSCE(客観的臨床試験)での医療面接が形骸化しているとよく言われます。型通りの応対ばかり聞かされ続ける模擬患者さんたちはいつも物足らない思いに包まれます。「普通、(患者である自分は)こんなふうに医者と話さないよね」と思います。「もっと話したい」と感じても「もう、話したくない」と感じても、マニュアルに適っていれば次の定められた言葉に移行するしかありません。こんなことで良い医者が育つことに役だっているのだろうかと心もとなくなってしまいます。教員にそのことを言うと、教員も「これは試験だから仕方がな
(5)「「共感的な言葉(「それは大変でしたね」)を言わなくちゃ」とずっと気にしているでしょう。それで、言えたら「やった!ポイントゲット」なんて思ってね。でも、これも実際には無理してでも言わなければならないというものではありません。患者さんの話を聞いていて、「大変そう」「つらかっだろうな」と心から思い、つい口をついて出てしまったというような時だけ言えばよいのです。そのような時の言葉は、「共感してもらえた」と受け取ってもらえますが、そうでなければ「嘘っぽい」と思われるだけです。でも、ほんとうに
中井久夫さんは、ドレイファス兄弟の提唱する技能習得モデルについて、医者は知らないと「嘆いて」おられました。ドレイファス兄弟は、人工頭脳は第3段階までしかやれないとしているそうです(医学界新聞2001年4月16日)。(1)第1段階(ビギナー):「文脈不要の要素よりなる、文脈不要の規則に従うスキル」である。自動車運転でいえば、アクセルとブレーキ、ギアの入れ換えの規則である。この規則は、文脈(コンテクスト,前後関係)によって変わらない(コンテクスト・フリー)。(2)第2段階(中級者):「状況
「市民の協力を得て、より良い医学教育を行う」と言われるとき、市民=SPは「協力者」でしかありません。そこでは、医学教育者の使いやすい模擬患者が「良い模擬患者」ということになりがちです。「標準化」した「SPを使用」という教育者の姿勢からは、医療者の操作対象・道具としての患者という姿勢が学生に伝わってしまいます。模擬患者さんの多くは「患者をモノとしてではなく、人として向き合ってくれる医者を育てることに繋がってほしい」という思いから模擬患者の活動に参加しています。それなのに「身体を差し出してほし
「SPは身体診察も」と、SPに「身体を差し出す」ことを求める人は前からいますが、その根拠はずっと「面接に続いてSPの身体診察ができると、診察の流れが遮られずによかった」「リアリティがある」ということに尽きています1)。「たかが」模擬患者なのに、リアリティが大切なのでしょうか。そもそも、「リアリティがある」ということをアプリオリに「善いこと」「教育効果を上げること」として語ってしまって良いのでしょうか。医療面接で本当に伝えたいリアリティがあるとすれば、それは「穏やかに、さりげなく接する裏
もうずいぶん前のことですが、見学に来た学生から聞いた話です。その大学で6年生に行うAdvancedOSCE(当時の言い方/今はPCC-OSCEと言います)では模擬患者さんがとても厳しいことを言うので、学生たちが試験の日が近づくと戦々恐々としていたとのことでした。「あなたみたいな人には医者になってほしくない」というようなことを言われて泣き出す学生が何人かいるとのことでした。今はそんなことはないと思いますが、これでは模擬患者の標準化が必要と言われるのも仕方ないことです。このような言い方を
患者さんの「すべて」を知らないと、その人とつきあえないということはありませんし、患者さんについて「知っていること」が多い方が良いつきあいになるとは限りません。「情報が多ければ多いほど良い医療ができる」と思うのは「錯覚」です。「あえて知らないでおくこと」「あえて触れないこと」を少しでも多くしたつきあいの「面白さ」と「深さ」を、ドラマに教えられた気がします。「つらいこと」などわかってもらわなくても良いし、そんなことと関係なくその人らしく明るく傍にいてくれる人とこそつきあいたい、話せば同情さ
黒柳徹子さんは、向田邦子さん(脚本家)の「切ない恋」も「恋人の死」も知らぬままに、また、渥美清さん(俳優)が癌であることを知らぬままにその末期まで、とても親密なおつきあいを続けたとのことです(NHK「トットちゃんねる」・テレビ朝日「トットちゃん」で得ただけの情報で書いていますから、事実そのままであるかどうかはわかりません)。ドラマでは、つらい症状を抱えていた渥美清さんが、そのことを知らない徹子さんから投げかけられた軽口に笑い(泣き笑い)続ける姿が描かれていました。自分のつらいことを徹子
医療面接演習で、自己紹介をして、その直後に「今日は、なんで病院にいらしたのですか」と尋ねた研修医がいました。SPさんは少し戸惑ってから「電車ですが・・・」と。面接終了後のディスカッションで、どうしてその質問をしたのか聞いてみると、「緊張をほぐそうと思って」とのことでした。「なんで」では、何を尋ねているのかわかりません。「電車で」という答えが期待するものだったかどうかはともかく、「腹痛」が主訴だったのですから、それならそれで「駅の階段は大丈夫でしたか、電車の中で気持ち悪くなりませんでした
「今日はどうされました」、「今日はどんなことでお困りなのか教えていただけますか」、(予診用紙や看護師の事前聞き取りを見て)「今日は○○でお困りだということですね」というような言葉から始まり、「それではお身体を診察させていただいてよろしいでしょうか1)」までの、外来診察での医者と患者さんとのやりとり(インタビュー)は、落語の「枕」のようなものだと私は思っています。落語は「枕」と本編、そしてオチで構成されており、この3つは一連の流れのものです。高座に登場した噺家が、観客に対する感謝の意や自
医療面接演習で「こんなのホンモノじゃないんだから」と言った学生のことを、一昨日書きました。つい私たちはこのような学生を「とんでもない学生」と思ってしまいます。でも、もしこの学生自身が「大きな」病気をした経験があったとしたら、あるいは家族の「重い」病気とつきあった経験があったとしたら、その学生のことを否定的に評価することはできなくなるでしょう。そのような事情があれば、「こんなの、違う(こんな「子供だまし」みたいだ)」、「(同級生たちは)よくこんな「お遊び」につきあってられるな」と思ってしまう
20年近くまえのことですが、学生がこのようなブログを書いていました。「SPさんのフィードバックはとても丁寧で、率直でありながらもこちらを気遣っている感じでとても勉強になった。いずれもずっと年上の人ばかりだったのでそもそも人としての年季が違うし。あ~すれば良かった、これ聞けばよかったと色々後悔しつつも発見が多くて非常に楽しい。また「こういう相槌をうってくれたのがとても嬉しくて、ほっとしました」と言ってもらったのがとても嬉しかった。その日寝るまでずっと」。30歳を過ぎて、子どもも居て、
医療面接演習の日、トイレで「どうしてあんなに患者に丁寧に接しなければならないの?」と憤懣やるかたないふうの学生の声を、模擬患者さんが聞きました。「壁に耳あり」です。タクシーやバスの中で、レストランや飲み屋で、病院や患者さんについての職員の会話(たいてい不平・不満、愚痴、悪口です)も誰かが聞いているものです。この学生は、同じトイレに模擬患者さんがいるとは気づかなかったのでしょうか、気づいていて聞こえるように言ったのでしょうか。またある大学での演習で、とても「投げやりな」感じの面接をした学
糖尿病の服薬指導の面接演習で「どうして入院されたのですか」と質問した薬学生がいたという話を、模擬患者さんたちの会合で聞きました。入院患者への服薬指導の場面だったためか指導教員から軽く流されてしまったらしいのですが、それはもったいない。このような質問のできる学生がいることに私は感心し、「どうしてそのような質問をしたのか」尋ねてみたいと思いました。もし、この学生の知り合いや身内に糖尿病の人がいれば、このような質問をせずにはいられないはずです。「体調の不調を感じて受診したところ、血糖値がとて
研修医オリエンテーションでの医療面接演習を20年以上行ってきました。この間に、医学部の教育にOSCE(臨床実技試験)が導入され、確実に(試験として評価される)ポイントを押さえた医療面接ができるようになっています。でも、逆にポイントさえ押さえればそれで十分だろうというところに止まってしまう人も少なくありません(そのような教育がされているのでしょう)。武蔵野赤十字病院の研修医たちは20倍近い倍率の採用試験を通ってきた人たちなので、学生時代に学んだことが上手にできるのは「当然」なのですが、だからとい
研修医同士で医療面接のロールプレイをしてもらった時のことです。「ご家族のことについておうかがいしたいのですが、病気の方はおられますか」という医師役の定型的な質問に対して、患者役の研修医が「おかげさまで元気です」と答えました。見ていた研修医たちは「おかげさまで」という言葉に「えっ」というような反応をしたのですが、正直なところ私も意表を突かれました。これまでずいぶんロールプレイを行ってきましたが、患者役の医療者から「おかげさまで」という言葉を聞いたのは初めてでした。なりたての研修医と言えど
病理解剖を依頼する演習をしているという話も聞いてしまいました。病理解剖の依頼は、それまでの患者・家族と医師とのつきあいの積み重ねという「重み」を背負って行われることだと私は思います。解剖については依頼する場合も依頼しない場合もありますが(強くお願いする場合も、さらっと触れるだけにする場合もあります)、最後の場面での経過説明には、それまでの時の経過とその患者さんへの医療者の想いが凝集し、医者は言葉を絞り出すしかないのです。医者になって1年目の9月、3歳の白血病の少年の死が、受け持ち患
私の経験から言うと、重い病名を伝えるということはこれまでの自分の臨床経験を背景に、その患者さんと出会ってからその時までの付き合い(たとえ数時間でも付き合いは既に積み重ねられています)のプロセスを踏まえて、(相手に認められれば)自分がこの患者さんとこの先ずっとつきあっていくという決意のもとに、長い時間をかけて十分にお話ししていくことです。そのことに私は1~2時間をかけていましたし、面接終了後には「ぐったり」していました(誰でもそれくらい時間をかけているでしょう)1)。ですから、このような演習を学
「難しい患者」の演習を試みる指導者たちがいます。無口な患者、話しすぎの患者、怒っている患者・・・・。そのことを聞いた時、私は戸惑いました。このような選別は、患者を自分の操作対象として見る姿勢があってはじめて可能です。「難しくない人」って医者に都合が良い人だと言っているだけではないですか。患者を「難しい」⇔「難しくない(容易な)」というように区別した表現を用いることは、患者を医者の論理・都合で選別して扱ってしまう感覚や「患者の中には(医療者にとって)困ったひとがいる」1)という感覚を学