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浅蜊坂函館市電の宝来町電停から青柳町のほうへ上がる坂を浅蜊(アサリ)坂という浅蜊はハマグリに似たあのアサリ貝のことである明治十一年(一八七八年)英人ジョン・ミルン米人エドワード・モースらが来函し函館在住の英人ブラキストンと協力して貝塚などを発掘したこの坂もその一つで古代人が食べたアサリ貝の殻が数多く発見されたそれで「浅蜊坂」と命名されるにいたったのである『函館区史』に「貝塚は食物調理の残物を捨てたる所…通例貝殻の存するもの多きが故に特に貝塚と名づ
いつものように朝はトマトジュース。そして、今朝の北海道新聞に入ってたこれ。私は新聞を読まないんですが、新聞を読んで夫がいつも記事について教えてくれます。記事に載ってることを色々伝えてくれて、私はふーんと聞きつつチラシを見てる。水曜日はしまむら、金曜日はユニクロのちらしがほぼ必ずはいるのでそれを眺めて聞いてます。今朝はこの脳活新聞とやらに間違い探しがあったので、朝から夫と真剣勝負。見つけてもお互い教え合わずに。私が僅差で勝ちました!!笑地味に時間かかった。次をめくると…めっ
姿見坂です標柱です函館市の鳥「ヤマガラ」です坂は西ふ頭につながっています3月16日の写真ですはこだて歴史散歩から借用しました函館・常盤坂の西隣の坂を「姿見坂」と言うもとは下に「姿見坂下」という電車の停留所があったものだ姿見とは遊郭にちなむ名だ遊郭は亨和三年(一八〇三年)十八軒が料理茶屋を出願して許されたのが始まりでのちに山ノ上遊郭と称した正式に売女渡世が許されたのは安政五年(一八五八年)で開港にともない三層楼の異人揚屋(あげや)も出来た
柳川翁之寿碑です谷地頭の西丘にある碧血碑を訪れてもその横にひっそりと建っているこの碑には意外に気がつかない碑文は実行寺十九世日謙が柳川熊吉の存命中に書いたものである熊吉は新門辰五郎の配下であったが箱館奉行堀織部正の知遇を受け箱館で多数の子分を持つ身分となり五稜郭築城工事にも参加した箱館戦争の終わった明治二年(一八六九年)五月脱走軍戦死者のかばねは後難を恐れてだれ一人顧みるものがなかったので熊吉は実行寺の十六世日隆と謀りこれを埋葬したこのことがわかり官軍
碧血碑です侠客(きょうかく)柳川熊吉は実行寺の住職と謀って後難を恐れて顧みるものもない脱走群戦死者を自ら収容し谷地頭の高地へ埋葬した七回忌に当たる明治八年(一八七五年)五月当時陸軍奉行を務めた大鳥圭介らは伊豆産の石を使い東京霊岸島で碑を造り海路運搬した総工費三千百六十円この工事担当者近松松太郎もまた脱走群工兵隊差図役であった碑の題字は大鳥とも中村敬宇ともいわれるが「碧血(へきけつ)とは義に倒れた志士の血は三年たつと碧(あお)に変わる」という中国の故事から
函館旧師範校舎夕陽(せきよう)記念館です函館市八幡町の北海道教育大学函館分校のキャンパス北側に古い木造の校舎があるもとは大学本校舎であったもので大正三年(一九一四年)北海道師範学校発足当時からの建物である昭和四十三年に正面部分だけを切り離し現在地に移築して記念館としたものである教育大学とは昭和四十一年以降の名称であってそれ以前は学芸大学であったその学芸大学も昭和二十四年以降のものであってそれ以前は北海道第二師範さかのぼって函館師範学校であったそれゆえ
猫のお母さんが、大物を当てました😧😧先月末、こちらが北海道新聞社の販売店から届きました🏀😀😀チョコも、ガン見でチェックしていましたよ🏀😺🤣🤣当選したのは、地元北海道で活動しBリーグに所属しているレバンガ北海道のペアチケット🏀😀😀試合は、この日程の中から好きな試合を1試合チョイスして行けるようでお父さんの予定として、3月に行こうと考えていますので行って来たらご報告しますね🏀😀😀追記明日、最後の無料コロナワクチン接種に行って来ます💉😀インフルエンザで、懲りたお父さん新型コロナウイルス
2015年のブログです*本棚からまた北海道の本を見つけました。渡辺一史さんの『北の無人駅から』(2011・北海道新聞社)。4年ぶりです。北海道の六つの無人駅にまつわるエッセー集です。じーじが特におもしろく読んだのは釧網本線の茅沼駅の文章。前回は読み方が浅かったのか,今回もまったく新鮮に読めました。いい本はこういう楽しみがあります。絶滅寸前だったタンチョウにかかわるいろいろな人々の行ないや思いなどが綴られていて,考えさせられます。また,いちどは絶滅
ウィリアム・レニー先生の碑昨日の写真です函館市時任町の児童遊園の一角にあるウィリアム・レニー先生は一八六六年(慶応二年)カナダのトロント市の名家に生まれ大学を終えて一九〇六年(明治三十九年)来函された途中一度帰国されたが一九四一年(昭和十六年)九月スパイ容疑で国外退去を命ぜられるまでの三十五年間四十歳から七十五歳まで函館の地にあってキリスト教の伝道と社会福祉事業と英語教育に献身された古ぼけた山高帽ようかん色の背広にドタぐつをはいて
高橋掬太郎歌碑函館市宝来町十五ノ三蓬莱温泉ホテルの前にある高橋掬太郎は岩手県の生まれだが根室で新聞記者を勤め大正十一年(一九二二年)函館日日新聞入り社会部長兼学芸部長となった詩小説脚本などにも手を染め昭和六年「酒は涙か溜息か……」の歌詞をコロムビアに投稿して採用になり古賀政男のメロディーにのって大ヒットした彼はついに昭和八年上京してコロムビアレコード専属作詞家となり昭和四十五年に亡くなるまで約三千の歌詞を発表した「啼くな小鳩よ」「並木の雨」「小
これは船魂神社にあります函館市元町の船魂神社の境内に「愛宕山」と彫った嘉永二年(一八四九年)銘の手水鉢(ちょうずばち)があるここに彫られた愛宕山とは愛宕神社のことでその神社は弥生小学校の東側の坂(東坂あずまざか)を登った上にあったいまでもこの辺に愛宕山の地名が残る幕末の書「蝦夷(えぞ)実地検考録」によればこの社は室町時代に河野政通(まさみち)が創建したとの説を伝え昔は無火神社といったそうだ祭神は迦具土神(かぐつちのかみ)で火をつかさどる神様である
こんばんはこの碑は護國神社にありますその護國神社です招魂場碑明治二年(一八六九年)八月の炎天下黙々とくわを振るい土を運んだ“ざんぎり頭”の一隊の兵士たちの努力によって函館山山腹の傾斜地は切り崩され四角の平たんな土地造成がなされた工事に従事したのは室蘭開拓方であった脱走軍兵卒でこの時造られたのが官軍戦死者を祭る「招魂場」である後に招魂社となり昭和十四年護国神社と改称された境内向かって右側には百六十五柱を祭る官修墳墓がある「招魂場」の題字は箱
山上大神宮幸坂の上の神社です創立は古く天和二年(一六八二年)で鍛冶町に奉還神明社と呼ばれたこの神明社はかつて京都所司代を務めながら明治維新の激動の波に押し流されて箱館戦争に参加した桑名藩主松平定敬の御座所として使用されたところである十一万石藩主のプライドが榎本の指揮下に入ることを許さずわずかの家臣にかしずかれ明治二年(一八六九年)二十三歳の正月をここで迎えた桑名藩はいちはやく官軍に恭順したため家臣酒井孫八郎が箱館まで来て市中取締役の土方歳三の許可を得て定
2017年のブログです*道下俊一さんの『霧多布人(きりたっぷじん)になった医者-津波の村で命守って』(2004・北海道新聞社)を読みました。いい本です。涙が出ました。道下さんは道東の霧多布の診療所で長くお医者さんを続けたかた。元々、北大医学部から1年交代の約束で霧多布に赴任したものの、1年後に北大に戻ろうとすると、地元の人たちに引き留められ、とうとう47年も診療所のお医者さんを続けられたという人です。その熱意と責任感と頑張りには本当に頭が下がります。道
今日は花火大会へ🎆生放送でインタビューされ、テレビに映っちゃいました🤣ありがとうございます♬
函館公園裏通りにある明治七年(一八七四年)八月十一日ドイツの函館駐在代理領事ルードウィッヒ・ハーバーがこの向かい側で排外思想の旧秋田藩士田崎秀親に惨殺された田崎は日本の現状を救うには外人を殺すより道なしとの狂信を持ちわざわざ外人のいる函館へ来たのであるハーバーはこの年の二月に着任したばかりの眉目秀麗な青年紳士であった山背泊まりの外人墓地に葬られて大理石の墓碑が建ったが大正十三年(一九二四年)に五十年祭が行われた際その墓碑をここに移して記念とし山
こんにちはひさしぶりにはこだて歴史散歩です湯川寺(とうせんじ)の西行法師石像です函館市湯川町三丁目三五ノ一〇湯川寺(とうせんじ)の境内に珍しい西行法師の石像がある西行法師は平安末期から鎌倉初期にかけて歌僧として名の知られた人であり歌集『山家集』などで有名だがこの歌の石像というのは北海道では少ないもちろん函館市内ではこれ一体だけのはずだこれは湯川寺の先代住職の縁者で新潟県在住の人がたいへんな西行法師の崇拝者でこの石像を同寺へ大正十二年(一九二三年)に
わ〜い木下大サーカスのチケットが当たった〜♬嬉しいついてるついてるぅ♬
昨日、35年購買している北海道新聞社の記事を見て幻滅しましたし日ハムの回し者だと、確信しましたので今後の購買について考えようと思いました📰😑まず、この札幌ドーム増収策苦戦記事❗1面にデカデカと、以前お父さんは別の投稿記事で売上が減っても改修や人工芝の更新などで毎年、何億円も日ハムの為に使って来たので差引したらエスコンの600億円と違ってまた、北広島市の数百億円とは違って市に影響は全くないと報告しました😀にも関わらず、北海道新聞社は今回札幌市民に対し不安を煽り幻滅しました🤬札幌市の財
これは作家、三浦綾子さんと、ご主人の光世さんの響き合う言葉からのものです。三浦綾子さん「人が冷たいのは、自分が冷たいのだ。人が愛してくれないのは、自分が愛していないからだ。人は鏡である。自分が笑わずに、鏡の中に笑顔がうつるはずはない。」ー太陽はいつも雲の上にーこれを受けて、三浦光世さん「人間関係においての、あるべき姿勢をあらわしている。」ー綾子・光世響き合う言葉(北海道新聞社)ー*確かに私達の人生、いつも笑顔で、また誰かを愛せるわけではないかもしれません。し
新島襄脱出記念碑元治元年(1864年)当時新島七五三太(しめた)といったのちの新島襄は二十二歳で函館市大町の相馬倉庫付近の岸壁から夜陰小舟に乗って沖のアメリカ船へ到着船長の厚情で船中に隠れることができた六月十四日(新暦七月十七日)のことでそれを記念してこの碑が建った(昭和二十九年)ただしその二年前に倉庫の外壁に記念の銘板を掲げておりそれも台石にはめたから年号がある「新島襄海外渡航乗船の処」と刻み「男児志を決して千里を馳す自ら辛苦を嘗めて豈家を思わんや
傷心残目の碑函館市船見町二二の一一の高竜寺の大玄関わきにある「傷心残目」の四字は中国南宋の忠臣・岳飛の真跡を写して彫ったもので明治十三年(一八八〇年)箱館戦争の時の旧幕会津反兵だった有志の手で建てたものだ箱館戦争時高竜寺はもっと下の方にあったが幕府軍負傷兵の仮病院に充てられていたところが明治二年(一八六九年)五月十一日官軍の総攻撃があり官軍側にあった津軽や松前の藩兵は病院もなにもあらばこそここへ乱入して入院者十余人を惨殺し寺に放火したのであるその残虐を供養したもの
おはようございます朝起きた2時50分の気温が9.7℃でしたぬるく感じる朝でしたさてと啄木小公園と玄関を出たらば雨降り…軟弱おぢさん雨で溶けたら困るのできょうの啄木小公園はお休みです時間があったので昨日の忘れ物整理をしましたカトリック元町教会司祭館ですМEの文字___どういう意味?仲良しお二人さん函館ハリストス正教会その正面です周囲の芝張り作業をしていましたカトリック元町教会のとんがり屋根屋根の上には風見鶏…だべか再度司祭館バックを街
函館市船見町二三ノ一~三のロシア人墓地の向かい側プロテスタント墓地の手前の低いれんがべいに囲まれた長方形の土地(一、五三八・二一平方㍍)がそれなんの標識もないので外人墓地の一角に中国人墓地のあることを知らない市民が多いこの墓地の正面は海側の細い通りにある墓地の正式の呼称は「中華山荘」である一番古い墓石は明治元年(一八六八年)であるが共同墓地としての歴史は明治九年(一八七六年)の開拓使書類の中にこの墓地の貸渡証書と御請書があるのでそれから始まるととみていい
函館市の新川は正しくは亀田川である昔市中を今の銀座通りへと流れていたものだが明治二十一年(一八八八年)に中ノ橋から大森浜へ直下工事が完了し「新川」と通称した新川にいくつかの橋が架かっているがその一ばん浜側の橋を「大森橋」というもとは木造だったが昭和九年三月二十一日の大火に避難者の荷物に飛び火したのが原因で焼け落ちたこの上にある高盛橋新川橋も雑踏のため破壊され避難者は満潮時のこの川に転落し氷点を前後する寒気のなかで溺死しあるいは凍死したこの川だけで約八百五十人が死ん
函館市の俗に大森浜といわれる一角に慰霊堂があり(函館市大森町三三ノ三三)その周辺は広く大森公園と称している昭和九年三月二十一日夕刻住吉町の民家から発した火は折からの風速二〇余㍍の烈風にあおられ被災戸数二万四千百八十六戸死者二千五十四人重軽傷者一万二千五百九十二人行方不明者六百六十二人という大変な大火災となった(『函館大火災害誌』による)全市の約半分が焼けた死者の合同葬は四月十日元町大谷派別院で行われその後も各所で行われたが翌十年三月二十一日の一周忌には全市をあげて
こんにちは天気が良くて暖かいのにチャリンコぎこぎこ昼から散歩は…なしでした昨日の写真です(ハリス監督記念)日本キリスト教団函館教会バス通りに面しています道路挟んでパシャリとなどちらかと云えば地味な建物です表札左ハリス監督記念禮礼拝堂右日本基督教團函館教會図書施設もありますネコさんが函館らしいですねこの建物の紹介です「ハリス監督記念礼拝堂」との表札もある米国メソジスト派でこの派は明治六年(一八七三年)日本に伝道を開始しており
昨日、発売日に買いそびれた北海道時刻表を買うため、書店に向かいました。その前に手芸店に行き、アクレーヌとさし目を買いました。これでまた、シマエナガを作ることができます。それから書店に向かい北海道時刻表を見つけたのですが……他にこんな本も見つけてしまいました。立ち読みすると可愛い写真がたくさんあって、連れ帰らずにはいられませんでした。我が家のシマエナガが、また増えていく……。
おばんですきょうの最高気温はマイナスの1.7℃12時04分でした午前中は青空三昧光に力を感じました春よ来いきょうは野暮用つぶしつぶしきれずにまた明日鯨族供養塔脊美鯨愛嬌のあるお顔SEMIKUZIRAおぢさんの愛読書の紹介文函館市弥生町の西中学校の東隣ちょうど大谷派船見支院の下に当たる場所によく出来た鯨の模型がデンと据えられている実はこれが鯨の供養塔なのだ模型になっているのはセミクジラで建てた人はもと遠洋捕鯨会社の船長兼捕鯨船鯨洋丸の砲手
早いもので今年もあと2日今年は帰省せず、お家でのんびり年越し予定です~おせちにも挑戦しようと思っておりますが、すでにHPが残り少なくなってきました3人の子どもに毎日エネルギーを吸い取られています長い長い北海道の冬休み乗り切れるのかアラフォー頑張れさて自分に喝を入れたところで1年を総括しましたので良かったらご覧ください書いてみたら、、、、今年もめっちゃ動いてました1月>>38歳を機に、開業届を提出。晴れて個人事業主となりました