ブログ記事63件
にほんブログ村永禄2年12月、北出羽国の本城・山形城では、人口が2万人を超えてきていた。当主・最上義守は蝦夷地制圧に長らく出征していることもあり、城代の氏家定直は、ひとりしみじみと思うのだった。氏家定直:殿、見てくだされ。城下に活気が出てきましたぞ。氏家定直:もののたとえではなく、町には民が溢れております。:この民が我らの力となるのです。:次は、我らの住む場所を作りましょう。「戦国伝人は石垣達成」氏家定直:城下に民が集まってきております。
にほんブログ村奥州では、最上家が南部家の最後の領土である東陸奥国への侵攻が行われるとのもっぱらの噂だった。南部家もこれまで、そういう雰囲気が漂い始めていた。しかし、最上家の天童頼長は安易にこの流れには乗らなかった。蝦夷地で依然として兵力を持つ蠣崎家への牽制をかねて、陸奥福島城に向けて出立すると触れを出した。永禄2年8月半ば、最上家は本国・山形城より、天童頼長が兵2200を率いて、陸奥福島城に向けて移動を開始した。永禄2年9月、葛尾城を巡る長尾家と武田家の戦いは、武田家が再び勝
にほんブログ村元禄2年の6月ごろ、長尾家は佐渡金山を手に入れた。そして北陸での戦いも落ち着き、再び戦を仕掛ける余力が出来ていた。永禄2年7月、長尾家は下間頼廉を先陣に、総兵力1万5千もの兵で武田家の葛尾城に進軍した。葛尾城主の馬場信春は、織田家が侵攻する岩村城へ救援に出ていたが、城代の家臣が即座に狼煙を上げて各地の城に伝達した。信玄のもとにもこの知らせは届き、自ら葛尾城の救援に向かった。SR下間頼廉本願寺【戦国大戦-1570魔王上洛す-】108円楽天
にほんブログ村永禄2年5月。この頃四国では、大名間の勢力争いは膠着状態が続いていた。急激に勢力を拡大した長宗我部元親であったが、河野家を滅ぼすところまではいけなかった。逆に隣国の一条家が、勢力を拡大しようと西園寺家に攻撃を仕掛けてくるのを救援したりと、領土拡大によってすべきことが増え、その対応に忙殺された。長宗我部元親戦国人物伝(コミック版日本の歴史)[加来耕三]1,080円楽天南海の翼長宗我部元親正伝(集英社文庫)[天野純希]896円楽天
にほんブログ村当主が武田信玄と改名した武田家。南方の今川家、東方の北条家と三国軍事同盟を結んだことにより、目指すところは京の都となっていた。武田信玄(歴史文化ライブラリー)[平山優]1,836円楽天武田信玄大全[二木謙一]1,080円楽天武田信玄と上杉謙信戦国人物伝(コミック版日本の歴史)[加来耕三]1,080円楽天武田信玄―風林火山の名武将(学習漫画日本の伝記)Amazonそしてその力は十分にあった。武田家に
にほんブログ村永禄元年12月、最上家の天童頼貞隊は蠣崎家の長門広益隊と激突した。これにより、両家は開戦した。UC蠣崎季広他家【戦国大戦-1582日輪、本能寺より出づる-】86円楽天【中古】慶廣と家康松前初代藩主蠣崎武田慶廣伝記/大江流【著】【中古】afb598円楽天慶廣と家康―松前初代藩主蠣崎武田慶廣伝記Amazon蝦夷地を治める蠣崎家には文武ともに優れた武将がおり、本土の大名から侵攻を受けることはほとんどなかった。永禄2年
にほんブログ村毛利家の尼子家に対する攻勢は止まらなかった。毛利家当主・毛利元就隊が攻め立てていた三刀屋城も永禄元年10月には陥落していた。毛利元就(1)(山岡荘八歴史文庫49)Amazon永禄元年11月、武田家の松平家への侵攻に便乗して、斉藤家は再び大垣城の奪還に動いた。連戦連敗となっていた尼子家だったが、人がいないわけではなかった。永禄元年11月、山陰地方では剛の者として知られた本城常光は、八橋城より兵1500を率いて、小早川隆景隊に攻略された羽衣石城の奪還に動
にほんブログ村伊達家と蘆名家の開戦の報告を悲痛な思いで聞いた者がいた。常陸国の大名・佐竹義昭である。佐竹家は肥沃な関東平野東部を支配する大名で、関東の覇者・北条氏もその勢力は侮りがたく、未だに侵攻は控えている大名だった。しかしその佐竹家も、北の伊達家が蘆名家を制圧して強大化してしまうと、もはや両大国に押しつぶされる以外に道はなくなり、滅亡の道しか残されていなかった。そのため、戦況には多くの間者を使って注視していたが、伊達家有利という一報を受けて、ついに重臣を集めて言い放った。「伊
にほんブログ村九州南部で島津家との戦いに敗れた大友家であったが、九州北部では名将・立花道雪の活躍もあり、着実に勢力を拡大していた。SR立花道雪他家【戦国大戦-15XX五畿七道の雄-】108円楽天元禄元年6月、龍造寺隆信は大友家に奪われた高城城の奪還に成功した。傀儡の大名で、かつ重臣・陶晴賢を失った大内家とは違い、龍造寺家は当主・隆信始め、武闘派の家臣団が健在で、未だに勢いは失っていなかった。<下剋上と戦国時代>陶晴賢領民解放のクーデター(歴史群像デジ
にほんブログ村北九州における戦乱は大規模に、そして激しさを増していた。弘治4年3月、鷹取山城での戦いは、大友家が龍造寺家からの侵攻への備えに兵を引き返したこともあり、大内家が守り切った。弘治4年3月、龍造寺家の侵攻に対し、大友家の立花道雪の奮戦は特筆ものだった。立花道雪炎の軍扇(人物文庫)[西津弘美]907円楽天ところでこの頃、京の都では正親町天皇が正式に即位した。困窮が続いた朝廷であったが、この頃から地方の大名は淘汰され始め、力のある大名は朝廷の権
にほんブログ村我が最上家は、南部・戸沢連合軍との戦がいよいよ佳境に入ってきていた。弘治4年1月の評定。前線で戦う武将より、続々と報告が入っていた。普段はぼんやりとした最上義守だが、内心は山形城から出陣していた天童頼長隊が兵2900とほぼ全軍での出撃だったので、何らかの成果を得なければならないという重圧があった。南部家の反撃が始まっていたので、その救援途上にある角館城を、総攻撃で一気に落とすべきか散々悩んだが、最前線で南部家と戦う武将らを信じ、兵の損失を抑える兵糧攻めを頼長に指示
にほんブログ南部家の石川高信隊によって包囲された高水寺城であったが、陸中国の本城でもあり、そう簡単には落城はしなかった。弘治3年10月には小野寺輝道隊が救援に到着し、石川高信隊は退却した。弘治3年10月、尼子家は再び兵3000で、浦上家の津山城に侵攻した。浦上家も同等の兵を集め、重臣の宇喜多直家らが迎え撃ち、翌月には尼子家は撤退した。宇喜多直家(人物文庫)[高橋直樹]907円楽天<宇喜多直家と戦国時代>毛利元就になれなかった備前の梟雄【電子書籍】[森
にほんブログ村弘治3年7月、本国防衛に成功した南部家は反撃に出た。石川高信隊を高水寺城へ向けて、兵1500で出陣させた。戦国大戦他067UC石川高信Amazon天童頼貞:殿、民の声が聞こえませぬか。最上義守:・・・・・・。天童頼貞:聞こえてきませぬな・・・・・・。:これは城下の民が少なきゆえにございます。:民を増やしましょう。:民が増えれば兵が増えるのはもちろん、:米や金を生み出す者、納める者も増えます。:まずは
にほんブログ村弘治3年4月、南部家の本拠地・石川城はさすがに堅かった。両軍多くの兵を失っていたが、疲弊した兵力では、石川城を攻略することは出来そうになかった。城は落ちないと確信した南部晴政は、城門を開いて反撃に出た。最上家は鮭延貞綱隊が撤退、柏山明吉隊は壊滅し戦死した。それを見たら、天童頼長隊も撤退するしかなかった。弘治3年5月、最上義守は南部家との戦が佳境に入っていることから、兵力を増強するために新たな施策に出た。九州地方で流行り始めていた、キリスト教を容認したのだ。
にほんブログ村弘治3年2月、長尾家は畠山家の北陸一の名城・七尾城を包囲し、翌月には攻略した。弘治3年3月、最上家は近隣では剣豪として名高い、林崎衆の頭領・林崎甚助の登用に成功する。<剣豪と戦国時代>神速!居合の極意林崎甚助・関口柔心・長野無楽斎【電子書籍】[渡辺誠]103円楽天剣の四君子林崎甚助高橋泥舟吉川英治/出版社:オリオンブックス108円楽天居合林崎甚助(PHP文芸文庫)Amazon林崎疾風剣革命剣居合を生んだ天
にほんブログ村弘治2年9月、南部晴政は再び総勢兵2100で、独鈷城に侵攻した。天童頼長隊の兵力は800まで減り、満身創痍の状態だったために、本国へ帰還する予定だったが、檜山城から安東愛季が1100の兵で救援に出陣したことを聞き、独鈷城へとって返すことを決意。安東愛季と挟撃して、南部晴政を敗走させた。天童頼長隊はこの戦いで本国へ帰還する気力すら失い、一旦独鈷城へ入城して休息した。しかし、この戦いの見事な用兵と勝利を驚愕の思いで見つめる者たちがいた。南部晴政[戦国大戦/R/Ver
にほんブログ村斉藤家が武田家の侵攻を受けて弱体化したことにより、美濃国を中心として大名間のパワーバランスが崩れ、今度は六角家を中心として、中部地方から近畿地方にかけて、大規模な戦が発生していた。六角家VS長野家・本願寺家連合、松平家VS六角家・浅井家連合、三好家VS六角家・北畠家連合といった具合である。六角義賢は先代の定頼が築いた外交関係を関係を十二分に利用し、新たな中部・近畿におけるパワーバランスを構築しようと目論んだ。そしてこの戦いは、弘治2年5月にはほぼ決着がつき、六角家連
にほんブログ村美濃を取り巻く情勢が変化してゆく中、織田信長は新たな同盟相手を探していた。そんな折、信長が目をつけたのは、北近江を治める浅井家であった。交通の要衝である小谷城を同盟勢力にすることで、上洛経路の安全を確保するという目的はもちろん、英邁として噂に高い浅井長政を盟友として取り込む目的もあった。浅井家を縁戚とすべく、信長は絶世の美女とうたわれる妹のお市を長政に与える決意をした。【中古】浅井長政長編歴史小説光文社時代小説文庫/徳永真一郎(著者)【中古】afb198
にほんブログ村美濃のマムシと呼ばれた斉藤道三と、その嫡子・義龍の間には対立が生じていた。その理由は明らかではなかった。生まれ持った気質の違いだという推測や、二人が実の親子ではないという噂・・・・・・娘婿・織田信長に傾倒する道三に対し、義龍が危機感を抱いたからだともいわれた。そして・・・・・・斉藤道三:何事か!?兵士:一大事にございます!:家中の者どもが結託して蜂起したとの由!:すでに他のご子息を討ち、こちらに向かっているとの報にございます!斉藤道三:・・・
にほんブログ村今川義元、死す。その知らせは、これまで今川家の尖兵として献身的に働いてきた、松平元康に大きな衝撃を与えた。松平元康:ば、馬鹿な!:本当なのか、その知らせは!兵士:間違いございません。:進軍中に奇襲を受け・・・・・・松平元康:そうではない!そんなことはどうでもいい!:本当に、織田信長がやったのかと聞いているのだ!兵士:は、はい・・・・・・確かに、織田信長が自ら手兵を率い、今川本陣を強襲したとのこと。松平元康:やったのか
にほんブログ村東海・駿河国--長らくこの地に根差し、遠江、三河、そして尾張の一部をも切り取った大大名がいる。今川義元。その手腕から街道一の弓取りと称された男は今、新たな野心を胸に、立ち上がらんとしていた。戦国人物伝今川義元(コミック版日本の歴史)[加来耕三]1,080円楽天太原雪斎と今川義元東海に覇を唱えた軍師と名将【電子書籍】[江宮隆之]700円楽天海道一の弓取り今川義元戦国武将ARMORSERIES-Bタイプフィギュア本格
にほんブログ村天文23年12月、中国地方の毛利家は動いた。三村家の備中松山城に約1万の兵で、備中高松城には浦上家と共同で、こちらも5千近い兵で攻め込んだ。天文23年12月、大内家は平戸城を攻略し、松浦家は滅亡した。この平戸城を大内家が手に入れたことで、その備えから、龍造寺家は兵力を東方に全軍展開することが出来なくなり、戦力が分散されることになった。天文23年12月。中部地方の尾張国では、織田家内の争いが終焉を迎えようとしていた。織田信長率いる総勢6000が、犬山城の
最上家は北方の南部家との戦いが迫ってきているのを感じていたが、国を富ます速度は落とさなかった。米を売却して資金を作り、国力増強をむしろ急いだ。天文23年8月、一条家を撃退し、再び朝倉城を包囲した長宗我部元親だったが、本国に三好家が侵攻してくることは想定外だった。本山城を攻撃していた福留親政隊は、本国へ撤退した。長宗我部元親[加来耕三]1,080円楽天南海の翼長宗我部元親正伝/天野純希【2500円以上送料無料】896円楽天福留親政[戦国大戦/R/Ver.
にほんブログ村九州地方の大名間の争いが激しさを増してきていた。相良家の佐敷城には、島津家が侵攻していたが、救援に訪れた龍造寺家に撃退されていた。しかし龍造寺家と敵対する大友家は、佐敷城にも侵攻。4大名が入り乱れて戦う乱戦の地となった。最後まで戦場にとどまり、城を包囲したのは大友家だった。天文23年5月、南部晴政隊は花巻城を攻略し、稗貫家は滅亡した。天文23年5月、大友家の土持親成隊は、佐敷城を攻略し、相良家は滅亡した。九州地方南部にまで大友家の勢力は広がり始めたことで
にほんブログ村天文23年1月、最上家の天童頼長は兵1700を率いて、羽後の上桧木内に向かった。天文23年3月、天童頼長は、天童頼貞の兵600と白鳥長久の兵600と合流し、角館城の戸沢家への挑発を始めた。最上家としては、山形城と檜山城の間にある角館城は、交通の要衝として手に入れておき城だった。天文23年3月、宇都宮城を攻略した北条綱成は総勢4000名の兵力で、休むことなく烏山城の那須家へ侵攻を開始した。那須家の兵力は1000名程度しかおらず、滅亡は時間の問題に思われた。
にほんブログ村羽後国の本城・檜山城を手に入れてからの最上家は、着々と勢力拡大をしていた。その一方で、その傘下に入ったかつての羽後国の支配者だった安東家の一族では、失意の中で生を終える者もあった。檜山系安東氏の第七代当主・安東舜季は、その生を終えた。この葬儀には、最上義守も参席したが、その嫡男によって行われた葬儀が思いの外盛大だったことには参列した者がみな驚いた。安東家は終わらず、そう誰もが思い直した葬儀だった。義守はその嫡男を取り急ぎ元服させることを思いついたが、その名を翌日には
にほんブログ村羽後国の本城である檜山城を落とし、安東家を滅ぼして、戦国大名として名乗りを上げた最上義守だったが、日本全土でみれば、それは小さな動きでしかなかった。天文22年8月、北信濃における葛尾城をめぐる長尾家と武田家の戦いは、武田家の勝利に終わる。景虎と晴信の直接対決まであった大戦であったが、越中から転戦してきた景虎の兵力は万全ではなく、激しい衝突は回避して、早々に退却した。戦国武将家紋Tシャツ「馬場信房」2,980円楽天戦国武将缶バッジ「馬場信房」★メール便対応★
にほんブログ村大宝寺家を滅ぼし、北羽前の統一を成し遂げた最上家は、領内政治を本格化させる。夫役強化で領内開発を促進したり、近隣の戸沢家と交易を目指したりした。また大宝寺家の家臣だった安部良輝は、その後は最上家の中堅家臣として長く活躍することになる。しかし近隣の伊達家の勢いは、最上家を上回り、天文21年12月には、磐城国の小高城を攻め立てた。相馬盛胤は、近隣では名の知れた戦上手だったが、伊達家の5000人近い兵力の前には、1000名程度の兵力で対抗することは出来なかった。
にほんブログ村天文20年11月、いよいよ最上家は小野寺家の横手城を攻略するため、羽後国に侵入する。天童頼長:氏家殿、安東は出てくるだろうか?氏家定直:出てこなければ、横手錠を落とした後に、:我らが羽後に侵攻する口実を失う。:両国が停戦を結んだという情報はある。:来るはずだ。間者:安東舜季が檜山城から兵およそ1000を率いて出陣した模様です!氏家定直:かかったな!三浦半島での里見家と北条家の戦は、北条家の勝利に終わった。信濃で
にほんブログ村信長の野望・創造withパワーアップキット-PSVita9,504円Amazon信長の野望・創造withパワーアップキット-PS410,584円Amazon北羽前統一に向けて動き出した最上義守。まずは小野寺家の真室城を攻略するため、近隣の諸勢力を味方につけることにした。林崎衆と新庄衆を味方につけることに成功した。天童頼長率いる兵1500人と天童頼貞率いる兵700人が、青沢峡に向けて進軍。目的を怪しんだ鮭延貞綱は、真室城より打っ