ブログ記事722件
※2023年8月7日訪問※天守の二階を見学し、三階へと登って行きましょう✨急で細い階段を登って行くと…最上階に到着です最上階は非常に狭いスペースとなっています欄干部分に出る事は出来ませんでしたが、掛川市内を一望する事が出来ますね✨最上階には【掛川城歴代城主の変換】と書かれた案内板が設置されており、多くの大名が目まぐるしく入れ替わっていたことがわかりますね✨登ってきた階段を上から見ると、いかに階段が急であるかがわかりますね✨最上階から降りて行く途中に何やら薄暗い小部屋のような箇所が
※2023年8月7日訪問※復元された掛川城の【天守内部】へと入って来ました入口を入ってまず目に飛び込んで来るのが、掛川城を10年に渡って治めた【山内一豊騎馬像】山内一豊が掛川の後に治めた高知城にこの騎馬像が建てられており、掛川城内に展示されているのは、そのミニチュア版と言った感じですかね✨【掛川城天守閣復元について】と書かれた案内板が設置されているので、確認しておきましょう二階に登って行きます木造復元という事で、現存天守のような急な階段ですね✨壁には【狭間】も再現されていますね✨
※2023年8月7日訪問※掛川城のシンボルである【天守】を見て行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼掛川城の天守は、山内一豊が1590年(天正18年)に掛川城主となった際に建てられたと考えられ、1604年(慶長9年)の大地震で倒壊し1621年(元和7年)に再建されたが、1854年(安政元年)旧暦11月4日の嘉永東海地震により再び倒壊。その後、天守は再建されず、天守台などの遺構が残るのみであった。1994年(平成6年)市民や地元企業などから10億円の募金を集めて、戦後初
※2023年8月7日訪問※掛川城の天守を支える【天守台】の石垣を見て行きましょう✨天守復元前の掛川城の天守台は、南面を下辺とした台形で、南側と西側は古い石垣が残り、東側と北面は昭和55年に新たな石を積み直した状態だったそうです天守の復元に向けて、石垣の解体撤去で野面積みの石垣を確認、根石や裏込め石も検出新天守台は鉄筋コンクリート造りとし、残存していた野面積みの石は日坂石(砂岩)で、新天守台南面に集約他の三面は幡豆石(花崗岩)を使用。既存の日坂石以外は全て割石とし、その積み方は全面を打込
※2023年8月7日訪問※掛川城の【天守丸】まで登って来ました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼天守丸天正18年(1590年)山内一豊が入城する以前は本丸として使われていました。一豊によって城域が拡張されると、天守閣を配置する独立した曲輪になりました。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲そして、こちらは【霧吹き井戸】と呼ばれる井戸です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼霧吹き井戸永禄12年(1569)徳川家康は、今川氏真の立てこもる掛川城を攻めました。この時、井戸か
※2023年8月7日訪問※天守丸への最後の関門である【天守下門跡】までやってきました✨【天守下門跡】という案内板が設置されていますね▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼天守下門跡天守閣へ入るための二層の櫓門がありました。調査では、櫓をのせていた基壇の石垣が見つかりました。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲かつては、櫓門が建てられていたようですが、現在では冠木門として整備されているようです◆遠江国・掛川城(雲霧城)天守丸・霧吹き井戸◆に続く
※2023年8月7日訪問※天守へ向けて歩いて行きます本丸跡から少し登って行くと【腰櫓台跡】という案内板が設置されています▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼腰櫓台跡敵の侵入に備え、広い範囲が見渡せる櫓がありました。調査では建物に登る石段が見つかりました。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲櫓台の石垣と、石段のような物が確認出来ますね✨【天守丸への登城路】と書かれた案内板も設置されていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼天守丸への登城路何度も折り曲げた狭い階段は
※2023年8月7日訪問※掛川城の【本丸跡】までやって来ました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼本丸跡城の主要部で、藩主の住まいである本丸御殿がありました。調査では建物跡はわかりませんでしたが、柱穴や礎石が見つかりました。城がつくられる以前は、墓地であったことがわかりました。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲現在の本丸跡は【掛川城公園花広場】として、市民の方の憩いの場となっているようです✨こちらにも腰石垣と玉石側溝を確認することが出来ますねでは、天守に向けて登城路を登
※2023年8月7日訪問※【腰石垣と玉石側溝】と書かれた案内板が設置されていたので、見て行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼腰石垣と玉石側溝調査では、土塁の裾(腰)から玉石積みの石垣と側溝が見つかりました。新たに積まれた登城路の石垣の下に保存されています。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲◆遠江国・掛川城(雲霧城)本丸跡◆に続く
※2023年8月7日訪問※掛川城の残る遺構の一つ【太鼓櫓】を見て行きましょう✨石垣の上に有るのが太鼓櫓なのですが、この位置からだと少し見づらいですね(笑)【太鼓櫓】の案内板が設置されていたので確認してみましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼太鼓櫓正保城絵図では、荒和布櫓と呼ばれる見張りの櫓がありました。今ある建物は、嘉永7年(1854)の大地震以後に建てられた太鼓櫓です。時刻を知らせる太鼓を置いていた櫓で、何回かの移転の末、昭和30年(1955)に三の丸から移築されま
※2023年8月7日訪問※本丸への入り口となる【本丸門跡】です本丸への入り口となる門の一つで、現在は石垣のみが残されていました✨◆遠江国・掛川城(雲霧城)太鼓櫓・荒和布櫓跡/掛川市指定文化財◆に続く
※2023年8月7日訪問※十露盤堀の側には【掛川城主要部模型】が設置されています▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼掛川城主要部模型この模型は、正保元年(1644)幕府が諸大名に命じて提出させた城絵図と発掘調査結果を基本資料として、150分の1の縮尺で製作されました。塩櫓・銭櫓のあった腰曲輪や、内堀の松尾池・乾堀は、削りとられたり、埋め立てられたりして現在目にすることはできませんが、模型ではこれらの曲輪や堀を含めた正保年間(1644~1647)頃の最盛期の掛川城の主要部が示されてい
※2023年8月7日訪問※四足門を潜り抜け、右手に見えてくるのが【十露盤堀】と呼ばれる細長い堀です【十露盤堀】と書かれた案内板が設置されていましたので、確認してみましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼十露盤堀本丸を囲む重要な堀です。十露盤堀という名称の由来ははっきりしませんが、水がたまった部分がそろばんの箱のように見えることが、その由来と考えられます。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲◆遠江国・掛川城(雲霧城)主要部模型◆に続く
※2023年8月7日訪問※掛川城の【四足門】を見て行きましょう✨小ぶりながらも立派な門ですね✨【四足門】の案内板が設置されていたので確認してみましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼四足門調査では、門の跡は見つかりませんでしたが、正保城絵図を元に復元されました。門の内側には、入城者を調べる番所がありました。本丸に通じる重要な門でした。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲四足門には、紫色の紋幕がかけられています紋幕には、山内家と徳川家の家紋が染め抜かれていますね✨紋幕
※2023年8月7日訪問※掛川城の【三日月堀】を見て行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼三日月堀本丸門の前面に配置された三日月状の堀です。深さは8mありました。調査では堀の南側から石垣が見つかりました。その下からは、柱穴が並んで見つかりました。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲三日月堀と言えは武田氏の築城技術として有名ですよね✨丸馬出の外側を防御するために必然的に堀の形が三日月状になっているんですね◆遠江国・掛川城(雲霧城)四足門◆に続く
※2023年8月7日訪問※掛川城の【三ノ丸跡】は、《三ノ丸広場》としてイベントの際などに利用されています✨現在では広大な広場となっている三ノ丸跡ですが、正保絵図によると【二ノ丸】と記載されており、逆に現在の二ノ丸跡部分には【三ノ丸】の記載が見られます時代と共に、二ノ丸と三ノ丸の役目が入れ替わったのかもしれませんね✨正保絵図によると、この三ノ丸(旧二ノ丸)南東部には【三重櫓】が記載されています同じく三ノ丸(旧二ノ丸)北東部には【二重櫓】が記載されていますが、はっきりとした遺構は確認出来ま
※2023年8月7日訪問※再建された大手門から西側に歩き、逆川に架かる《緑橋》を越えた先に【松尾池跡】と書かれた案内板が設置されていました✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼松尾池跡本丸を囲む南側の堀は、松尾池と呼ばれていました。調査では、堀の一部と江戸時代の瓦や陶器などが見つかりました。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲藩政時代には本丸の南側を守る広大な堀が設けられていたようですね✨現在では大きな【正保絵図】が設置されており、掛川城散策の参考にさせて頂きました▼▼▼▼
※2023年8月7日訪問※再建された大手門を潜った先には、【大手門番所】が移築されていました✨【掛川城大手門番所(掛川市指定文化財)】と書かれた案内板が有りましたので確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼大手門番所大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、城内に出入する者の監視や警備をする役人の詰所です。嘉永七年(一八五四)の大地震で倒壊後、安政六年(一八五九)に再建されたのが現在の建物です。明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩士谷庄右衛門が居宅
※2023年8月7日訪問※門を潜り抜け、大手門の裏側を見て行きます櫓門上部に昇る為の階段歴代城主の木札も並べられていますね✨そして【掛川城大手門礎石根固め石】と書かれた案内板が建てられていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼掛川城大手門礎石根固め石掛川城大手門は、二層式の櫓門(楼門)でした。大きくて重量のある門ですから、傾いたりしないよう基礎工事に工夫が凝らされていました。これが、平成5年(1993)の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」12個の内の
※2023年8月7日訪問※大手門跡から北側へ約50m程進むと、復元された【大手門】が見えて来ます【掛川城大手門掛川城大手門番所】の案内板こちらは大手門の復元整備の際に再現された空間でしょうか??【掛川城大手門の復元について】と書かれた案内板が有るのでこちらを確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼掛川城大手門の復元についてこの門は掛川城の城内に入る最初の門として天守閣と共に掛川城の威厳を示すに相応しい最大の門です。天正十八年(1590)より慶長五年(16
※2023年8月7日訪問※では、早速掛川城へと向かいますJR掛川駅北口から、北側へ歩くこと約10分🚶商店街の道路を歩いていると、道路に何やら違和感が…道路と歩道に大きな丸印がいくつも実はこの場所はかつての掛川城【大手門】が建てられていた場所で、道路と歩道の丸印は、かつての門の柱の位置を表しているそうなんです✨1993年(平成5年)に行われた発掘調査で礎石根固め石が12か所確認され、門の規模が解明され、復元の話が持ち上がるも、現地での復元では道路と家屋に支障をきたすとの事で、復元された
※2023年8月7日訪問※静岡県掛川市の【掛川城(雲霧城)】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼戦国時代には東海道を扼する遠江国東部の中心、拠点として掛川はしばしば争奪戦の舞台となった。朝比奈氏によって逆川の北沿岸にある龍頭山に築かれたとされ、現在見られる城郭の構造の基本的な部分は安土桃山時代に同地に入封した山内一豊によるものである。本丸を中心に、西に搦手、南東に大手を開き、北に天守曲輪である天守丸、その北に竹之丸、南に松尾曲輪、西に中の丸、東に二ノ丸と三ノ丸、その南を
前稿では、酒井忠次でない、もうひとりの重要な酒井氏の武将―――酒井政家(正親)と、徳川家康の彼へ信任ぶり、そして政治的意図について、ご紹介しました。ところで、家康から信任の篤かったという意味で、忘れちゃいけない「忠次」―――酒井忠次でないもうひとりの戦国武将「忠次」さんがいます。本稿では、「もうひとりの忠次」について扱います。その人物は、家康が以下の写真(現在)の場所を攻めたときのキーマンでした。この場所、大河ドラマ「どうする家康」では、“第6回続・瀬名奪還作戦"のところで、出てきまし
期間:2023/09/22〜09/29天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額戦)島津家久:勇敢老練の将戦)浅井長政:湖北仁儀戦)北条氏政:兄友弟恭の慈戦)本願寺顕如:栄諧僧正戦)松平元康:欣求浄土の冀戦)今川氏真:優美平明の調戦)明智光秀:神智明晰戦)九鬼嘉隆:海賊大名©コーエーテクモゲームス
期間:2023/09/20〜09/26天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額©コーエーテクモゲームス射)井伊直虎:龍潭の復飾射)田鶴姫:椿の英姿戦)井伊直政:英雄勇士の鏡薬)南渓瑞聞:日月松の扇戦)今川氏真:優美平明の調呪)瀬名姫:芳烈毅然星3射)傑山宗俊:会心撃・弐©コーエーテクモゲームス
こんにちは。9月半ばというのに35℃をマークする尾張地方。真夏同様蒸し暑くて散策などとてもする気にはなれません。さてさて今回からは遠州掛川城散策の模様をアップしますのでどうかお付き合いを。駐車場に車を停めて歩くとすぐにお城と大手門が見えてきます。復元された大手門。大手門近くの三光稲荷で道中の無事を祈願。腹が減ったのでお城近くの食堂で掛川茶のジェノベーゼ的なものをいただきました。私が子供の頃はパスタなんて言いませんでした。スパゲッティです。こ
えっ?!ちょっと待って下さい!泣いてたのね!?元康!!第6回「続・瀬名奪還作戦」にて、人質交換が完了し、川を挟んで対峙した、松平と今川の(仮設?)陣がそれぞれ退くけど、氏真の姿を対岸から見送って元康が、「退けい!」と叫んだ時、元康の右目から、一筋涙が流れたのを、私は今迄、気が付か無かったみたいです。結構観直してると思ってましたが。今迄は氏真の、瀬名や瀬名の両親に対する冷酷な仕打ちに、怒りが表情に出てると思ってたけど、もしかして怒りとは別に、氏真に対しての元康の
今川氏真の新しい書籍が出ているけどシリーズ・中世関東武士の研究第35巻今川氏真Amazon(アマゾン)7,700円7700円著者の黒田基樹さんが先日NHKの知恵泉で話していらっしゃった氏真の新しく発見された文献等そのあたりが詳しく書かれていて値段に相応しいものなんだろうけどその知恵泉ででてきた氏真さんの知恵うまくいかないだったら思い切ってあきらめる人間には見栄や欲がありしかもしがらみだらけの世の中でなかなか思い切って別の道に進むのは難しいけど
2023.7.25復元本格木造天守閣掛川駅から徒歩10分掛川城ヘやって来ました堀にかかっている橋を渡りますすぐに階段と門、天守閣が見えてきました〜◆四足門◆調査では、門跡は見つからず、正保城絵図を元に復元されました。本丸に通じる重要な門。門をくぐるとすぐに山内一豊夫妻のレリーフ恥ずかしながら、掛川城と山内一豊との関係に???めちゃくちゃ勉強不足私の知識の掛川城は今川氏真のイメージだけなのでした(ドラマの見過ぎ…)天守と城壁のコントラストが
昨今NHKは司馬遼太郎生誕100年だと騒いでいる。この司馬遼太郎という男、米国様の指示で日本の歴史を捏造し、その彼とタッグを組んで日本国民を洗脳したのが在日が番組を作るNHK。私のこの記事、お読みになりましたか?封建(1)キリシタン大名は女子を奴隷として販売司馬遼太郎著作歴史小説の欺瞞2019/08/28著https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12664117141.html今日の記事プレジデントがNHKの歴史捏造を糾弾している。