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本日珍しく2本目更新です。ゆづが今日纏った衣装が、藤の花で包まれていたことで話題になりましたが、子平町の個人宅にある藤は、政宗が朝鮮出兵の帰りに持ち帰ったものなんだそうですね。その子平町の藤は行ったことがなくてね。ゆづに関すると伊達政宗にも上杉謙信にも通じるし、なんか歴史を感じてしまうから不思議ですね。さて、その子平町(しへいちょう)のことですが、あまりよく知らないのでウィキをお借りします。林子平-Wikipediaja.wikipedia.org江戸のころの人物で
最近の河北新報は、ゆづに冷たいなと思ったら、今日の朝刊にこんな記事が。これ社会面に載ってたんですよ。一人で練習をして、振付もして、足の痛みにも耐え、みんなから置いてけぼりにされそうな思いに駆られ、どん底に落とされたこと。天岩戸に隠れて、こんなにも苦しい思いに駆られてたとはだれが想像してたのか。立ち直ったのが、春よ来いと、ロシアより愛をこめてなのが、ゆづのスケート原点というか、基本に帰ったのかなと。そして昨日世界選手権代表発表会で、もう一つの切ない会見があったこと。
(。・x・)ゞクポ年末クポ今年も終わるクポ今年最後の合戦クポヾ(。`Д´。)ノ彡人類最後の戦いクポ(。・x・)ゞ椅子に座れることを発見したクポまめはクリスマスの飾りにされてしまったクポ。゚(゚´Д`゚)゚。クポ~今年もサンタクロースは現れなかったクポコロナで休みだったクポステーキとか寿司とか食べに行きたいクポ都合が悪くなると入院するクポヾ(。`Д´。)ノ彡面倒ごとは秘書のせいにするクポ!現実に存在するとは思わなかったクポ……(。・x・)ゞ昭和のドラマでよ
これは白い布切れではない・・・・・( ̄m ̄〃)ぷ!もう11年程前に行った山形県米沢市上杉家廟所での写真なんだが、白い布ではなくて・・・・石に降ってへばりついていた雪が、今にも剥がれて落ちそうになり、余りの寒さで固まってしまったものだ。(笑)同じ年に2度旅したけど、ここでの写真らは2度目の12月の中旬頃のものです。そう・・・丁度今頃の話しだね。今、北の国々ではこの寒波のせいで、まとまった雪が降っていて、大変な事になっているというけど、私が米沢市を訪れた時
ご訪問くださいまして、有り難うございます。れっつごうです(^^)2009年NHK大河ドラマの原作にもなった、火坂雅志さんの歴史小説天地人から、私の印象に残った箇所を、紹介しています(^^)主人公は、「愛」の兜で有名な、直江兼続(大河ドラマでは妻夫木聡さんが演じました)です。今回が最終回です(^^;前回は、兼続と、石田三成とのやりとりを紹介しました。「三成、もう少し、大人になってくれよ・・・」という感じでしたが(^^;やが
多賀城へ行った後は仙台駅に戻り仙台駅から高速バスで山形へ日本100名城に行こう10番目山形城へ行ってきました~山形城といえば最上家1600年の関ヶ原の戦い時東北の地で西軍側上杉家と戦っていたのが東軍側最上家。当時120万石の上杉家と闘うのです。ヤバい!!が本音だったと思います。結局、関ヶ原の戦いが一日で決着し東軍勝利。上杉家が会津に逃げ戻る形となりこの戦いは終わりました。この戦いは慶長出羽合戦といい北の関ヶ原とも言われています。関ヶ原合戦後、最上家には57万
※2012年5月16日訪問※※2020年10月1日再訪問※甲斐の戦国大名、武田信玄の6男【武田信清の墓所】です武田信清は武田信玄の6男で、上杉家においても高家として優遇され、死後この地に埋葬されましたん?歴史好きな方はここで、疑問を覚えるはず(笑)そう、武田信玄の息子の墓が、何故上杉家のお寺に有るのか??上杉家と武田家は戦国時代の最大のライバル川中島の戦いでは5度も戦い、特に4回目の戦では、馬上の謙信公が床机に座る信玄公に斬り付け、これを軍配で受け止めたという逸話が残る程有名です
※2012年5月16日訪問※※2020年10月1日再訪問※上杉家に仕えた【甘糟景継の墓】ですこちらも、上杉家家臣【鐵泰忠の墓所】ですこのように、林泉寺さんには上杉家に関わる様々な方が眠っているんですね▲出羽国・春日山林泉寺武田信清墓所/山形県指定史跡▲に続く
※2012年5月16日訪問※※2020年10月1日再訪問※上杉家を支えた、【直江兼続夫妻の墓所】です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼寛永14年(1637年)、絶家となっていた重臣直江氏の菩提寺であった徳昌寺と林泉寺が僧録の地位をめぐって争った結果、徳昌寺は廃絶となり住職は与板(現在の、新潟県長岡市)に追放された。徳昌寺の寺域は林泉寺に併合され、米沢藩は徳昌寺にあった直江兼続夫妻の墓を林泉寺が管理することと決めた。このため、林泉寺は兼続夫妻の墓を林泉寺内に改葬した。▲▲▲▲
※2012年5月16日訪問※※2020年10月1日再訪問※本堂内部を見学させて頂き、その後本堂の裏手に向かいます本堂の裏手には【廻遊式庭園(米沢三名園)】が残されており、お寺の方の御説明によると、水を張った状態で残されているのは、この林泉寺さんの廻遊式庭園だけとの事でした▲出羽国・春日山林泉寺直江兼続・お船の方墓所/山形県指定史跡▲に続く
※2012年5月16日訪問※※2020年10月1日再訪問※拝観料を払って、境内を散策させて頂きます以前林泉寺さんを訪れた際は、墓所を拝観しただけでしたが、今回本堂内部の見学をさせて頂けるとの事で、お寺の方に本堂内部の御案内をお願い致しました※本堂内部は撮影禁止です※まず御焼香をし、林泉寺さんの歴史について丁寧に御説明頂き、御本尊並びに、毘沙門天像、歴代ご住職の御位牌、直江兼続・お船の方夫妻の御位牌など、とても貴重な寺宝を間近で見学する事が出来ますまた、長尾家・上杉家一族の御位牌が並ぶ
※2012年5月16日訪問※※2020年10月1日再訪問※林泉寺さんの東側には山門が建てられていますこの山門は、上杉鷹山公の治世当時の家老竹俣当綱邸の門を移築した物だそうです▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼現在の山門は、門東町にあった竹俣家(今の九里学園高等学校所住地)の門を明治になって移転したものです。家老竹俣当綱当時(1770年)、藩主上杉鷹山公がくぐられた門です。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲山門を潜り、境内へ向かいます▲出羽国・春日山林泉寺本堂/
※2012年5月16日訪問※※2020年10月1日再訪問※米沢市の『春日山林泉寺』さんを訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼上杉氏の本拠地があった春日山城(現在の新潟県上越市)の山麓に建立された林泉寺を元としている。関ヶ原の戦いの後に米沢に移った上杉景勝の実母(上杉謙信の姉、長尾政景の妻)仙洞院(仙桃院とも呼ばれる)が元和3年(1617年)に林泉寺14世・万安大悦を招聘して同号の寺を建立された。上杉氏の転封にともない謙信の遺骸、上杉氏関係の文書、重宝の大半が米沢に移さ
(。・x・)ゞクポ攻め終わったクポだんだん寒くなるクポヾ(。`Д´。)ノ彡勝ったクポ!僅差クポもーぐり頑張ったクポもーぐりが盟主攻めたからクポ空き家を焼いてて騙されたクポヾ(。`Д´。)ノ彡加勢はずるいクポ(。・x・)ゞ上位2個は攻めなかったクポ硬い盟主を攻めると戦功負けしてしまうからクポヾ(。`Д´。)ノ彡罠クポ(。・x・)ゞランクアップして700金もらうクポランクアップしようが変更されて、結構やりにくいクポヾ(。`Д´。)ノ
(。・x・)ゞクポ日曜日クポヾ(。`Д´。)ノ彡10月クポヽ(*´∇`)ノきそっているクポ戦功を稼いで貢献するクポ~ヽ(´Д`;≡;´Д`)丿クポ(。・x・)ゞ焼かれないように影武者を建てたクポ影もーぐりが焼かれても相手にはたくさん戦功が入るクポ本隊より戦功が高いクポヾ(。`Д´。)ノ彡どういうことクポ!(。・x・)ゞもーぐりは返り討ちにしたクポもーぐりは負けた事ないクポ攻めて戦功稼ぎたいクポヽ(´Д`;≡;´Д`)丿村があるのに攻めら
[ジョプリンアンドコー]6カラーロングカーディガンセータートップスニットゆったり冬物秋物カーディガンポケット付きゆったりカーディガン長袖カーディガン羽織アウターニットカーディガンシンプルカジュアルきれいめベーシックライトアウター通勤用ミドル丈レディース秋冬リブニットおしゃれ上着おしゃれカラー通勤ラフグリーン緑緑色XXLAmazon(アマゾン)3,280円今日は、2回目の投稿です私自身想定外の投稿です今日の前回、半分
(。・x・)ゞクポ明日から10月クポヾ(。`Д´。)ノ彡9月はどこ行ったクポ合成の仕様が変わるクポヾ(。`Д´。)ノ彡お知らせを読むクポランクアップが昔の仕様に戻るクポヾ(。`Д´。)ノ彡古いクポ(。・x・)ゞ合戦は終わったクポもーぐりは……ヾ(。`Д´。)ノ彡寝てたクポ秋は夜が長いので長く寝れるクポヾ(。`Д´。)ノ毎日寝るクポヾ(。`Д´。)ノ彡凶徒大学クポ暴徒なのクポ。゚(゚´Д`゚)゚。クポ~寝てたら焼かれたクポ酷いクポ~
(。・x・)ゞクポ朝は寒いけど、昼間は蒸し暑いクポヾ(。`Д´。)ノ彡不快クポもーぐりも、葬式代に一億九千万円欲しいクポヾ(。`Д´。)ノ彡一億と九千万クポ!(。・x・)ゞ意外と僅差クポ上位盟主を守るクポ陣を壊すクポもーぐりの税金を取り戻すクポ!ヾ(。`Д´。)ノ彡青空の盟主は焼けてるクポ一瞬だったクポ加勢も補充もする暇もなく落ちたクポヾ(。`Д´。)ノ彡兵器満載だったクポガンダムクポ赤備えは三倍の速度で動くクポ闘将同盟が黒くなっ
(。・x・)ゞクポもう合戦が始まるクポ兵が~ヽ(´Д`;≡;´Д`)丿クポクエ兵で賄うクポヾ(。`Д´。)ノ彡上杉家が攻めてきたクポ上杉謙信フードかぶってるのかと思ったら髪の毛クポヾ(。`Д´。)ノ彡どこまでが髪クポ頭頂部開放フードは意味があるクポ?(。・x・)ゞ養蜂するクポてってれ~♪ヾ(。`Д´。)ノ彡まがみんが来たクポ!まがみんともげらんを間違える人も出てくるクポヾ(。`Д´。)ノ彡JRAにまつられるクポ
「享徳の乱」という日本史の中で起きたかなり大きな内乱をご存じだろうか。先年話題になった戦国時代の幕開けといわれる「応仁の乱」の前に行われた関東での30年にも亘る鎌倉公方とその公方を補佐する関東管領上杉氏の対立によって起こされた戦(いくさ)である。「応仁の乱」は約11年の間であったが、「享徳の乱」はその「応仁の乱」を挟み、戦国時代の先取りしたとの説もある。年表的には享徳の乱勃発1449年応仁の乱勃発1467年応仁の乱終結1477年享徳の乱終結1
出羽米沢藩九代藩主・上杉鷹山の銅像です上杉神社周辺には、鷹山の銅像がいくつか建てられていますが、今回ご紹介するのは、上杉記念館の敷地内に建てられている銅像です胸像なので、よりお近くで表情を見る事が出来ますね
出羽米沢藩九代藩主・上杉鷹山の銅像です上杉神社周辺には、鷹山の銅像がいくつか建てられていますが、今回ご紹介するのは、上杉神社の参道に建てられている銅像です上杉鷹山と言えばこの名言『なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人のなさぬなりけり』この上杉鷹山の生き方は、後のアメリカ大統領、ジョン・F・ケネディにも影響を与えたそうです
出羽米沢藩九代藩主・上杉鷹山の銅像です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼上杉鷹山寛延4年7月20日(1751年9月9日)、日向高鍋藩主・秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。幼名は松三郎。実母が早くに亡くなったことから一時、祖母の瑞耀院(豊姫)の手元に引き取られ養育された。宝暦10年(1760年)、米沢藩主・上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸に移り、直松に改名する。宝暦13年(1763ね)より尾張国出身の折衷学者・細井平洲を学問の師と仰ぎ、明和3年(1766年)に
どうしちゃったの?あたしの御御足⤵︎⇧自分の足のこと言う言葉?痛いんだよ!腰から足の裏まで⤵︎また手術は嫌何回めになるんだよ!身体傷だらけ前世はそーとーの悪なの?違うよーー!!と思いたい気になるのは3月14日殿中でござる…が思い浮かぶ誕生日(笑)なにかあるキラの嫁が米沢上杉家?上杉家…主人の方は最上家…敵じゃん!考えると面白い帰宅後ドドドーン⤵︎⤵︎⤵︎疲れた〜
※2012年5月16日訪問※※2020年6月3日再訪問※歴代藩主の廟所に詣でた後は、いよいよこの方の廟所にお参りします『不識院』すなわち『上杉謙信』の廟所です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼戦国武将の中でも聖将として名高い上杉謙信は、その死後も上杉家の精神的支えとして大切に祀られてきた。遺骸は甲冑を身に纏った姿で甕に納められ、甕には漆を流し込んで固めてあるという。上杉景勝が越後から会津に移動の際も、春日山城不識庵より謙信の霊柩を移動させ、その周囲にある一片の土も運ばせたと
※2012年5月16日訪問※※2020年6月3日再訪問※続いて向かって左側の歴代藩主の廟所を見ていきます墓所の左側部分には、二代・景勝十四代・茂憲(記念碑)四代・綱勝六代・吉憲八代・宗房十代・治憲世子・顕孝十二代・斉定と、歴代藩主の内、《偶数代》の藩主が眠っています【二代・景勝】【十四代・茂憲(記念碑)】【四代・綱勝】【六代・吉憲】【八代・宗房】【十代・治憲】【世子・顕孝】【十二代・斉定】▲出羽国・米沢藩主上杉家墓所(上杉家廟所)上杉謙信廟所/国指定史
※2012年5月16日訪問※※2020年6月3日再訪問※参道の正面が上杉謙信の墓所ですが、まずは向かって右側の歴代藩主の廟所を見ていきます墓所の右側部分には、三代・定勝五代・綱憲七代・宗憲九代・重定十一代・治広と、歴代藩主の内、《奇数代》の藩主が眠っています【十一代・治広】【九代・重定】【七代・宗憲】【五代・綱憲】【三代・定勝】▲出羽国・米沢藩主上杉家墓所(上杉家廟所)/国指定史跡▲②に続く
※2012年5月16日訪問※※2020年6月3日再訪問※杉木立の中の参道を進んで行くと、左手に墓所の案内板が見えてきます上杉家墓所のあるこの地は元々、米沢城内に安置されていた謙信公の御遺骸の非難所だったそうです初代藩主・景勝公が逝去された際、この地において火葬し、廟所を建立し右左交互に廟屋を建てて、歴代の藩主が祭られています藩制時代には御廟将が置かれ、御廟守・御廟番によって守られて来ました明治に入り、廃城令によって米沢城が廃城になると、米沢城内にあった謙信公の遺骸は、現在地に移され、
※2012年5月16日訪問※※2020年6月3日再訪問※受付で拝観料400円を払い、まずは受付に隣接する資料館を見学させて頂きます▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼上杉家墓所資料館は、平成6年度から平成19年度の14ヵ年をかけて実施した「史跡米沢藩主上杉家墓所保存整備事業」の内容を紹介する目的で、平成22年10月1日に開館しました。資料館は、かつて廟所参道の中央に設置されていたと伝わる旧拝殿を利用したものです。主な展示資料には、歴代藩主廟屋工事で撒去した柱や鬼瓦等の部
※2012年5月16日訪問※※2020年6月3日再訪問※国指定史跡【米沢藩主上杉家墓所】に参拝して来ました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼上杉家墓所は、山形県米沢市にある米沢藩歴代藩主の墓所である。1984年(昭和59年)1月11日、米沢藩主上杉家墓所の名称で国の史跡に指定された。戦国時代の大名である上杉謙信が越後国(新潟県)春日山城に没すると、その遺骸は漆を塗り甲冑を着せて埋葬された。後継者の上杉景勝は、後に天下統一を果たした豊臣秀吉の臣下となり五大老に任じられ、会津へ