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【4月23日(土)】三木城平山丸(別所治定の館があったとされる)跡地に建つ「正入寺」池田輝政の家老伊木忠次が3万7千石を与えられて三木城主となった際、先君池田恒興(勝入斎)の供養のため建立したそう。当時の寺号は「勝入寺」元和2年(1616)6月池田利隆急逝により池田家当主となった光政は僅か8歳であったため鳥取へ移され、勝入寺も移ったが、同年8月に「正入寺」として再建され、伊木家の菩提寺として続いています。所在兵庫県三木市本町1丁目撮影令和4年4月23日①参道入口②境内
中浜地蔵兵庫県姫路市飾磨区中浜町2丁目英賀城は別所氏の三木城、小寺氏の御着城と並び播磨三大城と称された。別名、牛地蔵。当地は英賀城の内堀跡にあたる。1681年、法寿寺が建立され、英賀薬師となった。その北裏の小溝に橋板があり、野良行の「牛」が橋を渡らず、農夫が不思議に思い、良き手がかりはないかと、裏側をうかがうと「地蔵尊」のお姿があり「牛の仏心」に村人達は深く感銘し、崇敬のため、この地にお祀りした。
野上城(加西市中西町垣内)別名:野上構居・中西構居野上城は、築城年代は不明だが、三木城主別所長治の家臣岩崎源兵衛が築城、天正八年、三木城落城の際に廃城となったと云われている。常泉寺大歳神社城跡らしき遺構は見当たらないが、微高地となっており、城跡らしき雰囲気は感じられる。加西市の城
ご訪問いただきありがとうございます上の丸公園で撮った写真青い光が光の玉がこちらは光にやや包まれつつはい、こちらは光のラインが飾られてる意図的だったらよかったのにレンズ汚れてるのかなぁ絞りがあってないんだよねたぶんはぁ~、もっと勉強しなくてはすべての人にHappyな時間を素敵な笑顔で溢れる時間が増えますように最後までお付き合いありがとうございますフォローお願いしま~すキヤノン|CANONPSSX70HSコンパク
三木城趾上の丸公園です🏯東播磨最大の勢力を誇る三木城主🏯別所長治と織田信長の部将、羽柴(後の豊臣)秀吉の間で起こった三木合戦では、「三木の干し殺し」と呼ばれる兵糧攻めが行われた城です🔥最後は、長治ら別所一族が自害して三木城が落城しました👽伝天守台の上に☝️「今はただ恨みもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」と記された長治公辞世の碑があります🙇🏻三木城跡には建物等の遺構は残っていませんが、本丸に別所長治公の騎馬像があります🐎手を合わせると秀吉の前に無念に散った当時の別所長治公
こんばんは先日「道の駅みき」に行ってきました。お野菜を買いにです。白菜、ねぎ、生姜、トマトなどなどお鍋の食材です。「みき」とは兵庫県三木市のみきです。こちらには何回か来ていますが、「金物の町」だそうです。道の駅みき道の駅みき道の駅みき|兵庫県三木市福井2426番地先国道175号線沿い、山陽自動車道三木小野ICから車で南に約5分。三木金物、ご当地グルメ、新鮮野菜、お土産、イベント情報、三木市観光情報mikiyama.co.jp全国的にも有名な「金物まち」として有名だそうです
●徳川家康の家系図5②(松平長親)(天野氏・三木氏)◎遠江天野氏(伊豆国田方たかたぐん郡天野郷。静岡県伊豆の国市天野。発祥)天野虎景(小四郎。安芸守)天野藤秀天野正貫(三河天野氏)天野景貫(かげつら)(?~?)(主君・今川義元。武田信玄他)天野景貫(宮内右衛門尉。安芸守)(遠江犬居城主)※弾正(だんじょう)(監察・警察機構の職務を行うこと)。※岐阜県本巣市真正(旧弾正村)の出身の人?※天野弾正氏に該当する人は、検索できず。◎三木城跡。三木松平家。日
岡山県を出発した私は兵庫県三木市へと立ち寄り、織田家の部将・羽柴秀吉が行った中国征伐のひとつである『三木合戦』の行われた地、『三木城跡』にやって来ました。そもそも中国征伐とは何か…というと、中国地方における織田信長と毛利輝元の戦いの事です。天正5年(1577年)以降に、織田信長が主として羽柴秀吉に命じて行った、毛利輝元の勢力圏の山陽道・山陰道に対する侵攻戦であり、戦自体は足かけ6年にも及び天正10年(1582年)に講和するまで続きますが、その2日前に本能寺の変にて織田信長が横死したため未完
1578年(天正6年)は荒木村重や別所長治による謀反があるなど第三次の信長包囲網が築かれるなかで、時代の大きな転換期に向かいます。図中01578年2月別所長治羽柴秀吉に反旗三木城に立て籠り毛利輝元に通じる。東播磨も追随した。丹波の八上城の波多野秀治(長治の舅)も立て籠った。(光秀が応戦)図中1〜3同年10月石山城の本願寺を囲んでいた荒木村重が有岡城に籠って信長に反旗を翻した。これに茨木城の中川清秀(村重の従弟)、高槻城の高山右近も呼応した。村重は毛利、本願寺に人質と誓紙を差し
「天守台シリーズ」第57弾は、「三木城」です。現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケース
朝顔光明寺の前の道を隔てて浜の光明寺の屋根が見えます明石駅東側の道を南側の道を南に下がった所に浜の光明寺はあります浜の光明寺山門山門は三木城から移築されたものと言われてる光明寺前にある石の顔出しベンチになってるようです付近の案内図もありました中に入ってみると恵比寿さま大黒さま山門を内側から見る劣化が激しいのでロープが張られます和鐘本堂こちらには明治天皇もお泊まりになられたようです
鳴尾山城(西脇市板波町字嶽ヶ鼻)鳴尾山城は野村町の野村構居とセットとなる山城であったと推定され、城主は上原氏と考えられます。上原氏は戦国時代の混乱に乗じて這田荘重国郷の実権を握りますが、自立の困難差から自らも当時北播磨全域に覇権を広げていた在田氏の被官人となります。鳴尾山城は戦国時代の末期に北播磨進出を狙う三木城の別所氏に落とされ這田荘も別所氏の支配地となりますが、上原氏がその後どうなったか分かっていません。鳴尾山城は小規模ですが特徴的な構造をもち市内でも保存状態のよい城跡の一つです。(※現
阿形城(小野市阿形町小字林山)別名:東林山城・東林山構居・林山城阿形城が文献に登場するのは天正年間(1573~1592)だけであり、それ以前のことは不明である。すなわち、『播州古城軍記』等では、阿形城主油井土佐守勝利は別所長治の幕下であり、三木合戦時、三木城へ籠城、そのため阿形城も天正九年に秀吉に攻められ落城している。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)広大な主郭主郭より北に上がり北二郭南堀切跡南館跡?阿形城遠望小野市の城
来住城(小野市来住町小字沖ノ西)別名:来住構居・沖之城『播州古城軍記』等によると、来住城主は清和源氏多田満仲の後裔が当地方に下向し、代々来住氏を名乗っていたようである。『赤松家播備作城記』では、来住城創築は正和二年(1313)、来住安芸守惟友によるとし、代々安芸守を世襲したとある。歴代の来住城主系譜は文献により大きく異なり、実際のところ不明である。歴代城主中最も有名なのは天正年間(1573~1592)、別所氏に従った景政および嫡子三郎景利であったが、両人共、三木合戦時に三木城へ籠城、天正八年
垂井城(小野市神明町・垂井町字西脇西)別名:林山城・垂井構居・宮崎構居築城時期は不明、垂井荘を本拠としていた国人の垂井中務丞、もしくは別所氏の一族の蓬来氏が城主だったと云われる。三木合戦時、城主の垂井武蔵守雅治は三木城に籠城、大いに活躍したと伝わる。神明神社の建つ主郭境内を一段下がり、南二郭?垂井城遠望小野市の城
池尻城(小野市池尻町小字水ノ平)『市場村詩』によると、池尻城は天正年間(1573~1592)、別所長治の幕下の某の居城であったが、秀吉に攻落されたとなっているが、この城がそれ以前より存在していたかどうかは不明である。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)北西三郭北西二郭南帯曲輪北西二郭北西二郭の北竪堀北西二郭の南竪堀主郭の南西横堀主郭主郭の南東土塁南東堀切南東堀切の土橋南東堀切からの北東竪堀南東堀切からの南西竪堀南東二郭南東二郭の区切りなのか?南東隅の土塁南東二郭の
10月3日(日)「三木の干殺し」として語り継がれている三木合戦。秀吉の数多い合戦の中で22か月もかけて苦戦して開城させた合戦は三木城だけといわれています。城主の別所長治は、家臣や領民の助命を条件に城主一族の自害を秀吉に書状を送り、自害して果てました。23歳、まだ若い城主だった。三木城跡に建立された長治公の石像ここに立つと、長治公は何を思い見ているのだろうと、いつも思う。。。天守台跡には長治公の辞世の句碑があります。
鯰坂城(小野市高田町小字兼ガチ)城史は不明であるが、『加東郡詩』に「城主は天正年間三木城主別所長治の部将鯰権之丞」と記されている。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)主郭主郭の北土塁主郭の南土塁主郭の西土塁南堀切南二郭南二郭の北土塁南二郭の北東土塁図には無いが南二郭の南土塁図に無い南三郭鯰坂城遠望軌跡ログ小野市の城
最後です。続いて、ⅩⅠ郭、新城東隣の区域です。字が「上ノ丸鷹尾口」の為、参考文献では「鷹尾口」と仮称しています。東に二位谷川が流れ、外堀の役目を果たしています。ここも雲龍寺西側と同じく、小笠原期の家臣団屋敷があった、若しかすると中川期に遡るかも知れない、と言われています。-ⅩⅠ郭(順に西から、南から)--ⅩⅠ郭東斜面(順に上から、下から)--ⅩⅠ郭東堀-次にⅩⅡ郭、鷹尾口から北に一段低い区画です。字が「上ノ丸今宿」の為、参考文献では「今宿」と仮称して
続きです。堀Cの南には南構が設けられています。三木合戦では、三木本城(本・二の丸)と「堀一重」を隔てた「鷺山と申構」が織田軍によって占拠されました。それがこの区画のことで、他の文献では「南構」の呼称で呼ばれています。この区画は北のⅢ郭と南東のⅣ郭との二郭構成です。前者は東西に細長い、狭い曲輪です。現在、宅地化されています。-Ⅲ郭--Ⅲ郭下-この二郭間には堀Dが流れ、東はⅩⅠ郭に、西は山の麓で水堀に接続しています。南構付近で言うと、辺りに較べて一段低い場所があり、
皆様こんばんは。今月も宜しくお願い致します。前回の予告通り、今週から二週間に亘って三木城やその付城・土塁群をご案内します。今週は先ず、包囲された側の三木城について見ていきます。二の丸に設けられた三木市立みき歴史資料館で販売中の『みなぎの2』に於いて、最終段階の三木城(以降、その当時の城主に因んで「伊木期三木城」と呼称)の復元縄張り図が掲載されています。今回はそれに沿って、各曲輪を見ていきます。なお、その縄張り図は此処に掲載しませんので、興味のある方は是非ともご購入下さい。欲しい方は、
小堀城(小野市河合町小字小堀)「三枝家文書」(『加東郡詩』所収)によると、小堀城の創築者は三(光)枝三郎正頼となっている。しかし、小堀城主として各種文献に登場するのは、天正年間(1573~1592)に別所氏に従い三木合戦に参加した三枝備中守治吉とちう者である。『信長公記』などには天正七年の条にその一族と思われる三枝小太郎、道右、与平次という者が登場している。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)なお、現地説明看板によれば、城主は赤松氏の一族とされる光枝氏で、三木合戦時には当城を焼き払って三木城
最近、読んだ面白かった歴史小説。まず1955生まれ安部龍太郎。現役の歴史小説作家ではこの安部龍太郎とちょい年下の伊東潤が最高峰と思っていますです。大友宗麟の話。ドロドロの毛利との抗争が面白いす。毛利って東方への攻撃意欲はそれほどですが…西方、具体的には博多奪取はもう超アグレッシブです、、尼子家の岩見銀山を奪って大貿易港・博多を押さえたかったのか、旧・大内家の後継者つう自負ですかね。。次。1979年生まれ天野純希の最新作、かな。三木城攻防戦のお話。三木城防衛側の話
長松寺城(神戸市北区淡河町淡河)淡河城の出城であったが、羽柴秀吉の三木城攻めの際、攻め落とされ、淡河城の付城となった。現在は長松寺が建ち、遺構らしか物は見当たらない…長松寺城遠望神戸市北区の城
続きです。十三個目は長束館です。水口岡山城主・長束大蔵大輔正家の生家です。現在は住宅となり、周りに堀の痕跡と思しき水路があります。-長束館--堀ヵ-十四個目は伊岐代城です。浜街道と志那港からの水路との交点に建てられました。建武二年に山門僧徒が武装し築城しました。ですが、一日で陥落しました。現在は印岐志呂神社となっていて、明確な遺構は残っていませんですが、境内に堀や土塁と思しき構造物があります。-神社鳥居・石碑--神社神門--神社神楽殿--
淡河西付城(神戸市北区淡河町淡河)羽柴秀吉が淡河城を攻めた時の付城。主郭南西竪堀北西竪堀帯曲輪状の北西二郭帯曲輪状の北西三郭北西四郭北西五郭淡河西付城遠望軌跡ログ実地踏査を元に作成した概略図神戸市北区の城
福谷城(神戸市西区櫨谷町福谷字上惣代)端谷城主の衣笠五郎左衛門範弘が築城した支城の一つ。天正八年に端谷城と共に落城。秋葉神社の建つ主郭主郭の北の東竪堀土塁に囲まれた北二郭北二郭の北西虎口北尾根との境の北土塁福谷城遠望軌跡ログ実地踏査を元に作成した概略図神戸市西区の城
西盛城(神戸市西区押部谷町近江)別名:近江寺砦詳細不明。別所氏の支城の一つと思われる。東二郭東二郭の西土塁東横堀東横堀からの北東帯曲輪状の横堀主郭北帯曲輪北東二郭北東横堀主郭南帯曲輪主郭東腰曲輪主郭主郭南西腰曲輪西堀切西堀切からの南竪堀土塁状の西二郭自然地形の西三郭実地踏査を元に作成した概略図軌跡ログ西盛城遠望神戸市西区の城
押部城(神戸市西区押部谷町福住字北山)別名:福住古城『別所御内押部弥太郎孫伝聞之趣』(「三木法界寺文書」)に「押部谷一万石を納む者也」という記述があり、押部谷は三木別所の一族押部弥太郎が治めてあたと考えられる。そして、その居城としては、地理的・構造的にみてこの押部城が該当すると推定できる。なお、押部弥太郎は天正八年(1580)正月十八日三木落城の時に鷹尾山城にて自殺したと伝えられており(『明石名勝古事談』第十本)、押部城もこれに前後して落城したのであろう。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)