ブログ記事123件
高畑城(神戸市西区伊川谷町前開字高畑山)高畑城は、文明十八年(1486)に伊川荘(山城大光明寺領)の代官職に任命された明石氏が構築したものと考えられている。その初代城主は『蔭涼軒日録』によると、赤松春日部流の明石法眼周防守宗安である。その後百年間、この城の歴史は史料に見えず謎であるが、天正年中(1573~1591)に明石与四郎則真が城主として登場する。その則真は、天正六~七年の三木合戦で羽柴秀吉側に属し、端谷城攻略のための対城として高畑城を守備したとある(『村上源姓衣笠氏族譜』)。三木城落城後
池谷城(神戸市西区櫨谷町池谷)池谷城の築城時期や城主などを知る史料は今のところ見当たらない。鎌倉時代中頃、池谷城のある櫨谷の地には、櫨谷の荘園管理者として赤松一族の衣笠氏が入った。衣笠氏は以後同地に住み着き在地領主化していったと思われ、そのことに関連した記事が『如意寺旧記』『如意寺寺社改』にみえている。池谷城はこの衣笠一族の城の一つと考えられる。天正七年(1579)、織田信長の三木城攻めの際、衣笠氏の本城端谷城は羽柴秀吉に落とされ、滅亡した。この端谷城攻防戦で、池谷城は秀吉の手に落ちたらしく、
【世界遺産富岡製糸場WEDDING】。国宝置繭所のホールで行う未来と地域をつなげる...PRTIMES「世界遺産という特別な建物としての価値を尊重し、建物と調和した空間デザインで、ウェディングに興味のある若者への関⼼を追求し富岡製⽷場...週末に無形文化遺産を体験チャイナネット6月6日、2021年「文化と自然遺産の日」長沙市無形文化遺産宣伝展示活動が湖南省長沙市の浜江文化園で開幕した。オンライン・オフライン形式で...世界遺産、地域の活力に縄文遺跡群議連で青森
5月に入ってから、道の駅めぐりは自粛GWの関東で道の駅に多くの人が押し寄せて駐車場は満車と言う状況を報道番組で見たので、行く気が失せた。ダメだこりゃ県内の道の駅では、緊急事態宣言発令期間中は臨時休業って所もある。GPSチェックインに影響ないとは言え、閉まっている道の駅を巡るのも味気ない今後の状況をみて再開予定2021/5/4(火)密を避け、マイナースポットを目指して出かけてきた。🚴JR加古川線を越えて東進。失敗
宮脇城(三木市吉川町稲田字屋鋪之内)宮脇城は毘沙門城を本城とする藤田河内守の居城と伝えられ、『累年集要』(元禄十二年)には、宮脇城を藤田河内守の下屋敷である、と記している。城が築かれた時期は室町時代になってからであろう。時期を間接に示唆してくれる資料として、藤田河内守が建立したと伝える若宮八幡宮(城の西方約200m)の記事が『吉川町誌』に記載されている。町誌には、若宮八幡宮が藤田河内守広興によって延徳三年(1491)に造営され、社領田を寄進されたとする。また当社の馬場で馬駈をする神事や、秋祭に
渡瀬城(三木市吉川町渡瀬)渡瀬城の城主である渡瀬氏については、「法光寺文書」『建内記』『渡瀬系譜』等によっておおよそのことがわかる。「法光寺文書」には、観応元年(1350)に小野盛国が法光寺(吉川町法光寺)へ塔敷料として田地を寄進、文安四年(1447)にその子孫が「藤田掃部助先祖寄進塔敷云々」の文書を残している。吉川上荘の領家万里小路時房の日記『建内記』から、渡瀬氏がこの藤田氏の一族であることを確認できる。ただし、『渡瀬系譜』は渡瀬氏が近江の佐々木源氏の一族であるとしている。『渡瀬系譜』によ
有安城(三木市吉川町有安字平須)有安城は、渡瀬城(吉川町渡瀬)を本城とする渡瀬氏の居城である。『播州明石記録』に「渡瀬小次郎三木郡上渡瀬有安」とある。有安城の築城時期については室町時代というだけで、確実なところがわからないのであるが、城主である渡瀬氏については、「法光寺文書」『建内記』『渡瀬系譜』等によっておおよそのことがわかる。「法光寺文書」には、観応元年(1350)に小野盛国が法光寺(吉川町法光寺)へ塔敷料として田地を寄進、文安四年(1447)にその子孫が「藤田掃部助先祖寄進塔敷云々」
市野瀬城(三木市吉川町市野瀬)市野瀬城は、藤田玄門の居城と伝えられている。また「石峰寺文書」によると、小野真行(一ノ瀬左衛門三郎)が嘉元三年(1303)に石峰寺(淡河町神影)へ田畑を寄進している。この真行が一ノ瀬氏を名乗っているので、市野瀬を領していたのであろう。一ノ瀬氏は吉川上荘を領する小野氏(後の藤田氏)の一族である。城主の藤田玄門は、曹洞宗永天寺(吉川町楠原)に帰依していたらしく、永天寺の仲山義閑を招き、寺領百石を寄進したり、天文十五年(1546)に寺が火災に罹ると、仲山住職を助けて七堂
中村城(三木市細川町細川中字神田)三木城主別所氏の一族、岡村大炊助祐治の居城。中村城跡北側は美嚢川に面した断崖東の空堀跡中村城遠望三木市の城
正入寺城(三木市上の丸町・本町一丁目)三木城の一郭。別所小八郎治定の居館跡と伝わる。三木市の城
石野氏館(三木市別所町石野字山ノ下)三木城主別所氏の旗下、石野越中守氏綱(氏満?)の館と伝わる。主郭北土塁北東櫓台?櫓台から伸びる土塁西土塁東土塁北東虎口?三木市の城
ここからは播磨国の、三木市以西の小さな城々をご案内します。一つ目は千歳山城です。相馬小七郎秀政から五代が治めました。現在は高森神社になっており、三段の削平地が残っています。-遠景--下段曲輪--中段曲輪--奥が上段曲輪-二つ目は岡城です。近隣の三木城の主・中川小兵衛尉秀成が移封された、豊後国の城ではありません。金鑵城主・中村与次郎正満の家臣である丹生太郎左衛門尉が城主だったそうです。-参考:金鑵城-現在は立ち入り不能の天満宮となってい
小和田神社付城(三木市別所町小和田)三木城攻めの包囲陣の一つと思われる。詳細不明。南十二郭南十一郭南十郭南九郭南八郭(現参道)南東七郭南六郭南五郭南四郭南三郭?(社殿下)社殿の建つ南二郭?主郭小和田神社付城遠望実地踏査を元に作成した概略図軌跡ログ三木市の城
鳥町河原ノ付城(三木市鳥町)三木城攻めの包囲陣の一つ。別所重棟が布陣。帯曲輪状の南西四郭帯曲輪状の南西三郭南二郭東二郭主郭の石垣主郭主郭の北西土塁北二郭跡東三郭跡鳥町河原ノ付城遠望実地踏査を元に作成した概略図軌跡ログ三木市の城
平田村山ノ上付城(三木市平田)三木城攻めの包囲陣の一つ。古田馬ノ介が布陣。西九郭西八郭西七郭西六郭西五郭西四郭西三郭西二郭主郭南東二郭南東三郭広大な南東四郭北二郭広大な北三郭平田村山ノ上付城遠望実地踏査を元に作成した概略図軌跡ログ三木市の城
平田村中村間ノ付城(三木市平井字北山・廻り山・細川町細川中)三木城攻めの包囲陣の一つ。竹中半兵衛重治が布陣。主郭主郭の東土塁帯曲輪状の西二郭帯曲輪状の西三郭平田村中村間ノ付城遠望軌跡ログ三木市の城
平井山ノ上付城(三木市三木市平井字ソケ谷大ベラ・新野)三木城攻めの包囲陣の一つ。羽柴秀吉の本陣。西北西の階段状の曲輪群北二郭北二郭上段北西三郭北西四郭北西五郭北西六郭北西七郭北西八郭北西八郭東帯曲輪北西八郭東帯曲輪北端の北北西十郭北西九郭北西十郭北西十一郭北西十二郭北西十三郭北西十三郭からの東帯曲輪北北西端の広大な曲輪北北西の曲輪群主郭主郭の南西土塁主郭の北西土塁主郭の南東土塁南西二郭南西三郭南西四郭南西五郭北東三郭北東三郭の櫓台北東
淡河城(神戸市北区淡河町淡河)承久の乱(1221)で勝利した執権の北条氏は、淡河庄を北条時房の所領とした。翌年に地頭職として北条一族の右近将監成正が派遣され、淡河氏を名乗って淡河城を築いたという。だが、天正六年(1578)二月、淡河氏が属していた三木城主の別所氏が織田信長に反旗を翻し、播磨全土は戦乱の巷となった。淡河氏は三木城の後詰の城として、国境の守備を担い淡河城の守りを固めた。羽柴秀吉の攻撃で、三木城の支城が次々と落城するが、知略に優れた淡河定範の守る淡河城は最後まで残り、「三木の干殺し」
枝吉城(神戸市西区枝吉)明石氏は播磨に勢力をもつ赤松氏の庶子家で、明石川下流域や伊川谷などの荘園管理の任務にあたっていた地頭であった。鎌倉時代中頃の建長七年(1255)に明石尾張守の名が初見し、ついで鎌倉時代末には明石入道長門守の名がみられる。彼らは、後に枝吉城主となった明石氏の前身と考えられている。15世紀の中頃、明石修理亮は惣領家である赤松家再興に尽力し、応仁元年(1467)に始まった応仁の乱でも摂津などに勇戦した戦士であった。枝吉城はその明石修理亮によって構築されたのであろう。それは永
平田村付城(三木市大村字大門)三木城攻めの包囲陣の一つ。平田村付城跡谷大膳の墓平田村付城遠望三木市の城
安福田川端ノ付城(三木市志染町安福田)三木城攻めの包囲陣の一つ。山岡文蔵が布陣。八幡宮が鎮座する安福田川端ノ付城跡安福田川端ノ付城遠望三木市の城
最近、キャンプやお城、峠めぐりなどのノンビリライドが続いていたので、ちょっと気合を入れようと、2/12はロングライドにでかけました。神戸市東灘区の自宅からとりあえず宝塚まで。ここから六甲山の東側の山麓を三田方面に。名塩というところを通るのですが、峠を越える幹線道路の国道176号は大型車がどんどん通るのに、ところどころ歩道なしの片側一車線の狭いところがあり、自転車は大変通りにくいです。迂回する旧道とか住宅地の道路などを探しながら行ったのですが、坂道を登っていてギアを一番ローにい
安福田山上付城(三木市安福田)三木城攻めの包囲陣の一つ。板倉勝助、丹羽権兵衛らが布陣。安福田山上付城跡土塁?栄運寺山頂の祠竹中半兵衛重治の墓安福田山上付城遠望軌跡ログ三木市の城
与呂木村上ノ付城(三木市与呂木)三木城攻めの包囲陣の一つ。羽柴秀長が布陣。尾崎八幡宮与呂木村上ノ付城跡与呂木村上ノ付城遠望軌跡ログ三木市の城
這田村法界寺山ノ上付城(三木市別所町東這田字才ヶ谷)三木城攻めの包囲陣の一つ。宮部継潤が布陣。北側に連なる帯曲輪群北四郭北西三郭西二郭西二郭の西土塁西二郭の北土塁西二郭の北虎口西二郭の西土塁西二郭の東土塁西二郭の東虎口主郭の西空堀主郭の南空堀主郭の東空堀主郭の北空堀主郭主郭の北土塁主郭の東土塁主郭の南土塁主郭の西土塁主郭の南虎口南二郭南二郭の西土塁南東三郭南東三郭の南土塁南三郭南三郭のL字状土塁這田村法界寺山ノ上付城遠望軌跡ログ三木市の
高木大塚城(三木市別所町朝日ヶ丘)三木城攻めの包囲陣の一つ。城主不明。東土塁中央櫓台南土塁南東虎口の東の仕切り土塁東土塁北土塁西土塁南虎口実地踏査を元に作成した概略図軌跡ログ三木市の城
シクノ谷峯構付城(三木市福井字大山)三木城攻めの包囲陣の一つ。城主不明。東二郭主郭の東虎口主郭主郭の東土塁主郭の北土塁主郭の西土塁主郭の西虎口主郭の南土塁西二郭シクノ谷峯構付城遠望実地踏査を元に作成した概略図軌跡ログ三木市の城
高木大山付城(三木市福井)三木城攻めの包囲陣の一つ。城主不明。物見台の看板主郭土塁?高木大山付城遠望三木市の城
明石道峯構付城(三木市福井)三木城攻めの包囲陣の一つ。城主不明。西二郭主郭の西虎口主郭の西土塁主郭主郭の南土塁主郭の東土塁主郭の東虎口主郭の北土塁主郭の東空堀東二郭東二郭の東土塁東二郭の南東虎口浅く埋もれた東二郭の東空堀東二郭の南土塁南西腰曲輪明石道峯構付城遠望軌跡ログ三木市の城
【1月23日(土)】今週末は雨模様なので山城攻めはお休みです。なので1月16日(土)から始まった、みき歴史資料館企画展「三木町の地子免除特権と義民の『記憶』」を観覧してきました。①歴史資料館は三木城二の丸跡に所在。②三木市立みき歴史資料館③企画展パンフレット(表)③同(裏)⑤三木義民所縁の本要寺